35. ドレスという名の階段
「これ、使えるかも」
工房で裁縫をしていたエリザは、ふと手を止めた。
店はウォルターに任せられるようになり、朝と閉店時に顔を出せば大丈夫になっていた。
エリザは近くにいたマーサに、そっと耳打ちする。
最近のマーサからは、ほんのりとミルクの匂いがする。
「マーサ、このデザインなんだけど……」
さっとスケッチを見せた。
マーサの顔色が変わった。
「エリザ、すぐにそれをしまえ。今から商会に向かうよ」
「え?」
エリザとマーサは後をハンナに任せ、すぐにアシュベリー商会へ向かった。
久しぶりに訪れたアシュベリー商会。
(前に来た時は、恥ずかしかったな)
エリザは、初めてここを訪れた日のことを思い出していた。
ドンドン。
マーサが勢いよく扉を叩く。
相変わらずのマーサである。
「オスカー、いるかい?」
返事が返ってくる前に扉を開ける。
やはり、相変わらずのマーサである。
「どうしたんだい、母さん」
「オスカー。今すぐ借りられる、一等いい場所はあるかい?」
「そうだね……この間、貴族街で人気のあった服飾店が閉店したみたいです。そこなら、すぐに借りられると思いますけど……それが何か?」
「そりゃ、ちょうどいい。すぐにドレス屋を始めるよ」
「え?」
あまりにも早すぎる展開に、オスカーとエリザはついていけない。
「母さん、待ってくれよ。いくらブルーローズが順調だからって、服飾業界はそんなに甘くないですよ」
「うるさい。お前、これを見てから判断するんだね」
マーサはスケッチブックをオスカーに押し付けた。
「どれどれ……」
オスカーがスケッチに目を落とす。
「これは……」
しばらく黙って見つめたあと、顔を上げた。
「母さん。私はすぐに店の契約について聞いてくる。母さんたちも、すぐに内見に来てください」
そう言うと、オスカーはさっさと部屋を出て行った。
やはり親子である。
行動が異常に早い。
「エリザ、ブルーローズの服飾部門を作るよ。ついておいで」
「はい……」
エリザはマーサの後についていく。
(また、高い家賃を払うのかしら……)
一等いい場所。
貴族街。
エリザは戦々恐々としていた。
✥✥✥✥
内見に向かった店を見て、エリザは目を丸くした。
なんとそこは、ダミアンが御用達にしていた服飾店だった。
「ここ……」
何度も来たことがある。
しかし、以前とはまるで違っていた。
豪華な絨毯は取り外され、あれほどたくさん並んでいた布や洋服も、すべてなくなっている。
広い店内は、がらんとしていた。
「母さん、エリザ嬢。来ましたか」
先に到着していたオスカーが、店の仲介人と話をしていた。
仲介人の話では、店が潰れた理由は一つではなかったらしい。
厳しい納期が続き、さらに工房長の威圧的な態度に疲弊した従業員たちが、一斉に辞めてしまったという。
そこへ、一部の客からの支払いの滞りまで重なった。
あれほど繁盛していた店は、それを境に一気に経営が傾いたそうだ。
「この店、掘り出し物ですよ。内装はほとんどそのまま使えますし、馬車置き場もすぐ近くにある。エリザ嬢さえ良ければ、このまま契約を結びたいのです」
「素敵なお店ですが……」
エリザは、広い店内を見回した。
場所もいい。
店も広い。
貴族の馬車も停められる。
素敵だ。
とても素敵なのだが――。
怖い。
マーサが、仲介人の持っていた契約書を横から覗き込んだ。
「家賃は金貨三十枚だ。エリザ、借りるよ」
「金貨三十枚……」
エリザは途方に暮れるのだった。




