40. ざまぁ(2)
ダミアンは怒っていた。
エリザがいなくなってから、自由に使える金は一気に減った。
だが、あの時は仕方がなかったのだ。
エリザは伯爵家を追い出され、ただの平民になった。
金もない。
家もない。
そんな女と一緒になって、自分まで平民へ落とされてはたまらない。
僕は、伯爵家を継ぐために生まれてきた人間だ。
父上も、伯爵家を継ぐのは僕だと思っている。
だから別れた。
ダミアンは、自分の判断が間違っていたとは少しも思っていなかった。
ところが――。
そのエリザが、ブルーローズを成功させた。
今では、社交界で知らぬ者はいないほどの店になっている。
(話が違うじゃないか。エリザのやつ、なぜ早く言わないんだ)
金がないから別れたのだ。
これほど稼いでいるのなら、別れる必要などなかった。
(成功したのなら、僕の元へ戻ってくるべきだろう)
三年間も自分を慕っていた女だ。
自分が許してやると言えば、喜んで戻ってくる。
そう思っていた。
それなのに――。
(アシュベリー侯爵なんかと婚約しやがって)
ダミアンは腹を立て、ブルーローズへ馬車を走らせた。
✥✥✥✥
「エリザ嬢はいるか?」
珍しく男性一人で訪れた客に、店員が顔を上げた。
たまたま店に来ていたエリザは、呼ばれて階下へ降りる。
そして、その姿を見て足を止めた。
「ダミアン様……」
接客を終えた副店長が、そっとエリザへ近づいた。
「ベルクール伯爵子息が代金を支払わなかったため、以前の店は潰れました」
「え……?」
副店長は小さく頷いた。
エリザがいなくなった後も、ダミアンは次々と服を仕立て続けていたという。
それまで支払いに問題がなかったのは、エリザが代金を出していたからだ。
だが、店側はそんな事情を知らない。
長年積み上げられた信用があったため、ダミアンから注文が入れば、これまで通り快く応じていた。
注文は、次から次へと入った。
納期は厳しくなり、職人たちは疲弊していった。
それでも――代金は支払われなかった。
何度請求に出向いても、門前払い。
やがて資金繰りが悪化し、職人たちへの給金まで滞り始めた。
厳しい納期。
積み重なる不満。
そして、給金の不払い。
ついに職人たちは、一斉に店を辞めた。
高級な生地や仕立て上がった服、高価な絨毯まで売り払い、支払いに充てた。
それでも店を立て直すことはできなかった。
あれほど繁盛していた服飾店は、潰れた。
エリザは、目の前のダミアンを見た。
「……今日は、どうされたのですか?」
「話がある」
ダミアンは当然のように言った。
「僕のところへ戻ってこい。あの時のことは許してやる」
「……はい?」
エリザは思わず聞き返した。
「もう意地を張る必要はないだろう。ブルーローズが成功したことは聞いている。僕のために、十分頑張ったな」
「何のことかしら」
ダミアンは苛立った。
「君は僕のことが好きではないか」
二階で、話し声が止まった。
今日は何人もの貴族子女が、担当職人との打ち合わせに訪れていた。
「え……ええと?」
「だから、元に戻ればいいと言っているんだ」
「私たちは、もう婚約しておりません」
「婚約なんて破棄して戻ってくればいいだろ!僕を愛していただろ!」
ダミアンの声が大きくなる。
「あの時、別れたはずでは……」
「君が平民になんかなるから」
店内が静まり返った。
二階の手すりの向こうで、令嬢たちが顔を見合わせる。
ダミアンは気づかない。
「だから別れたんだ。それの何が悪い」
「……では、今は?」
「ブルーローズがあるだろう」
ダミアンは苛立たしげに言った。
「これだけ成功したんだ。金なら十分にあるはずだ」
エリザは、しばらく黙っていた。
「つまり――」
ゆっくりと確認する。
「私にお金があるから、もう一度婚約したいと?」
「お前の魅力は金しかないだろ!」
二階から、小さなどよめきが聞こえた。
そこでようやく、ダミアンが顔を上げる。
階段の上には、何人もの貴族子女が立っていた。
「な……」
副店長が静かに口を挟んだ。
「ベルクール様。以前こちらにあった服飾店のことを、覚えていらっしゃいますね」
「……それがどうした」
「何度もお支払いをお願いに伺いました」
「払うと言っていたはずだろ!」
ダミアンは声を荒らげた。
「たかが服の代金だろう!」
二階が、再びざわめく。
「その『たかが服の代金』が支払われず、私たちは給金を受け取れなくなりました」
副店長の声は静かだった。
「店は潰れました」
「それは店の経営が悪かっただけだろう!」
「ダミアン様」
エリザが口を開いた。
「代金を支払わなかったのですか?」
「だから何だ!」
「どうして?」
ダミアンは、苛立たしげにエリザを指差した。
「君がいなくなったからだろう!」
「……私?」
「今までは君が払っていたじゃないか!」
しん――。
店内から、完全に音が消えた。
ダミアンはなおも続けた。
「君が突然いなくなったせいで、僕は金に困るようになったんだ!」
二階にいた令嬢の一人が、扇でそっと口元を隠した。
隣の令嬢へ何かを囁く。
その隣へ。
さらに、その隣へ。
噂が広がるのに、一日も必要なさそうだった。
その時。
「ダミアン」
低い声が、店の入口から響いた。
ダミアンの身体が固まる。
ゆっくりと振り返った。
「……父上?」
ベルクール伯爵が立っていた。
「ブルーローズへ行くと聞いて、まさかと思って追ってきたが……」
伯爵は、息子を見据えた。
「お前は、何も変わっていなかったのだな」
「ち、違います、父上。これは――」
「何が違う」
「エリザが勝手に――」
「まだエリザ嬢のせいにするのか!」
店内に怒声が響いた。
二階の令嬢たちが息を呑む。
「お前に必要以上の金を持たせなかった理由が、まだ分からんのか!」
「……え?」
今度は、エリザが声を漏らした。
伯爵は苦々しく息を吐いた。
「幼い頃から、欲しいと言えば際限がなかった。新しい服。靴。装飾品。まだ使えるものがあっても、次を欲しがった」
ダミアンの顔色が変わっていく。
「だから必要なものだけを与えた。金の価値を覚えさせるためにな」
エリザは呆然とした。
袖の短くなった服。
少し足りなくなった裾。
欲しいものを買ってもらえないと嘆いていたダミアン。
可哀想だと思った。
だから――。
自分が買った。
「それをお前は、エリザ嬢に買わせていたのか」
「ち、違う! エリザが勝手に――」
「その言い訳は、以前にも聞いた!」
伯爵が一喝した。
「ロズウェル伯爵から抗議を受けた時、私は何と言った」
ダミアンは答えられない。
「二度とエリザ嬢に近づくなと言ったはずだ」
「ですが、今のエリザには金が――」
ダミアンは、そこで口を閉じた。
遅かった。
伯爵の顔から、表情が消えた。
「……やはり、金か」
「父上……」
「帰るぞ」
「待ってください。僕はまだエリザと――」
「黙れ」
伯爵は冷たく言い放った。
「お前にベルクール家を継がせるかどうかも含め、話がある」
「……え?」
ダミアンの顔から、血の気が引いた。
「父上、それは……」
「帰るぞ」
今度は、逆らえなかった。
ダミアンは青ざめたまま、伯爵の後を追う。
店を出る直前。
階段の上を見た。
そこには、何人もの貴族子女がいた。
誰一人、目を逸らさない。
ダミアンはようやく気づいた。
今日ここで話したことは――。
明日には、社交界中が知っている。




