第七章 学園舞踏会
学園舞踏会は、王侯貴族が集う伝統行事だ。
社交性や品格が評価対象となる、卒業学年にとって重要な催しでもある。
今年は王族も参加すると聞き、会場となる大広間は朝から準備に追われていた。
婚約が破棄されて以来、私を舞踏会に誘う相手は誰一人としていなかった。
それも当然のことだろう。
王太子から婚約を破棄された令嬢など、誰も申し出るはずがない。
会場に一人で足を踏み入れると、視線が集まるのを感じた。
けれど、それはこれまでのような好奇や侮蔑の視線とは、少し違うものだった。
どこか気まずそうに、目を逸らす生徒たちが多い。
壁際に立ち、シャンパングラスを片手に会場を眺める。
華やかな衣装を纏った令嬢たちが、次々と男性にエスコートされてホールへと進んでいく。
私に近づいてくる者は、誰もいなかった。
やがて、会場の中央にひときわ大きな拍手が沸き起こった。
振り返ると、ハインリッヒとセレフィナが優雅に踊り始めるところだった。
薄桃色のドレスを纏ったセレフィナは、誰の目にも美しく映る。
軽やかなステップで、ハインリッヒと息の合ったワルツを踊っている。
会場中の視線が、二人に釘付けになっていた。
「未来の王妃様だ」
「なんて美しいお二人だろう」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
翌日には新聞にも取り上げられるだろう。
「未来の王妃」という見出しとともに。
私はただ、その光景を静かに眺めていた。
悔しさよりも、どこか他人事のような感覚が勝っていた。
かつては自分がその立場にいたはずなのに、今ではもう、遠い世界の出来事のように思える。
しばらくそうしていると、視界の端に見知った人影が近づいてくるのが分かった。
振り返ると、そこにはノアが立っていた。
普段の学園祭とは違い、きちんとした礼装に身を包んでいる。
彼は少し緊張した面持ちで、私の前に立ち止まった。
「一曲、お願いできますか」
思いがけない言葉に、私は一瞬言葉を失った。
これまで、彼が誰かと踊る姿など見たことがなかった。
むしろ、社交的な場を避けているような印象すらあったからだ。
「私でいいの?」
思わずそう尋ねると、ノアは少し困ったように眼鏡を押し上げた。
「君以外に、誘いたい相手はいない」
淡々とした口調だったが、その言葉には確かな意志が込められているように感じられた。
私は静かに頷き、彼の差し出した手を取った。
ホールの中央へと進み出ると、周囲がわずかにざわめいた。
誰もが意外そうな表情を浮かべている。
それも無理はない。
学園一の秀才として知られるノアが、こうして公の場でパートナーを選ぶことなど、これまでになかったのだから。
音楽が始まり、静かなワルツが会場に流れ出す。
ノアのステップは、決して華やかなものではなかった。
けれど、一つ一つの動きが丁寧で、こちらを気遣う優しさが伝わってきた。
「緊張しているの?」
小さく尋ねると、彼は珍しく苦笑いを浮かべた。
「正直に言うと、かなり」
その素直な返事に、思わず小さく笑ってしまう。
これまでの重苦しい日々の中で、久しぶりに感じる穏やかな時間だった。
けれど、視線を感じて振り返ると、離れた場所からこちらを見つめるセレフィナの姿があった。
彼女は相変わらず、柔らかな笑みを浮かべている。
けれど、ノアを見つめるその瞳だけは、これまで見たことのないほど冷たく凍りついているように見えた。
初めて見る表情だった。
誰にでも優しく、涙を見せることはあっても、こうした剥き出しの感情を見せることはなかったはずだ。
それが一瞬にして消え、すぐにいつもの微笑みへと戻っていく。
けれど、確かに見てしまった。
あの瞳の奥に潜む、得体の知れない感情を。
ワルツが終わり、拍手とともに私たちはホールの端へと戻った。
ノアは静かに一礼し、また元の落ち着いた表情に戻っている。
「ありがとう」
私がそう言うと、彼は小さく首を横に振った。
「礼を言うのはこちらの方だ」
その言葉の意味を深く尋ねる前に、舞踏会は静かに終わりを迎えていった。
後日、教師による評価が発表された。
掲示板の前に立った私は、そこに記された講評を見て、静かにため息をついた。
「社交性不足」
またしても、減点。
今回もまた、明確な根拠が示されないまま、評価だけが下げられていた。
その結果を見たノアが、隣で小さく呟いた。
「踊っただけなのに?」
彼の声には、これまでにない苛立ちが滲んでいた。
理屈の通らない評価に、彼自身も違和感を強めているようだった。
「たった一曲、社交の場で踊っただけだ。それのどこが社交性不足なんだ」
ノアの疑問はもっともだった。
むしろ、これまで誰とも踊らずに壁際にいたことの方が、社交性に欠けると言われても仕方がないはずだ。
それなのに、実際に踊った途端、別の理由で減点される。
まるで、何をしても評価が下がるように、あらかじめ仕組まれているかのようだった。
「これで、はっきりした」
ノアは静かに、けれど確信を持った声でそう言った。
「個々の出来事に、いちいち理由をつけて説明することはできる。けれど、全体を通して見れば、明らかに不自然だ」
彼の言葉に、私は深く頷いた。
一つ一つの評価には、それらしい理屈がつけられている。
けれど、その全てが、なぜか私にとって不利な方向へとしか働かない。
これはもう、偶然の域を超えている。
確信に近いその思いを胸に、私は静かに拳を握りしめた。
掲示板を見上げながら、隣に立つノアの横顔をちらりと見る。
彼の瞳の奥には、これまで以上に強い決意の色が宿っているように見えた。
夜風が吹き抜ける廊下で、私たちはしばらくの間、無言のまま並んで立っていた。
言葉はなくとも、同じ方向を見ているという確かな感覚だけが、その場に静かに満ちていた。




