第二話 セピア
例年よりも早く梅雨が明け、急に暑くなった夏の日差しがアスファルトを直撃する。
蒸し暑い熱気は人間の体温を軽く超え、そのおかげで連日のように猛暑が記録されている。
その暑さは日が陰る夕方になっても変わらず、拓雅は汗だくだくの顔をタオルで拭った。
片手にスーパーで買った食材が入ったマイバッグをぶら下げているが、こうも暑いと帰ってから料理をする気が全く起きない。
道路を走る車もなんだか怠そうだ。
家がある通りに抜けるための角に差し掛かり、拓雅はいつも通り曲がろうとした。
その時。
「待って!」
突然後ろから少女の声がしたかと思うと、拓雅は腕を掴まれてそのまま後方に引っ張られた。
その勢いでバッグに入っていた幾つか飛び出して宙を舞う。
「わっ!」
勢いよく尻餅をついた拓雅は「なにするんだ!」と言いかけたが、それは声として届く前に、激しい衝突音によって掻き消されてしまった。
「・・・っ!?」
続けて小規模な爆発音が轟き、拓雅の目の前で車が大きく横転した。
言葉を失った拓雅は、突然起きた車の衝突事故に目を丸くした。
しかもあのまま角を曲がっていたら、拓雅も巻き添えをくらっていたほど近くにまでガラスの破片が飛び散っている。
遠くから誰かが119番で呼んだ救急車のサイレンらしき音が聞こえ拓雅は我に返った。
「危なかったねぇ~。大丈夫?」
振り返ると、セピアの長い髪を優雅に靡かせた少女がニッと笑った。
「うん・・・ありがとう。」
少女を見上げて礼を言うと、彼女の足元からミャーミャーと黒い子猫が拓雅の方へすり寄って来た。
「・・・猫?」
拓雅は子猫を抱きかかえて立ち上がった。
猫の持ち方がイマイチ分からなかったので、子猫の身体はプラーンと宙に揺れる。
「その子がね、君の危険を教えてくれたの。」
少女は拓雅から子猫を受け取ると、嬉しそうにそう言った。
包み込むように優しく抱かれた子猫は喉をゴロゴロと鳴らして上機嫌だ。
「動物と話せるの?」
「そうだよ。仲良しさんなの~♪」
変わった雰囲気を醸し出す彼女は拓雅が着ている制服を見ると、「あっ。」と目を輝かせた。
「わあ、花笑と同じ中学生だー!ねぇねぇ、何年生?」
「え・・・二年、だけど。」
「おぉ✨同級生!」
「・・・。」
彼女のテンションに拓雅はどうもついて行けず、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「あ、そうだ。
花笑、今とても急いでいたんだったー。」
そう言うなり、彼女は拓雅の脇をすり抜けて真っ直ぐな通りの方に駆け出した。
「じゃあね、同級の人ー!」
少し走った所で振り返った彼女は、満面の笑みで拓雅に手を振った。
そして嵐のように去って行った彼女の背を拓雅は呆然と見送った。
家に帰ると、ルカがダイニングテーブルでデスクワークをしていた。
波瑠はまだ帰って来ていなさそうだ。
「只今戻りました。」
「おかえり。」
ルカは素っ気なくそう言うと、景気よくノートパソコンのエンターキーをポンッと押した。
「よし、終わった。」
「何をやっていたんですか。」
「ん?調査書。」
後ろから画面を覗き込むと、右上に生徒の顔写真が貼り付けてあり、残りのスペースはビッシリと文字で埋め尽くされていた。
一つ一つの文字はさすがに読む気になれなかった拓雅だったが、貼り付けてあった写真を目にすると、軽く目を見開いた。
(さっきの子?)
「どうしたの?」
「いえ、特に何も。」
そう言いながらその生徒の名前を見てみると『兎荷花笑』と書かれていた。
珍しい漢字だなと思いながら、詳しく見ようとすると、突然画面がパタッと閉ざされてしまった。
「個人情報だからこれ以上はダ~メ!」
「すみません。」
素直に謝った拓雅がテーブルから離れると、ルカは再び画面を開き、少女の顔写真をしげしげと眺めた。
「まぁ、確かに可愛い方だけどね。」
「・・・は?」
さっきの拓雅の行動が彼女に何らかの誤解を招いたらしく、拓雅は間の抜けた声しか出なかった。
その時、家のドアがバタンと閉じる音が聞こえ、リビングに波瑠が顔を出した。
「ただいまです!」
丁寧な物言いで入ってきた波瑠に、ルカは僅かに顔を顰めた。
「ただいまじゃなくてお邪魔しますでしょ。何度も言うけど、ここは波瑠ちゃんの家じゃないのよ。」
「良いじゃないですかー。今に始まった事じゃないですし。」
ちゃっかり開き直った波瑠はルカの脇を素通りして、冷蔵庫の中身を整理しようと算段していた拓雅に歩み寄った。
「牛乳あります?」
「え?あるけど・・・」
急な事に一瞬戸惑った拓雅は波瑠が抱えていた黒い物体に気付いた。
「ミャー♪」
「・・・猫?」
「はい。路地裏前で鳴いていたので連れて来ました。」
「まさかその猫を私の家で飼ってくれなんて言わないわよね?」
「へ?そのつもりだったんですけど、いけませんでしたか?」
キョトンと振り返った波瑠に、ルカは呆れて重い溜息を吐いた。
拓雅はといえば、子猫をしげしげと眺めて、思わぬ偶然に内心で舌を巻いていた。
子猫は拓雅に見詰められて恥ずかしくなったのか、波瑠の腕からスルリと抜けるとそのままテーブルの上に着地して、助走なしで拓雅の肩に飛び乗った。
子猫自体は身体が小さいのでそんなに重くはなかったが、尻尾が首筋に当たって少々くすぐったい。
「あっ、いいなー!俺にはそんなに懐いてくれませんでしたよ。」
羨ましそうに瞳を輝かせる波瑠に、ルカは再び深い溜息を吐く。
「波瑠ちゃんと拓君がちゃんと面倒を見てくれるんだったらいいわ。」
呟くように言ったルカの言葉に、波瑠の瞳は一層輝いた。
「本当ですか!?」
「そのかわり、私は一切面倒を見ないから。」
「はい。ありがとうございます。」
とても嬉しそうに顔を綻ばせる波瑠だったが、いつの間にか子猫の世話をルカから押し付けられた拓雅の心境は複雑だった。
「本当にこの猫は野良なのかな。」
「だって首輪を付けていませんよ?それに帰る所もなさそうですし。」
冷蔵庫から取り出した牛乳を底の浅い皿に注ぐ拓雅の呟きに、興味津々で覗き込む子猫を眺めていた波瑠が首を傾げて言った。
「・・・俺と一緒です。」
波瑠の最後の呟きは拓雅の耳に届かず、そのかわり、注ぎ終わった牛乳にダイブした子猫に気を取られたまま話は終わった。




