1-3 <名前>
カン、カンと、二人分の足音が鉄製の階段に響く。
学校から、住宅街を抜けた先の商店街の外れにある、木造3階建てのアパート。
古くもなく、かといって新しくもない、白い外壁のアパートの1室が、昂一の自宅。
「ただいまー」
未だに癖でついつい言ってしまうが、応える者は誰もいない。
以前母と2人で暮らしていたこの2DKの部屋は、独りで暮らすには、広すぎる。
但し、今は、今朝この自宅を出発する前と違う点がある。
それは、昂一の左手の先に、少女の右手が繋がれていること。
「とりあえず、そこに……って、靴は脱いでくれ、靴は」
可愛らしい、白いサンダルを履いたまま上がろうとした少女に、昂一は慌てて注意した。
(もしかして、日本で暮らしたことが無いのか?だから、言葉が分からないとか)
『それはない』
昂一の憶測は、即座に否定される。
『ハスタルと人間は、言葉でコミュニケーションを取っている訳じゃねぇ』
「それって……」
どういうことだ、と聞こうとして、止めた。どうせ人間には理解の及ばないところだろう。
「……とりあえず、そこ、座ってて」
ひとまずは、言葉が通じるものとして、少女にダイニングの椅子を指し示す。
すると、昂一が脱いだ靴に倣ってサンダルを揃えていた少女は、何も言わずにぺたぺたと椅子のもとへと歩いていくと、ぽすっと腰を下ろした。
彼女は、相変わらず、昂一のことを、感情の籠もらない目で見ている。
「あ、あのさ、名前は?」
少女に見つめられる経験など、ほとんどしたことがない昂一は、しどろもどろになりながら訪ねた。
しかし、少女は首を傾げるばかり。
記憶喪失?
な訳ないか。人間の常識は、ハスタルには、通用しない。
それに、少女の様子は、思い出せないというよりもむしろ、名前という概念を理解していないような。
そんな様子だった。
「あ〜……」
どう説明したものか。一介の高校生に過ぎない昂一は、少女にモノの概念を教えることができるほど、語彙力も知識もない。
「だからな。んー、つまりな。俺の名前は、昂一っていうんだけど…」
昂一は、自分を指し示す。
「さっきのデカいのは――」
『デカいのとは何だ』
「あーうるさい。デカいのは、エマっていう」
両腕を広げて、大きなモノを形作る。
少女は、テーブルにちょこんと両手を載せて、じっと、そんな昂一の様子を見ている。
「俺は、あのデカいのを、エマって呼ぶ。エマは、俺を昂一って呼ぶ。それが名前、なんだけど」
人差し指で、そっと少女を指し示す。
「君は?何て呼んだらいい?」
「……」
少女は、昂一の指が指し示す方を見た。即ち、己の胸元を。
(やば、もしかして何か地雷踏んだか?俺)
そんな危惧をしていた昂一だったが、不意に面を上げた少女と目が合い、理由もなくどきりとしてしまった。
綺麗な瞳が、昂一を見据えて。
少女の小さな口が、言葉を紡いだ。
「ない」
その声は、冬空のように澄んだ、今にも消え入りそうな声だった。
「ナイ?ナイっていう名前?」
少女は、昂一の言葉に、首を振る。
「なまえ。ない」
今度は、はっきりと。
はっきりと、そう言った。
「……もしかして、有る、無いの、無い?名前を、持っていないのか?」
恐る恐る発せられた昂一の問に、少女は首肯する。
「……そんなことってあるのか、エマ?」
昂一は、彼自身の中のハスタルに訊いた。
『オレに訊くな』
「……ちょっと待てよ。エマは、その名前を、どうやってつけられたんだ?」
浮かんだ、一つの疑問。
思えば、昂一は、ハスタルについて知らないことだらけだった。
――特に、ハスタルの出生について。
命のサイクルについて。
今まで微塵も不思議に思わなかったことが、この少女によって、露わになる。
「……誰に、名づけられた?」
『……その話をするのは、面倒だが』
「でも今は、その知識が必要な時だ」
昂一は、静かな口調で語りかける。
「頼む。教えてくれ」
エマは、暫くの間黙っていたが、ややあって、
『オレが人間にこの話をするのは初めてだが――』
ゆっくりと、語りだした。
『総てのハスタルには、母とも言える存在がいる。俺たちは、女王と呼ぶが……ハスタルがハスタルの子を産む訳じゃない。新たなハスタルは、女王から生まれ落ちる』
女王。レギナ。
そんな話は、聞いたことがない。
まだエマと共生し始めて、4ヶ月しか経っていないが故、当然といえば当然かもしれないが。
エマは、なおも続ける。
『女王は、新たな命が生まれるとき、その時の季節と、時間を表す言葉で、真名をつける。真名は長ぇから、便宜上そのうち2文字を取って、名前とする。それが、普段お前らが呼ぶハスタルの名前だ』
つまり彼にも、女王に名付けられた真名があって、それを短くしたのがエマ、というわけか。
話を聞き終えた昂一は、しばし床を見つめながら、押し黙っていた。
『どうだ、満足したか?』
「何て言うか、まあ……」
エマの問いに、昂一は頭を掻く。
「何か、意外っていうか。ハスタルにも、そういう文化めいたことがあるのかと思って」
あまりにも“人間らしい”感想に、エマは、ククッと声を殺して笑った。
「何で笑う」
『別に。面白いから笑っただけだ』
……やっぱりハスタルは、人間の理解の範疇を超えている。
まあ、それよりも今は。
「じゃあこの子は、その、クイーン、に名付けられなかった、ってことか?」
昂一が尋ね、てっきり“話すのが面倒臭ぇ”と言われるのかと思いきや、
『……それについては、思うところがある』
返ってきたのは、意外な答えだった。
「思うところ?」
昂一の問いに対して、エマは、しばし何かを考えているようで、何も言わなかった。
少女が、床につかない小さな足を、ぷらぷらとさせている。ますます、ハスタルとは思えない。
昂一が、これはもしかして本当に只の幼女を誘拐してしまったのでは、と不安になった頃だった。
『明日、山形に行くぞ』
突然、エマがそんなことを言い出した。
「や……山形ぁ!?」
思わず、声が裏返ってしまった。
しかし、それも無理はない。
明日は普通に木曜日で授業があるし、何せ、昂一の家が、関東圏の西の方なのである。
いや、距離はさほど無いが、問題は、交通費だ。
アルバイトを週5日しているとはいえ、稼げるのは、生活費で一杯一杯で、昂一には、そんなお金が捻出できる余裕はない。
(だからって、叔父さんにはこれ以上迷惑は掛けられないし)
母の弟にある叔父は、気のいい起業家で、昂一の学費をまるまる出してくれている。(本当は生活費から何からすべて出してくれると言っていたが、さすがにそれは忍びなかったので、丁重にお断りした)
それだけで十分申し訳ない思いをしていたので、目的も良く分からない旅費を出してくれなどと、言えるはずも無かった。
「何で山形なんだ……」
辛うじて言えたのは、それだけ。
それに対する答えは、
『そこに知り合いが居る』
ごく、短いものだった。
「知り合いって……山形になんて行ったことないし、」何で山形に知り合いが、と思ったが、よく考えれば、思いが至った。
エマは、ハスタル。
人の死体から死体に乗り移り、生きる生命体。
つまり、昂一に乗り移る前か、その前か――分からないが、かつて山形に居たことも有るのだろう。
『交通費なら問題ねぇよ』
エマが、ニヤッと笑った気配が、伝わった。
『お前の食費1ヶ月分位で何とかなるだろ』
「簡単に言ってくれるな」
『食わなくても、死にはしねぇ』
「……そりゃそうだけど、食えないストレスでハゲる」
抗議する昂一にエマは、ストレスねぇ、と笑う。さっきからこいつの笑いのツボが分からない。
『お前、その女のことが知りてぇんだろ?』
そう言われてしまうと、確かに、ほかにどうする当てもない、自分の無力さが悔やまれる。
「……分かったよ」
きっと、それが、この少女のためにしてやれることの、一番の近道なのだろう。
『そんなら、さっさと寝とけ。明日は始発で行く』
「始発……」
『山形で泊まる金、あんのか』
「……無い」
『じゃあ文句垂れるな』
人間よりも随分しっかりとしたハスタルの言い分に、昂一はうなだれるしか無かった。
それもそうだ。ハスタルの方が、何倍も長く生きている。
「さて、俺は今から夕食作るから、先に風呂でも……」
とりあえず今日は、これ以上この少女については分かりそうもない。
とりつく島も無くなった昂一は、話題転換のために出した提案によってあることに気づき、更に愕然としてしまった。
……この子の着替えは?
……ていうかそもそも風呂とか一人で入れんのか?
ハスタルとはいえ、見た目普通のことと変わらないこの少女。
もしかしたら入浴など必要ないのかもしれないが、これから生活する上で様々な概念を学ばなければならないだろう。
……どうしよう。
俺がこの子を着替えさせたり風呂に入れたりするのか?
そんなラブコメみたいなこと、実際にやれ、と言われると…何かこう、自分が犯罪者になったかのような後ろめたさがある。
昂一は、ゴクリと唾を飲み込む。
俺が、やるしかないのか……
「……って、無理に決まってんだろ!」
『何を一人で叫んでやがる。幼女誘拐犯が』
「違ぇよ!」
息巻く昂一をからかうエマに辟易しつつも、昂一はポケットの携帯電話を開く。先程の事故の中でも、唯一の持ち物だった携帯電話と財布は奇跡的に無事だったようだ。(ちなみに教科書類は全て学校のロッカーに置き去りだったため、カバンは持っていない)
着信履歴の一番上の番号にリダイヤル。
今の時間なら、ちょうど部活の中休みの頃だろう。
5回ほど呼び出し音が鳴った後、電話が繋がった。
「もしもし、俺だけど。ちょっと頼まれてくれる?」
約束の時間に、昂一は少女の着替えを持って少女と共にアパートの前に立っていた。
日はとうに暮れており、商店街の建物の間に覗く空は、薄紫色に染め上げられている。
着替えは、初めは当てもなく、どうしようもないと諦めかけていたが、あることを思い出して、母の寝室のクローゼットを覗くと――果たしてそれは、そこに在った。
衣装ケースに収まっていた、小学生高学年くらいの女子向けの、洋服。
それは、今は離れ離れになってしまった、妹のものだった。
よく母が、「更菜とも、また一緒に暮らせるといいわよね」と言っていたことを思い出す。
妹の更菜は、別れた父親にくっ付いて行ってしまった。
昂一は、正直言って、どちらでも良かった。当時は中学2年生だったが、一人でも生きていけるんじゃないかとさえ思っていた。
しかし、昂一は母に付いていった。
どうしようもなく、危ういところのある母だったから。
守らなければ、と思ったのかもしれない。
少なくとも、母は、盲目的に溺愛していた夫と娘が目の前から居なくなることで、ノイローゼになりかけていた。
――そうか。
昂一は、自分と手を繋いでいる少女を見て、思う。
――この子は、更菜に似ている。
だから、とっさに助けようなどと思ったのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
もちろん、記憶の中の妹とは、背丈も、顔立ちも、声も違う。
けれども、そのふわふわした、掴みどころの無い雰囲気が、妹を彷彿とさせるのだ。
(案外俺も単純なもんだ)
妹に雰囲気が似ているから、なんて。他人だということは分かっているのに。
そもそも、妹と離れ離れになったのは、8年も前の話だ。今頃は、あいつも中3だろう。
そんなことを考えながら、山の方へと帰って行くカラスの群れをを見送っていると、
「やっ。お待たせ〜」
不意に、声が掛かった。続いて、自転車のブレーキの音。
「お。遅かったな」
昂一が振り返る。自転車に跨った楓は、ハンドルを持っていない方の手で、小さくゴメン、と謝った。
「何かそこの踏切で事故があったみたいでさ。警察が目撃者情報探してて、何かうちの高校の人らしくて、捕まっちゃって……およ?」
事故、という言葉に身を固くする昂一をよそに、楓は隣の少女の顔を覗き込む。
「わお。かわい〜。昂一、この子、どちらさん?まさか、更菜ちゃんじゃないよね?」
「そんな訳無いだろ。更菜は中3の筈だ」
「だよね〜。ちょっと似てるけど」
楓とは、小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていたため、当然彼女も更菜のことを知っている。
そうか、他人から見てもやっぱ似てるのか。
「で、この子、どうしたの?それに、今日中に学割取ってきてくれって。急に取るの、大変だったんだよ。何なの?」
昂一の隣に身元不明な少女がいる事態が良く分からず、少々ご機嫌ななめらしい楓。そんな彼女の質問責めに遭い、昂一はしどろもどろになりながらも必死に楓が来るまでに考えた“事情”を説明する。
「実は、信じられないかもしれないけど、この子は俺の遠い親戚らしくて」
「ほうほう」
楓の探るような眼差しに、思わず身を引きそうになる。
全て見透かされているようで、この眼差しは昔から苦手なんだ。
「で、家出してきたみたいでさ。俺のとこに来たんだけど」
「こんな小さな子が!?わざわざ遠い親戚の昂一のところに?」
うん。無理はあると思う。
しかし、昂一は構わず話す。
「でも、親御さんが心配してるだろうなと思って。何かあったみたいで、この子は帰りたがらないから、明日山形に行って、事情を聞いてくるつもりなんだ」
「はぁ、山形ぁ!?」
さすがの楓も心底驚いたようで、素っ頓狂な声を上げる。先ほどの昂一と同じリアクションだ。
「電話じゃだめなの?」
「それが、父さん方の親戚で、全然電話番号は分からないんだ」
「……行こうとしてるってことは、住所は分かってるってことでしょ?住所は分かるのに電話番号は分かんないの?」
痛いところを突かれてしまった。しかし、そこを逐一説明しようとすれば、ボロが出るだろう。
こうなったら、もうヤケだ。
昂一は、彼女が口を挟めないように、一気にまくし立てる。
「住所も分からないけど、小さいころよく行ったから、駅のすぐそばってのは覚えてるんだよ。駅名が分かりゃ、経路は携帯で調べりゃ分かるだろ。だから、明日一日この子を預かってほしい。事情を聞いて、連れ戻した方が良さそうだったら、親御さんにも来てもらうから。な、頼む」
昂一に懇願された楓は、「あんたんとこ、山形に親戚なんて居たかねぇ……」などとおでこに手を当てて訝しみつつも。
「まあ、いいよ。その代わり、今度練習付き合ってね」
と、笑顔で承諾した。
「それはちょっと……」
背中に冷や汗をかく昂一。
練習に付き合って万が一怪我をすれば、自分の異常さが楓に分かってしまうという、恐怖。
「嫌なら、先生にズル休みって言うよ?」
何というクラス委員。もちろん無駄に欠席を増やしたくはないし、ココはとりあえず引き下がるのが賢明な判断だろう。
「……お付き合いします」
またこのパターンか。エマが頭の中で、笑うのが分かる。
いいよな、ハスタルってのは、面倒臭い人間関係なんてのが無くて。
「ねえ、お名前は何て言うのかな?」
自転車を降りた楓が頭を撫でながら少女に訪ねると、少女が首を傾げた。
無い、などと言われてしまうと色々とややこしいことになりそうだ。昂一は慌ててフォローする。
「あ……その子、最近まで外国で暮らしてたらしくて、あんまり日本語通じないかもしれない」
「そうなの?よく山形からこんなとこまで来れたねぇ」
頭を撫でられている少女は、大人しい。こういうのは嫌じゃないのか。何も感じていないだけか。
「多分、誰か親切な人が……いたんじゃないかと思うけど」
本当にいたら、このご時世に、国宝級の人物であろうが、楓は、「そういう人もいるもんなのねぇ」と、妙に納得している。とりあえず、練習に付き合うと決めた時点で、この子がどうやってここに辿り着いたかは、どうでも良くなったようだった。
「昂一、この子、名前は?」
顔を上げた楓に訊かれて、一瞬頭が真っ白になってしまった。
そうだ。俺は、仮にとはいえ、この子に名を与えなければならない。
それがとんでもなく神聖で、重大なことに思えて、今まで考えていた適当な名前が、頭から全て吹っ飛んでしまった。
しばしの間、沈黙が辺りを支配する。
昂一から返答が得られないことを不思議に思った楓が口を開き掛けたとき、
電線の上のカラスが、カァ、と高く鳴いて、
それが合図であったかのように、昂一の口がとっさに動いた。
「……らな」
「ラナ?」
「そう。ラナ。本名は長いから、忘れた」
「何それ。まあいいや、ラナちゃんって言うのね。宜しくね」
くしゃくしゃと頭を撫でる楓と昂一を、少女は交互に見上げる。
「……お前のことだ。お前の、名前」
昂一が耳元で囁くと、少女は、確かめるように、
「……らな?」
と、小さな声で呟いた。
「ラナちゃん」
楓が屈んで少女と目線を合わせた。
吸い込まれそうな、色素の薄い瞳。
その瞳を見た楓は、まるで恋に落ちたときのように、どきん、と心臓が跳ねるのを自覚する。不思議な魅力を持った女の子だ。
「ラナちゃん。私は、かえで。今日と明日だけ、私のおうちで、一緒に過ごそうね。よろしくね」
聞き取りやすいよう、ゆっくりとそう言って手を差し伸べると、少女はほんの僅かな逡巡の後、
「……はい」
と、昂一と繋いでいた右手を、楓の手に乗せた。
とりあえず、少女…ラナにも、楓にも、納得して貰えたらしいことで安堵した昂一は、ほう、と息を吐いて、濃紺に変わりつつある空を仰いだ。
ラナ。
更菜の、らな。
妹の名を、貰っただけだ。
やはり、あの時。楓に名を問われた時、脳裏に過ぎったのは、妹のイメージだった。
よく考えれば、昂一にとってこの年頃の知り合いなど居ないから、それも仕方ないのかもしれないが。
兄ちゃん、と呼ぶ妹の声が、頭の中で蘇った気がした。
妹は、母や自分よりも、父を選んだ。
今、父や妹は、何をしているのか。幸せに暮らしているのか――それを知る術は、無い。
だから。
できれば、この妹の名を貰った少女が、否――ハスタルが、穏やかに生きていけることを、願わずには居られなかった。
――少女がハスタルである以上、そんなことが、あるはずないのに――




