#06流転する状況
イースト・シティに乱立する高層ビル群、その一つの屋上に、二人の人物がいた。一人は少年、もう一人は少女。二人とも幼さの残る顔だちから、年端も行っていないことが窺える。
「あ、終わったかあ。もうすぐホロウが帰ってくるな」
少年は木箱の上に立ち、手にした双眼鏡をのぞき込みながらそう言った。水色のショートカットヘアの少女は、柵に寄りかかるかたちでしゃがみこみ、なんとも形容しがたいデザインのぬいぐるみを抱いたまま無言を貫く。そんな様子に、少年はチラリと双眼鏡から少女へと視線を移し、腹立たし気に舌打ちをする。
「ローレライお前さあ、少しは喋れよ! ボクら、“チーム”なんだぜ?」
木箱から飛び降りると、少年はローレライと呼んだその少女に近づくと、容赦なく蹴りを入れる。彼女は口を堅く結び悲鳴を飲み込む。そんな様子に、少年はさらに腹を立て蹴りを浴びせる。
「そこまでにしておきなさい、カイン」
屋上の出入口から、一人の女性が現れる。金髪のショートボブヘアーを揺らしながら、どこか満足げな、軽快な足取りで近づいてきた。
「ご機嫌だね、ホロウ。楽しかった?」
カインと呼ばれた少年は、肩で息をしながらホロウへと体を向ける。
「うふふ、分かる? とっても“楽しかった”わあ。死んだの、魔族が! グラッフィアッカーネも、スカルミリオーネも!」
自身の記憶を反芻し、恍惚とした表情を浮かべるホロウ。
「あの単細胞ども、ちょっとそれっぽいこと言えば何でも信じちゃうの。他人をいたぶることしかできない脳無しなんて、まあ所詮はその程度でしょうけど」
取り出した煙草で一服をはじめるホロウ。興奮冷めやらぬ様子で、『それよりも!』と続ける。
「あの“ワンちゃん”! あの子私たちの予想よりもずっとつっよいの!」
「アンタとエネルゲイアの次のロットだろ? そんな骨董品のくせに、研究所はなんでアイツにこだわるのさ?」
カインの口調からは、明らかな不満が出る。
「いいじゃあないの、そんなこと。救済への導き手なんて誰だっていいわあ、私が欲しいのは、“その先”よお」
うきうきと、まるで何か楽しみを待ち望むかのようなホロウ。そんな彼女に呆れながらも、カインは言う。
「アンタ、ホントいい性格してるね。……それでこの後は?」
ゆっくりと煙を吐き出しながら、ホロウはカインとローレライを見る。その瞳は、果たして仲間を見つめるものなのか、駒を見つめるものなのか……。
「手筈通りに。カイン、アナタはあばら小屋の老いぼれを始末して。ローレライ、アナタは出国ゲートの“お掃除”をお願い」
「アンタは?」
ホロウは、火のついたままの煙草を足元に投げ捨てる。
「“影”のおねーさんと……あとあのデブ医者にお話があるわあ」
「そうか」
「それじゃあ夕方、出国ゲートでね。上手くやるのよ」
湿った風が屋上を吹き抜けた次の瞬間、三人の姿はすでにそこにはなかった。
* * *
「ここまで来れば、大丈夫かな」
セントラル・ハイスクールから数区画離れた路地裏、雨上がりで濡れたままの、薄暗い場所でケンとルリは息を落ち着けていた。ケンの耳に、はるか遠くセントラル・ハイスクールの喧騒が届く。
「ん? どうしたの?」
ケンはここでようやく、ルリが何か言いたげにケンの様子を伺っていることに気が付く。
「あの、ケンさんは、分かりませんか……?」
分かる? 何を? 魔族の血で汚れた自身の体のことを言っているのだろうか? 要領を得ないケンに、ルリは鞄から手鏡を取り出すと、彼の鼻先に突き付ける。
「鏡がどうかした――えっ!?」
ケンは鏡に映る自身の顔、見慣れたそれに明らかに見慣れないものが存在している。頭頂部に、一対の耳。彼の髪と同じ色で、三角にピンととがった、まるで狼や犬のそれであった。ケンはそれを認識してから、やけに自身の耳に様々な音を拾っていることに気が付く。考えてみれば、数区画離れた場所の喧騒が、人間の耳に入るわけがない。
「何だコレ? ええっ?」
混乱するケン。それに触れると、確かに触られた感覚もあるし、動かせる。つい数時間前までは存在していなかったものなのに、触れたその感触はまさしく自身の一部。理解不能な不快感に頭を抱えしゃがむと、今度は彼の腰、尾てい骨付近に違和感を覚える。あわててまさぐると――何か、ふさふさとしたものが手に触れた。
ルリはその様子を見て口に手を当て息を呑む。
「マジかよ……」
ケンが恐る恐る振り返ると、制服のズボンからはみ出したそれは、灰色の毛に包まれた尻尾だった。
「これじゃあ犬人間だな……ハハ……」
ケンの笑えない冗談に、ルリはしばらく黙っていたが、やがて鞄から小ぶりのナイフを取り出すとケンの背後に周った。
「ちょ、ちょっと待って、嘘でしょ! 待って切らないで!」
「動かないでください!」
じたばたする二人。堂々巡りの格闘ののち……。
「あれ?」
ケンは身をひねり確認する。彼の尻尾は、ズボンに入れられた切り込みから顔を覗かせていた。
「ひとまずは、これでいいでしょう。そのままじゃあ、その……窮屈そうでしたし……」
ケンは安堵の溜息を洩らし、その場にへたり込む。ルリもその横にしゃがんだ。
「ルリちゃんは、いつ気付いたの?」
「屋上で……魔族を倒した後、です」
ケンはおぼろげながらも思い出す。本能の赴くままに動いた、あの刹那を。自分が自分でなくなる、あの、冷たい一瞬。
震えるケンの手に、ふと暖かい温もりが重なる。顔を上げる彼の目に、ルリが心配そうにのぞき込む顔が映った。彼女は何も言わず、喋らない。それだけのことが、ケンにとってどんなものよりも救いになった。
「とりあえず、家に帰ろう……ことが落ち着くまで、身を隠すんだ」
二人は足早に路地裏を去っていった。
* * *
ケンとルリがスズハラ邸に到着したのは、太陽が真上に来る昼時だった。玄関口で、ルリは魔法の布を取り払った。透明になって移動してきた二人は、ようやく姿を現す。ケンは素早くドアをノックした。近づいてくる足音が大きくなり、鍵が開けられる音がする。
「ああ……」
泡だて器を片手に立つマリが、ケンの姿を見て言葉を失った。しかしすぐに表情が変わり、ケンとルリを家屋の中へと誘導する。家の前の通りを左右、何度も確認したのち、マリは素早くドアを閉めた。
「マリさん、これは――」
「あなたが絵具遊びしていたってわけじゃあないことは分かっているわ……。まずはシャワー浴びてきなさい」
マリに促され、ケンは脱衣所へ向かう。扉を閉めると、彼は緑色の返り血に染まったシャツを脱ぎズボンに手をかける。その時、何かが床にゴトリと重い音を立てて落ちた。艶のない黒が鈍く輝く、エイから預かった拳銃だった。預かったはいいものの、どうも手に余る代物だ。ケンは拾い上げ、まじまじと観察した。
「服を脱ぐのなら、私をどこかに隠してからにしてもらえますか?」
突如、ケンの耳に聞きなれない女性の声が入る。頭頂部の耳が、外のテレビの音でも拾ったのか? ケンは耳に意識を集中させた。
「ここですよ、ここ。あなたの手の上」
ケンはぎょっとした。今しがた聞こえた声は、まさに今彼が手にしている拳銃から聞こえてくるものだった。
「え……なんで……?」
ケンは手にした拳銃を、いろいろな角度から眺めるも、スピーカーといった類のものは確認できない。軽く振ってみたり、顔の側面に近づけてみたり……そんな奇行ともとれる行動をしている最中、廊下からケンを心配するマリの声が聞こえた。
「どうしたのケンちゃん? 何か言っていたみたいだけど?」
「あ、大丈夫だよマリさん! ただの独り言! ああーっ、今服脱いでるから入ってこないで!」
拳銃を後ろ手に隠し、ケンは慌ててドアノブを押さえる。
「そう? 着替えはここに置いておくから……ズボン、尻尾が通せるようにしておいたわ。……何かあったら、何でもいいから言ってね」
遠ざかっていくマリの足音。キッチン方面のドアが閉まる音がする。マリとルリが会話する声が聞こえる……もう大丈夫だ。ケンは、新たな耳に感謝をした。
「それで、あなたは……もしかして、エイのお姉さん?」
「そこまで分かっていてくれるのなら、話は早いです。私はナギ、そうね……エイの姉、になりますね」
奇妙な拳銃との会話に意識を持っていかれたケンは、ナギの含みのある言い方に気付くことはなかった。
「驚いた……じゃあ、あの時エイは、あなたと話していた……ってことですか?」
屋上へ繋がる扉、その施錠を破壊する際、エイは確かに『姉さん』と言っていた。
「そうですね。あなたの声も聞こえていましたが、話すところでもなかったので……ごめんなさいね」
「お気遣いどうも……」
沈黙が流れる。聞きたいことは山ほどある。しかし、どこまで踏み込んでいい? どこまで踏み込むべきなのか。顔の見えないコミュニケーションに、ケンは参っていた。
「聞きたいことはあるでしょうが、あなたに伝えられることは一つだけです。私のこの命は、今装填されている弾丸4発分です。あなたにお世話になる立場で申し訳ないのだけど、その事を頭の片隅に置いておいてください」
一方的にそう伝えると、ナギは沈黙し、ケンの声に答えることはなかった。ケンはまるで、闇夜の海に投げ出された気分に浸りながら、拳銃を洗濯物入れの籠、その奥底へと隠す。
「本当にもう、何なんだ……」
溜息を吐きつつも、ケンは腕に巻かれたシャツの切れ端を解いてゆく。自身と魔族の血で汚れたそれを取り去った時、どこか違和感を覚える。痛みが全くないのだ。すぐに水道水で血に汚れた腕を濯いだケンは、自身の腕を見つめ本日何度目になるのかわからない驚愕をする。
「傷が……治ってる……?」
どの角度から見ても、彼の腕には傷跡すら無い。ケンは慌てて自身の体をくまなく調べる。汚れ以外は全く無い。あれだけの出来事があったのに、無償だというのか? そんなバカな。洗面台に両手をつき、ケンは途方に暮れた。
* * *
シャワーで汚れを流し、服を着替え、籠の底から拳銃を回収したケンは、キッチンへと向かう。そこでは、マリとルリが食卓に着き、穏やかな表情で会話をしていた。
「あらケンちゃん、出たのね。じゃあルリちゃん、次はあなたの番よ」
「何度もすみません。また使わせていただきます」
『いいのよ気にしなくて』とルリを見送るマリ。キッチンのドアが閉まり、足音は遠ざかってゆく。立ち尽くすケンに、マリは湯気の立つマグカップを手渡しながら優しく声をかける。
「ケンちゃん、こっちへいらっしゃい。何があったか……話せる範囲でいいから、聞かせてちょうだい」
ケンはマリの隣の椅子に腰かけると、ゆっくりと今朝からの出来事を話し始める。スズキを訪ねた際の出来事、学校の惨状、負傷したエイ……そして、自身の体の変調。マリは途中一切口を挟まず、じっと耳を傾けていた。話が終わった後も、彼女はしばらく目を閉じ黙っていたが、やがて口を開く。
「頑張ったのね……とっても」
マリの言葉に、ケンの内側にあった気持ちが溢れ出し、彼の体を震わせた。
「でも、マリさん――母さん……俺、目の前で、傷ついたり、殺されたり……誰も、助けられなくて……」
マリはケンの弱気な言葉に胸が締め付けられた。普段は照れ隠しなのか、頑なに彼女を母と呼ばないケンだが、自身が弱った時は思わずそう口にするのだ。マリは静かに椅子を立つと、ケンを背中から抱きしめた。
「あの子を守り切ったじゃない。あなたは凄いことを成し遂げたのよ。誰にでも出来ることじゃあないわ」
「でも、あれは俺じゃあない……! 怖いんだ……、まるで自分が、別の誰かになったみたいで……!」
震えるケン。初めて吐露する心情、その痛烈な訴えを、マリは優しく受け止める。
「あなたはあなたよ。いいケンちゃん? 運命と同じ。吞み込まれるのではなく、乗りこなすの」
「乗りこなす……?」
「そうよ。物事には適正な距離ってものがあるの。それを見極められれば、きっと大丈夫」
諭すような、導くような、優しい口調でマリは続ける。
「もしもそれが一人じゃあ辛いのなら、誰かに頼りなさい。人は誰かと共に生きるから人間なの」
「誰かって、誰?」
「例えば――あの子とか? あの子、優しいわよね。ケンちゃんも感じてるでしょう? でも、優しいからこその脆さ、危うさもあるの」
ケンはかつてルリの瞳を見た際に抱いた感情を思い出す。それと共に、自身が決意した事も。それを考えたら、弱音を吐いている暇などないはずだ。それをマリは優しく教えてくれたのだ。背中のマリに、ケンははっきりとした声で伝える。
「ありがとうマリさん。俺、いろいろあって弱気になってたよ。でも、もう大丈夫。ありがとう」
それを聞いて安心したのか、マリもケンから静かに離れる。
「あの子がシャワーから出てきたら、お昼にしましょう。パウンドケーキも焼いていたのよ」
食欲をそそる匂いを立たせる食卓にルリも加わり、穏やかな時間が流れていく。マリの料理が気に入ったのか、ルリはペロリと平らげ、皿を次々と空にしていった。物足りなさそうにしている彼女に、マリは自身の皿を差し出す。
「そんな、申し訳ないです……」
言葉では遠慮しているものの、ルリの視線は料理にくぎ付けだ。
「気にしないで。あまりにおいしそうに食べてくれるから、嬉しくなっちゃうわ」
ルリは恥ずかしげにはにかむと、皿を受け取る。そんな彼女を見て、マリは目を細めて微笑む。
手料理でお腹も心も満たし、パウンドケーキに舌鼓を打つ。至福の時間はゆっくりと流れていき、ケンもルリもゆったりと浸り、今朝から続く怒涛の連続、その疲れを癒していた。そんな暖かな時間も、長くは続かなかった。太陽が西へと傾き部屋が薄暗くなりかけた頃、それは一人の来訪者と共にはじまった。
「誰かしら……?」
突然のノック。それも、軽くではなく、激しいものだ。扉の外の者は、相当急いでいるのか、それとも敵意を持って打ち付けているのか……。リビングでくつろいでいた三人に不穏な空気が流れる。立ち上がろうとしたケンを、マリは制止させた。
「待ってケンちゃん……私が……私が行くわ」
玄関へと消えてゆくマリ。ケンとルリは、顔を見合わせ固唾を呑む。ケンの耳に届いたのは聞き慣れた、だがしかし、そのトーンは普段とは正反対、深刻そのものな友人の声であった。
「リョウだ。 何か慌てているみたいだけど……どうしたんだろう?」
「ケンさん、玄関の声、聞こえるんですか?」
「ん? ああ、勝手に拾っちゃうんだ、“こっち”が」
ピコピコと動くケンの犬耳へ、興味深げにルリが手を伸ばした時、リョウがずかずかとリビングへ入って来た。その表情は、やはりどこか焦っているかのようであった。彼は何か言いたげな様子であったが、チラリとルリを見た後、テーブルの上のリモコンを手に取った。
「ニュース見とらんのか? エラいことになってんで……」
“エラいこと”? ケンの脳裏に様々な考えが巡る。今になって四拾七番倉庫への侵入がバレた? 事件があった学校のこと? それともそれ以外のこと? 目まぐるしく変わっていくチャンネル。やがてそれが目当ての場所で止まる。そこに大きく映し出されるテロップに、ケンは言葉を失った。
『スラム街で殺人事件! 被害者は独居老人』
スラム街の独居老人……。ケンは猛烈に嫌な感覚に襲われる。絶対に外れていて欲しい、そうであってほしくない。しかし現実は容赦なく叩きつける。テレビの画面に映し出された被害者の顔写真、それはまさしく、今朝会話を交わしたばかりのスズキその人であった。ケンは横目でルリを見る。彼女は両手で口を覆い、大きな目をさらに大きく見開いていた。腰を据えて話をしよう、そうすることによって、ルリにもスズキにも救いが訪れる。そう信じていたケンの目論みは、正体不明の第三者によって脆くも砕かれる。意気消沈するケンだが、リョウの言葉がとんでもない追い打ちをかけた。
「なんやエラい驚いてんなあ。知り合いだったん? それより、俺が伝えたかったんは、“誰が死んだ”じゃあなくて、“誰が殺した”なんや」
この時ばかりは、ケンもリョウの無神経な発言に腹を立てたが、それ以上に気になる言葉――“誰が殺した”? 誰が? スラム内での事件じゃあないのだろうか?
「この事件な、通報者によると、奴さん、『魔女が殺害した』言うとんねん。そのせいで街中しっちゃかめっちゃかや。自治隊も一般人も殺気立ってそらもうてエラいこっちゃやで」
ルリが小さく息を呑む音が聞こえる。ケンは立ち上がり、思わず語気が強くなる。
「なんだよ、リョウはそれを信じてわざわざ伝えに来たのかよ!?」
そんな様子に、さすがのリョウも慌てて手を横に振りながら訂正する。
「言葉足らずで悪かったわ、俺が言いたかったんはそんなことやのうてな? 言い方悪いが、今街でガイシャに同情しとる奴なんて一人もいてへんのや。……あ、スマンてホンマ。一人もいてへんてのは嘘やな」
ケンの視線にリョウはわざとらしく咳ばらいをする。
「で、自治隊も街の奴らも、犯人捜し……“魔女狩り”に夢中になってしまってんねや。ルリちゃん、アンタ、誰か探す言うとったよな? 悪いこと言わん、今それどころやないで」
ルリは何も答えず、静かに自身の肩を抱き震えていた。その時、ケンの背後から『やっぱり、彼らが来ていたのね……』と小さく呟くマリの独り言が耳に入る。勢いよく振り向くケン。ルリもリョウもその突然の動きに驚き、体が小さく跳ねた。
「彼ら……? マリさん、彼らって誰? 何か知っているの?」
マリの瞳は、驚愕なのか、畏怖なのか、見開かれる。やがて彼女は、目を閉じ静かに首を横に振る。その後、何かを決意したかのような表情で、ケンの呼びかけにも答えずにリビングを去った。マリの意味深な言動に困惑するケン。テレビの音だけが響くリビングで、リョウがおずおずと切り出す。
「あー……喋ってええか? ええな? おおきに。でな、俺がわざわざ来たのは、これ渡すためや」
リョウはポケットから財布を取り出すと、そこから二枚のカードを取り出した。銀色の磁気ストライプカードで、表面には“出国申請用”と記されている。
「外出て、身ィ隠せ。ケン、お前はその子守ってやれ。何をしてでも」
先程とは打って変わって真面目なトーン。ケンはリョウの顔を見ると、彼は今までに見たことのない表情をしていた。
「外に出るって、そんな――」
突然、どこからか戻って来たマリが、リビングのテーブルに大きなリュックをどっかと置く。カジュアルなものではなく、頑丈に、機能的に作られた軍用の背嚢だった。言葉を失うケン。そんな彼をお構いなしに、マリは中身を一個ずつ取り出し説明をはじめた。
「折り畳み式の携帯スコップ、オイル式ランタン、小型の寝袋、ブランケット、食器一式、ラジオ、アーミーナイフ、栄養剤、携帯食料、それに……」
輪ゴムで束ねられた、ケンがこれまで見たこともない数の札束。
「全部、あなたの命を守るものよ。大事に使いなさい」
一方的に突き付けられ、憤りが噴出するケン。
「わけが分からないよマリさん! どうして何も言ってくれないんだ!?」
「話している時間がないの。あなたがそうなってしまった以上、“研究所”が次に――」
慌てて口をつぐむマリ。
「グランギニョルって何? 俺の体がこうなったことも、何か知っているの? 次にって、前にも何かしたの? ……リョウは黙っててよ!」
肩に置かれたリョウの手を払いのけるケン。嫌な沈黙が流れる。
「何よりも母さん、自分のことはどうするの? 薬が無いと、母さんとっても辛そうじゃん!」
「大丈夫よ。ツテがあるわ」
「適当なこと言わないでよ! そうやって――」
その時、リョウはケンの胸倉を掴むと、強引に自分の方へと向かせた。
「ケン、お前少し頭冷やせや。オバさんも、俺もお前のこと心配しとるんやぞ? それに――」
リョウは怯えるルリの方を顎でしゃくる。
「今一番怖い思いしとんのは、あの子なんやぞ? 『助けたい』、お前昨日そう言うとったよな? なんや? あれ嘘やったんか? あ?」
かつて見たことが無いほどに真に迫るリョウの表情に、言葉を失うケン。リョウも、そんなケンの様子を見て手を放すと、くしゃくしゃになった彼の服のしわをぎこちない手つきで伸ばす。
「何も永遠にこの国を出ていけ言うてるわけやない。今、危険が迫っとるこの今だけ隠れとけ言うとんのや。それが、オマエとルリちゃんを守る、たった一つの冴えたやり方、ってやつや」
「そうよケンちゃん、母さん本当に、困った時に頼ることができる人がいるの。だから、あなたは自分と、その子の心配だけをして。お願い」
釈然としないケンは、ルリを見る。リョウに指摘されてようやく、ケンは彼女の不安そうな表情に気が付く。彼女のことだ、きっと『私なら平気です』などと言って一人で何とかしようとするだろう。いや、そう言わざるを得ない空気を作り出してしまったのだ。本当なら、自分が前に出るべきだった。彼女の手を取って、守る側に立つべきだったのに……。ケンは拳を強く握りしめた。
「そうだね……。母さん、リョウ、ごめん。俺、ちょっと取り乱してたみたい」
その言葉を聞き、マリもリョウも、安心したかのように息を吐く。
「俺も少し熱くなりすぎたとこあるし、おあいこやな。それとルリちゃん、キミの意見一ッ言も聞かずに話進めてスマンな。せやけど、キミ一人で行き当たりばったりするよか、こっちの方が確実で安全なんや」
リョウは顔の前で合掌させ、説得の意を表した。それに対してルリは、弱弱しく微笑みながら答える。
「そんなことないです。私も……助かります」
気丈に振舞おうとしない彼女に、ケンは何か引っかかるものを感じた。しかしそれを口にするよりも早く、マリが立ち上がる。
「さあ、これ以上長居は――」
「あ、母さん、俺部屋に忘れ物が」
マリは溜息をつくと、『あまり待てないわ、早くしてね』とケンにリュックを渡した。ケンは急いで階段を駆け上がると、自室に入りドアを閉める。腰のベルトに挟んでいた拳銃を取り出すと、聞こえているかも分からない相手に語りかけた。
「あなたも連れていきます、いいですね?」
やはり何も返事はない。諦めてリュックの底へしまおうとしたその時、再びあの女性――ナギの声が聞こえた。
「……優しいお母さんと、お友達ですね」
ケンは突然の声に驚きあやうく拳銃を取り落とすところだった。
「聞いてたんですね」
「ごめんなさいね。別に盗み聞きするわけじゃあなかったのだけれど」
しばらくの沈黙。その後、下の階からマリの呼ぶ声が聞こえる。ケンは慌てて銃をリュックの底へ隠す様にしまい込むと、慣れ親しんだ自身の部屋に別れを告げるように見渡し、階段を駆け下りていった。
玄関口では、リョウがのぞき窓からしきりに外の様子を伺っている。マリは、ルリと別れの抱擁を交わしているところだった。
「あなたとはもっとお話したかったわ」
「またいつか、安全になったら会いに来ても、いいですか?」
「もちろんよ」
ケンが降りてくるのに気が付いたマリは、出立しようとするも、ルリがなかなか離れない。しばらくジタバタもがいたのち、ようやくルリから解放される。
「さあ、なるべく裏通りを通って行きましょう」
人目を避け、僅かな物音にも意識を集中させ、四人は旧市街の裏通りを足早に通り抜けていく。気味の悪い焦燥感が背後から迫り、今にも刃を突き立てて来る、そんなジリジリとした感覚に背中を焼かれていた。
「そういえばさ、リョウは今こうして無事、ってことは、学校へは行ってなかったの?」
先を行くリョウに、ケンは声を潜めて質問を投げる。角を曲がり、細い道を抜け、じきに都市部へと差し掛かろうとしていた。
「ああ。ちょっと用事あってな。おかげで命拾いしたわホンマ」
リョウにしては歯切れの悪い言い方だが、ケンはそれを、リョウが自分に気を遣わせないようあえてそう言っているのだろうと思った。
その時、リョウが突然立ち止まり、ケンは彼の背中に激突した。リョウの視線の先――家屋の谷間にある開けた空地、そこに二人の女性が立っていた。
「……ああウソ、最悪……!」
マリの小さな悲鳴。リョウの表情も尋常ではなかった。
「あらあ、皆さんお揃いで」
壁際に積まれた木箱に腰を掛け、煙草をふかす女性。彼女の金髪のショートボブヘアが、夕日に輝いていた。
「ホロウ……!」
マリはホロウと呼んだ女性を睨みつける。
「怖いわあ。マリ、私アナタには感謝しているのよお? そこのワンちゃん、アナタが10数年手塩にかけて育ててくれたおかげで、オスカルの夢がまた一歩実現に近づいたの!」
ケンは、ホロウの声に聞き覚えがあった。一昨日の夜、中央総合病院でマチダと会話をしていた謎の女だ。
「ふざけないで! あの狂った男の戯言に、いったいどれだけの命が弄ばれたと思っているの? あなたは――」
ホロウは手にしている煙草を足もとに捨てると、何もない空間から銀製の杖を取り出す。その先端をマリへ向けると突如、彼女は胸を押さえ苦しみだす。ケンには見覚えのある、彼女が発作を起こした時の姿だ。ケンが治したいと心から願っていた、“病気”の発作……。
「まだまだよお? 幕はまだ上がったばかり。これからもおっと、たくさんの命が散ってゆくの。ワクワクしちゃうわねえ」
「ふざけるな! やめろ!」
ケンの咆哮に、ホロウは杖の先端をマリから逸らす。苦しみの呪縛から解き放たれたのか、マリのうめき声は止み、肩で息をしている。
「いいわよお。でもねえ、ワンちゃん、少しその力見せてくれないかしらあ?」
ホロウは隣に立つ人物に『やってちょうだい』と冷たく言い放つ。白い、覗き穴が二つ空いただけの無機質な仮面を被った、黒装束の人物。体つきからして女性だろうか。彼女は何も言わずに空地の中央まで進み出る。
「乗るなケン。俺たちにそんな時間――」
仮面の女が腕を振り上げる。風を切る音がして、次の瞬間リョウの肩に漆黒の手投げナイフが突き刺さっていた。彼のシャツにみるみる赤い染みが広がる。
「外野は黙ってなさい? でもワンちゃん、アナタがやる気ないなら……大事な人たち、傷ついちゃうかもねえ?」
ケンは内に湧き上がる怒りに体をわななかせ、立ち上がる。
「ルリちゃん、母さんと、リョウのこと頼む」
「ケンさん、ダメです!」
ルリの悲痛な訴えは、ケンの耳には届かなかった。ただ、目の前の二人が憎かった。その汚れた感情が、彼の足をがむしゃらに走らせる。勢いまかせに仮面の女に殴りかかるも、放たれた彼の拳は空しく空を切る。背中に重い一撃を受け、ケンは顔面から地面に倒れこむ。なんとか体を起こし、咳き込む彼の腹部を、仮面の女は容赦なく蹴り上げる。ケンの体は宙に浮き、建物の壁に激突した。
「あらあ? おかしいわねえ? 黒くないじゃない?」
ぼやける視界の先、ホロウが首をかしげているのが見える。黒くない? 一体何のことだろう。壁に寄り掛かる形で立ち上がると、ケンは口の端から流れる血を拭った。仮面の女は、ただ静かに立ち尽くし、こちらの次の手を待っているかの様だ。実力差は歴然、そもそも、ケンはこれまでに殴り合いの喧嘩などしたことが無い。
「フィヨトルの縛鎖!」
ルリの杖が描き出すルーンが、光の鎖となり仮面の女を捕える。だが、それはすぐにかき消えた。
「マナが足りないのかしらあ? ダメよお? 満月までまだあるのに、計画的に使わなくっちゃ」
ホロウの小馬鹿にしたような声。冷たい笑みで彼女は、仮面の女にハンドサインを送る。指示を瞬時に把握した女は、ルリを羽交い絞めにし、その首元に黒色の刃を突き付けた。
「ほらあ、どうするのワンちゃん? あなたのお友達、殺されちゃうわよお?」
ケンの呼吸が乱れ、視界が霞む。マリやリョウが何か言っているが、彼の耳には届かない。奴に近づく。近づいて、一発ぶちかます。遮二無二飛び出すケン。一歩踏み出したはずの彼だったが、その踏み出した先は仮面の女の目と鼻の先だった。
「へえ……」
その場にいる、ホロウを除く全員が、目の前の信じ難い光景に唖然とする。仮面の下から除く女の瞳にも、明らかな動揺が見て取れた。ケンはその隙を逃さず、女の真っ白な仮面目掛けてありったけの力を叩きつける。想定外の強力な一撃に、女の体は宙を舞う。彼女の手から離れたルリは、小さな悲鳴を上げ石畳に倒れこむ。
「無限の軌跡……すごいわあ。そりゃ魔族も歯が立たないわけよねえ」
手を叩き喜ぶホロウ。肩で息をするケン。暴力を振るわれ、振るわなくてはならないこの異様な状況に、彼の体は震えていた。仮面の女はよろよろと立ち上がる。その様子にケンは違和感を覚える。そんなに受けた一撃が重かったのだろうか? ケンは自身の拳をじっと見つめた。 しかし、彼の疑問はすぐに掻き消された。
「そんな、モナミ先生……!」
女の仮面が割れ、石畳に落ちる。そこにはよく見知った顔、イチカワ・モナミがいた。口の端から血を流し、冷たい表情をした彼女は、ケンの目にはまるで別人のように映る。
狼狽するケンをよそに、モナミは地面を蹴り距離を一瞬で詰める。右の拳に力を込め、ケンの鳩尾へ向けて打ち込む。しかしそれは軽々と掴まれてしまった。
モナミは戦慄する。ケン自身動揺して気付いていないが、彼の中で明らかに何かが変わっているのだ。それももの凄い早さで。自覚され、有利に立たれる前に始末しなくては……。モナミは掴まれていない方の手でナイフを抜き取ると、ケンの首筋目掛け突き立てる。しかし、手ごたえはなく、わずかに黒い血が滲むだけだった。
「先生、やめてください! どうしてそんなことするんですか!」
震える手で、ケンはモナミを突き飛ばす。二人の間に再び距離ができた。
「スズハラ君、この世界には、二種類の人間がいるの」
はじめて口を開くモナミ。そして、親指、人差し指を立てる。
「一人は、“使う側”の人間。もう一人は、“使われる側”の人間」
「一体何を言っているんですか?」
「使う側は何だってできる。でもね、使われる側は違うの。ただ惨めで、泥を啜って日々を過ごすだけ」
意図が掴めず困惑するケン。モナミはお構いなし、といった様子で続けた。
「使われる側だって、いい思いができるわ。それはね、使う側に媚びて、媚びて、媚びるのよ。さあスズハラ君、死にたくないのなら私を殺してみせなさい」
「嫌だ!」
震えるケン。モナミの言うことは一つも理解できない。人間は皆横一列で、上も下もない。幼稚で夢想的な考えであるとは彼も理解しているが、それこそ人が人である人間性の要因だと考えている。
沈黙が流れ、モナミは溜息をつくと、手にしたナイフをルリの方へと投擲しようとする。その動作を行う僅かな肉体の“音”を、ケンの“耳”は拾い、瞬時に行動に移っていた。ルリへ飛ぶはずのナイフは消え、モナミの後方へといつの間にか姿を移していたケンの手に握られている。
「先生は、間違っている」
手にしたナイフを投げ捨てるケン。金属音が石畳の上を滑り遠ざかってゆく。
「だったら、その間違いを証明してみせなさい」
モナミはケンに拳を振るうも、全ていなされる。腰のホルスターに手をかけたその時、ケンに両肩を掴まれる。次の瞬間、背景が一瞬で流れたかと思うと、モナミは壁に背中から激突していた。一瞬呼吸困難になり、咽ながら立ち上がる彼女の目の前に、腰を据え拳を構えるケンの姿があった。
「先生、ごめんなさい」
彼女が防御姿勢をとるよりも速く、ケンの拳が撃ち込まれる。鳩尾を抉り、モナミの呼吸機能を奪う。酸素不足で意識がぼやけ、彼女はその場にうずくまると動かなくなった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ケンはしばらく震えが止まらなかった。ルリとマリ、それにリョウが彼の元に駆け寄る。皆一様にケンの心配をしており、それが今のケンには何よりもありがたかった。
「すごいわあ、ワンちゃん!」
ホロウがわざとらしい声を上げ木箱から降りると、ケンの方へと歩き出す。
「“宵闇の眼”のプロ相手に、素人のアナタが大金星! す――」
雄弁に語るホロウ、その隙をついたリョウが、彼女の顔面に強烈な一撃を放つ。盛大によろけたホロウは、木箱に突っ込み、砕けたその破片に埋もれる。
「ケン、今や! ここは俺が押さえとくから、オバさんとルリちゃん連れて行け!」
「でも――」
「いいから! 俺もスグ追いつく!」
未練がましく思うケンだったが、ルリの不安そうな表情を見て思い直す。
「絶対、来いよ」
リュックを手に取ると、ケン、ルリ、そしてマリの三人は、出国ゲートのある都市部へ向かい駆け出した。
「リョウさん、大丈夫でしょうか……」
「あの子なら平気よ、何せ――」
路地を駆け抜けながらそんな会話をしていたその時、彼らの背後で大きな爆破音が聞こえる。大きな煙が立つその場所は、ホロウと対峙したあの空地の方角だった。
「ウソだ……」
咄嗟に来た道を引き返そうとするケンを、マリは引き留める。
「放して!」
マリの瞳から見て取れる“言葉”に、ケンは踏みとどまる。リョウの気持ちを汲むためにも、今できること、それは先を急ぐことだった。
* * *
「お疲れ様、役者さん。いい演出だったわあ」
ホロウが去り行く背中に投げかけたその言葉に、返事はない。彼女はそのことを気にする様子はなかった。
昏倒し倒れているモナミに、ホロウは近づく。気遣いなどこれっぽっちもない蹴りが彼女に入れられるが、一向に目覚める気配はない。
「面倒かけんなよ」
ホロウは舌打ちすると銀色の杖を取り出し、空中にルーン文字を描き出す。
「霜の涙」
凍り付くほど冷たい、“霜の水”が意識のないモナミの顔に容赦なく浴びせられる。覚醒へと引きずり出されたモナミは驚愕の表情を浮かべ咳き込んだ。
「おはよう、ねぼすけさぁん?」
不気味な笑みのホロウに、モナミの表情が強張る。
「あなたの最後のお仕事、見事だったわあ。それじゃあ、後はどこへでも、あなたの好きなようにするといいわあ」
モナミの表情に絶望の色が浮かぶ。必死でホロウの足に縋りついた。
「待って……話が違うわ……! 私はこの後もあの子の監視を――」
ホロウの足がモナミの腹を蹴り上げた。声にならないうめき声を上げ、彼女はうずくまった。
「二度も言わせないでほしいわあ。終わりよお?」
「そんな……研究所にいないと……お願い……何でもするから……!」
「へえ……? そうよねえ、宵闇の眼はあなたみたいな逃げ出した臆病者を絶対に許さないものねえ? 私たちの庇護がないと、あなたすぐに“お掃除”されちゃうわねえ?」
両手で顔を覆うモナミに、ホロウは溜息をつく。彼女は杖を振るうと、何もない空間から銀色の大きなアタッシュケースを取り出す。笑顔でそれを開けると、“中身”がモナミに見えるよう回転させた。
「これ、あなたにあげるわあ。選びなさあい? 生きたまま解体されて豚のエサになるか、ワンちゃんに先生らしく“最後の授業”をしてあげるか……ねえ?」
その場を後にするホロウの背中を、モナミの悲痛な声が追いかけた。
* * *
沈みゆく太陽が、西の地平線に差し掛かるころ、一行は国の北部にある出国ゲートの目の前まで来ていた。
「この橋を渡れば、出国ゲートね。二人とも、申請カードはあるわね?」
ケンはリュックから、リョウに渡された銀色の出国申請カードを取り出す。眺めていると込み上げてくる気持ちに押しつぶされそうになるため、ケンは慌てて胸ポケットへと突っ込んだ。
「あら……誰かしら」
入出国を管理する巨大な門へと続く、幅の広い橋。その欄干に寄り掛かる、一人の少女の姿があった。
「委員長!? どうしてここに」
ナナは口をつぐみ、ケン達一向の前に立ちはだかる。その手には、高価さ故に持つものが限られている携帯型通信端末が握られていた。
「旧市街地で、爆発があったでしょ。それをやったヤツはきっとこっちに逃げてくると思ったからよ」
「そんな……あれはこの子がやったんじゃあない!」
ケンの反論も、ナナには届かず、彼女は『それより』と続けた。
「スズハラ君、まだ……そいつと一緒にいるんだ……」
彼女の口調から察せられる尋常ならざる雰囲気。ケンの背中に汗が伝う。
「委員長、急がなきゃダメなんだ、お願いだから何もしないで……!」
懇願するような口調のケンに、ナナは震える声で応える。
「わけわからない。どうして、どうしてスズハラ君はそいつを特別扱いするの? 魔女だよ? 悪い奴なんだよ? ここにいちゃあダメなんだよ?」
問答する時間すら惜しいが、今のナナにはどんな言葉も通じそうになかった。
「ナナちゃん、落ち着いて。話を聞いてちょうだい」
「私が……今これで自治隊に連絡すれば……魔女は捕まって、また皆でいつもの――」
ナナの言葉を遮るように、突如欄干の下から人影が飛び出す。ナナの背後に着地したその人物は、彼女の首を締めあげる。気道を塞がれ昏倒するナナ。その手に握られている端末が彼女の手を離れ落下した。
「モナミ先生!」
丁寧にナナを寝かせてから、モナミはゆっくりと立ち上がる。彼女は先程とは違い黒いタクティカル・ジャケットを着こんでいた。ケンは、彼女の表情に何か不気味な違和感と言いようのない不安感を覚えた。
「あなた、追ってきたの? もう諦めてもらえないかしら?」
気丈に振舞うマリを、まるで存在しないかのように無視し、モナミの視線はケンへと向いていた。
「スズハラ君、先生の、最後の授業よ。この世界で、“敗者”がどうなるか……“勝者”であるあなたがその目でしっかりと見ておきなさい」
まるで幽鬼を思わせる、虚ろな表情のモナミ。ケンの違和感は、嫌な予感へと変わる。そしてそれは、彼のリュックの底から聞こえる声によって確信へと変わった。
「止めて! あの人、死ぬつもりよ!」
ケンが止めるよりも先に、モナミは欄干に手をかけると、遥か下に流れる川へ向かって身を投げた。
「死して残す屍無し……!」
モナミは、目を閉じ手にした起爆装置を作動させる。彼女の装束に備えつけられている爆薬が一斉に炸裂する。彼女は一瞬のうちに赤い霧となり、“破片”は厭な音を立て夕日に照らされる水面に波紋を作った。
「あ、ああ……」
目の前の光景に、ケンはただ力なくへたり込むだけだった。精神に刃を突き刺されるかのような出来事の連続、ケンもルリも、マリさえ何も言葉を発することができずにいた。
「ケンちゃん……ほら、立って……辛いけど、今は動かなくちゃ……」
夕日は完全に沈み、辺りは薄暗くなっている。マリの擦れた声で、ケンも我に返った。
「うん、そうだね……」
ふらふらと立ち上がるケン。その時、彼の手に暖かい感触が。視線を向けると、ルリが心配そうにケンを覗き込んでいた。
「ありがとう」
今はその一言が精いっぱいだった。
三人は、鉛のように重い足を出国ゲート内にある検問所へと向けた。いやに静かだ。川での“爆発音”に、自治隊員が飛び出してくるのでは、と身構えていたがそれは杞憂に終わったようだった。
「おかしいわね……すみません、誰かいませんか?」
マリは、受付窓口から無人になっている検問所内へと呼びかけるも、一向に返事はない。通用口のドアノブに手をかけると、重い音を立てて開く。施錠がされていない。
「母さん、マズいんじゃあ……?」
中へと進んでゆくマリの背を心配そうに追うケン。しかしそのすぐ後、マリの悲鳴が聞こえてきた。ケンとルリは顔を見合わせ、急いでマリの後を追って通用口を通り抜けた。
「そんな……」
マリの静止を振り切って入って来た二人の目に、衝撃の光景が映る。自治隊員が二人、向かい合う形で壁にもたれて倒れている。二人とも両手には拳銃が握られ、壁にはおぞましい血痕が垂れている。互いに互いを撃ったのだろうか? なぜ? 脳が理解を拒む奇怪な状況と、室内に立ち上る死臭に、ケンは吐き気を覚えた。だがそれ以上に、凄惨な状況を何度も目の当たりにし、慣れつつある自分に不気味な感覚を抱いた。
「見なくていいわ……二人とも、早く出なさい」
マリは死体を極力見ないように、ゲートの操作盤を弄る。外から駆動音が聞こえ、外への道が解放されたことを知らせた。三人は外へ出る。死臭が消え、ケンは新鮮な空気を思いきり吸い込んだ。
「それじゃあ、私はここまで。いい、ケンちゃん? 外に出たら、まずはハバラ・シティを目指しなさい」
イースト・シティから遥か北、山を越えた先にある都市国家だ。ケンは疑問を呑み込み頷く。
「そこで、“リノエ・ミュラー”って女の人を訪ねるの。赤毛で、なんかこう……疲れた感じの女の人。ぶっきらぼうだけど、悪い人じゃあないわ。きっと力になってくれるわ」
「でも、知らない国で一人の人間を見つけるなんて……」
マリは折りたたまれたメモ用紙をケンに手渡す。そこには住所らしき文字が走り書きされていた。
「彼女の気が変わっていなければ、まだそこに住んでいるハズよ」
『さて……』とマリはケンとルリを見ると、二人を同時に抱きしめた。
「リノエに会うまでは、二人で頑張ることになるでしょうけど、力を合わせるのよ?」
「母さんも、体に気を付けて」
「お世話になりました」
マリは窓口から手を伸ばし操作盤を弄ると、照明が続々と点灯して行く先を照らしていった。
「この道はそんなに長くはないはずよ。まっすぐ、ね?」
マリの指し示す方向を見据えるケン。温かい時間は去り、眼前のゲートが夜の闇を孕み不気味に口を開けている。外への一歩を踏み出そうとしたその時だった。乾いた音が弾け、トンネルの奥で何度も跳ね返った。
「あ……」
ケンの隣、マリの身体が小さく揺れる。それは、不思議な感覚だった。出来事にしてほんの数秒だが、何倍にも引き延ばされたかのような感覚。ケンが我に返った時、彼女の胸元には赤い染みが広がっていた。慌てて抱きかかえるが、力が抜けその場に崩れ落ちるマリ。
「そんな、嘘だ……母さん……!」
不気味なほどに脱力したマリの体。彼女はケンに何かを伝えようと口を開くも、出てくるものは鮮血のみ。やがて、彼女の目から、光が消えた。オレンジ色の照明が照らすトンネル内に、ケンの慟哭が響く。
「やった! 命中!」
無邪気な少年の声がケンの背後から響く。直後、軽く、規則的な足音が近づいてきた。振り返るよりも早く、その少年はケンの横をすり抜け、何事もなかったかのように前へ出る。手にした拳銃を放り投げると、車道と歩道の境の柵に腰掛けた。まるで面白いものでも見るかのような態度の少年に、ケンの思考が一瞬真っ白になり、やがて怒りで赤く染まっていった。
「お前……お前ェ!」
ケンは少年に掴みかかるも、その手は空を切る。何度手を伸ばすも、まるで“そこに来るのが分かっている”かのような動きで全てかわされた。足がもつれ、その場に膝をつくケン。湧き上がる怒りは、彼の両の手に乗り地面を激しく叩いた。
「なんで、なんでこんなことをするんだ!」
息を切らしながらケンは少年を睨みつける。
「なんでって……そいつの役目はもう終わったから? 闇のおねーさんだって、汚ェ花火になったじゃん?」
少年はからからっと笑いながら、『まー、あいつは役立たずってのもあったか』と付け加える。人の死をまるで何とも思わないその言動に、ケンは恐怖を覚える。
「ケンさんのお母さんなんですよ!? どうしてそんなことが言えるのですか!」
ルリは言葉を荒げる。その声は、震えていた。
「母親って……家族ごっこじゃん? 何マジになっちゃってるの? 他人が死んでそんなに悲しいの?」
少年は『それにさ』と気だるげに続ける。
「ボクってさ、母親っての大ッ嫌いなんだよねー。ボクの親もウザってえ野郎でさ……ってそんな自分語りいらないか」
少年の瞳が、ケンをじろじろと観察する。その後、小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、踵を返す。
「ま、待て!」
「ボクを殺したいんだろ? 骨董品。だったら瓦礫の街、セントラルまで来なよ。その時は、どっちが優れたプロダクトモデルなのか決着つけようよ」
怒りと悲しみでぐちゃぐちゃにされたケンは、少年の背中をただ見ている事しか出来なかった。
「あ、そうだ。早めにこの国から出た方がいいんじゃあない? ホロウがアンタら殺そうと追ってるかもよ? なーんてね!」
少年の高笑いと共に、照明がチラつく。一瞬の暗闇の後、トンネル内が再び照らされた時には、その姿は既に消え去っていた。ケンはマリの亡骸の傍に跪くと、力なくうなだれる。守れたはずだ、何とかできたはずだ……様々な“はず”が彼の脳裏にこだまする。ルリは何も言わず、ケンの傍から離れなかった。
ケンは、開かれたままのマリの瞳をそっと閉じると、彼女の両手を胸の上で組ませた。合掌し、簡易的な弔いをする。ルリもそんなケンに倣い、自身の胸の前に手を置き、静かに俯く。
「さあ、行こう」
ケンの震える声。こんな寂しい場所に置き去りになどしたくはないが、追手が迫っている。マリの最期の言葉、“二人で力を合わせる”。その言葉は絶対に忘れまいとケンは心に刻み込むと、マリに背を向け、慣れ親しんだ国に別れを告げた。ルリもケンの傍に立つと、彼の手を取り優しく握る。彼女が今できる精一杯のことだった。
* * *
「終わったよ、ホロウ」
城壁上部、イースト・シティを俯瞰して一望できる場所に、女性と少年の姿はあった。
「ご苦労様。第一段階、完了よお」
ホロウの吐き出す煙が、闇夜に溶けてゆく。
「あれ? ローレライは?」
「とっくに帰ったわあ」
眼下に輝く文明の輝きを眺める二人。
「ここももう用無しだね。潰す?」
ホロウは楽しそうに笑う。
「それもいいけどお、まだダメよお。今、すっごいルーン作ってるのお。魔族なんかよりももっとアレな奴ら呼んじゃうやつ!」
「ああ、ここを使うのか」
カインはわざとらしいぐらいに大きな欠伸をする。
「で、それっていつ?」
「んー、あと5年ぐらいはかかるかもお……」
「ふーん……どうでもいいや。とりあえず、帰ろうぜ」
『あ、そういえば』とカインは何か思いついたかのような口ぶりでホロウに問いかける。
「骨董品の後ろで小さくなってたあの女、ジーグルーネだっけ……? “古ーい知り合い”だろ? 再会を喜べよ――」
ホロウが凄まじい速さでカインの胸倉を掴む。小柄な少年の体は宙づりになった。
「聞きかじった知識披露してえのか? てめえの脳幹に杖ブチ込んでアッパラパーにしてやろうか?」
鬼の様な形相のホロウを前にしてもカインはへらへらと笑う。
「ジョークだよ。ノルディックジョーク。おおー怖い怖い」
ホロウは乱暴にカインから手を離す。煙草を咥えたまま大きく息を吸い、身体を震わせた。肺にため込んだ煙を一気に吐き出すと、吸い殻を投げ捨てる。
夜風が通り抜ける。残された吸い殻から立つ煙が、闇夜に静かに散っていった。




