2-1 <追憶>
それは、夏が始まろうとしている、5月のよく晴れた日曜日のことだった。
「昂一。今から、あそこの山に行かない?」
昼食を食べ終わって、突然そんなことを言い出した母が指さしたのは、家から見える、小高い山。
桜の季節が終わり、新緑に萌える木々が聳えるのは、小さい頃、よく家族で出かけた、山だった。
シングルマザーである母のことは、別に嫌いでもないし、その日は部活動も休みだった。
だから、断る理由もない昂一は。
「ん。いいよ」
と、二つ返事で承諾したのだった。
その山は、道がきちんと整備されている山で、山頂まで車で行くことができる。
山頂の公園の駐車場に車を止めて、そこから公園のトイレの横を抜けると、そこには「立ち入り禁止」と書かれた、木製の古いプレートがある。
この先が、朱野一家の“秘密の場所”。
小さい頃は両親に手を引かれて良く行ったものだ。
プレートの警告をお構いなしに進み、少し森を抜けると、そこには断崖絶壁と、その遥か下に広がる絶景があった。
「懐かしいよね。よくこうして、家族4人で、夕陽を眺めたよね」
母は、昔よくそうしたように、昂一の後ろで大きな岩に腰を下ろしている。
昂一も、母の一歩前にある小さめの岩に登って、眼下に広がる街を見下ろす。ここは、幼少の頃、昂一にとって一番のお気に入りの場所だった。
「お父さんのこと、覚えてる?」
問われて、昂一は、頭の中に父を思い浮かべた。
いつも口癖のように「テストでいい点取ったら良いもの買ってやるぞ」と言っていた、父。
その顔は、昂一の記憶の中では、既に朧げだった。
いい点を取っても、買ってもらえるのは父のセンスで選んだ、意味不明な雑貨や文房具ばかりで、特に良いと思えるものは買ってもらったことも無かった。
けれど。母は、その父のことが、忘れられないらしい。
「お父さんも、更菜も、ずっと一緒に暮らせたら良かったのにね」
そう言って言葉を震わせる母の横顔には、涙が流れていた。
父と母が別れることになった日。
その日は、しがないサラリーマンであり、いつも定時に帰ってくる父が、珍しく夜遅くに帰ってきた。
酔っ払った父からは、きつい香水の匂いがした。
それは、多分同僚の付き合いか、もしくは成り行きだったのだと思う。父に自ら進んで浮気をするだけの度胸があるようには、今でも思えないから。
しかし、母は。父と、家族を心から愛している母は。
キッチンから、鈍い光を放つ包丁を持ち出して来たのだ。
刃物の輝きを見て一気に酔いが冷めた父は、慌てて母を取り押さえたらしい。
深夜、1時頃。床に落ちた包丁が、がしゃん、と耳障りな音を立て、揉み合いになって椅子が倒れる。
もちろん力では父の方が上だったし、その時物音で起きだしてきた昂一と更菜も、慌てて止めた。
二人がリビングに来たとき、父は母に馬乗りになって、抑え込んでいた。
そして父は、肩で荒く息を吐きながら、ぐしゃぐしゃに泣いている母に向かってこう言った。
「前からそうだったが、お前はふとしたことで、すぐに感情が爆発する。ちょっと危ないところがあるんだ。俺もお前が嫌いじゃないが、このままでは、俺たちはうまくやれないと思う。お前の我儘で、昂一や更菜も悲しい思いをすると思うんだよ。だから――離婚、しよう」
思えば、父は、こうなることを望んでいたのかもしれない。
このようなシチュエーションが出来上がるのを待って、この言葉を掛けたのかもしれない。
子供二人の前で、そのような話ができる父の無神経さには、恐れ入ったが。
自分がその父親の子供であることを誇りに思える日は、永遠に訪れないだろう。
母は、何も言わなかった。
ただ、荒い呼吸をして、涙をぽろぽろと流していた。
父は以前から用意していたらしく、仕事用のシンプルな鞄から、淀みない動作で紙切れ――離婚届を出した。
そこには、既に、父の名前と捺印があった。
「好きだったのにな」
遠くを見つめる母の表情は、その日のことを思い出していることを物語っている。
好きだから。愛しすぎてしまっていたから。
だから母も、何も言わずに離婚届に名前を書き、印を押した。
このままでは、狂ってしまう自分が分かっていたのだろう。
「でも、父さんとも更菜とも、金輪際会えない訳じゃ無いだろ?」
昂一が後ろを振り返り、取り繕うように母に語りかける。
「そうだね――」
母が、突然立ちあがった。
「二人とも、ちゃんとココに居るもんね」
母は、自分の胸元に手を当てる。
何か、おかしい。
二人は、ここにいる。この胸の中に――
違う。俺は、そんな意味で言ったんじゃない。
その言葉は、生きている人間には、使わない。
それはまるで、死者を悼む時のような――
「もちろん、昂一も」
遠くを見ていた母の視点が突然こちらを向いて、昂一は射すくめられたように動けなくなる。
その表情は、あくまでも穏やかで。
だからこそ、言葉と表情に、微妙な違和感があった。
おかしい――何を言っている?
分からない。分からない。
考えても、分からない。
ただ、ねっとりとした焦燥感だけが、背筋を這い上がっていく。
「母さん。それって、どういう――」
「昂一。お願いがあるの」
昂一の言葉を遮る、母の懇願するような声。
こちらに、一歩近づく母。
やめてくれ、これ以上近づいたら――
昂一の3歩後ろには、崖。
「私と一緒に、死んで?」
昂一の返答を待たぬまま。
彼の体は、どん、という衝撃と共に、空中に躍り出た。
景色が、目まぐるしく移動していく。
自分の、後方から、前方へと。
木々が、枝が、岩肌が、流れていく。
その速度は―一体どれだけなのだろう?
切れ切れの意識の中で考える。
自分は、今―仰向けに落下しているのだ。
自由落下。
物理で習った。
自分の体重が、60kgで…まだ落下が続いているなら、もう100mは落ちている?
やけに頭が冴えて、変な気分だ。
ああ、でも―その受験のために必死に身に付けた知識も、今ここで、無駄になるのだろう。
何故なら、この先にあるのは、只の硬く、湿った地面に他ならないからだ。
下に向かって。重力という、抗いようもない、物理法則に従って。
どんどん、どんどん、加速していく、体。
正面には、初夏の青い空。
ゆっくりと、視線を右の方に巡らすと、そこには、自分と同じ速度で落下する母の姿。
その表情は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
―そんな顔するならさ、
思考の断片で、その母に訴えかける。
―こんなこと、しなきゃ良かったのに。
自分をこの虚空へと突き落とした―母へと。
やがて、
“終わり”は唐突に訪れた。
暗い。寒い。
湿った土の匂いと、鉄の錆びたような匂い。
昂一が目を覚ますと、遥か上空に、鬱蒼とした木々の梢が重なり合っているのが目に入った。
ちらちらと降り注ぐ木漏れ日が眩しい、と感じる。
一瞬自分がなぜそこに居るのか思い出せなくて、ぼんやりと記憶を辿る。
日曜日。昼飯を食べて、山に行って。
秘密の場所に行って、景色を見て、昔を思い出して。
そして――
そうだった。俺は、母さんに、あの崖から突き落とされたんだった。
その事実に、昂一は、どうしようもない絶望感に襲われた。
――俺が、母さんを守るって。守れてるって思っていたのに。
それは、やはり、まだ二十歳にも満たぬ子どもの思い上がりだったのか。
結局、母は、死を選んだのだ。
悔しい。
母に、殺されかけたことが、ではなく。
なにもできなかった、自分。
死ぬ覚悟を決めていた母に気付かなかった、自分。
体が、痺れたように動かない。
辛うじて動く首をのろのろと横に向けると、そこには仰向けになって事切れているらしい母の姿があった。
ごめん。俺は、一緒に死ねなかったみたいだ。
でも、ここでずっとこうしていれば、いつかは死ねるのかもしれない。
そうしたら、母の為になるようなことが、できるのだろうか。
今まで何もできなかった自分も、一緒に死んでくれと懇願した母の願いを聞き入れることができるのだろうか。
少しずつ、少しずつ、体から力と体温が失われていく気がして、昂一はゆっくりと大地に身を預ける。
目を閉じると――ああ、これは、走馬灯だろうか。
次々と思い浮かぶ、大切な人たちの顔。
母さん、父さん、更菜――
じいちゃん。ばあちゃん。
おじさん。おばさん。
友達。クラスメイト。
――楓……。
それは、幸福な記憶だった。
会いたい。会いたい。
皆に会いたい。
死んだら、会えるのだろうか?
分からない。知らない。
だって、まだ、自分は、死んでいないから。
死後の世界は、誰も保障などしてくれないから。
けれど、今、確かに分かるのは――
それは、生きていれば、“いま”生きている人間に会うことができる、ということ。
昂一の閉じた瞳から、一筋、涙が流れた。
ああ、やっぱり。
母さん、ごめん。俺はやっぱり、一緒に死ぬことはできない。
死ぬのは、怖い。
寂しい。
嫌だ。
俺はまだ、ここで――生きて、いたいんだ。
意識が、頭の中で、氾濫する。
ぐちゃぐちゃになった思考の中で、昂一は、ただただ生を願う。
『おい。起きろ』
突然誰かに呼ばれた気がして、昂一はうっすらと目を開けた。
目を開けて天国にでもいたらどうしようかと思ったが――良かった。目に映るのは、先ほどと変わらぬ初夏の木漏れ日。
しかし、その木漏れ日に輪郭を縁取られる“誰か”が、昂一の目の前にいた。
声の主は、彼(男性の声だったから、彼だろう)のようだ。
(助かった……もしかして、人が通る所に落ちたのか……)
とりあえず、生きる希望が見えたことで、少しだけ安心する。
まだ意識はあるし、すぐにでも病院に運んで貰えれば、助かる見込みはあるはずだ。
しかし、“彼”は昂一にとって、希望でも何でも無かった。
『どうだ、また、生きたいか?それとも死んでいたいか?』
彼は、特に助けを呼ぼうともせず、無慈悲に昂一に問いかける。
こうしている間にも、自分は死に一歩ずつ近づいているかもしれないのに。
彼の言っていることは、なんだか、少し、おかしい。
正直なところ、そんなことはどうでもいいから、早く救急車なりレスキューなりを呼んでくれ、というのが昂一の答えであった。
しかし、声は出ない。口すら、動かない。
だが、心配せずとも、不思議と昂一の考えは彼に伝わったようだ。
『救急車なんて呼んでも無駄だ。何故なら、お前は――』
声の主が、にやりと笑った気がした。
目が慣れてきたのか、徐々に逆光で陰になった“彼”の姿が露わになってくる。
大きい。
ごつごつしている。
青みがかった、黒色。
背中に何か、背負っている?
それは、翼。鳥のような、翼。
昂一に覆いかぶさるようになっているそれは――背に一対の翼を持った、闇色の狼だった。
およそ狼というには、大きすぎる体ではあったが。
その狼らしきものは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『死んでいるからな』
死んでいる。
死んでいる?
理解できず、もはやおぼろげな意識しか残っていない昂一の頭は、理解の限界を超えた。
おかしいじゃないか。そしたら、今ここでこの景色を見ている自分は、何者なのか。
『もう1分もしたら、お前の魂は体から遊離して、やがてお前はこの世界から完全に居なくなる。つまり、それが本当の死。それを迎える前に、お前の決断を聞いておきたい訳だが……』
彼が話しているうちに、徐々に視界が狭まってきた。
存在が希薄になるような感覚。
世界が、遠ざかる。
ああ、これが本当の死、なのだろうか。
『もう一度聞く。生きてぇのか、死にてぇのか、』
視界が、黒に支配されていく。
けれど、その遠ざかる世界の中でも、彼の声は、
昂一の魂に、はっきりと響いた。
『どっちだ、昂一!!』
生きたいのか。死にたいのか。
俺は――
『昂一』
誰かの呼ぶ声。
あの時と同じ声。
そう、あの時俺は、母さんに突き飛ばされて、死んで――
『起きろ』
あの時と同じように、その声は俺に覚醒を促す。
あのまま、あそこで、野垂れ死ぬという選択肢もあったあずだけど、でも。
俺は、生きることを、選んだんだ。
『起きろ。もう着く』
エマの声と共に、軽快なメロディが鳴り響き、昂一の意識は覚醒した。
「間もなく、山形。山形です――」
ゆったりとした男性の声の、アナウンス。
昂一は、自分が新幹線に乗っていたことをぼんやりと思い出す。
東京から、シルバーの車体の新幹線・つばさ号で2時間ほど。久々に乗った新幹線のシートは存外心地良く、どうやら、その間完全に眠りこけて居たようだ。
――何とも目覚めの悪い夢を見たものだ。
あの時の事を夢で見たのは初めてではなかったが、今までで一番生々しい夢だった。
その夢の感触を忘れたくて、昂一は無理やり別の事を――学校のことを考える。
今頃、昂一は“身内の都合で”欠席になっているはずだ。そのあたりは、楓が上手くやってくれているだろう。
ラナは、大丈夫だろうか。まあ、そちらについての心配も無用だろう。楓の母は、昂一が一人暮らしになってからも何かと構ってくれる世話焼きだから、一人っ子の楓に妹ができたようだと喜んでいる姿が目に浮かぶ。
窓の外を流れる景色が、徐々に緩やかに目に止まるようになる。やはり、心なしか、こちらの方が関東よりも空が澄んでいるように見えた。
『降りたら、すぐに乗り換える。その前に、涎拭いとけよ』
エマに言われて、昂一はバツが悪そうに口をへの字に曲げ、パーカーの袖で口元を拭った。窓ガラスには、眠たげな自分の姿が映っている。
忠告されなければそれはそれで恥をかいていたかもしれないが、何だか無性に腹が立った。




