#08遥かなる旅路へ
早朝、朝もやのかかる平原でルリは目を覚ますと、慣れた手つきで焚火を起こした。寝ぼけ眼を擦りつつ、欠伸を噛み殺しながらフライパンを火にかける。鞄の中から大ぶりなソーセージを10本取り出すと、熱せられたフライパンへと滑り込ませてゆく。
「あ、おはようございます」
小気味のいい音と、食欲をそそるその匂いに、ケンはもぞもぞと身を起こした。寝ぐせでボサボサになった髪から飛び出る耳が、周囲の音を探るかのように細かく動いていた。
「うん」
大きな欠伸とともに伸びをするケン。揺れる焚火を眺めているとき、ケンは首を傾げた。頭の奥に、いつもの朝にあるはずの鈍い重さがない。
「あれ、よく眠れた……いつもの夢、みてない……?」
「夢……? ともかく、よく眠れたのなら良かったじゃあないですか」
確かに彼女の言う通りだろう。しかし――
「最低だ。何呑気に熟睡なんかしているんだ……」
両手の拳を堅く握りしめうなだれるケン。
「睡眠は、生きていくうえで必要なものですよ。……どんな時だって、ね」
しなだれた両耳のケンの鼻先に、ルリは皿を突き出す。
「それに食も。今日のために、絶対、です」
静かに進む朝食。鳥のさえずりがまるでバックコーラスのように彩る。不意にルリが、皿を自身の膝の上に置くと、ナプキンで口元を拭いながらケンに向き直った。
「ケンさん、聞いておいてほしいことがあるんです。いいですか?」
真っすぐなその瞳に、ケンも思わず姿勢を正した。
「魔法を行使するには、魔力が必要であって、それは大気中に存在しています。魔女は、それを満月の日に体の中に貯め、そこからルーンへと変換していきます」
唐突な講義に、ケンの表情に混乱が現れる。ルリもそれを察したのか、慌てて続けた。
「ああっ、いきなりでごめんなさい。ただ、今私の体の中にある魔力が少ない状態でして、ルーンの行使が上手く出来ないんです。だから、それを知っておいてほしかったんです」
「もう使えない、ってこと?」
「いえ、あと数日もすれば満月なので、そこからまた使えるようになります」
まるで電子機器の充電みたいだな、とケンは思ったが、彼はその言葉をソーセージと共に飲み込んだ。
「そっか。じゃあ、それまでは俺、頑張るよ」
強がるケンに微笑むルリ。平原の草が風に撫でられる音が静かに響いた。やがて太陽が高度を増し、大地を見下ろす頃、二人は身支度を終え一晩過ごした場所を後にしていた。
立ち止まっていると湧き上がってくる様々な思いを振り払うかのように、ケンは歩みを進める。時折横目でルリの様子を確認し、その都度歩調を合わせることも忘れなかった。
山の姿がその大きさを増してきた頃、彼らは小川にかかる石造りの小さな橋を渡る。いつ作られたものなのだろうか、苔むしているものの頑丈な造りだった。ケンは下を流れる小川を覗く。清らかなせせらぎが太陽に反射していた。
「ちょっと休憩しようか」
ケンは小走りに小川の脇まで行くと、手をその流れに浸した。山からの水はひんやりと心地よく、火照った掌を包み込んだ。ケンはその水を掬うと、口に近づけ――。
「ああっ! ダメです!」
突如ルリがケンの首根っこを引っ張り、ケンは派手に背中から倒れる。激しく咳き込むケンをよそに、ルリの表情はいたって真剣だった。
「乱暴でごめんなさい。でも、川の水って危ないんです。どんなに見た目が綺麗でも、目に見えない危険がたくさん詰まっていて……。お師匠様は、『自然の中の水は毒と思え』ってよく言ってました」
ルリは鞄から水筒を取り出すと、ケンに手渡す。
「飲むならこちらを。一度しっかり沸かしてあるので大丈夫です」
首をさすりながら喉を潤したケンは『ありがとう……』と水筒を返すと、小川に背を向けた。やれやれ、といった表情で彼女もそれに口を付ける。一口、二口と喉へ流し込み――その途中で、ルリははっとした。
「うん? どうしたの?」
ケンの隣で歩く彼女の頬はほんのり染まっていた。
陽も高く昇るころ、二人の歩く道に少しずつ木が現れ始める。周囲から平原の面影が無くなると、二人は鬱蒼とした森に直面した。木々が覆い重なり、昼間だというのに薄暗く、その様子はまるで外部の者を拒んでいるかのようだった。
「よし、俺が先に進むから、ルリちゃんはその後に付いてきて……あれ?」
いつの間にか隣にいたはずのルリの姿が無い。焦って辺りを見渡すと、少し離れた場所からルリが口元に手を当てケンに呼びかけた。
「ケンさーん、こっちに道ありまーす!」
気勢をそがれたような気分で、とぼとぼとルリの元へ向かうケン。彼女の隣に立つと、確かにそこには人によって踏み固められた一本の道が森の中へと続いていた。
まばらな二人の足音が、落ち葉にまみれ湿った道を踏みしめる。先程の平原とはうって変わり、草木の香りが色濃く鼻腔をくすぐる。風が木々をざわめかせ、見上げた頭上には木々の枝葉の合間に見える僅かな青空のみだった。
「ケンさん、どうしました? 大丈夫ですか……?」
ルリはケンの顔を覗き込む。
「ああ、うん……。この“耳”がね、色んな音拾っちゃうんだけど……なんか、森の中って、すごく音が多くて……」
顔をしかめるケンを前に、どうしたものかと思案を巡らせるルリ。
「あっ、そうだ。ケンさん、しゃがんでください」
言われるがまま地面に膝をつくケン。ルリは鞄から3、4センチほどの小さなふわふわとした玉を取り出した。
「耳栓です……たぶん。私には大きすぎて使いどころが無かったので、ケンさんにあげます」
ケンの“耳”に毛玉が詰め込まれる。外界との音が僅かに遮断され、ケンの表情も和らいだ。
「ありがとうルリちゃん、少し楽になったかも」
ルリは少し言い出そうとして躊躇っているように見える。ケンは察し、『どうしたの?』と聞いた。
「あの、少しだけ、耳、触ってもいいですか?」
ケンは微笑むと、両耳を動かしてみせる。ルリは興味津々、といった様子で手を伸ばした。
「ほんとに……犬の耳みたいですね」
「犬、好きなの?」
「はい。毛がふさふさしていて、かわいいですよね」
しばらくケンの耳を触っていたルリだが、やがて我に返ったらしく、頬を赤らめながら手を引く。
「さ、さあ行きましょう。先はまだまだ長いですから」
森の奥深くに踏み入る二人。頼りになるのは魔法の地図、それに人が造ったのかすら怪しい道のみ。互いの存在を杖代わりに二人は進んで行く。
最初は二言、三言会話を交わしていた二人だが、進むにつれ口数が減り、いつしか無言になっていた。じっとりとした森林の空気が纏わりつき、嫌な汗が額から流れ落ちていった。
同じような風景が延々と続き、まるで終わりの無い回廊の中に迷い込んでいるような錯覚を覚えてきた頃、彼らの視線の先が急に開ける。ケンは眩しさに目を細めると、その光を指さしルリへと久しぶりの言葉をかけた。
「この先、なんだか開けた場所みたいだから、少し休憩しようか」
森の暗がりを抜けた二人の視線に入って来たものは、緑色の幅広の葉だった。先程までの空を覆い隠すような背の高いものではなく、10メートルを越えないぐらいのものだった。頂点の部分から放射状に広がる葉の合間に、青空が広がる。数時間ぶりに仰ぐ空に、二人の心は少しだけ救われる。
「あ、ルリちゃん、バナナだ! これ、バナナだよ!」
興奮した面持ちのケン。その視線の先に、見慣れた形の房がぶら下がっていた。ルリも彼の横で見上げる。
「本当ですね。この大きさは……プランテンですね。ケンさん、その房、取ってもらえますか」
ルリは鞄からナイフを取り出し、ケンへと手渡す。
「上の、この茎みたいなとこ切ればいいのかな?」
手の届く位置の房に、ケンは刃を入れる。悪戦苦闘しつつも、切り離すことに成功する。緑色の反りかえった果実が連なり、ケンはその手にずっしりとした手ごたえを得た。
「あ、でもこれまだ熟していないから食べられないか」
残念そうに房を揺らすケン。
「これはプランテンのツンドクって種類で、熟すと黒くなっちゃうんです」
「何のなんだって?」
「ツンドク、です。別名ホーンバナナとも言います」
ルリは房から二本もぎ取ると、左右の手でそれぞれを側頭部へとあてがう。
「ホラ、牛の角みたいでしょ?」
しばしの静寂。遠くに鳥の鳴き声が聞こえる。
「と、とにかく、おいしい食べ方があるんです。日の当たるところを探して、お昼にしましょう?」
ルリは頬を染めながらバナナを鞄へと仕舞いこむと、そそくさと歩き出した。
二人は木々の少ない日の当たる場所を見つけると、準備に取り掛かる。ケンも、彼なりにできることはないかと周りの雑草を片っ端から千切り集めた。
「あー……その、新鮮な草ですと、着火に適していないので……ああっ、手伝ってくれたんですよね! ありがとうございます!」
ケンの頭頂部の耳が倒れるのを見て、慌ててフォローを入れるルリ。ケンはバナナの房を抱きかかえながらルリが手際よく支度を進める様を眺めていた。
「とっておいてよかったです」
ルリは鞄から大ぶりな瓶を取り出す。ケンはその中身を見て驚愕した。
「瓶の中で炎が燃えてる……!?」
「魔法の炎です。使い切りですが、料理に使うぐらいなら十分ですよ」
ルリは瓶のふたを開け、まるで中身をこぼすかのように傾ける。勢いよく滑り落ちる炎は、何事もなく地面で揺らめき続けた。彼女は底の深い鍋をその上に設置すると、中に油を注ぐ。細長い棒状の温度計で油の温度を測っているようだった。ケンは手持無沙汰に房を弄っていたが、ふと好奇心が湧く。
「あれ、ぜんぜん剥けないぞ」
房から切り離した一本を食そうとしたケンだったが、通常のバナナより皮が厚く、手間取ってしまう。
「貸してください。そのまま食べるのはやめた方がいいと思いますが……はいどうぞ」
ルリが器用にナイフを使って皮を剥き、ケンへと手渡す。彼女の様子に疑問を抱きつつも、果肉を口へと運ぶ。すると――。
「うええ! なんだコレ!?」
あまりの渋さに顔を歪めるケン。彼のイメージしていたバナナとは異なるそれに、思わず脇へと吐き出してしまう。
「だから言いましたのに……」
ルリは息を吐きながら果肉を切り分けていく。散々な目に遭ったケンは、もはや黙って眺めている事しかできなかった。
バナナの揚がる心地い音が響く。ルリは鞄から二つ、銀色の缶詰を取り出す。
「揚げバナナと一緒に食べるならこれです」
缶切りで開封すると、火の近くへと置き温める。次第に漂う香しい香りに、ケンの尻尾は彼の意思とは別に動き出していた。
「さあ、食べましょう」
ケンは、フォークに突き刺した揚げバナナを見つめる。ルリをチラリと見ると、彼女はおいしそうに頬張っている。意を決して口へ運ぶと――。
「……ポテトだ!」
バナナ特有の香り、甘味は一切なく、ほくほくとした食感に舌触り。ケンの記憶はそれをポテトに結び付けていた。
「おいしいでしょう? この牛肉のトマト煮を一緒に食べるともっとおいしくなりますよ」
缶詰の中身、柔らかくなるまで煮こまれた牛肉を、バナナと一緒に頬張る。牛肉のうま味とトマトの酸味、調味料や香辛料。それらをポテトのような食感のバナナが程よく中和し、なんともいえない絶妙な組み合わせだった。
「でもさ、どうしてこんな山ん中にバナナの木が生えているんだろ? 熱帯気候で育つヤツだよねこれ?」
フォークに突き刺したバナナをまじまじと観察しながら、ケンは疑問をぶつける。ルリはしばらく黙っていたが、言葉の整理がついたのか口を開いた。
「昔あった、人魔大戦……。その時に多くの魔力が消費され、魔力の流れが狂ってしまい、そのせいで環境が歪んでしまった……私はそう聞いています」
「歴史の授業で習うぐらい昔の出来事なのに、今でもこうして爪痕が残っているのか……」
感傷を噛みしめるように咀嚼するケン。その時、遥か上空から耳をつんざくような音が聞こえる。鳥とも獣ともつかない、耳障りで不気味な音。耳栓越しでも強烈に響くその鳴き声に、ケンはたまらず手で覆う。ルリはハッとしたように杖を魔法の炎へと向けると、解けるように炎は消えてなくなった。
「身を低くして、こっちへ来てください!」
ルリは声を潜めケンの腕を引くと、バナナの木の陰へと駆け込む。その直後、彼らの上空を巨大な黒い影がものすごい速さで駆け抜けていった。遅れてやってくる突風に吹かれ、ざわざわと音を立てるバナナの葉。
「何!? 何今の!?」
理解を超えた生物との邂逅に、ケンの心臓は早鐘を打った。ルリは口の前で人差し指を立て、ケンもそれに倣い押し黙る。先程まで聞こえていた鳥の声すらしない。嫌な静寂がしばらく続き、それは永遠とも感じられた。
「そろそろ……大丈夫ですね」
再び元の静けさを取り戻し、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくるようになると、ルリは大きく息を吐きながらそう言った。
「トカゲ……ドラゴンだった!」
「いえ、違います。あれは飛竜ですね。竜よりも“小型”です」
「小型!? あれで!?」
バナナの木に寄り掛かるようにしゃがみこむケン。
「あんな生き物、ゲームの中でしか見たことないよ……」
「アレは、本来自然界には存在しない生き物なんです」
ケンの横にしゃがむルリ。彼女の口ぶりから、ケンもなんとなく察することができた。
「やっぱ、人魔大戦が関わってたり……?」
ルリは額の汗を拭いながら頷く。彼女の長い髪がそれに合わせサラリと揺れた。
「魔女が意図的に生み出した生き物。制空権を握り、戦いを有利に進めたかったんだと思います」
「それが今日まで残って……だから飛行機が飛ばせないのか。まったくいい迷惑だね――あ、ゴメン……」
ルリは力なく微笑むと、かぶりを振る。ケンは己の軽率な発言を悔いた。
陽の当たる広場も、決して安全ではないと悟った二人。そそくさと片づけるとその場を後にした。
明るいバナナ畑から一転、再びの鬱蒼とした獣道。繁茂する高い木々のおかげで飛竜の脅威からは逃れることができるだろう。ケンはぽつりと心の内を吐き出す。
「俺さ、今までずうっと街の中で暮らしてて……ぼーっとして、命の危機なんて考えたこともなかったんだ」
隣を歩くルリは相槌を打つのみで、静かに次の言葉を待つ。
「でも、こうして外に出てみると、安全の保障なんてどこにもない。いや、街の中にだって安全なんてなかったんだ。なのに俺は何も考えずに、何も……」
「私も、同じでした」
不意の同意に、ケンは思わず立ち止まる。彼の数歩先で、ルリは振り返ると、優しい微笑みを湛え諭すように言う。
「最初は知識だけ詰め込んだ状態で、それで全部うまくいくって思っていました。でも違うんです。生きていく事って、失敗の積み重ねだと私は思うんです」
どこか陰りのあるその微笑みに、ケンはルリが抱えている内面に彼女の年齢以上のものを感じ取った。
「だからいいんです。“過去を見ない”のではなく、“過去に縋らない”という選択肢もあるんじゃあないでしょうか。私、あの日スラム街でケンさんが寄り添ってくれた日にそう思うようになったんです」
「ルリちゃん……」
「あなたの言う通り、生きていくうえで安全の保障なんて絶対にありえません。ですから、力を合わせて、ですよね?」
ケンは真っすぐなルリの瞳に応えるように頷くと、自身の両の頬をパシリと叩く。
「そう、だね! 目的地までまだまだ遠いし、こんな序盤でしょげてなんていられないよね!」
ルリは嬉しそうにケンの傍へ駆け寄ると、隣に並ぶ。二人の大小バラバラな歩幅が、確実に同じ方向を向いていた。
二人は時に立ち止まり地図を睨みつけ、時に倒木に腰を掛け休息をとる。まるで牛歩のような歩みだが、着実に前進していた。
「今は……16時かあ……。この様子じゃあ陽の陰りとか一切分からないね」
頭上を仰ぎながらケンは言う。倒木に腰掛け、足をさするルリも、苦笑を浮かべる。
「今晩も野宿になりそうですね」
ケンはルリの隣に腰掛ける。彼女の様子から疲労は明らかだった。
「そうだね。もう少しだけ進んでから、どこか丁度いい場所を探してみようか」
「森の日暮れは早い、って言いますからね。暗くなる前に休める場所を見つけましょう」
二人はゆっくり立ち上がると、くたびれた体に気合を入れ歩き出す。
それからしばらくした後、彼らは不自然に木々が少なくなっている場所に出くわす。夕日が照らすそれは視界の遥か向こうから真っすぐ続いており、まるで“整備された道”であるかのようだった。
「奇妙ですね……こんな山の中に、“道”が造られています」
ルリも違和感に気付いていたらしく、足もとの雑草をかき分ける。そこからアスファルトが顔を覗かせた。
「よく分からないけど、こんな山奥にご苦労なことだね……ん?」
ぽつりぽつりと、頭を打つ冷たい感覚。掌を空へと向けると、雨粒が打ち付ける。それは次第に強さを増していった。
「まずいですね……山の天気は変わりやすいってすっかり忘れていました」
「この道の先に、もしかしたら何かあるかも」
二人は降り注ぐ雨から逃げるように小走りで荒れた道路を駆けてゆく。その間にも雨脚は強くなる一方で、それが二人の焦燥感を増していた。
土砂降りの中、徐々に傾斜に変わっていく道を駆けのぼる二人。霞む視界の先に巨大な建物の影が突如姿を現した。
「あそこ――!」
「行き、ましょう――!」
雨音に掻き消されないよう二人は声を張り上げ最低限の言葉を交わす。コンクリート製の巨大な壁に囲まれているが、正面の入り口は不気味に開け放たれたままだった。エントランスに駆け込む二人。ケンはリュックからタオルを二個取り出すと、一つをルリに手渡す。
「ありがとうございます」
丁寧に濡れた部分を拭き取っていくルリ。ケンはタオルで髪を拭きつつ、正面の自動ドア越しにエントランスホールを覗き込んだ。薄暗く、灯りは付いていない。非常灯も点灯していないところを見ると、おそらく建物全体の電源が死んでいるのだろう。
「こんな山奥に、一体なんなんだこの建物」
ケンはダメ元で自動ドアに手をかける。力を込め、横へとスライドさせる。するとそれはあっさりと開いて行った。しばらく呆然としていた二人だが、やがて顔を見合わせると互いに笑顔を見せた。
「今晩はここで雨をしのげますね!」
「うん。外よりずっとマシだよ!」
二人はホール内へと身体を滑り込ませ、自動ドアを再び元の位置へと戻す。近くに聞こえていた雨音が遠ざかる。埃っぽい空気に、若干の黴臭さ。ケンはリュックを漁り懐中電灯を探すが、薄暗いせいで手間取る。
「はい、これでどうでしょうか」
ルリが杖の先を光らせて近づける。暖かい色をしたその光を頼りに、ケンは小型の懐中電灯を見つけ出した。
「ありがとう。その明かりのおかげでライトが見つかったよ」
「明かりを見つけるための明かりってのも何か変な話ですね」
二人は笑うが、その声がホールに響き渡り、反響する。その声が、まるで別の誰かのもののように耳にまとわりついた。二人は咄嗟に身を寄せ合い口をつぐむ。
「と、とりあえず、火をおこしましょうか……」
ルリは濡れた袖を握りしめながら提案し、ケンも無言で頷いた。
辺りを見渡すも、焚火に使えそうなものはせいぜい枯れた観葉植物ぐらいだった。どうしたものかと考えるケンの袖を、ルリが軽く引っ張る。
「ケンさん、見てください。フロアマップですよこれ」
ルリが杖の明かりで示す先、壁に掲示されくすんでいる案内図があった。全部で5階建てで、研究フロア、病棟フロアと分けられているようだった。何かの研究施設のようだったが、今の二人にそこまで気にする余裕はなかった。
「ここ、事務所みたいですから、紙とか……燃えそうなものがあるかもしれません」
「このホールの隣か、行ってみよう」
懐中電灯を片手に進むケン。その後ろにルリも恐る恐る続く。事務所への扉に手をかけると、軋み不気味な音を上げながら開いていく。カーテンは締め切られ、やはり薄暗い室内。ライトで照らされた残留物たちが哀しく存在を主張していた。
「これ使えそうだな」
ケンはシュレッダーらしき機械を見つけ、内部に裁断された紙を見つける。すると突然、離れた場所で物色していたはずのルリがケンの元へと突進する勢いで駆け寄って来た。
「わ、ど、どうしたの?」
「ごめんなさい急に。ただ、魔力が完全になくなっちゃったみたいで、明かりが消えて……その……」
ケンは安堵の息を吐く。
「ああ、そういうことか。うん、俺のライトがあるから、傍にいて。大丈夫」
ルリを宥めたケンは、辺りを見渡す。すると、紙を吐き出したまま停止したファクシミリがあることに気が付く。ほんの好奇心から、ケンはその用紙を手に取る。湿気を吸った紙は指先に重く、文字の一部は擦れて読みづらくなっていた。
「おお……創世暦992年。今1022年だからこの施設、30年前のやつだよ……ホラ」
ライトで照らし、ルリにも見えるように埃まみれの机の上に用紙を広げる。内容は“オスカル”なる人物からのもので、どうやら彼はこの研究所の“プロジェクトE”というものが上手くいっていないことへの警告を書き連ねているようだった。
「なんだか、あまりマトモなところではなさそう、ですね……」
ルリも文面から何かを感じ取ったようで、眉根をひそめていた。
「ほぼ研究凍結と、撤退命令みたいな感じかなあこれ。……ん?」
ケンは文章の中の、“発電設備”に反応する。
「どうかしたんですか?」
「もし、さ。ここの発電設備が使えたら……さっきの案内板でシャワー室見えたんだよね。きっと宿直の職員向けのやつ」
その言葉に、ルリの心も僅かに動く。雨で冷えた体を癒したい。何より、イースト・シティを発ってからまともに入浴を行っていないのだ。
ケンは室内の棚を片っ端から漁ると、背表紙に“自家発電設備”と記されたファイルを見つける。内容はわかりやすくまとめられており、再起動の際の手順も写真付きで記されていた。
「私、機械はさっぱりなんですが、ケンさん大丈夫なのですか?」
「んん……正直俺も強いわけじゃあないけど、これ見ながらだったら何とかなるかも」
二人は事務所を後にすると、再びホールのフロアマップの前にいた。ライトで照らされた案内図に、目的の表示を見つける。
「あ、あった。ここだ」
ケンが指先で軽く叩く先に、“地下機械室”と表示がある。
「地下、ですか……」
か細い声ですくむルリに、ケンは彼なりに気を利かせた提案をする。
「ちょっと行って電源付けて戻ってくるだけだから、ルリちゃんはここで待っていて」
「……!!」
ルリはケンの袖を掴むと、必死に首を左右に振った。
「ごめん……一緒に行こう」
二人はホールを横切り、先程の事務所とは反対、東側の通路へと向かう。ガラスの扉を横にスライドさせると、その先は長い廊下になっていた。彼らの右側、雨が打ち付ける窓からは薄暗くなった景色が覗く。
「研究施設なだけあって、なんかそれっぽい道具がたくさんあるね……」
ケンは左側に連なるガラス窓を、ライトで照らし覗き込む。放置されている器具のシルエットが不気味に浮かび上がっていた。それらが何をどうするものなのかはケンには全く想像もつかないが、どれも置き去りにされた寂しさのようなものがにじみ出ているように思えた。
廊下の突き当り、階段へとつながる鉄の扉へと直面した二人。ケンはドアノブを掴み引っ張ると、甲高い不快な音を立てて扉は開く。カビ臭いような埃臭いような、死んだ建物特有の臭いにケンは顔をしかめた。
「こっちだな」
ライトで照らした先は、地下へと続く階段。息も詰まるような暗闇が広がっており思わず足が竦んでしまいそうな感覚に陥る。いつの間にかケンの腕にルリがしがみついていた。
二人の足音が反響し、重なる。もしもこの場に“第三者”がいて足音が増えていても、気が付かないだろうとルリはふと考えてしまい震えあがる。
「もうちょっとだから、頑張って……」
ケンも自身の内にある恐怖心を押し殺してルリを鼓舞する。そんな凸凹の二人三脚は、ついに大きな扉の前に到達する。頑丈そうな鉄製の両開きで、壁には“機械室”の表示がある。ケンはゆっくりと扉を開けると、油臭い臭いが内側から漂ってきた。それは目的の場所であるという確信を強めるものだった。
「この写真にある装置を探そう」
手にしたファイルを開き、発電装置の写真をライトで照らす。暗闇の中での捜索は難航するかと思われていたが、それはあっけなく見つかった。
鉄製のボディに巨大なタービンを備えた装置。その手前には操作用のコンソールがあった。
「よし、これだな……。ルリちゃん、ちょっとこれ持って照らしてくれる?」
ケンはライトをルリに手渡すと、ファイルを食い入るように見つめる。時間をかけゆっくりとページがめくれて行く。やがてケンは顔を上げた。
「だいたいわかった、と思う。やってみる」
まずは給油口をチェックするケン。中からは油の臭いが鼻を突く。燃料の量は分からないが、少なくとも臭いはするから入ってはいるようだ。
「ここ、照らしてくれる?」
ルリはすぐさまケンの指さす先、コンソールパネルを照らす。おそるおそる補助電源スイッチを動かす。マニュアルに示された通りにカチカチと動かしていく。知識のないケンには何が正しいのか分からないが、今は手にしたマニュアルを信じるしかない。文字通り暗中模索、手探りの作業にケンの額から汗が流れる。
「で、このボタンを押すとここが光るみたいだけど……」
グローボタンを押し込むケン。一体いつまで押していればいいのか。不安な沈黙が続く。やがて――。
「あっ、点きました!」
オレンジ色のランプが点灯し、ルリの歓声が響く。
「うん。それで、このレバーを……」
ケンはコンソールの脇にあるレバーに近づく。その時、“何か”が彼の足に触れた。勢いよく足で蹴飛ばしてしまい、“それ”はカラカラと音を立て飛んで行った。
「どうかしましたか?」
「あぁうん、落ちてたゴミ、かなあ? 蹴っちゃっただけだから気にしないで」
気を取り直して、ケンはレバーに手をかけると力を込める。何かが空転するかのような甲高い音が続く。煙の臭い、それに震動が足もとから伝わる。しかし、それは続かずに途切れてしまった。
「頼むよ……!」
再びレバーへと手を伸ばしたその時、再び震動が起こりそれはやがて連続した重低音へと変わる。
「やった!」
「やりましたね!」
二人は手を取り合い喜びを分かち合う。バチバチという音と共に、頭上から明かりが降り注ぐ。ケンは達成感を噛みしめながら明かりに目を細める。その時、突然ルリが悲鳴を上げる。
「どうしたの!?」
ケンはルリが指さす先を見て言葉を失う。発電機のすぐ脇、そこに一体の人骨が横たわっていた。先程蹴飛ばした“何か”。その正体にケンは青ざめる。ボロボロになった白衣、胸ポケットにあるIDカード、その人物はこの施設の者であるということが見て取れた。なぜこの場所に研究員らしき屍があるのか、この者は“最期”に何をしていたのか? 理解の範疇を超える出来事に、思わずケンは口走る。
「何なんだよ……ここ」
二人は足早に機械室を後にすると、玄関口のホールまで戻っていた。外はすっかり暗くなっており、生き返ったホール内の明かりが、それをより一層際立たせている。
「とりあえず、シャワー行く?」
ケンの提案に、ルリの信じられないというような視線が突き刺さる。
「そうだよなァ……」
気まずそうにするケン。ルリはため息交じりにホールの真ん中で焚火を起こそうとする。
「あっ、待って!」
ルリが今まさにマッチを擦ろうとしたその時、ケンは慌てて彼女の手を掴み制止させた。
「どうしたんですか?」
彼女の口調に若干の苛立ちが滲んでいる。ケンは天井を指さした。
「スプリンクラーがあるんだよ。ええと、防火のための装置。ここで……というより、この建物内で煙を起こしたら、あたり一面水浸し」
ルリは何かを言おうと口を開いたが、くしゃみに阻まれる。彼女は口元を押さえ赤面した。
「このままじゃあ風邪ひいちゃうから、ね?」
二人はホールから階段を上り、二階へと向かった。一階と似たような造りで、二階では食堂らしき開けた場所になっていた。二人は明かりがあることの安心感を求めるように、電気を片っ端から付けながら進む。
廊下の突き当りを曲がったところで、シャワールームの入り口が二か所見えてくる。赤と青の表示。
「それじゃあ、なるべく早く出るよ」
ルリは不安げに脱衣所を覗き込んでいたが、やがて頷く。
「あっ、そうだ。ずっと使われていなかったみたいだからさ、水は少し出しっぱなしにしてからの方がいいかも」
「そうなのですか?」
「うん、昔スズキ先生がスラムの家の水道修理しててさ――」
ケンはそこまで言うと我に返り口を閉じる。ルリもすぐに察し、小さく微笑むと手を振り脱衣所へと消えていった。
脱衣所内、簡素な造りで、よく言えば機能的、悪く言えば殺風景だった。洗面台の大きな鏡は、若干くすんではいるもののはっきりとケンの姿をそこに映していた。彼はしばらく鏡の中の虚像を眺めていたが、端に映る出入口が目に入り、存在しない存在の気配を妄想してしまい小さく震えた。
「……着替えよう」
恐怖心を振るい落とす様に自身にそう言い聞かせると、ケンは濡れた衣服を脱いでいく。丁寧に畳むと、リュックから着替えを取り出す。支度が済んだと彼が立ち上がると、鏡が再び視線に入る。そこに映る自身の姿にケンは驚嘆した。
「うわあ……」
彼の体つきが、以前よりも逞しくなっていた。脱衣に若干手間取ったのはこのためだったのか。トレーニングなど一切せず、普通の男子学生として過ごしていたケン。体格も平均程度で飛びぬけてなどいなかった。学校での一件以来彼の身に起こった変化、それはまだ続いているのということなのだろうか。自身の体にしばらく見惚れていたケンは、鏡の前で様々なポーズをとる。筋肉の躍動に目を奪われていた彼を、くしゃみが現実へと引き戻す。
「シャワー、浴びよう……」
ケンはルリからもらった耳栓を外すと、脱衣所からシャワー室へと向かう。パーテーションで区切られたそこはやはり簡素な造りで、ケンは出入口に一番近いブースに入った。蛇口を回すと、数歩下がり様子を見る。しばらくは何も出てこないが、やがて配管の奥から何かが昇ってくる様な音と共に、茶色く濁った水が勢いよく飛び出してきた。
「ルリちゃん、上手くやれてるかなあ……」
ケンが不安に思う隣で、シャワーの水は次第に透き通り、湯気の立つ温かいものへと変わっていった。意を決してシャワーに突入するケン。少し熱い湯が、彼の冷えた体を包んだ。イースト・シティを出てから二日目の夜。旅の疲れをケンはガシガシと洗い流していった。
* * *
「ごめんなさい、遅くなりました」
頬を上気させたルリが、廊下の壁にもたれているケンに駆け寄る。彼は手を振って応えると、並んで歩き出す。
「来るときに見かけた食堂、そこで一晩過ごそうか」
「そうですね、わざわざ入り口まで戻る必要もないですし」
二人は食堂へと足を踏み入れる。埃の被った長机がいくつも並んでおり、全盛期には多くの人間の喧騒がこだましていたのだろう。
彼らは協力して机を倒すと、バリケードの様に囲いをつくりそのなかに腰を下ろした。
「火を起こせないからさ、今晩はこれ食べようか」
ケンはリュックから携帯食料を取り出す。銀色の包みでパッケージングされた無機質なそれを、ルリへと手渡す。
「味は……まあ、何もないよりはマシ、だね」
「そうですね」
必要な栄養が配分され、それ以外は二の次、そんな大味な携帯食料を二人はもそもそと咀嚼する。
「雨、止むといいですね」
窓の外の暗がりへ視線を向けながらルリは言う。ケンは携帯食料を加え、両耳を動かしながら仰々しく言った。
「俺の耳によると、明日は快晴らしいよ!」
「なんですか、それ」
二人の笑い声が、陰鬱な雨音を掻き消すかのように響いた。
その後、二人の歓談は続いた。ルリはケンのそんな様子に安堵していた。もちろん、彼が無理をしていることも理解している。それでも、前を向いていてくれればきっと乗り越えられる。ルリはそう信じていた。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
食堂の明かりを落とし、それぞれの寝具に身を包む二人。久しぶりの屋根の下での就寝に安堵しつつ、眠りへと落ちていった。
眠りに落ちてからどれくらいたったのだろうか。ケンはふと目を覚ます。窓の外はうっすら明るくなりかけており、雨の音は弱くなっていた。この様子だともうすぐ上がりそうだ。腕時計に目をやると、朝の4時を回ったところだった。ルリは毛布に包まれ静かな寝息を立てている。もうひと眠りするか、ケンは大きく伸びをしてこれまた大きな欠伸をする。その時――。
「あなたたち、とんでもないことをしてくれたじゃあないの?」
ケンの目の前に、青白く光る半透明の女性の姿があった。




