#05死の檻
「Maledetto! La mia vista è rotta!(くそっ! 目が!)」
魔族のしゃがれた声による怒声がホールに響き渡る。何を言っているのか理解する事はできないが、ヤツは自身の片目を押さえ苦しんでいるようで、指の隙間からは緑色の鮮血が流れ落ちていた。
「何をしている! 早く!」
声の主はホールから分かれた廊下、照明が消えた暗がりからケンたちへと呼びかけているようだった。
ケンは己を奮起させ、勢いよく立ち上がると、ルリを助け起こし声のする方へと駆け出す。薄暗い廊下を走る二人、教室を3つほど通り過ぎた先にその人物はいた。
「エイ! お前だったか!」
教室のドアを開け二人を手招きするエイ。ケンとルリは体を滑り込ませるように教室内へと駆け込んだ。
「不用心だ。“ヤツ”の縄張りにのこのこと入り込むなんて……」
エイの制服は血で汚れており、その手には回転弾倉式の拳銃が収まっていた。まさかその小型の拳銃で長距離から魔族の目を撃ちぬいたのだろうか? ケンの視線に気が付いたエイは、拳銃を隠す様に腰のあたり、ベルトに挟みこんだ。
「心配するな、これは俺の血じゃあない」
エイは、まるで話題を逸らすかの如く早口でそう言った。
「皆は!?」
「分からない。皆散り散りだ。自治隊のヤツらが救助にきたようだったが、結果は玄関ホールの“アレ”だ」
ケンの心にスウッと冷たいものが流れ込む。昨日まではいつもと変わらない日常を過ごしていた人たち、そんな彼らの命が無残にも奪われたのだ。ケンの体はガクガクと震え、その場にしゃがみこむ。そんな彼の傍に、ルリが静かに寄り添った。
「つい数時間前までは何事もない、いつも通りだったんだがな。急に暗くなって、“ヤツら”が現れ……」
“ヤツら”!? 正体不明の襲撃者は先程の化け物一体だけではないのか? ケンのそんな表情を読み取ったのか、エイはため息交じりに言う。
「狩りに勤しむアイツとは別に、もう一匹……そいつは翼が生えていた。空から急に降りてきて、誰彼構わず手当たり次第にどこかへ連れ去っていった」
あまりにも絶望的な状況、自治隊すら手に負えない未曽有の状況に、このままただすり減らされるだけなのだろうか……。頭を抱えるケンの横で、ルリがおずおずと切り出した。
「あのう……もしかしたら、なんとかできるかもしれません」
ケンは顔を上げ、隣のルリを見る。彼女の表情は、若干不安の入り混じったような、なんとも頼りないものだった。先程の咄嗟のやり取り、そこで彼女は何かしら知っている様子ではあった。エイも、『聞かせてくれ』と興味を示す。
「はい。倒す事はできなくても、“送り返す”事なら私でも出来るかもしれません」
ルリの話によると、魔族はケン達が今暮らしているこの世界とは別の場所から、魔術によって連れてこられ、“何者かによって使役されている”状況らしい。
「あいつらがただ勝手に暴れまわっているわけじゃあないのか!?」
「ええ。私、かつてお師匠様の本を読んだときに、魔族の召喚及び使役のルーンを見ました。それはかの“人魔大戦”でも使われ、“成果”をあげたそうで……」
この惨劇の裏で糸を引く存在、それは今こうしているうちもどこかでこの惨状を嗤っているのだろう。ケンの中に沸々と怒りの感情が湧きあがった。
「ならば魔族を召喚している誰かがこの校舎内にいて、そいつをどうにかすればヤツらを元の場所へ追い返すことができるのか」
エイの推察にルリは首肯する。しかしどこに? 大勢の生徒を抱えるこのセントラル・ハイスクール、当然校舎もそれに合わせ大きな造りとなっている。危険な怪物が闊歩する中で素性も知れない人物を探し出すことなどできるのだろうか? ケンはその疑問をルリに問う。
「先程私たちが昇降口で遭遇した高等ルーンの次元結界、覚えていますか?」
出口へ向かったはずなのに、気が付けば元居た場所へと戻される何とも奇妙な現象。ケンは頷く。
「おそらくですが、あれはこの建物内から誰も出さない為にこの校舎全体にかけられていると思います。そして、それだけの術を施すには高い位置……そこに陣を敷いているんだと思います」
ルリは左手を宙に翳す。彼女の手の甲に魔女の印が浮かび上がり、それが青白くぼうっと光ると、薄暗い教室内を照らした。
「何をしてるの……?」
「ルーンの使用者がいるなら、感知できないかなと……。これ、魔女たちの間でも互いの居場所を教えあったりするのに使えて便利なんですよ」
しばらく宙を眺めるルリであったが、やがて魔女の印は消え、教室内も再び薄暗くなる。
「いますね……。やはり、高い所に」
「高い所……屋上か」
顎に手を当て話を聞いていたエイがぽつりと言う。 怪物との遭遇を避けつつ、果たして屋上へとたどり着けるのか。三人の話がまとまりかけた時、背後から『おい』と声がした。思いがけないその声に、ケンは軽く飛び上がり、ルリはケンの背後に隠れる。エイは腰の拳銃へと手を伸ばした。
「お前ら、二年のスズハラとサエキだよな?」
積み上げられた机や椅子の背後から、数人の生徒が出てきた。どうやら彼らもこの教室へ逃げ込んできたのだろう。彼らの表情は一様に険しく、ケンの背後のルリに向いていた。
「そいつ、魔女だろ? なんでお前たちがそんな奴と一緒にいるんだよ?」
「魔女の仕業なんだろ?」
「それっぽいこと言ってるけど、本当はお前が全部仕組んで、苦しんでる俺たちを嗤ってるんだろ!?」
口々にルリへの雑言が飛び交う。ルリは口を堅く閉じたまま、小さなその体を一層縮こまらせた。
「待てよ、変な言いがかりは止せって! この子は無実だ! それどころか、自分が持ってる知識で俺たちを助けようとしてくれてるんだぞ!?」
ケンの口調に怒りがこもる。
「うるせえ!」
「自治隊に突き出せ!」
「いっそ俺たちが殺しちまおう」
男子生徒の一人が近づいてくる。咄嗟にルリを庇おうとするケン。それよりも早く、エイが飛び出し男子生徒の胸倉を掴むと、腰の拳銃を抜き彼を黒板へと叩きつけた。
「黙れ。外の化け物に聞こえるだろうが」
「な、何だよお前……オモチャの拳銃なんか出して」
「試してみるか?」
エイは銃口を男子生徒の頬に強く押し当てる。嫌な沈黙が流れる。時間にして僅か数秒だろうが、今この場にいる全員にはそれ以上に感じられた。やがてエイは拳銃を下ろすと、男子生徒を乱暴に突き放す。
「俺たちは出て行く。お前たちはせいぜい、教室の隅で縮こまっているんだな」
エイはケンとルリを連れ、入ってきた入り口とは別にもう一つ存在している、教室後部にある出入口へと向かう。男子生徒たちの厭な視線を感じつつ教室を去ろうとしたその時、事は起きた。凄まじい力によって教室の扉が破壊され、巨体がぬうっと侵入してくる。生徒たちの悲鳴、それと同時に魔族は跳躍し、手にした巨大な得物を振り下ろす。
「Verme!(虫ケラめ!)」
しゃがれた声が響いた後、先程までの命は、その時既に“物”へと変わり果てていた。
「急げ!」
エイのその声に、ケンとルリも駆け出す。震える足を無理やり動かし廊下を駆けるケン。右手に握るルリの手が、二人の距離に比例し伸びてゆく。彼は一旦立ち止まると、軽々しくルリを抱きかかえた。
「理科室……一旦ここでやり過ごすぞ」
ケンとエイは呼吸を整える。恐怖と緊張、そして全力疾走の三重の負担が、心臓を大きく拍動させていた。
「それで――」
呼吸をやっと整えたケンが口を開きかけたその時、理科室の入り口が派手に吹き飛ばされた。
「Puzza! So dal odore!(臭いでわかるぞ!)」
緑の魔物は鼻を鳴らしそう言う。全く理解できないその言葉の様なものが、ケン達の恐怖をさらに駆り立てた。
駆け出す三人、背後の魔族は机や椅子を蹴散らしそれを一直線で追う。
「準備室へ入れ! あの大きさならヤツは入ってこれないハズだ!」
エイの示した先にある小さめの扉。そこは理科準備室――様々な実験器具や薬品などが保管されている部屋で、なぜかその入り口は普通の扉より一回り小さく設計されている。設計のミスなのかは分からないが、今この状況ではただただ感謝しかない、とケンは心の中で思った。
「どうする……どうする……!」
ケンは室内を見回す。棚には様々な薬品、所狭しと並べられた器具の数々。そして出入口は先程入り込んできた一か所のみ……。今は魔族が何とか入り込もうとしているだけだがそれも時間の問題、奴からしたら脆い壁などすぐに壊せる。袋小路に入り込んだ無力な三人は、なすすべなくここで果てるのか……?
「エイ、その鉄砲で、何とかならないのか? ヤツの片目を撃ちぬいたのもお前なんだろ?」
「ダメだ……。あの時は、本当にしょうがない状況で……容易く引いていい引き金じゃあないんだ……」
ケンの必死な訴えに、意外にもエイらしからぬ弱気で曖昧な返答。何か隠しているというのは明らかであった。
「ル、ルリちゃん……アイツに魔法は効かない、みたいな事言ってたけど……嘘だよな?」
「本当です……。ルーンは……効きません……」
八方塞がり、とはこの事だろう。ケンは力なく棚に寄りかかる。すると、何かがケンの肘に触れ、彼はバランスを崩し倒れる。エイとルリが心配そうに駆け寄ってきた。
「何だコレ?」
透明なプラスチック製のケース、中には液体が満たされており、銀白色の金属らしきものが詰まっていた。
「ナトリウム……か? ついこの前授業でやっただろ――お前は寝ていたか」
呆れたようにそう言うエイ。ケンは容器の蓋を開ける。ツンとした臭いが鼻腔を突く。水だと思っていた液体は石油だ。ケンはふと数日前の授業、自分が僅かに聞いていた箇所を思い出す。
――これは石油に浸して保管しておく必要がある。そして、これが水であった場合、恐ろしいことになる。
――どうなるんですか?
――爆発だ。そして激しく燃焼する。このナトリウムという金属は、水と触れると大量の熱と水素ガスを一瞬で発生させる。その熱があまりに高すぎるため、発生した水素ガスにその場で引火してしまうんだ。密閉された空間、例えば大きなビンの中で起こった場合、内側から圧力が高まり、ビンは跡形もなく吹き飛ぶぞ。だから、絶対に水にブチ込むなよ。
「……これだ!!」
ケンはまるで雷に撃たれたかのような衝撃を受ける。それと同時に、彼の中の電球が煌々と輝いた。
「な、何が……?」
「科学が魔術を凌駕するんだよ!」
ケンの返答に何とも言えない複雑な表情をするルリ。対照的にエイは、『まさか、嘘だろ?』と何かを察しているようであった。それと同時に、魔族が準備室の狭い入り口を壊し、室内へと侵入してきた。
「ようし……!」
ケンは容器を抱えると、魔族へ向かって歩き出す。無謀ともいえるその行動に、ルリは小さな悲鳴をあげた。
「Verme!(虫ケラめ!)」
魔族は得物を振りかぶる。
「馬ッ鹿野郎……!」
エイは傍の棚にある薬品の入った瓶を手に取ると、今まさに魔族が振り下ろさんとしているその手目掛け投げつけた。砕け散る瓶、大したダメージにはならないが、ケン目掛けたその手は僅かにズレ、轟音を立てて床を砕いた。
「おらっ! こいつを喰らえ!」
ケンは手にした容器を、大きく開かれた魔族の口腔内へと押し込む。突然の異物に面食らった魔族は、勢いよく口を閉じる。巨大な顎がプラスチック製の容器をいともたやすく粉砕し、内容物は全て飲み込まれていった。
「へへ……どうだ……」
僅かに後ずさりしつつ、ケンは様子を窺う。しかし魔族は気にする様子もなく、手にした巨大な鉄塊を振り上げた。完全に油断していたケン。ただその腕を呆けた表情で眺めているだけだった。
「フィヨトルの縛鎖!」
ルリが素早く空中に描き出したルーンから、光の鎖が飛び出すと、それは鱗に覆われたトカゲ人間の腕にきつく巻き付き自由を奪う。その隙にケンは立ち上がると、エイとルリの元へと駆け寄った。
「あ、ありがとう!」
「本当に……本当にどうかしていますよあなた!」
腕に絡みつく光の鎖を外そうともがく巨体、その様子を三人は黙って見ている事しかできなかった。
「これからどうする?」
エイの額からは汗が流れている。
「俺の狙い通りなら、そろそろだと思うんだけど……」
本来、ナトリウムは水と反応した場合に即反応を起こすものだ。魔族の口腔内――唾液がナトリウムに触れればそこでヤツの頭は汚い花火になるはずだ。しかし現在、望んだ反応は一切見られない。魔族の胃液では反応しないのか? 石油が覆っているから時間がかかるのか? 様々な思考がケンの脳裏を巡る。ケンの科学的反応への確信は、いつしか懇願へと変わっていた。
「私のルーン、そろそろ限界です……」
魔族を捕縛する光の鎖、その輝きが徐々に弱まってゆく。拘束の力も弱まったのか、もがく腕に引っ張られメキメキと音を立て始める。持って後数刻なのは誰の目を持って見ても明らかだった。
「もう、持ちません……!」
ルリの言葉通り、光の鎖はゆっくりと、溶けるように消えていった。勝ち誇った様に笑うトカゲ人間。ヤツらも笑うのだろうか? ケンは極限の状態の中、ふとそんな事を考える。近づいてくる巨体。もはやこれまでか、と三人が諦めかけたその時、彼の足が止まり、何やら苦しみだした。
「Il ventre... brucia...(腹が……燃える……)」
次の瞬間、魔族の体が膨らみ上がり、内容物をぶちまけながら盛大に大爆発を起こした。ケン、ルリ、エイもその衝撃に、背後の壁まで弾き飛ばされた。
しばしの静寂。割れた窓から、外で降りしきる雨の音がサラサラと静かに聞こえる。ケンはゆっくりと上半身を起こす。耳鳴りと、体を打ち付けた痛み、疲労感……しかし何よりも、生き抜いたというその大きな実感が自身の体に訴えかける不快なマイナス要素を打ち消していた。
「あー……みんな、生きてる?」
「ひどい目に遭いました……」
ルリが頭を振ると、彼女の長い髪から破片やら何やらが落ちていった。
「そうだな……ひどい目に――なんだ?」
身を起こしたエイは、ケンとルリが自分を見て何やら奇妙な顔をしている事に気が付く。
「お前……めっちゃ汚ェ!」
エイは慌てて自身の顔に触れる。何やらぬるりとした不快なものが。それに、どうやら眼鏡もそうとう汚れているようで視界が濁っている。
「汚いって、そんな……!」
そういいつつも、ルリは僅かに肩を震わせ、笑いを堪えている様子だった。
「君まで……」
ぼろぼろに荒れ果てた室内に三人の笑い声が響く。それは、凄惨な出来事を忘れさせてくれるつかの間の暖かい時間だった。
* * *
「それで、この後はどうする?」
流水で丁寧に手を洗いながら、ケンは言う。三人は、準備室から出ると理科室に備えつけられている水道で体に着いた汚れを落としていた。
「自治隊が来ない以上、やはり俺たちでどうにかするしかないだろうな」
眼鏡の水切りをしながらエイは答える。窓ガラスを吹き飛ばすほどの爆破、いくら雨が降っていようと外で待機している自治隊が気づかないはずがない。……はずなのだが、救援が来るでもなく、校舎は依然不気味な静けさを保ったままだった。
三人は破壊された窓からの脱出を試みるも、結果は昇降口と同じく室内に戻されるだけだった。
「屋上の反応も……まだありますね」
ルリの手に浮かび上がる印。青白いその光を見ながら、ルリは首を横に振る。
「手下の一匹がやられて、諦めてくれるんじゃあないかなって思ったけど、そうもいかないか……」
ケンの希望的観測にエイは笑う。
「その程度で引くようなら、ここまでの大事は起こさないさ」
『それにしても』と続ける。
「屋上のそいつが何をしたいのか……なぜ俺たちの学校を? なぜ殺すでもなく、連れ去る? 全く見えてこないのが、不気味だ」
「そうだよなあ……やってることは、閉じ込めて、逃げ場のない人をいたぶってるだけにしか見えないよ……」
ケンは自身のその言葉で、屋上にいる者への怒りが再び湧き上がって来るのを感じた。
「もう一体の魔族、翼の生えたそれは、生徒たちをどこかへ連れ去った……さっきそう言っていましたよね?」
「ああ。窓から侵入してきたそいつは、片っ端から生徒を掴んでどこかへ飛び去って行った。もしかしたら、屋上か?」
エイは卓上に腰掛けて推察する。魔族が自身を召喚した者に従うのなら、殺していない時点でその者の元へ連れて行っているという考えも納得できる。もっとも、それが何のため、という事に目を瞑ればの話ではあるが。
「とにかく、俺たちは一刻も早く屋上へ行って、こんなこと止めさせよう」
「そうだな。……ルリ、君は『送り帰せる』と言ったが、それは間違いないのか?」
ルリは自信なさげではあるものの、はっきりと答える。
「召喚士が使っている召喚陣、そこに刻まれたルーンを送還のものへと書き換えれば、おそらく……」
エイは短く『そうか』と言うとしばし考え込む。やがて顔を上げる。
「屋上についたら、俺とケンがヤツの注意を引く。ルリ、その間に君は召喚士の隙をついて送り帰すんだ」
静まり返った理科室に、雨の音だけが響き渡る。ルリは押し黙る。見習いの自分が、高位の術を使役する者を出し抜くことができるのだろうか? 厭な汗が流れ、彼女の背筋が震えた。
「おいエイ、お前無茶振りするなよ!」
ルリの様子に気が付いたケンが思わず口をはさむ。それしか方法が無いということはケン自身も分かってはいる、分かっているからこそ、“別の何か”を模索して結果思考が止まってしまう。エイが静かに反論しようとした時、ルリが二人を制止させた。
「やってみます」
彼女の表情には不安が貼り付いてはいるものの、その眼差しは真剣なものだった。
「ですが、もしも……もしも上手くいかなかったら、その時は……」
「その時は?」
エイが静かに問いかける。ルリは視線を逸らし、何も言わなかった。彼女の指先は、わずかに震えていた。
「一時撤退で、作戦の練り直しだな!」
ケンの言葉にルリは力なく微笑む。撤退している余裕などあるはずがないことは、この場の全員が理解しているが口には出さなかった。
「……よし、それじゃあ、行くぞ。ヤツは窓からやってくる。なるべく廊下の中央を進むんだ」
* * *
強まる雨脚、薄暗い廊下。三人は一列に並び、周囲を警戒しつつその足を屋上へと進めていた。 先頭のエイが、進む先に目を光らせる。その後ろでルリが、小さい体をさらに縮め、なるべく音を立てずにつま先立ちで歩く。殿のケンは、神経質に何度も背後に振り返っていた。
一定間隔で鳴り響く雷鳴。強烈な閃光がストロボのように刹那の眩さをもたらす。夏の月へと移りゆく最中の、じっとりとした気候。時折吹き込む、湿気をはらんだ風が、肌に纏わりつく。
ジリジリと焼き付けるような緊張感と共に進んだ先、吹き抜けの階段手前でエイが背後に手を伸ばし、ルリとケンを停止させる。角から半身を乗り出し、階段の様子を伺うエイ。
「よし、後はこの階段を最上階まで行けば、屋上だ」
ケンにも見覚えのある階段。昇った先は机の集積場と化している。四拾七番倉庫について話していたのが昨日の事であるにも関わらず、遠い日のように感じられた。
「昨日はこんなことになるなんて思ってもみなかったよなあ?」
階段に辿り着いたことで気が緩んだのか、ケンは思わずエイに問いかける。エイが振り返り、呆れた表情を浮かべ口を開きかける。しかし彼の言葉は、ルリの悲鳴によって掻き消された。
雷鳴と閃光。階段の踊り場にある巨大な窓に、邪悪なシルエットが浮かび上がった。人間離れした形、巨躯に同じく巨大な翼。突然の邂逅に固まる三人目掛け、そのシルエットは窓ガラスを突き破り襲い掛かった。
「きゃあっ!」
ルリの悲鳴が聞こえた直後、彼女の体が宙に浮く。魔族の鉤爪がルリを掴み、そのまま壁に叩きつけた。ルリは短い呻き声を上げ、意識を失った。
「ぐあっ……!」
踊り場から一気に下の階まで突き落とされたケンとエイ。背中を打ち付けた痛みと苦しみに思わず咳き込む。よろよろと手を突き、何とか体を起こそうとするケンの目の前に、禍々しい鉤爪の付いた両足が着地する。恐る恐る視線を上げると、その全容が明らかになってゆく。
先程のトカゲ人間とは違った容姿をしており、2メートルを越えるであろう長身、赤黒い肌にその顔は眼孔のない頭蓋骨がむき出しになっていた。両の手には足にあるものよりも長く、鋭い爪が光っており、意識のないルリを器用に掴んでいた。
「T'ho scovata...! Beatrice...!(見つけたぞ……! 導きの光だ……!)」
ノイズのような、ざわめきのような、奇妙な重低音が響く。魔族は手にしたルリをまじまじと見つめる。
「その子を離せ!」
「Fuori dai piedi, immondizia!(邪魔だ、ゴミめが!)」
ケンが無策で飛び掛かった刹那、魔族は片足を軸にして勢いよくその身を翻す。その動きは彼の尻尾を鞭のように激しくしならせた。先端は鋭い刃物の様になっており、それが向かってくるケンを弾き飛ばした。蹲るケン、尻尾が直撃した右腕は切り裂かれ、血がしたたり落ちる。魔族は翼を広げると、自身がやって来た窓から飛び出してゆく。
「ケン! 大丈夫か!?」
エイがよろよろとケンの元へ近づく。
「俺の事はいい、それよりもアイツ、ルリちゃんを……!」
「わかってる、まずは止血だ。脇を押さえていろ」
ケンは前腕部の傷口から手を放し脇へと挟み込む。エイは自身のシャツを裂くと、ケンの前腕部に巻きつける。
「少し痛むぞ」
力を籠め、縛る。刺すような痛みに、ケンは思わず顔をしかめた。
「応急処置だ。しばらくは脇から手を離すな」
「ありがとな」
よろよろ立ち上がるケン。エイはケンの右腕を見て、一瞬表情を曇らせたが、すぐに自身も立ち上がる。
「行くぞ」
先程までの慎重さなど無かったかの如く、ケンとエイは階段を猛スピードで駆け上がる。アドレナリンが出ているのか、ケンは次第に右腕の痛みが引いていくのを感じた。
高く積まれた机や椅子を飛び越え、屋上へのドアの前に到達する二人。ケンは呼吸を整える事もせずノブに手をかける。固い反応。――どうしてこんな単純なことに気が回らなかったのだろうか、ケンは己の浅はかさをなじる。普段、屋上への立ち入りは危険ということで入り口に施錠が施されているのだ。
「ああクソっ!」
苛立つケンは、鉄のドアを蹴りつけるも、ただ無情な金属音が響くだけだった。
「どうする……どうする……!?」
職員室へカギを取りに行くか? しかしそうしているうちにルリの身に何かあったら……。この時間すら無駄だ。ケンは下の階から壁伝いに屋上へ上がる、などと無茶な事を思いついたその時、じっと黙っていたエイが口を開いた。
「下がってろ。“魔弾”で開ける」
エイは拳銃を取り出し、ドアノブへ向ける。
「ま、待てって、そんなとこで撃ったら跳弾が!」
慌てるケンを、エイは遮る。
「言っただろ、魔弾だ。普通の弾丸じゃあない」
エイは拳銃を見つめ、小さく呟く。
「姉さん、もう一発、使うよ? ……うん」
エイは、まるでもう一人誰かがそこにいるかのように会話をしている。腑に落ちない奇妙な状況に、ケンは眉をひそめるも、他に手立てはなく、『……頼むよ』と半歩引いた。
「よし……」
銃口をドアノブ、鍵穴の位置へと向けるエイ。一呼吸おいて、意を決したように引き金を引く。発砲音と共に、マズルフラッシュで周囲が一瞬明るくなる。跳弾を恐れ身をよじるケンだったが、驚くべきものを目の当たりにした。施錠された部分が、ごっそりと抉り取られたかのように消失していた。
「魔弾は、狙った対象は絶対に外さない……それが何であってもな」
疑問符を浮かべるケンを横目に、エイは勢いよくドアを押し開ける。湿った風が流れ込んできた。開けた屋上、降りしきる雨がコンクリート張りの床を打ち付ける。
真っ先に目に入ったのは、横たわるルリだった。急いで駆け寄り、抱き起こす。呼吸はしているようで、ケンが軽く頬を叩くと、ルリは意識を取り戻した。
安堵して周囲を見渡すと、出入口部分からやけに離れた場所、それもフェンスに寄りかかるような形で生徒や教員たちが固まっていることに気が付く。皆一様に恐怖の表情を浮かべている。
「みんな、どうした――」
「後ろ……後ろに……!!」
生徒の指さす先を視線で追うケン。今しがた彼が出てきた白い階段室、その屋根に、ヤツはいた。コンクリートの縁にしゃがみ込み、まるで彫像のように微動だにしない影。両膝に肘をつき、背中から伸びた巨大な翼を畳んだその姿は、教会の屋根に据えられたガーゴイルを思わせた。
雷鳴が轟き、空が白く染まる。
「何ぼーっとしている!!」
エイがケンとルリを突き飛ばす。赤黒い悪魔の様な姿が、翼を広げ、滑空してくる……その手にある鉤爪を鈍く光らせて。水たまりの中、ケンは一瞬、全てがスローモーションの様に感じられた。
「あ……」
振り下ろされる魔族の腕。それはエイを捉え、シャツを裂き、鮮血を飛び散らせた。
「嘘……嘘でしょ!?」
ルリの悲痛な叫びが響く。
「Tu non sei nulla...!(お前じゃあない……!)」
魔族は、血だまりの中横たわるエイを、まるで物のように乱暴に蹴り飛ばした。フェンスに激突するエイ。ピクリとも動かない。
「う……うあああああっ!」
頭に血が上ったケンは、恐怖すら忘れていた。自分よりも遥かに背丈のある魔族に、拳を打ち付ける。まるで鉄の板を殴りつけている様な感覚、しかしケンはそれでも打ち据える……拳からの流血も厭わずに。
「Beatrice non c'è... solo insetti...!(ここに救済はない……いるのは虫ケラばかりだ……!)」
魔族はケンの首を掴むと、軽々と持ち上げる。鉤爪がケンの首に食い込み、隙間から鮮血が流れ出す。
「Ora cercate il cane randagio sporco...! Basta così!(その上今度は薄汚い野良犬探し……! もううんざりだ!)」
明らかに怒気を孕んだその言葉、子細を理解できないケンでさえ、彼が何かに腹を立てているということが見て取れた。
「Bugiarda...! Ingannatore...! M'hai ingannato...!(嘘吐き……! ペテン師……! よくも騙してくれたな……!)」
魔族は怒りと共にケンを放り投げる。激しく階段室の壁面に叩きつけられる。歪む視界。もはやケンは、自分が息をしているのかさえ分からなかった。近づいてくる魔族、自分はここで終わるのだろうか。不思議とクリアになる感覚、弱まりつつある雨音、魔族の足音、ルリの動悸に――僅かだが、エイの鼓動。そうか、エイはまだ生きているのだ。ケンの心に喜びの光が差し込んだその時――。
「Muori(死ね)」
魔族の鋭い尻尾が、ケンの腹部に突き刺され、彼の体は宙に浮く。不気味な笑い声が、まるで不協和音を奏でるかのように響く。しかし、その声は尻すぼみに消えてゆく。彼は、“明らかな異変”を察知した。
「Oscuro... il potere.(闇の力……だと)」
半歩後ずさる魔族。彼の尻尾の先は、いつの間にかケンもろとも消失していた。出血も、その痛みも気に留めず、しきりに辺りを見回す魔族。数メートル先、雨に濡れたコンクリートの上に、しゃがみ込むケンを見つけた。
「Che cosa sei...!?(お前は何なんだ……!?)」
顔を上げるケン。雨が上がり、雲間から差し込む光が水たまりに反射し煌いた。彼は、自身の腹に突き刺さったものを躊躇なく抜き取ると、脇へ放り投げる。金属の様な音を立てて床を滑るそれには、“黒い血”が付着していた。
突如目の前に現れた“異常事態”。魔族は空への逃亡を図るも、地面を蹴り上げたその体は、宙に浮くことなく鈍い音を立て落下する。混乱する彼は、背中の激痛に気が付く。いつの間にか羽根をもがれていた事実に。
緑の血を流し、苦しむ様子を見て、ケンは別人の様な笑みを浮かべている。両手に持つ千切りとった羽根を脇へ放ると、血だまりにうずくまる魔族へ近づいた。
「Bestia nefasta...!(呪われた獣め……!)」
それが彼の発する最期の言葉になった。
* * *
「――さん、――て! も――!!」
「……ん?」
ケンは意識を取り戻す。……いつの間にか、雨が止んでいたのか。誰かが彼の背後にしがみついているのを感じる。振り返ると、ルリが涙を流しながらしきりに何かを訴えていたようだった。
「ケンさん……“戻った”のですね……!」
戻った? ルリの言葉の意図が掴めないケン。
「何が――」
ケンの言葉が途切れる。ルリに向けて伸ばされた自身の腕に、緑色の液体が付着していたからだ。慌てて自身の体を見ると、全身、その液体で染まっていた。絶句する彼に、さらに追い打ちをかけるような光景が広がる。それは、バラバラになった魔族の亡骸だった。原型が残らないほど徹底的に損壊されたそれは、緑色の水たまりに浮いていた。自分がやったのだろうか、これを? ケンは震える足で後ずさると、惨状から目をそらす。その先には、力なく座り込むエイが見えた。
「エイ……エイ!!!」
絞り出されるような声で、ケンは親友の元へ駆け寄る。胸に巻かれた包帯には血が滲み、エイはひどく疲れている様子ではあるものの、命に別状はなさそうだった。安堵したケンは、傍にやって来たルリに気が付く。
「これは、ルリちゃんが……?」
「はい。簡単な処置しか出来ませんが、最悪の状況は避けられました」
あまりの感激に言葉を失うケン。そんな彼の様子に、ルリも笑顔で答えた。
「ケン……聞け……」
エイが力なく手を上げると、指で呼び寄せるようなジェスチャーを示した。急いで傍にしゃがむケンとルリ。エイは苦しそうに言葉を紡いだ。
「急いで、ここを離れろ……」
不意に告げられたその言葉に困惑するケン。
「どうして? お前もそんな状況だし、自治隊が来るまで――」
肩で息をしながら、エイはケンを制止する。彼は屋上の隅で怯えている一団を指した。
「あいつらが、ルリに……魔女に……気付いた」
ケンは一団に目を向ける。見たことのある目、他者の拒絶、嫌悪。しかしそれは、今回は自身にも向いていることにケンは気が付いた。
「ごめんなさい、私、さっきエイさんを助けるために……ルーンを」
俯くルリに、ケンは優しく肩を掴み言葉をかける。
「謝っちゃダメだよ。ルリちゃんは正しいことをしたんだ。君がいなかったら、エイは死んでた」
エイは力なくサムズアップし、ケンへの同意を示した。
「俺もあいつらも、自治隊のお世話になるさ……お前たち二人は……今自治隊に捕まったらやっかい……だろ?」
「エイ……ありがとう」
ケンの純粋な気持ちに、エイは微笑む。そして、何かを決意したようにベルトに挟んでいた拳銃を取り出すと、ケンに差し出した。
「お前が……持っていてくれ……」
2度も窮地を救ってくれたエイの姉の形見、そんな大それた物持てないとばかりにケンは首を横に振る。
「いいから……俺が持っていると、また自治隊に取り上げられる……」
『それに』と付け加えた。
「お前だから……任せられるんだ……。頼む……姉さんを――」
そこまで言うと、エイは意識を失ったらしく、静かに目を閉じた。ケンは受け取った拳銃をまじまじと見つめる。玩具ではない、本物。引き金一つで命を奪える代物。使う機会が無いことを祈りながら、ベルトの間に挟み込んだ。
「行こう、ルリちゃん」
ケンはルリの手を取ると、屋上を後にした。
「正面は自治隊と鉢合わせになるよな……なら裏か?」
ルリの手を引き、ケンはひとりごちる。踊り場まで来た時、彼は大事なことを失念していたという事実に気が付く。魔族によって壊された窓からは、日光が差し込んでいた。
「そう言えば、俺たち、閉じ込められていたんだった!」
急に立ち止まったケンに、ルリがぶつかる。
「完全に忘れてた! 魔族を呼び出してた奴、捜さなきゃ!」
「そのことなのですが……」
ルリが控えめに切り出した。
* * *
「消えた!?」
「はい。ケンさんが、その……魔族を倒し……た、倒した辺りで、急に……」
結局、犯人の姿を一度も見る事はなく事件は終息していくのか。そこまで考え、いや違う、とケンは頭を振る。今回犠牲になった教員、生徒、自治隊員、皆それぞれに人生があり、家族があったはずだ。残された者たちは、今日で時が止まり、一生その傷を抱え過ごしていく。罪を償うべき者が逃げおおせた今、今日の悲劇はずっと終わることが無いのだ。
「あ、あの、ケンさん?」
ルリの伺うようなその声にケンは我に返る。
「あっ、ごめん。聞いてたよ。外に出られるなら、自治隊に見つかる前に早く出よう」
ルリは何か言いたげな表情であったが、鞄から薄汚れた大きな布を取り出した。
二人は“透明”になると、裏口側の昇降口へ向かう。去り際にケンは校舎を見やる。事件の謎や、置き去りにせざるを得なかったエイ。様々なものに後ろ髪をひかれつつも校舎を後にした。




