#04曇後雨
その日、ケンは珍しく早起きをした。普段ならば、いくら目覚まし時計が鳴ろうとも、彼が目を覚ますことは無い。恐らく、今ケンの中で静かに燃えている使命感が、彼の活力源となっているのだろう。 ルリという少女のために自分ができる事、ケンは昨日それをひたすら考えていた。今日やる事は決まっている、彼は自室を後にした。まずは洗顔と歯磨きで、寝起きの頭をスッキリさせよう。ケンは洗面所へと向かい、勢いよく洗面所のドアを開け放った。
「あっ」
開けた先、思わぬ人物との遭遇にケンは面食らう。それは“彼女”も同様だった。
「……えっ」
突然の来訪者に意表を突かれたのか、彼女は思わず半身振り返った所だろう。艶めく紺色の髪は彼女が振り向いた拍子で一瞬ふわりと浮き上がる。手にしたドライヤーは温風を送り続けている。
しばらく送風音のみが響く洗面所。やがてルリが手元のスイッチを切ると、静寂が訪れた。
「おはようございます」
「あ、うん。おはよう」
最低限の言葉のみを返すケン。次に何を言うべきか、何を彼女に伝えるべきか――さんざん知恵を絞ったはずが、それは彼の頭の中で雲散霧消していた。
「もうすぐ空きますので、少しだけ待っていて下さい」
「気にしないで……ごゆっくり……」
ゆっくりとドアを閉め背を向ける。扉越しのドライヤーの音が“今度は”耳に入った。
* * *
もそもそ、と気まずそうにパンを食むケン。そんな様子を見たマリが、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず新聞に目を戻した。遠くでドアが開き、そして閉まる音が聞こえる。
「お風呂、ありがとうございました」
「朝ご飯も食べていきなさいな」
ルリは『ありがとうございます』と言うと、ケンから離れた席につく。ケンはパンを食みつつ、ルリの様子を確認する。どう切り出すべきか――あれこれ思案を巡らせていたその時、テーブルの上に置かれているラジオから、ケンの身に覚えがあるニュースが流れた。
『昨日、自治隊の陸部が管理する第四拾七番倉庫に何者かが侵入するという事件が発生しました。盗まれた物は無く、一部が荒らされていた事から、自治隊はいたずら目的での侵入という見方を強め捜査を打ち切るとの見解を示しています。続きまして――』
自分たちの行った事の大きさに、軽はずみであったと反省していると、ケンは先程のニュースの内容に違和感を覚えた。
“盗まれた物はなく”
おかしい、エイは倉庫へ取りにいく物があり、実際それを手にしている所をケンは見た。自治隊のことだ、倉庫の内容物の管理は徹底してるはず。それもあんな包みを……包み?
「あッ!」
ケンは思わず声を上げた。怪訝そうな顔をするマリだが、彼はそれを気にする様子もない。彼が倉庫に侵入したのは単に友人の付き添いというわけではない。マチダ先生と謎の女性が取り引きしていた小さな包みの正体を確かめるためだ。包みを発見するには至ったが、その後の出来事ですっかりケンの頭から吹っ飛んでいた。
なぜ謎の包みをエイが持っていたのか、いや、なぜ“エイの姉の私物をマチダ先生の取引相手が持っていた”のか。ケンは溜息を洩らすと、コップに注がれているオレンジジュースを一気に飲み干した。……登校したら、真っ先にエイに聞いてみよう。ケンは椅子に深々と腰かけた。
「ケンちゃん、何かやましい事でもあるの?」
マリは『このいたずら小僧め』とでも言わんばかりの表情でケンを見ている。ケンは慌てて首を横にふる。
「違うんだ、ちょっと、いろいろあって……」
そんな様子を見ていたルリがおずおずと言葉を発した。
「ごめんなさい……」
「そうそう、だからごめん……えっ?」
ルリの発する謝罪の意図が分からずに困惑するケン。
「私があんなことになっていたから、大騒動になってしまって……」
どうやらルリは誤解をしているようだ。ケンは慌てて言った。
「ルリちゃんの所為じゃないから、謝る事はないよ。それに、あの時はああしなかったらずっと閉じ込められてたままだったかもしれないしね」
ルリの頭を撫でながらマリが続ける。
「うちのケンがやりたくてやったことさ。結果はやった事に対してに付くもの。だからルリちゃんは気にすることないの。ただ――」
マリはウインクして言う。
「船はちゃんと乗るように、ね」
* * *
「お世話になりました」
ルリが玄関口にて頭を下げる。ローブは着ておらず、この街を歩いても違和感の無い恰好だった。手の甲にある魔女の印は、今は綺麗さっぱり消えている。おそらく魔法でどうにかしたのだろう。
「あなたの事情全然知らないお節介者、だけどさ」
マリがゆっくり切り出す。慎重に言葉を選んでいるようだ。
「見つかるといいね、その捜している人」
「ありがとうございます」
ルリは微笑む。
「ええっと――」
思わず声を上げるケンを、マリは片手で制して黙らせる。
「月並みな言葉だけどさ、元気でね。いつでもウチに来ていいからね」
マリの言葉に今一度微笑みを見せると、ルリはスズハラ宅を後にした。
「ホレ少年、昨日の意気込みはどうした!」
ルリの出て行った玄関をただ呆然と眺めているケンの尻を叩きながらマリは言った。
「言ったでしょ、若い人には若い人。オバサンには大人の常識を言って聞かせるしか出来ないけど、ケンちゃんは一緒に悩んであげられる。答えがないから力になれるでしょ!」
「あ、ああ! 行ってきます!」
「行ってきな!」
ケンは鞄をひっ掴むと、勢いよく家を飛び出す。彼の前方にルリがいる。飛び出してきたケンに驚いているようだ。そして視線は、彼の足元を捉えており、合わせようとしていない事が見て取れる。
「どうしたんですか?」
「あのさ、ええっと……」
ケンは上手いことを言おうと考えているらしく、空を仰ぐ。
「まあいいや! ついてきて」
ルリの手を取ると歩き出す。
「ちょっと、離してください! 私には行くところが」
「見当はついているの?」
「それは……」
「この国は広いんだ。その会いたい人がいるかさえも分からない。でも、わざわざ全部見て周らなくてもいい、とっておきの場所があるんだ」
ルリの手を引き歩くケン。ルリはその手を振り払う。
「待ってください、あなたは……あなたは、赤の他人です」
「ああ!」
「じゃあ、関わらないでください」
「それは、できないんだ」
「はあ?」
ルリは混乱した。今自分の目の前にいるこの少年は一体何のつもりなのだろう。見返りを求めているわけでもなく、自分の事を否定するでもない。初対面にも関わらず、まるで旧知の仲であるかのような態度。そして何より、彼の真っ直ぐな視線から来る意味の分からない懐かしい感じ。無視しようとすればする程意識してしまう。
人と話す時、無意識に視線を逸らしてしまう事が多いルリ。だがケンは、それでも真っ直ぐに彼女の瞳を見つめてくる。ルリは彼のグレーの瞳を見ていると、懐かしい、過去に忘れた愛おしさとでも言うのだろうか、まるでそんな感情が湧き上がるのだ。ルリはこめかみに左手を当て、深い溜息をつく。
「……案内してください」
「本当!?」
「その“場所”とやらに着くまでです。着いたらもう私には関わらないでくださ――」
ルリがそう言い終わるか終わらないうちに、ケンは嬉しそうに彼女の手を引き歩き出した。
「こっちこっち」
ケンとルリはいくつもの角を曲がり、通りを越え、路地を抜けた。背景はいつしか、旧市街地からスラム街へと移っている。
「それで、私たちは今どこへ向かっているのですか?」
街の雰囲気の変化を感じ取ったルリがケンに尋ねた。
「スズキ先生に会いに行くんだよ」
「スズキ先生、ですか?」
「ああ。先生ならいろんな事知ってるからね」
「その人も魔女、だったりします?」
「いいや、スズキ先生は男だよ。スズキ先生は――」
言葉を遮りケンはその場で急停止した。ルリも何事かと辺りを見回すが、すぐに察知した。
「囲まれて、いますね」
「ああ。でも、大丈夫」
その言葉とは裏腹に、ケンの額から汗が流れる。
ここスラム街では、日夜発展していく世の趨勢から取り残された者たちが暮らしており、都市部や旧市街との間には一個人ではどうしようもない隔絶が存在していた。その隔たりは、恨み、妬みといったマイナスのエネルギーを産み出し、無垢な若者たちは思うままにその行き場のない力を残酷に振るってしまう。
廃屋同然の建物の路地から、汚らしい格好をした少年達がゾロゾロとやってくる。前後左右、人数は10人以上。皆一様に、日々の鬱屈とした思いを発散させるべく“自分より弱いもの”を探しているのだ。
一人のリーダー格と思しき少年がずいと前に進みでる。背丈はケンよりはるかに高く、筋骨隆々だ。
「見ろよ……、ガキだけど女がいる」
彼は下品な笑みを浮かべている。取り巻き達も興奮した様子だ。
「お前達には関係のない子だ。悪いが通してもらうよ」
ルリの手を引き押し通ろうとするケンに、鉄パイプが向けられた。リーダー格の少年は焦点の定まらない目をケンに向け言った。
「お前を殺せば女は俺たちのもんだ……だから、死ね!」
少年は鉄パイプを振りかぶる。ケンは覚悟を決め身構える。その時、取り巻きの一人が悲鳴をあげた。
「た、タスさァん! この女、ま、魔女だァーッッ!」
ルリの手には印が浮かび上がり、氷のように冷たい表情でタスを睨みつけた。
「あぁ……!? なんで魔女がいるんだよォ!? 殺される!」
タスは鉄パイプをその場にほうり投げると、金切り声をあげ逃げ出す取り巻きを押し退けながら一目散に走り去っていった。
「あんまり、賢くないですね。今のやり方は」
ルリはバツが悪そうにケンに笑いかけた。印はもうない。
ルリの笑顔にケンは激しく心が痛むのを感じた。化け物扱いされて辛くないはずかない。なのに何故笑う? これが初めてじゃないからか? 今までどれだけこの様な思いをしてきたのだろう。様々な痛みを、その小さな体に押し込めて……。
「大丈夫ですよ、もう慣れっこですから」
ルリは鞄からハンカチを取り出しケンの頬を流れる涙を拭った。
ケンはハッと我に帰り、ゴシゴシと袖で目を擦った。
「お師匠様に習うんですよ、印の隠し方。そうすれば、いろいろ便利ですしね」
「ルリちゃん……」
「さ、邪魔な人たちはいなくなったから、案内続けてください」
彼女は彼女なりに折り合いをつけているのだろう、理不尽さを感じながらもルリの強かさに感服した。
* * *
「ここだよ」
「ここ、ですか」
ケンとルリは、トタンでできた今にも倒壊しそうな建物の前にいた。他の建物よりも横長な作りで、ケンドージョーというところらしい。
「あ、先生おはようございます!」
建物の裏手にその人物はいた。
僅かに残った白髪と禿頭、シワの刻まれたその顔は小難しい表情をしており、ドラム缶の中に薪を放り込み火を熾していた。彼の腰にぶら下げられている小型のラジオからは雑音に紛れて軽快な音楽が流れている。
「ああ、スズハラ君か。どうしたんだこんな早くから」
スズキ先生は薪を火かき棒で突っつきながらケンの方へと視線を向けた。
「実は捜している人がいて、先生ならわかるかなと思ってお願いしたいんです」
「捜している人? スズハラ君が?」
「いえ、僕ではなくて、この子なんです」
ケンは半身身を引く。ルリは軽く会釈をして切り出した。その姿を見た途端、スズキの表情が一変する。
「初めまして。早速で申し訳ないのですが、“オリンポス12神”なる組織に属していた、という方をご存知ないでしょうか」
そのルリの問いにスズキはまるで雷にでも撃たれたかのような反応を見せる。その様は何か知っている、しかも何か良くない感じで、とケンは思った。
「君は……、まさかあの時の……!!」
スズキの表情は強張り、何かを考えているのか暫く両目を閉じたままでいた。
「立ち話もなんだ……そこへ掛けなさい」
スズキが顎でしゃくる先には、ちょうど焚火で暖を取ることのできる位置にボロボロの椅子が置かれていた。
「ありがとうございます」
ルリに続きケンも腰掛ける。スズキは震える手でラジオのボリュームを下げると、静かに口を開いた。
「“オリンポス12神”の生き残り……その“最後のひとり”の行方を知りたい……そういうことだね?」
穏やかではないスズキの問い。ルリは張り詰めた空気にわずかに身じろいだ。
「最後の、ひとり……? ……とにかく、どうしても“彼ら”に会いたいのです」
「会ってどうする? どうしたいのだね」
スズキの口調は明らかに何かを知っている様子だ。ピリピリとした緊張感が独特な雰囲気を醸し出していた。
「私は……会って……」
「殺してやりたい……違うかね?」
唐突に発せられたその衝撃的な言葉に、ケンは己の耳を疑った。温厚なスズキからは想像もつかないような物騒な言葉。
「いつかこの日が来ると思っていた。覚悟はできているつもりだった」
スズキの言葉は微かに震えていた。ルリは押し黙っている。
「だが私はこうして今日まで逃げ隠れて生きてきた。……愚かだったよ。家族を捨て、生涯を懸けて責務を果たすと誓ったはずだったのに……」
スズキは焚火を見つめながら自嘲気味に吐き捨てた。
「今ここにいるこのくたびれた老いぼれこそ、かつて“オリンポス12神”に属し組織を統括していた“ゼウス”だ」
突然告げられたその真実に、ケンは面食らい思わず横やりを入れてしまう。
「そんな、先生ゼウスってガラじゃないですよ……」
「組織として活動するにあたって、神話の神々から名前を賜っているのさ。今考えればお笑い種だよ。人が神の名を名乗るなんて……烏滸がましい」
ルリを見据えるスズキ。
「5年前のあの時、君達を……君を救えなかった私の罪、今ここで清算しよう」
「――だが」スズキは続ける。
「他の仲間達の事は赦してやってほしい。きっと仲間たちも彼の岸辺で“あの日”を悔いているんだ」
両手を広げルリの目の前に進み出るスズキ。先ほどから押し黙ったままのルリは静かに立ち上がる。その左手にいつの間にか杖が握られていた。
「ちょっと待って、清算って何ですか先生! ルリちゃんも何を――」
次の瞬間、青い稲妻が迸りスズキの右肩を貫いていた。
強烈な光、轟音、そして肉が焼け焦げる臭い。ケンは目の前の出来事にただ呆然としていたが、杖を握りその場に固まったままのルリをみてようやく我に返った。
「ちょっと待ってよ! 先生死んじゃう!」
「この人は……この人は……」
ルリは杖を取り落とし、その場に蹲る。
「事情は分からないけど、力ずくでどうにかするのは良くないよ!」
右肩を抑え呻くスズキ。ルリはしばらくその様子を茫然自失といった様子で眺めていたが、突然立ち上がると反転し薄暗い路地めがけ駆け出した。あんな状態のまま一人にするのは危険だとまさに後を追いかけようとしたケンだが、怪我を負ったスズキを残して立ち去るべきではない……。そもそも、この状況に陥ってしまったことは自分の配慮の足りなさからだとケンは猛省し、スズキに近寄る。
「先生、大丈夫ですか? こんな事になるなんて、俺――」
そこまで言うケンをスズキは息も絶え絶え震える手で制止した。
「私の力不足、漠然とした万能感からの慢心……当然の報いだ」
ケンにではなく自分自身に言い聞かせているかのような口ぶりにケンは首をかしげる。
「先生、いったい何が?」
「私の事はいいから、行ってあげなさい。さあ、早く!」
後ろ髪を引かれる思いでケンはスズキのもとを去る。その時、足元にルリの杖が転がってる事に気が付き、それを拾い上げるとスラム街の路地を駆け出した。
「一体どこに……?」
スラム街は広く、乱雑に違法建築された建物が縦横無尽に広がる路地を作り出している。故にそこでの人探しなど至難の業だ。途方に暮れるケンは、その右手の感触にルリの杖を握っていた事を思い出した。銀色に輝くその杖の先端は、ひとりでにある一定の方向を指し示した。
「ひょっとして、杖の方向にルリちゃんがいるのか?」
今は藁にも縋る思いでケンは杖の指し示す方向に駆け出す。
「いた……いた!」
いくつもの角を曲がり路地を抜けた先、あばら家の軒先にルリは顔を手で覆い蹲っていた。
「ルリちゃん!」
ケンの呼びかけにルリは顔を上げない。ケンは傍まで駆け寄るとその場で腰を下ろす。
「探したよ。ここは危ないところだからさ、この杖がなかったら見つけられなかったよ」
「できませんでした……」
「えっ?」
「あれだけ覚悟をして出てきたのに……みんなを裏切って……お師匠様にも嘘をついて……それでも……私がやらなくちゃ……でも、できなかった」
ルリのさめざめと泣く様子にケンはいたたまれなくなり、思わずその小さな体を抱き寄せた。ルリは抵抗することも拒絶することもなくただケンに体を預け涙を流した。
ケンは空を仰ぐ。今にも雨が降り出しそうな曇天はスラムの建物と合わさり鬱屈とした雰囲気を醸し出している。どこかの家から聞こえてくるラジオ番組の音とルリのすすり泣く声が静かに路地に響いた。
それからしばらくした後、ルリは泣き止むとその場に改めて座り込む。落ち着いた様子を確認したケンがおずおずと切り出す。
「事情はいろいろあるだろうしさ、あんまり言える立場じゃないんだけど、力でどうにかするのはよくないと思うよ」
ルリはケンを見てはいないものの、確かに頷いている。よかった、ケンは安堵した。
「過去の事はよくわからないけどさ、スズキ先生はその……悪い事をするような人じゃないよ。だから、もう一度話を聞いてみよう。暴力以外で解決できれば、その方がずっといいよ」
「そう、ですね」
ルリも何かを考えているようだった。ケンはできる限りの提案をする。
「もしかしたらさ、何か知っている人が他にもいるかもしれないしさ、そういう人達みんなで話そう」
気まずい沈黙が流れ、再びラジオ番組の音が耳に入る。緊急放送だろうか、何やらただならぬ雰囲気の放送にケンは耳を傾ける。
『――繰り返します。現在イースト・シティ新市街地のセントラル・ハイスクールにて正体不明の生物による襲撃事件が発生している模様です。正体不明の生物はセントラル・ハイスクールの敷地内から外へ出る様子は見せていませんが、付近にお住まいの方々は安全のため決して近づかないようお願い致します。また自治隊の救援活動は現在難航しており――』
ケンは弾かれた様に立ち上がった。
「どうかしましたか?」
ルリは怪訝な表情でケンを見つめる。
「セントラル・ハイスクールって……俺の通ってる学校なんだ」
それにしても、とケンはひとりごちる。
「自治隊が攻めあぐねる正体不明の生物ってなんだよ……」
ラジオからの異様な緊急速報に、ケンの鼓動は早くなり額からは汗が流れ落ちた。この時間帯、彼の級友たちも登校しているはずだ。彼らにもしもの事があったら……。そんな彼の様子を見かねたルリが提案する。
「とりあえず、様子を見に行きませんか?」
「でもルリちゃん、スズキ先生ともう一度話を――」
ルリは左手をあげケンを制止させる。
「少しだけ、頭を冷やしたいんです。それから、謝って……もう一度話を、しっかりと話をしたいです」
彼女なりに整理がついたのだろう。ケンはそう理解するとルリに手を差し伸べた。
「わかった。じゃあついてきて」
* * *
「うわあ……これじゃあ近寄れないよ」
ケンはセントラル・ハイスクール向かいのカフェから校門を眺めていた。いつもは学生で賑わっているカフェだが、この日はそんな日常をまったく連想させない程の店内で、ケンとルリ以外は彼らと同じようにセントラル・ハイスクールの様子が気になって仕事そっちのけで眺めている店員だけである。
「軍隊の包囲に野次馬の群れ……入る隙なんてありませんね」
校門の前には自治隊の武装した兵士と装甲車、さらにその周りを多くの群衆が取り囲みとてもではないが近寄ることの出来ない状況になっていた。
ケンは焦りからか、神経質に紅茶の入った湯気の立つカップを揺らしている。その時外にある変化を見つけた。
「あ、雨が」
ポツリポツリと雨粒が降り注ぎ、次第にその雨脚を強めていく。校門前に群がっていた人々は徐々に散っていき今や見張りの自治隊のみが残されるという具合だ。
「これならなんとかなりそうですね」
ルリは店員を軽く見やると、ケンの傍に近寄る。彼女のカバンの中から薄汚れた大きな布を取り出し広げると、自身とケンを頭の上からすっぽりと包み込んだ。
「もう少し、近づいてください」
ケンは言われた通りにルリに近づく。ほぼ二人の体が密着する。ルリの髪から香る香りに思わず鼓動が早まるのをケンは感じたが、これから乗り込む緊張の為だと自分に言い聞かせた。
「今私たちは誰からも相手にされません」
「見えなくなってるの?」
「いいえ、見えています。ですが、誰も気に留めなくなるんです」
魔法の道具に関心しつつ、ケンはカフェの出口に向かう。
「あ痛、ケンさん、足を踏まないでください」
「ごめん」
凸凹の二人三脚は危なっかしくも道路を横切ると、校門前に到達した。レインコートを身に着けた自治隊の兵士二人が銃器を手につくねんと立っている。その間抜け面にケンは一抹の不安を抱えつつ横を通り過ぎる。
「ん?」
兵士の一人が何かを感じ取り虚空を見つめる。彼が伸ばした手はただ虚空を切るだけだった。
「どうした?」
「いや、今だれかそこにいたような」
まるで狐につままれたかのような錯覚に陥りただ何もない空間を睨み続ける同僚をたしなめる。
「やめてくれよ。ただでさえ不気味なこの任務なのによ、変な事言うと“そういうの”が寄ってきちまうだろ」
兵士は『ははは』と笑い飛ばす。
「すまない。でも上も何考えてんだかなあ。『増援は頃合いを見計らって随時投入。それまで待機せよ』だなんて」
「いいじゃねえか、このクソ雨さえ我慢していりゃあこうして立ってるだけで金がもらえるんだからよ」
「そりゃあそうだけどよ、いくらなんでも静かすぎやしねえか?」
兵士二人は雨の降りしきる校庭を眺める。恐ろしく静かな校舎はただそこに存在していた。
「前衛部隊が入って行ったのがもう1時間以上前になるよなあ……?」
ケンとルリは昇降口から校内に侵入する。占拠され侵入口もないのかと身構えていた二人はあまりの緩さにあっけにとられていた。ケンは包まっていた布から出ると、勢いよく駆け出す。
「ちょっと、ケンさん! 不用心すぎです! 戻って!」
ルリの制止を振り切ったケンは昇降口を抜けた先、メインホールに進み出る。その瞬間、フッと照明が落ちたかのように辺りが暗くなる。と同時に足元の“何か”を踏みつけそれにより滑り転倒した。
「な、んだこれ……?」
手に付着した“何か”。暗くてよく確認できないものの、ドロリとした液状のものである事だけは理解できた。
「ケンさん、何やって……何でしょう……床が水浸し……? それにこの“臭い”……」
ルリはあまりの臭いに袖で口元を覆う。彼女は分かった。このホールに漂っているもの、それはむせ返るほどの血の匂いだということを……。
「なんだろう、すごく嫌な予感がする……」
ルリがケンに手を貸し起こしていると、バチバチと何かがショートするかのような音の後、照明が点灯する。天井からの光は、玄関ホールを照らし出す。ケンとルリは、突如彼らの正面に現れた“それ”を見て愕然とする。玄関ホールには、変わり果てた自治隊員の亡骸が山積みにされていたのだ。
手に付着した“何か”は、赤黒い液体……彼らから流れ出たものだろう。考えるのもおぞましく、ケンはあまりのその場の壮絶さに胃の奥から込み上げてくるものを感じた。
人間、恐ろしいと感じるものは多々存在する。しかし遺体、それも悪意のある形で晒されたそれほど恐ろしいものは他にはないだろう。ケンは初めて目にする凄惨なその恐怖の形に声を失っていた。正確には出せなくなっていたのだ。
「そんな……こんなこと、人間がするはずがない……こんな、惨い……」
二人はあまりに不用心に、考えなしに恐ろしいものの懐に飛び込んでしまったのだと各々の軽率さを呪った。だが状況はさらに容赦なく悪い方向へと二人を引きずり込んでいく。
「何の音ですか?」
ホールを挟んで反対の廊下より、激しい地鳴りのようなものが徐々に近づいてくる。ケンとルリは明らかなその脅威から逃れようと、昇降口を目指す。開け放たれた昇降口に体を滑り込ませた二人だったが、気が付くとまたあのホールにいた。近づいてくる地鳴りのようなものは先ほどより大きくなっている。二人はがむしゃらに出口を目指すがその度にホールへと逆戻りさせられた。
「そんな……! これって、高等ルーンの次元結界です……」
高位の魔女にしか行使のできない、空間を繋げる術。ルリの額から嫌な汗が流れ落ちた。
「ルーン……もしかして魔法なの? ならルリちゃんがどうにか――」
「見習いの私にどうにかできるものじゃあありません!」
「そんな……とにかく、とにかくここは危険だ、離れよう」
ケンが地鳴りが聞こえてくる方角とは逆の方向を指さしたとき、ふと違和感を覚える。それはルリも同じだったようで、震える声でケンに聞く。
「ケンさん……何か、静かになっていませんか……?」
「俺も、それ思ってた……」
気のせいであってほしい、そんな二人の願いは儚い望みであったようだ。ケンとルリの背後に何かの気配、それも巨大なものが存在している。荒い呼吸音、何か金属が擦れるような音……姿を確認していないのに“それ”は圧倒的な存在感を放っていた。
「あ、ああ……」
ケンはあまりの状況に失神しそうになっていた。彼が振り向いた先にいた“それ”はとても巨大、身長は3メートルを超えるであろう巨躯で、二足歩行のその体は全身がびっしりと緑の鱗で覆われている。鋭い牙をむき出しにしたその口からは粘液が絶え間なく垂れ流されており、両手には巨大な幅広の包丁のような刃物が握られていた。まるでトカゲの様なその頭に、知性の欠片も感じられない濁った小さな双眸。目の前の“二匹”の獲物を睨み付け、まるでこれからどう料理しようかと思案を巡らせているかのようであった。
「る、ルリちゃん、ま、魔法ゥ……」
ケンは情けないほど裏返った声でルリに囁くも、これまた情けない声で絶望的な返事が返ってくる。
「これ、ま、“魔族”です……魔族の体……ルーンを弾いて……効かな――」
ルリの言葉が遮られる。魔族と呼ばれたその存在が手にした刃物を振り下ろしてきたからだ。
ケンは咄嗟にルリを突き飛ばし自分も横っ飛びに倒れ込む。激しい地響きと共にホールの床が砕かれる。滑りながらも立ち上がろうとするケンの目の前に魔族はにじり寄る。もはや彼に言葉を発する余裕はなかった。そんな獲物を前にトカゲの姿の怪物は手にした巨大な刃物を振り上げ目標を定める。ルリの悲鳴が聞こえ、ケンは自分の最期を悟った。短い人生だったと目を閉じたその時、彼の背後、薄暗い廊下から何かが破裂する音――それは彼が生まれて初めて聞く銃声だった。おそるおそる目を開くと、そこには片目を潰され激しく流血し苦しんでいる魔族の姿があった。
「二人とも、こっちだ!」
廊下に、ケンにとって聞き覚えのある少年の声が響き渡った。




