30. 油断
閉店の時間。
予想していた以上に、在庫が少なくなっていた。
(これはまずいわね……)
エリザは疲れた足を引きずり、店の近くにあるハンナの家を訪ねた。
「ハンナさん、お願いがあるの。皆さんに制作量を増やせないか聞いてもらえる?」
「そんなに売れたんですか?」
「うん。このままだと、すぐに補充が追いつかなくなるわ」
「分かりました」
「それと、採用した方たちにも、予定より早く仕事をお願いすることにする。その準備もお願い。店が忙しすぎて、しばらく工房には行けそうにないの」
「大丈夫です。お任せください」
ハンナは胸を叩いた。
✥✥✥✥
翌日。
工房には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
「みんな、納品頑張るよ」
カノネェが声を上げる。
針を持つ手が、一斉に動き始めた。
布を裁つ音。
針を通す音。
完成した商品が、次々とハンナの前へ運ばれていく。
久しぶりに味わう、納期前の緊張感。
集中して働く忙しさ。
「なんだか懐かしいわね」
一人が呟いた。
「分かるわ」
誰かが笑った。
皆、昔味わった感覚に、どこか高揚していた。
作れば売れる。
作っても、まだ足りない。
ブルーローズは順調だった。
✥✥✥✥
「マーサ、お金がないんだけど……」
工房で支払うお金を補充するため、エリザは開店前に銀行を訪れていた。
そこで、おかしなことに気がついた。
店の売上用に作った口座に、金が全く入っていない。
「一週間の売上が、まるまる入ってないの」
エリザの目に涙が浮かぶ。
さすがのマーサも、少し慌てた。
「しっかりおし。オスカーがもうすぐ来るから」
「でも……」
「売上を任せていたのは、アシュベリー商会が手配した人間だ。オスカーなら事情が分かるだろう」
二人は、オスカーが来るのを今か今かと待った。
✥✥✥✥
ガチャ。
オスカーが上機嫌で入ってきた。
「今日もたくさん売りましょうね」
笑顔で拳を握る。
マーサとエリザは、それどころではなかった。
「オスカー」
マーサの低い声に、オスカーの動きが止まる。
「お前、ブルーローズの売上金がどうなってるか把握してたかい?」
「勿論だよ、母さん。アシュベリー商会で長年働いていた会計担当者に任せていたよ」
「アシュベリー商会の売上金は?」
「そっちは問題ないよ。きちんと管理されてる」
マーサの顔が険しくなった。
「お前、エリザに金の管理は教えたのかい?」
「まさか。エリザ嬢には、まだ荷が重すぎると思って……」
オスカーの顔から笑みが消えた。
「……まさか」
「そのまさかだよ」
マーサは机を叩いた。
「一週間分、まるまる入金されてない!」
エリザがびくりと肩を震わせる。
「この子がどれだけ頑張ったと思ってるんだい!」
「母さん……」
「何も知らなかった子が、一から覚えたんだ。商品を考えて、人を集めて、店を作って。開店してからだって、毎日走り回ってた!」
マーサの怒りは収まらない。
「それをお前は、まだ早いからって金の流れから外したのかい!」
オスカーは何も言えなかった。
「お前は経営者として失格だよ」
「……」
「誰かに任せるのはいい。だがね、ブルーローズの経営者はエリザだ。自分の店にいくら入って、いくら出ていくのか。それを知らないで、どうやって商売するんだい!」
マーサは大きく息を吐いた。
「あの子に教えるのは、お前の仕事だっただろう」
オスカーは俯いた。
一週間。
商品は売れた。
客は喜んでくれた。
工房では、皆が必死に商品を作っている。
それなのに。
一週間分の売上は、口座に一枚の硬貨も入っていなかった。
ハンナについて
ハンナは、実は平民の中では比較的裕福な女性です。
店の近くに自宅があり、生活のために働く必要もありませんでした。
子どもには恵まれませんでしたが、家で何もせずに暮らすのではなく、自分の居場所としてエリザの工房で働くことを選びました。
そのため、ハンナにとってブルーローズは、単にお金を稼ぐための職場ではありません。
最初から真面目に仕事に向き合い、細かなところによく気がつく彼女に、エリザは商品の検品を任せます。
やがて店が大きくなると、お金を扱う仕事も任されるようになります。
ハンナが検品や金銭管理という重要な仕事を任されているのは、そんな背景がありました。
そして工房には、働く女性たちと一緒にたくさんの子どもたちもやって来ます。
自分の子どもを持つことはありませんでしたが、ハンナの周りが寂しいままだったわけではありません。
ブルーローズは、ハンナにとっても大切な居場所になっていきました。




