#07夜の帳が下りるころ
生暖かい風が、何もない平原を吹き抜ける。イースト・シティの城壁が地平線に飲み込まれるまで、ケンは何度も後ろを振り返った。雲の切れ間からわずかに地面を照らす月明かり。腕時計に目を向けると、夜光塗料のラインが9の位置を指している。二時間近く歩き通してきたが、その間二人は言葉を交わしていない。
「そろそろ、休みませんか?」
ルリの遠慮がちな声に、ケンは我に返る。
「あっ……ごめん、俺……ぼーっとしてたみたい。疲れたよね。うん、休もう」
ケンはその場で辺りを見回す。彼の視線の先に、虚ろ気に枝を垂れ下げた枯れ木が映る。
「あの傍で、休もうか」
向かう途中、ルリは頻繁に屈み何かを拾っていた。それは細長い枝だった。
「少し、待っていてくださいね」
彼女は束ねた枝を、まるで箒のように使い枯草や小枝を一か所に集めた。外套の袖から杖を取り出すと、素早く振り、それは空中にオレンジ色の文字を描き出す。
「優しき灯り」
温かい炎が一瞬にして灯る。ルリは自身の鞄から、畳まれた厚手の布を取り出すと、それを開き焚火の前へと敷く。
「準備、できました。ここに座ってください」
布の上に腰掛け、ブーツを脱ぐルリ。ケンはその横に腰を下ろすと、ルリに倣い靴を脱いだ。長時間歩いた足を、外気が撫でる。ケンは、胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。揺れる炎と小枝の弾ける音、ケンはそれを眺めていた。眺めることに努めていた。
「あのう……」
不意の呼びかけに、ケンの体が小さく揺れた。ルリは窺うようにケンを見て、そっと肩に手を添えた。
「あ、あぁ……ごめん」
ケンは小さく笑おうとして、失敗した。
「こうやって焚火を囲むのって初めてだから。なんか……ぼーっと見ちゃってた」
パチリ、と焚火から音が聞こえる。
「……ケンさん」
一拍置いてから、ルリは言った。
「お腹、空きませんか?」
リュックに手を伸ばしかけたケンを、ルリは慌てて制止する。
「あ、待ってください。私、簡単な物ならできますから」
そう言って、彼女は自分の鞄に手を入れた。小さなフライパン、二枚の皿、卵にベーコン……一体どこにそんな容量があるのか。身を乗り出すケンの鼻先に、ルリは人差し指で軽く触れる。
「覗いたらダメですよ」
優しく微笑むルリと、気まずそうにはにかんでみせるケン。ルリがフライパンを杖で軽く叩くと、それはひとりでに焚火の上へと向かう。
「何枚食べますか?」
「一枚で、いいや」
ナイフを使い、ルリはパンを切り分ける。ケンに一枚、自分に三枚。丁寧に皿に取り分けると、宙に浮くフライパンにベーコンを投入する。小気味いい音が夜空に響いた。
「左利き、なんだね」
「世の中って、右利きの人の方が多いからか、結構不便に思うこともあるんですよ」
真剣な眼差しでベーコンをつっつきながらルリは言う。
「目玉焼きの焼き加減、どれぐらいが好みですか?」
「あ、えっと……半熟で」
「私もそれぐらいが好きです」
鼻歌交じりに、ルリは器用に片手で卵を割ると、ベーコンの上に落とす。手早く塩と胡椒を振りかけると、湯気の立つそれをケンの皿の上のパンへと乗せた。
「さ、どうぞ」
ケンは皿を取る。空腹を刺激するには十分な香りだったが、彼は皿を手にしたままだった。そんな様子を横目に、ルリはフライパンを揺らす。
「……私も、同じなんです」
唐突な彼女のつぶやきに、ケンは顔を上げる。
「昔――目の前で、大事な人を失ったことがあって……」
ルリの表情が一瞬曇った。
「君がスズキ先生……オリンポス12神を追っていたのって、まさか……」
「ああもう、私、こんな時に何を言っているんでしょうね」
フライパンから煙が立ち、彼女は慌ててベーコンをひっくり返す。しばしの沈黙の後、再びルリは口を開く。
「……ですが私、今朝の出来事で思いました。……やられたからやり返す。それだけじゃあ、前には進めないって」
卵を割りながら、『もっとも、私には“やり返す”ことすらできませんでしたけどね』とルリは静かに笑った。
「それでもケンさん、あなたがあのとき、“力でどうにかするのはよくない”って言ってくれたおかげで、私前を向いてみようかなって思ったんです」
フライパンを傾け、ルリは自身の皿を手に取る。
「それに、ケンさん、私の助けになりたいって言ってくれましたよね。最初は信じられなかったけど、今ならこう言えるんです。“嬉しい”って」
身体を半身ずらし、ケンの隣に座ると、ルリは焚火を眺める。
「無神経なことを言ってごめんなさい。ですが……今のケンさんを見ていると、どこかへ行ってしまいそうで、恐いんです」
焚火から昇る煙が、闇夜へと溶けてゆく。遠くから虫の鳴き声が響いてくる。
「あなたが私の助けになりたいように、私もあなたの助けになりたいんです。あなたの“痛み”、私は分かりますから……」
ケンの顔を真っすぐ見つめるルリ。真剣な眼差しが、焚火の炎に照らされていた。
「だからどうかお願いです。忘れろなんて非情なことは言いません。胸の中にしまって……それでも、歩いてほしいんです。どうしても辛かったら……その時は、私がそばにいますから」
しばらく焚火を見つめていたケンだが、勢いよくパンを口へと運んだ。かぶりつき、ゆっくり、だが確実に咀嚼する。そんな様子を見て、ルリも自身の分に手を付ける。静かでささやかな、少し遅めの夕食を、淡い月明かりが照らしていた。
* * *
「誰も、追ってきませんね」
食後、ルリは調理道具の片づけをしながら、ふとつぶやいた。ケン自身、気になってはいた。何度振り返っても、“耳”を澄ましても、背後にあるのは暗闇だけだった。ルリがフライパンに水を数滴垂らすと、蒸発する音と共に煙が立ち上る。
「案外、俺たちは追われてなかったりして。外に逃げろ、ってのもリョウが――」
そこまで言って、ケンは口をつぐむ。リョウと別れた直後の光景が、思い出さないようにしていたにもかかわらず、脳裏に蘇る。それを振り払う様にケンは頭を振った。
「ごめんなさい、余計なことを言いました」
「ああいや、そんなことないって。逃げ切れたんだよ。……きっと」
焚火で温めていたケトルから、沸騰を告げる音が響く。
「ケンさん、コップ持っていますか?」
ケンはリュックを漁ると、金属製のコップが彼の手に触れる。持ち手を掴んだまま一瞬動けなくなるが、小さく『母さん、使わせてもらうよ』と呟くと、ルリへと差し出した。彼女は何も言わずに受け取ると、ケトルの中身を注ぐ。
「ハチミツ、入れます?」
ケンが頷くと、ルリは小瓶から小さじ一杯、コップの中へと沈める。しばらくかき混ぜた後、湯気、ハーブの様な香りとともにケンの手元へと帰って来た。
「私、これを寝る前に飲むと落ち着くんです。ケンさんも、そうだったらいいな……って」
小さくなった焚火を眺めつつ、ルリはちびちびと味わう。ケンもそれに倣い口を付ける。鼻に抜けるさわやかな香りとハチミツの甘味。そして温かさが、じんわりと夜風に冷える体を温めた。ルリは鞄をゴソゴソと漁り、丸められた羊皮紙を取り出す。
「少し明日の話をしてもいいですか?」
ルリは、自分とケンの前に羊皮紙をくるくると広げる。四十センチ四方で茶色のそれは、まっさらで何も記されていない。ルリが杖で軽くつつくと、黒い線が幾重にも走り回り、図形を描いてゆく。
「あ、これってもしかして地図!?」
「当たりです」
左上部に記された記号から察するに、ケンたちから見て上部が北、下部が南、左右がそれぞれ西と東だろう。北部には等高線のような縞模様。西には海。南東の方角には、イースト・シティの城壁がわずかに記されている。
「私たちの目的地は、ハバラ・シティですよね?」
「そうだけど……あっ、そうか」
ケンは途中まで言ってから察する。山越えをするのだ。
「尾根が連なっていて……まるでこちらとあちらを分ける“壁”みたいですね」
「ああ、だからルリちゃんはイースト・シティに来るのに船で来たのか」
ばつの悪そうな顔をするルリ。大きく咳払いして続ける。
「なるべく標高の低い所、かつ安全な場所を行くとなると……ここです」
地図上に、赤いラインが走る。現在地を示すであろう星から、北へと一直線に伸び、曲がりくねってさらに北へと伸びる。
「あー……なるほど……?」
要領を得ない返事のケンに、ルリは思わず小さく息を漏らした。
「正直、私もよくわかりません!」
意外そうな眼差しを向けるケンに、『ですが』とルリは付け足す。
「……二人なら、なんとかなる。私は、そう信じたいです」
ケンは彼女の青い瞳を見つめ、静かに頷く。その後二人は、それ以上言葉を交わすことは無く、コップの中身が空になるまで焚火を眺め続けていた。
焚火の炎が小さくなってきた頃、ぎこちない動作で寝袋に潜り込みながらケンは言った。
「じゃあ、悪いけど先に休むね。おやすみ」
「私も火が消えたらすぐ寝ますから、気にしないでください」
ルリは焚火をつつきながら『おやすみなさい』と言う。しばらくの静寂の後、ケンの規則的な寝息が聞こえてきた。ルリは満天の星空を仰ぐ。僅かに欠けた月が、彼女を静かに見下ろしていた。大きく息を吐くと、心中に聞きなれた声が降りてくる。
――お疲れ様。
「まだ……まだ始まったばかり、だよ」
――そうだね。“まだ続ける”の?
「わからない……。ただ、私にはできなかった」
――ならそれでいいじゃないの。
風が凪ぐと、遠くで虫の声がする。
「終わりにしていいの? それじゃあママはどうなるの? 村の皆は? 私だけが生きていていいの?」
――それを選ぶのはあなたよ。
「わからない……。どうしたらいいの……?」
――彼、いい子ね。
「……」
――もっと彼に頼ってみたら?
「何を言っているの? あんな事があったばっかりで、ケンさんはまだ心の整理すらできてないんだよ? 人の事なんて……考えてる余裕……」
――でも、いずれ知ってもらわなくちゃ、でしょ?
「うん……」
――それとも、皆の所に帰る? 彼も連れていくとか?
「それは……」
――戻りづらいよねえ。勝手に出てきちゃったし、いろいろ持ち出してきちゃったし。
「言わないでよ」
――ふふ。じゃあさ、流れに身を任せてみるってのは? 彼もいるし、あたしもいる。案外どうにかなるかもよ?
「うん、ありがとう」
――いいっていいって。明日は山を越えていくんだよね? 早く寝よ?
「そうだね」
――ルリ、あたしはいつでも隣にいるよ。だから、心配しないで。
ルリは細く煙の立つ焚火跡に水を撒くと、毛布に包まる。
「ありがとう」
その声はまどろみの中へと溶けていった。




