幸せの涙
今、ティルダの声が聞こえた気がした。
ハッと顔をあげて辺りを見回したけど、ここはフカルク国境前の精霊の森。
ティルダどころか人すらいない。
只の幻聴だ。
俺はクシャリと前髪をかき上げると、背負った荷物を持ち直してまた前へと歩みを進める。
向かうのはもっと奥だ。
『カイ殿、お疲れですか?』
「いえ、大丈夫ですよ」
揺すられて目が覚めたのか、背負っていた革袋の中から一人の精霊が顔を出してそのまま俺の肩に乗った。
名前は『ミツラン』。
五年に一度、山岳部で白の大輪の花を咲かせるという希少な高山植物の精霊だ。
因みに姿は長い長い口ひげを生やしたお喋り好きのご老人。
ただ周りの人には声が聞こえないので、話しかけられる度に独り言を喋ってるように見られて気が気じゃなかった。
それでも気の滅入るような長旅が楽しいと思えた。
暫く歩いていると、森の中が少しずつ霧に覆われていく。
そして視界が白く染まった頃に足を止め、俺は風が流れてくる方角を探した。
少しひんやりと心地良い風が肩まで伸びた後ろ髪を揺らす。
今日は北の方角からだ。
俺は踵を返し、その方へと向かった。
それは精霊の森の最奥へと続いている。
創造神、精霊女王の加護を受けた者だけが辿り着ける聖地への道だ。
肩にいるミツランの精霊もフワフワと風に靡く長い口ひげを撫でた。
『いやいや、風が何とも心地よいですな。 この先に「精霊の愛し仔」が眠る森があるのですか?』
「えぇ。 じきに着きますよ」
『ホッホッホッホッ! 三百年前はお会いできなかったからとても楽しみですぞ!』
「本当に……、俺も楽しみです」
ミツランの花が咲く時期に合わせて帝都を出発して一週間、辿り着いた先の山に登ってニ週間。
今年を逃すとまた五年待つことになるので、俺は必死に探し続けた。
そして何とか見つけてもそこで終わりじゃない。
その精霊をここまで連れてこなければならないのだ。
移動中も枯らさない様に手入れが必要だから、距離が遠くなればなるほど神経を使う。
でも五年も眠り続けるティルダを起こせるかもしれないんだ。
手を抜くことはしなかった。
ティルダの一代前の精霊の愛し仔エフェリーネと約束したあの日から、俺は数百という精霊達をこの森へと運んだ。
自分の意識の中に落ちてしまったティルダを探す為、エフェリーネが提案したのが『フカルクにいる精霊達に力を貸してもらう』こと。
ティルダの体を精霊の森で保管し、中にいるエフェリーネが身体機能を維持しながら精霊達の力を借りてティルダを探しだす。
ただどこにいるのか分からないティルダを探すにはどれだけ精霊の力が必要かは未知数だ。
だからとにかく国中の精霊達をこの地に連れてくる必要があった。
それが出来るのが、精霊が見えて話せる、そして創造神、精霊女王の加護を受けた俺だけだった。
そしてとうとうミツランの精霊で最後になる。
これで目が覚めなかったらどうしようか。
一縷の希望と不安を抱えながら聖地を目指す。
『グォングォン!!』
少しずつ霧がはれて来た時だ。
向こうからドスドスと牛の様に大きなモップが土煙を上げてこっちに走ってきた。
その正体に気づいた俺は笑って両手を広げた。
「ムクムク! 久しぶりじゃないか、随分と大きくなったな!」
『グォン!!』
『クォンクォン!!』
グリグリと顔を寄せてくるムクムクの後ろから可愛い鳴き声がしたので、驚いてムクムクの後ろに目をやった。
するとムクムクの足元にボールのように小さなコモンドルフィスが一匹、カエルのようにピョンピョン跳ねていた。
「え? お前まさか子どもができたのか?」
『グォン!』
「そっか、それで暫く顔を見せなかったのか。 今度は奥さんも紹介してくれよ」
丸太のような鼻先を撫でてやると、ムクムクは嬉しそうに鼻を鳴らした。
ティルダを森に寝かした後、ムクムクも一緒にこの森へ返した。
この森に不必要な人間が入らないようにする為だ。
ムクムクがここで家族と暮らすようになれば、コモンドルフィスは只の『危険な魔物』ではなく『精霊の森を守る魔物』として一目置かれる事になるんだろう。
願ったり叶ったりだ。
「ムクムク、今日こそティルダに会えるかもしれないぞ。 一緒に来るか?」
『グォン!』
「よし、じゃあ行こう」
そして聖地へ足を踏み入れようとした時だ。
目の前に金緑の光が煙のように立ちのぼり、薄緑の透きとおった羽根をつけた美しい女性が現れた。
「カイ、おかえりなさい」
「バイエノールさん! きてくれたんですね!」
「カイがミツランの精霊を見つけたって《《風の噂》》で聞いたのよ。 いよいよだと思ってね」
「……はい」
「何辛気臭い顔してるのよ。 もっと喜びなさい!」
バシバシと背中を叩かれ俺は苦笑した。
想像以上に精霊の種類が多かったので、バイエノールさんに確認を取りながら精霊達をここへ連れてきた。
その間何度も吐いた弱音を知っているのもバイエノールさんだった。
するとミツランの精霊がズイッと身を乗り出した。
『おぉ! バイエノール様ではありませんか! この度は素晴らしい従者を見つけましたなぁ!』
「あら、カイは従者じゃなくて精霊の守り人よ。 まだ若いのに立派でしょう?」
『それは失礼致しました! 確かに我々精霊とだけではなく魔物とも意思疎通が図れるなら、彼以上の適任者はおりませんな。 実に優しい獣人だ』
「私が選んだコだもの。 当然よ」
フフフとまるで自分の事のように笑うバイエノールさん。
ムクムクを助けた後、俺に加護を授けたのはどうやら気紛れではなかったみたいだ。
更に奥へと進むと、ようやく聖樹トルカナの森が見えてきた。
その中でも一本、空を覆い隠すように大きく伸びた幹が美しい大木を探す。
その根元に大きく窪んだ場所があり、ティルダはそこで沢山の花に囲まれて眠っていた。
「ティルダ、ただいま」
俺はいつものように声をかけて、背負っていた荷物を地面に下ろした。
身体機能は維持されているので、この五年でティルダの顔も体も少し大人びて女性らしい容姿になっていた。
腰まであったピンクゴールドの髪も太腿辺りまで伸びて、純白のナイトドレスに彩りを添える。
絵本に出てきそうな、美しい眠り姫だ。
すると俺の肩にのっていたミツランの精霊がピョンとトルカナの木へと飛び移り、ティルダの顔を覗き込んだ。
『これはこれは美しい姫君ですな。 この中にいる精霊の愛し仔の元へ行けば良いのですか?』
「えぇ、どうぞよろしくお願いします」
『承知した。 必ずや力になってみせましょう』
ミツランの精霊はティルダの額にヒタと手を当てて何やら呟き始める。
俺はその側で革袋の中からミツランの花株を取り出し、それをトルカナの根本に植え直す。
この聖地に植えれば、どんな植物も気候などに左右される事なく同等に育っていく。
それは高山植物であっても変わらない。
ただ獣人の俺が、この五年で全ての精霊が集まる規格外の場所を作ってしまったことは果たして良い事なのか悪い事なのか。
これからはその管理に手を焼きそうだ。
『カイ殿、誠に楽しい旅であった。 心より感謝する』
「こちらこそ、遠方から手を貸して下さりありがとうございました」
こちらが礼を言う側なのに、ミツランの精霊は深く腰を折って俺に頭を下げると、小さな光に姿を変えてティルダの体の中に消えていった。
これで、本当に最後だ。
そっと冷たい風が頬を撫でる。
「……バイエノールさん」
「なぁに?」
「ティルダ、起きますかね」
「……きっと起きるわよ」
側で様子を見ていたバイエノールさんの声からも僅かに緊張が伝わってくる。
ムクムクも心配気な目でティルダを見つめていた。
居ても立ってもいられなくなり、俺はティルダの頬をそっと撫でた。
まだ熱は感じない。
「ティルダ、ホラ起きろって」
まだスウスウと小さな寝息が聞こえるだけ。
「どこまで行ってんだよ。 お前の帰ってくる場所はここだろ」
柔らかい横髪を掬いそっと唇をあてる。
「ずっと待ってんだよ。 皆、お前が目を覚ますの」
堪らなくなってティルダの体を抱き起こした。
反応はまだ返ってこない。
「帰ってこいって。 早く……早く帰ってこいよ」
出来る全てを尽くした筈だから。
でもそれは本当か?
ティルダを抱いた手に力が入る。
「……一人にしてごめん。 これからはずっと側にいるから」
何度懺悔を繰り返したか。
あの時どうするべきだったのか、後悔しない日なんて一度もなかった。
「これじゃあ約束が果たせないだろ……」
帰ってきたら『お前が大好きだ』って伝える約束は、いつになったら果たせるんだろう。
五年という月日は余りにも長すぎる。
「なぁ……起きてくれ。 頼むから」
ポタ、とティルダの頬に雫が落ちた。
「……っ」
目を開けてくれ。
笑ってくれ。
名前を呼んでくれ。
『大好き』だって抱き返してくれ。
幾ら泣いても涙が枯れないのは、諦めきれない自分がいるからだ。
でもこれ以上、何が出来るだろう。
俺はティルダを抱き締めたまま泣き崩れた。
『大丈夫、もうそこにいるよ』
すると鈴の音の様な女の子の声が頭の中に響いて、俺は弾かれるように顔を上げた。
「エフェリーネ……、か?」
『たくさんの精霊さんに会わせてくれてありがとう。 カイも幸せになってね』
ティルダとは違う、少し大人びた声だった。
そっと視線をティルダに戻すと、頬が少し赤みを帯びていた。
「ん…………」
僅かに身動いだ後、薄っすらと瞼が上がり、美しい水色の瞳に俺の顔が映った。
「……カイ?」
細くて冷たい指先が、俺の涙を優しく拭う。
「……泣いてたの?」
「お前の所為だろ……」
目を丸くして見つめてくるのが堪らなく愛しくて、俺はティルダを掻き抱いた。
するとティルダは『くるしいよ』と呟きながらも、押し返す事なくそっと俺の背中に手を回した。
「ティルダ……、おかえり」
すると肩口で鼻を啜る音が聞こえて力を緩めると、腕の中でティルダも涙を流しながら微笑んだ。
「ただいま……。 カイ、大好き」
少し大人になったティルダの声は、目眩がする程に甘くなっていた。
もう言葉一つも聞き漏らしたくない。
俺はティルダの額に自分の額を合わせた。
「俺もだ。 大好きだよ、ティルダ」
そう言ってティルダの頬を伝う涙に唇を寄せた。
『くすぐったいよ』と笑いながら流れるティルダの涙も、前よりずっと甘く感じた。




