第102話 次は、ライカン・スロープを自分の目で見に行きます
もうすぐ、
魔王城に着く。
私は目を閉じたまま、
これから先のことを考えていた。
(情報が足りなすぎるわ)
ヴァンパイアを
隠遁の一族だと言うけれど。
本当の意味で
隠遁の一族なのは、
別にいた。
ライカン・スロープ。
あいつらは自分たちだけの領域を持ち、
本拠を深く隠している。
(どうしよう……本当にいざとなったら……)
(お母様のやり方を、
そのまま真似するのも悪くないかもしれないわね)
魔王軍を動かすことはできる。
今なら、
ヴァンパイアの力も借りられる。
(ライカン・スロープの連中を、
まとめて排除する)
(でも、正面からぶつかれば、こちらもかなりの損害を受けるはず)
(やっぱり奇襲かしら。相手に備える暇を与えずに叩くしか……)
(ううん。でも、名分がないわ……)
何もかも、
悩ましかった。
「母上。何か心配事ですか?」
その時、
窓の外を見ていたエリンが
振り返って尋ねてきた。
まんまるな目。
本当に、
可愛い。
「何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけよ」
「マハトラの一族のことが気になっているんでしょう?」
「エリンは賢いわね。ママの心の中、
全部読んでるみたい」
「だったら、直接行ってみるのはどうですか?」
「直接、ですって?」
「母上は、
ヴァンパイア一族の新しい長なんですから」
その言葉を聞いて、
私ははっとした。
新たに長に就いた記念。
友好を深める意味でも、
近隣の一族を訪ねるのは十分な理由になる。
(たしかに……敵を知り、己を知れば百戦危うからずと言うものね)
悪くない考えだった。
実際に足を運んで、
あいつらがどんなふうに暮らしているのか見られれば、
大きな手がかりになるはずだ。
「父上は難しいでしょうけど。僕たちなら一緒に行けますよね?」
「あなたたちも?」
「きゃああ」
「くぅぅ」
エリンと双子が、
目をきらきらさせていた。
ママとまたお出かけできる。
そんな気持ちが
ありありと伝わってくる。
三人とも、
同じ顔で私を見つめていた。
「今回はちょっと……」
簡単には
返事ができなかった。
ヴァンパイアの里へ行くのとは、
わけが違う。
危ない場所に
子どもたちを連れて行くわけにはいかない。
「公式行事なんでしょう?」
「それは……そうね」
エリンの言葉は、
妙に説得力があった。
一族の名を背負った
公式訪問。
私がいた世界で言えば、
国の代表が行う国賓訪問みたいなものだ。
まさか、
向こうも妙な真似はしないはず。
たぶん、
それなりに里を案内して、
無難に帰してくれる……はずだ。
「でも、あなたたちは……」
それでもやっぱり、
子どもたちを連れて行くのはどうなのかしら。
何が起きるか分からない。
危ない目に遭わせるかもしれないのに。
「一緒に行きたいです。僕たちが母上を守らないといけませんから」
「きゃああ」
「くぅくぅ」
「もう。この子たちったら。本当はまたママと一緒にお出かけしたいだけでしょう?」
考えてることなんて、
お見通しよ。
私はエリンと双子の頭を
順番に撫でた。
本当に可愛い子たち。
真祖が現れた時、
私を守ろうとしてくれたあの姿が
ふと頭をよぎる。
「一緒に行きたいです」
エリンと双子が
私にしがみついた。
きらきらした目。
期待しているのが
はっきり分かる。
そんな顔を見せられたら、
私だけで行くなんて言えなかった。
「じゃあ、一つだけ約束してくれるなら、父上と相談してみるわ」
まだ先の話だけれど。
私は、
先に伝えておくことにした。
「何ですか?」
エリンが、
約束の内容を尋ねる。
「もし魔王城に何かあったら、エリンが下の二人を連れてアイリスおばあさまのところへ行ってちょうだい。いいわね? こっちが片づいたら、必ず迎えに行くから」
勇者パーティーが
魔王城に来た時。
子どもたちは
私を守ろうとした。
でも結局、
ゲームの中では。
子どもたちは勇者パーティーに倒され、
冷たい石の床の上で死ぬ。
ゲームでは、
ただ〈ステージクリア〉の文字が出て終わるだけだった。
でも、
今の私にとって。
そんな未来は、
絶対にあってはならない。
(今は、保険がある)
交渉するのか、
戦うのか。
それはその時に考えればいい。
でも、
勇者パーティーが動くという情報が出たら。
真っ先に子どもたちを
アイリス山へ逃がすつもりだった。
「母上と父上を置いて行くなんてできません」
「くぅぅ」
「きゃああ」
エリンと双子が
ぷくっと頬を膨らませた。
「僕たちがもっと強くなって、母上と父上を守りますから。だから心配しないでください!」
「きゃああ!」
「くぅぅ!」
子どもたちが
勢いよく手を挙げて言う。
あまりにも可愛くて、
私は笑いながら
みんなの頭を撫でた。
ウムカウテを迎えたばかりのエリン。
そして、
もうすぐウムカウテを迎える双子。
まだまだ幼くて、
弱い子たちだ。
それでもこの子たちは、
私と魔王を守ると言ってくれている。
この子たちの未来のためにも、
私はもっと頑張らなければならない。
私が知っている未来を、
必ず変える。
ぞくっ。
……え?
かすかな違和感。
(まさか……?)
霊山アイリス。
あそこで、
私は魔王と夜を共にした。
もしかして――
あの時、
第四子を授かったのかしら?
魔王城に着いたら、
アウラを呼んで確認してもらわないと。
◆◆◆
魔王城の侍女たちは、
慌ただしく動き回っていた。
上からの指示で、
あちこちの表示を新しく取り替えなければならないからだ。
「魔王妃様がもうすぐお戻りになるわ! その前に終わらせて!」
「こっち、これを新しく掛けて!」
「そっちも急いで!」
まるで工事現場だった。
マハトラは、
ルウェンと一緒に
新しい標識を取りつける作業を監督していた。
「これはいったい何なのですか?」
ルウェンが尋ねる。
魔王と魔王妃が子どもたちを連れて城を離れてから、
ずっとこの仕事にかかりきりだったのだ。
何か重要な裏工作でもしているのかと思って
気にして見ていたのに。
マハトラは、
仕事がきちんと終わるまで
まともな説明を一切しなかった。
ようやく作業が一段落したところで、
彼は口を開いた。
「魔王妃様からの特別指示です。お戻りになるまでに仕上げておかなければなりませんでしたが、どうにか間に合いそうですね」
「えっ?」
ルウェンは
心底意外そうな顔をした。
魔王と魔王妃が不在の間なら、
一族のための秘密工作を進めるには絶好の機会だった。
だから、
マハトラが忙しくしている理由も
当然その手の話だと思っていたのだ。
それなのに、
実際は魔王妃に言われた仕事をこなしていただけだった。
少しばかり
騙されたような気分になりながらも。
今さらそれを顔に出すわけにもいかず、
ルウェンは気になっていたことを尋ねた。
「記号と色だけで標識を変える理由は何です?」
倉庫の入口から
トイレの表示まで。
あらゆるものが
新しくなっていた。
「教育課程がうまく機能するまでには、どうしても時間が必要です」
「だから、
こうすることにしたのです」
「かなり直感的ですから、文字が読めなくてもすぐ分かるでしょう」
場所ごとに
色分けがされていた。
さらに、
図形記号によって
各区画の意味や、
今どんな状況かを把握できるようにしてある。
そのおかげで、
文字の読めない侍女たちでも
仕事に大きな支障は出ない。
「悪くない方法ですね」
特に赤の表示は
“危険”を意味しているので、
事故を未然に防ぐ効果も大きかった。
「それにしても、これだけ整えるとなると相当大変だったでしょう?」
「ええ。ですから、魔王妃様がお戻りになったら、私がどれほど苦労したかをできるだけ多く伝えるつもりです。ルウェンも手伝ってください。私が本当に大変だったと、横でずっと見ていたでしょう?」
「そ……そうですね」
どうしてそこまで
魔王妃に気を遣うのだろう。
理由が分からなかった。
(噂で聞いた“あの”マハトラが、本当にこの男なのか?)
悪鬼マハトラ。
同じ一族の間ですら
そう呼ばれる男だった。
だが、
今見えている姿は
あまりにも違いすぎる。
執務室へ戻ったルウェンは、
マハトラにそれとなく声をかけた。
「昔のあなたの異名を思い出しました。本当に、悪鬼マハトラその人なのですか?」
「はは。それは……」
マハトラが
ルウェンを見た。
その瞬間、
ルウェンは全身が凍りつくような感覚を覚えた。
(これが……悪鬼と呼ばれた男の力?)
目の前に、
巨大な悪魔が立っているようだった。
それほど圧倒的だった。
「エリン様がいらっしゃるこの魔王城で、私ごときが“悪鬼”などという異名を使うわけにはいきません。ですから、その名は二度と口にしないでいただきたい」
「わ、分かりました。そうします」
ルウェンは、
以前見たあの少年を思い出した。
下の二人が乗るベビーカーを押していた、
ひどく頼りなさそうな魔王の長男。
どうして悪鬼マハトラが、
あの少年に頭が上がらないのか。
少なくとも、
悪鬼と呼ばれた男の力が本物なのは間違いない。
それだけに、
なおさら理解できなかった。
◆◆◆
魔王城に到着。
やっぱり、
家が一番だわ。
私は鼻歌まじりで
部屋に入った。
仕事に追われている魔王を見ると、
やっぱりエリンの助言を聞いておいてよかったと改めて思う。
ヴァンパイアの里には、
真祖という精神的支柱がいた。
だから私が無理に
直接統治しようとする必要はなかったのだ。
新しく再編した
十二座会議体による間接統治。
そして定期的に報告を受けながら、
魔王に協力できるよう
里を少しずつ変えていく。
その方がずっとよかった。
私は着替えを済ませてから、
アウラに会いに向かった。
(まだ確定じゃないもの。まずは確認しないと)
(標識もきちんと設置されてるわね)
魔王城の内外に新しくつけられた標識は、
入ってくる途中でもすでに確認していた。
記号で統一され、
色によって危険度まで分かる。
とても分かりやすく、
きれいに整っていた。
(体内時計も、またちゃんと戻ったみたい)
昼に動いて、
夜に眠れるようになっている。
屋内だから、
日差し避けのシールドも張っていなかった。
「エステル様」
「私の状態、見てもらえるかしら?」
アウラが真剣な顔で
私の体を調べた。
「申し訳ありません。まだ、はっきりとは分かりません。ただ……」
「ただ?」
「何か独特の流れは見えます。ですが、それが懐妊を意味するものかどうかまでは、私の知識では判断しきれません。念のため、来月もう一度検査されることをおすすめします」
私は、
分かったと頷いた。
次に向かったのは、
マハトラの執務室だった。
「マハトラ、いる?」
中に入ると、
ルウェンとマハトラが立ち上がった。
「ご無事にお戻りになられて何よりです。それから、ヴァンパイア一族の長となられたこと、心よりお祝い申し上げます」
マハトラが
頭を下げた。
私の帰還とともに、
その知らせはすでに魔王城中へ広がっていた。
ただし、
真祖のことや
細かい事情までは
伏せている。
そのあたりは、
秘密にしておく必要があった。
「お祝いの席、あまりにも簡素すぎるのではありませんか?」
近いうちに、
私の長就任を祝う小さな宴が
魔王城で開かれる予定だった。
私は、
そこまでする必要はないと断ったのだけれど。
それでも、
何もせずに済ませるわけにはいかないと魔王が言うので、
家族中心のささやかなものにすることになったのだ。
「それで十分よ。それより、標識の作業ありがとう。すっきりしていて、とてもいいわ」
「もったいないお言葉です。ルウェンにもかなり助けてもらいました」
(いや、
ほとんどマハトラがやったんでしょう?)
その言葉に、
ルウェンが一瞬
目を見開いた。
まさかマハトラが
自分にも功績を分けるとは
思っていなかったらしい。
「彼女はとても聡明ですから。いずれは、私が担当していた仕事も十分に引き継いでくれるでしょう。とはいえ、まだ多少足りない部分もありますから、これからもっと学ぶ必要はありますが」
褒めているのか。
それとも、
まだまだ未熟だから
自分の席を奪うには早いと言っているのか。
何とも曖昧だった。
やっぱりあいつ、
狼じゃなくて狐だわ。
しかも、
九尾の狐。
ぴりぴり。
ルウェンが
マハトラを見る目が
妙に鋭かった。
隙さえあれば、
本当に首を落としかねない勢いだ。
(この子……出世欲がかなり強いわね)
同僚だったら、
正直かなり面倒なタイプだ。
まあ、
ルウェンのことは
マハトラが何とかするだろうし。
私が悩む必要はない。
私は、
ここへ来た本当の目的を口にした。
「ライカン・スロープの里を訪ねようと思うの」
これは、
さすがのマハトラも予想外だったのだろうか。
一瞬だけ、
表情が変わった。
「訪問、ですか?」
マハトラが
聞き返す。
「この前、血液パックの件でもお世話になったし。ライカン・スロープについて知っておくことは、これからヴァンパイアとの融和を考える上でもプラスになると思うの」
私は、
魔王妃としてではなく。
ヴァンパイアの長として
訪問するつもりだと伝えた。
しばらく考えていたマハトラは、
やがて手を打って
私の考えに同意した。
「よいお考えです。互いの間に誤解を残さないためにも、顔を合わせて話す機会は多い方がよいでしょう。私の方から通達しておきます」
打診ではなく、
通達。
今の私は、
その言葉の意味を
まだ理解していなかった。




