#24誰そ彼のメランコリィ
豊穣の緑に囲まれ、牧歌的な空気に包まれた村、カナイド村。
太陽の降り注ぐ広場で、子供たちが無邪気に遊んでいる。彼らの中心には、筋骨逞しい若い男がひとり。ボールを高く掲げていた。
「ほーら、今度はあっちに投げるぞ! みんなで取りに行こう!」
男の手から放物線を描き放たれるボール。子供たちは嬉しそうな声を上げ一斉に駆け出す。
「アレス、おんぶ!」
男の子が若者の背中に飛びつく。アレスと呼ばれた男は白い歯を見せ笑うと、力強く大地を蹴った。
そんな微笑ましい光景を、離れた木の陰から覗く少女の姿があった。
あちこちほつれがあり、サイズがぶかぶかの服を身に着け、長い藍色の髪はボサボサで手入れが全くされていない様子だ。
少女は恨めしそうな顔で集団を眺めていたが、やがて小さく溜息をつくとその場にしゃがみこんだ。手ごろな枯れ枝を左の手に取ると、彼女は地面をつつく。
「……ふふっ」
するとそこから緑の芽が、まるで映像を早回ししているかのように伸びてくる。楽し気に眺める少女の目の前で、やがてそれは一輪の花を咲き誇らせた。
次に少女は枝を高く掲げる。するとそこに次々と蝶がひらひらと舞い寄ってきた。楽しそうに歩く少女を、蝶が追いかける。不思議な光景だった。
後ろ歩きで、追ってくる蝶を眺める少女。そのとき――。
「あっ……」
前方を確認していなかった少女は、何かに背中からぶつかる。急いで振り返ると、そこには女性がしゃがみこみなにやら土いじりを行っているようだった。
「あの……ごめんなさ……い」
少女の手から枝が落ちる。蝶たちは途端に散り散りになり四方へと飛び去って行った。
女性は驚くでもなくゆっくりと顔を上げる。土で汚れた顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
「こんにちは、かわいいお嬢さん」
「あなたは、ここでなにをしているの?」
少女の質問に、女性は手で額の汗を拭う。彼女の顔に、またひとつ汚れが追加された。
「土壌調査……んー……この村で、お野菜のお家になる所をさがしているの」
「つちをほって?」
「そうよー。土ってすごいのよ。喋らないのに、多くのことを教えてくれるんだから」
首をかしげる少女。女性は被っている麦わら帽子を脱ぐと、少女に近づいた。
「私はデメテル。あなたは?」
「わたし、ルリ……。デメテルさん、かわったなまえだね」
「んーとね? 本名は違うのよ? ……あっ、“今は”ね、今はデメテルって言うのよ」
デメテルはからからっと笑う。そして、笑いながらもルリと名乗った少女のことを注意深く観察していた。
やせ細った身体、明らかに体格に合っていない服、そして子供たちの集団からの孤立……。
「そうだルリ、私ね、今お手伝いしてくれる人を探していたところなの! 手伝ってくれたら、私すっごい嬉しいなあ……?」
わざとらしすぎるかな? 彼女はそう思ったが、ルリの表情が僅かに動きその思いは杞憂だったと悟る。
「おてつだい……? わたしでいいの?」
「そ。こっち来て。ここから一定の間隔で土を掘っていくの。で、掘った土はここに。簡単でしょ?」
デメテルはスコップを差し出す。ルリは受け取ろうと手を伸ばすも、途中で躊躇するかのように小刻みに震えていた。
「はい、どうぞ」
優しくルリの手を取ると、デメテルはスコップを握らせた。
「あ……うん……」
「それでね――」
凸凹の背中が並び、二人の土いじりが静かに始まった。
せっせと土を掘り起こし、袋へと移していくルリ。デメテルはそれをそっと見守り、たまに手を貸す。交わす言葉は無いが、流れている空気に淀みは無かった。
そんな刹那、ルリの腹から大きな音が鳴る。顔を赤くし、スコップを取り落とすルリ。デメテルは悲痛な表情で見つめる。しばらく何か考えていたようだったが、やがて静かに立ち上がると、俯くルリに優しく声をかけた。
「休憩しよっか! 私もお腹減ったとこだったし」
「でもわたし、たべものなにももってないよ……」
「私のサンドイッチ、半分あげる。一緒に食べようよ。その方が絶対おいしいから!」
ルリはつばを飲み込む。デメテルはルリの手を取ると、脇に置かれていた鞄を手に森の中に続く道へと向かった。
「どうしてそっちにいくの?」
「この村に来た時にね? ちょっと探検したんだ。そしたら、綺麗な小川を見つけちゃってさ。そこならちょっとしたピクニック気分になれるじゃない?」
デメテルの手を握り返す力が強くなるのを彼女は感じた。デメテルの真意は他にあった。もしも、ルリが見知らぬものに施しを受けていると彼女の親が知ったら? おそらく……いや、必ず物事は悪い方へと向かうだろう。ならば人目のつかない所で“こっそり”行えばいい。彼女はそう考えたのだ。
ふたりは獣道を抜けると、清流へとたどり着く。水の流れる音、鳥のさえずり、そして木々の揺れる音。デメテルは息を吐くと川辺の倒木の上に腰掛けた。
「ほらルリ、あなたも」
デメテルはルリに促すと、鞄から大きな包みを取り出した。
「はい、これがあなたの。ちょっと大きいから、無理して全部食べなくても……わあ……」
彼女の言葉も耳に入らない様子で、ルリは夢中でサンドイッチを頬張っていた。その姿は、微笑ましいものとはほど遠く、胸を締め付けられるような光景だった。
「これは……ゼウスが来たら報告しておいた方がいいかもね」
デメテルはそうつぶやくと、もうひとつの包みを解いていった。
食後、ふたりは川から離れたところにいた。そこにはシロツメクサが咲き乱れており、緑と白の美しい絨毯が広がっているようだった。
ルリはふと何を思ったのか、夢中でシロツメクサを摘み始めた。
「あ、冠作るのね? 私も子供の頃やったっけなあ」
物思いにふけるデメテルとは裏腹に、ルリの表情はいたって真面目だった。
「ママにあげるの」
「まあ、あなた優しいのね」
「ママは、いつもわたしがいいこにしていないからおこるの。だから、これでかんむりをつくってあげれば、ママきっとおこらないから」
デメテルは絶句する。こんな幼い子供が抱えるにしては重すぎるものをルリは背負っているのだ。しばらく目を閉じ、体の震えを必死に抑えつけようとするデメテル。そして静かに息を吐くと、しゃがむルリの傍に寄った。
「私も、手伝うよ。さっきお手伝いしてくれたから、そのお礼ね」
「うん」
ふたりはせっせとシロツメクサを摘み、編み込んでいく。午後の時間は過ぎていき、夕方に差しかかろうとしたころ、緑と白の花冠はついに完成した。
「できた!」
「気合い入れてつくったら大きくなっちゃたねー。でも、これなら上出来だよ!」
その後、手をつなぎ来た道を戻るふたり。デメテルは、時折横目でルリを確認する。どこか緊張した面持ちのルリに、自分がしてやれることはないかと考えるも、出てくるのは深いため息ばかりだった。
「それじゃあ、ここでバイバイだね。それ、ママが喜んでくれるといいね!」
ルリに目線を合わせそう言うデメテル。ルリも僅かに微笑みを返した。
「あのね?」
「うん?」
「デメテルは、あしたもいる?」
その言葉に、デメテルの肩から知らず知らずのうちに力が抜けていった。
「いるよ。今月いっぱいはいるから、毎日おいでよ。ルリさえよければ、また手伝ってほしいな」
「……うん!」
ルリは元気よく駆け出していった。その背中を目で追いながら、デメテルは立ち上がる。腰に手を当て伸びをしていると、彼女に近づいてくる足音がした。
「あーいたいたー。デメっちー。相変わらず土いじってんの? ていうかさっきの汚いガキんちょなに? 懐かれた?」
声の主は、これでもかというぐらいに化粧や装飾を施した妙齢の女性だった。彼女から漂ってくる香水のキツい香りに、デメテルは僅かに顔をしかめた。
「アプロディーテ、あなた今日一日何してたのよ? 少しは――」
「あーそういうのいいからー? あーしヤリモクで来たってんのに、この村ってば萎びた芋みたいな男しかいないんだもン。超さげぽよ。マジぴえん。ぴえん通りこしてぱおん」
アプロディーテはピンクの巻き髪を指で弄んでいる。若干の苛立ちを押さえながら、デメテルは平静を装う努力をした。
「はああ……それで、私に何か用?」
「あっそうだった。あんね? この村、魔女がいるっぽいよ?」
デメテルの背筋に、氷のような感覚が走る。呼吸が浅くなり、指先が震えた。
「嘘……なワケないよね。あなたの情報収集能力“だけ”は確かだし……」
「は? マジ卍なんだけど? ケンカなら買うぞ? ほれ?」
シャドーボクシングのような動作で拳を突き出すアプロディーテ。しかし、デメテルの深刻な表情を見てそれも止まった。
「デメっちの両親、魔女に処されちゃったもンねー。やっぱ辛ェわってやつー? ブチ転がしたいよね」
「……聞かなかったことにしてあげる。そうじゃなきゃ、私、この村の人みんな嫌いになりそうだもん」
「さっきのガキんちょも?」
「……」
何も答えないデメテル。時間が止まったかのような静寂。木々の隙間から降りている夕日だけが時の流れを物語っていた。
家路を急ぐルリ。その手には緑の冠が大事そうに抱えられている。石畳の道を抜け、舗装されていない土の道を踏みしめ、彼女は自身の家にたどり着く。
草が伸び放題の荒れた庭を越え、玄関口に足を踏み入れたそのとき、家の扉が開き中から女性が出てきた。
美しいブロンドヘアーはよく手入れされており、その瞳はルリと同じ青だった。しかし、今は冷たい眼差しが彼女に向いていた。
「どこほっつき歩いていたの?」
冷たい第一声に、ルリの身体が縮こまる。
「迷惑かけるなってママいつもいっているでしょ?」
「あのねママ――」
「ママが話しているのに口をはさむなっていっつも言っているでしょうが!」
ルリの目に涙が浮かぶ。彼女は泣きそうになるのを必死でこらえながら、手にした花冠を突き出す。
「……何よ?」
「これ、つくったの。ママに、あげるから……」
「いらないわ汚い」
ルリの母は、花冠を叩き落す。ショックを受けるルリのことなど気にも留めず、つかつかとその横を通り過ぎようとした。
「ママ、どこにいくの?」
「どこだっていいでしょう? それより、カギはしっかりかけておきなさい。ご飯はいつものところに置いてあるからそれを食べなさい。明日の朝には帰るから」
一気にそうまくし立てると、彼女はドレスをなびかせながら歩き去っていった。
しばらく呆然と立ち尽くすルリだったが、突然駆け出す。扉を開け、居間を通り抜け、階段を駆け下り……地下室にある彼女の部屋に飛び込んだ。
粗末な寝床に飛び込むと、ルリは独り声を上げずに涙を流した。
それからどれほど経ったのだろうか、泣き疲れたルリは空腹の訴えに突き動かされ階段を上がっていた。
モノが散乱するキッチン。流し台には食器が溜まっており、その上でハエが踊っていた。
ルリはテーブルの上に目をやると、皿の上に一切れの黒パンとチーズの欠片が乗っかっていた。
「それわたしのごはんよ。たべないで」
チーズの上にいる黒い虫を手で追い払うと、ルリは椅子に座って黙々と食事を行った。
――お昼にもらったサンドイッチ、おいしかったね。
……また聞こえた。ルリは聞こえないふりをする。
――聞こえているんでしょ? ルリ? 返事してくれなきゃ寂しいなあ……。
数週間前から突然聞こえてくる声。どこから聞こえるのか、誰が喋っているのか。ルリには皆目見当もつかない。しかし、どこか人懐っこいその声は、決まってルリが悲しんでいる時に現れた。
「あなた、だれ?」
馬鹿馬鹿しいと内心思いつつも、ルリはとうとう謎の声に返事を返してしまった。返事などない。自分の幻聴だと自分自身に言い聞かせたとき、嬉しそうな声が確かに聞こえた。
――わあっ! やっと返事をくれたね! 私、シオン! あなたの……あなたの、お友達よ!
ルリは思わずその場で立ち上がる。辺りを見回しても、薄暗い室内には誰もいない。
「シオン……?」
――そう! ずっとあなたの傍にいたのよ? 気が付かなかった?
「どこ? みえないよ?」
――あなたの、隣。だからもうひとりじゃあないの。ひとりで、背負いこまないで。ね?
不思議と、ルリの肩から力が抜けていった。そのままふらふらと自室へ戻ると、ルリはシオンと会話を続けた。
シオンはなんとも奇妙な少女だった。ルリの気持ちは全部お見通し、記憶も共有していた。それはまるで――。
――まるでもうひとりの自分みたい?
くすくす笑う声がする。ルリもなんだか楽しい気分になっていった。話題はいくらでも湧いて出てくる。これまであまり他人と話さなかった分を取り戻すかのように、ルリはシオンとの会話を楽しんだ。
夜も更けたころ、村の外のパーティに出かけていたルリの母は、ひとりの男性を連れて帰宅しようとしていた。ふたりとも酒が回り、ふらつく足で家路に向かっている。
「あのガキ、まだ飼ってるのか?」
「あらひどい言いぐさね。あなたの子かもしれないのよ?」
「そこは断定しろよアバズレ」
下品な声で笑うふたり。ルリの母はドアノブに手をかけると、施錠もなく扉は開いた。
「やだ……あの子、あれだけ言ったのにカギをかけてないわ」
「どれ、俺が“教育”してやろうか」
男はそう言うと、フラフラとした足取りで地下室へと向かった。
――ルリ、ルリ起きて!
いつの間にか眠りについていたルリは、シオンの尋常ではない声で目を覚ました。
「ん……どうしたの?」
――鍵! “アイツ”が来るよ!
ルリは弾かれたようにベッドから飛び出すと、地下室の扉をロックした。それと同時に、ドアノブが激しくガチャつき、ドンドンと打ち付ける音が聞こえてきた。
「ガキ! 開けろ!」
ルリは寝床に飛び込むと、毛布の中でうずくまり震えていた。
――大丈夫、すぐに諦めるわ。
シオンの言う通り、男が悪態をつきながら階段を登っていく音が聞こえた。
ルリは体を震わせながら、その身を抱いていた。
――もうすぐ夜が明けるから、そうしたらこっそり家を抜け出しましょ? デメテルのところへ行くの。
ルリは頷く。そのとき、毛布の内部が青白い光で照らされる。咄嗟の出来事に、ルリは混乱する。その輝きは、彼女の左手の甲から発せられていた。
「なに、これ……?」
――何の模様だろう? でもルリ、それを人に見せたらダメ……そんな気がするわ。
シオンのその言葉はルリには届かなかった。先程の出来事などすっぽりと頭から抜け落ちたかのように、ルリは出口の扉へと向かう。鍵を開け放ち、ドアノブを握る。シオンがしきりに何か言っているようだったが、ルリはそれどころではなかった。
もつれる足で階段を上り、リビングへと向かう。男と酒を飲んでいる母親の姿がそこにはあった。
「この光……ルリ!? 嘘でしょ!? そ、その印……!」
室内に輝く青白い光に、ルリの母親はその顔に驚愕の色を浮かべる。
「おい嘘だろ……“魔女の印”じゃあねえか! 人間から魔女は産まれねえ……おいてめえ、魔女であることを隠していやがったな!?」
男はルリの母親の胸倉を掴む。弁解の言葉を探していた彼女は、とりわけ最低なものを吐き出した。
「違うわ! こんな子、私の子じゃあないわ! 拾ってきて、可哀そうだから育てていただけよ! 信じて!」
その言葉に、ルリは膝から崩れ落ちる。頭の中がぐわんぐわんと揺れ、思考が遮られる。シオンの声は、もはやノイズでしかなかった。
「なら……殺さねえとな……成長してもっとやべえ魔女になってみろ……一大事だ」
そう言うと男はキッチンへ行き、手に銀色に光る物を持って帰ってきた。
「お前がケジメつけろ。お前の子じゃあないってんなら、できるんだよな?」
包丁をルリの母親の手に押し付ける男。ルリはその光景をただぼーっと眺めていた。
――ルリ、立って! 逃げるのよ! でないと殺されるわ!
シオンの声が聞こえた。しかし、ルリはもうどうでもよかった。これで全てが終わるのなら、それで――。
――ああもうっ!
その言葉を最後に、ルリの意識は途切れた。
……光、頬を撫でる風の感触、揺れる木の葉の音。
ルリは目を開けると、昨日デメテルと昼食をとった小川に倒れていることに気が付いた。
必死に記憶の糸を辿るも、思い出せる光景は、刃物を手にこちらに向かってくる母親の姿だけだった。
込み上げてくる寒気と吐き気に、ルリはその場で縮こまる。それと同時に、先程までは諦めていた生への渇望も徐々に湧き出していた。
「デメテル……」
ルリは最後の希望を胸に、よろよろと立ち上がるとその場を後にした。
デメテルはおそらく、村のゲストハウスにいるだろう。左手に依然浮かんでいる印を隠そうともせず、ルリはまるで亡霊のようにフラフラと歩いていた。道中すれ違う人々は、皆一様にルリを見て悲鳴を上げている。
何がそんなに怖いのだろうか? 昨日までは存在すら認識していなかったのに。ルリはそう思った。
やがて彼女はゲストハウスにたどり着く。玄関口の扉を開くと、ルリはピンク色の髪をした女性、アプロディーテと鉢合わせた。
「んあ? 昨日のきったないガキんちょじゃん……ってマ!? そ、ソレ……」
ルリの手に輝く印を見たアプロディーテの顔が引きつっていく。
「ウソ……この村の魔女、ひとりじゃあなかった!? ……あっ、デメっち! ダメ! 来ちゃあダメ!!」
アプロディーテ必死の制止も空しく、デメテルは廊下の奥からやってきた。最初は女性の上げる声に眉根を寄せており、次にルリの姿をみて笑顔を浮かべる。そして、その手に浮かぶ印を見て、彼女の笑顔はすうっと溶けていった。
「デメテル……わたし――」
「来ないでッ!」
廊下にデメテルの声が反響する。それにつられて、“オリンポス12神”の他の面々も顔を覗かせる。
「ルリ、あなた……魔女だったの……?」
「まじょ……? わからない……きのう、きゅうに、これが……」
「来ないでって言ッてるでしょッ!!」
明らかな拒絶。昨日までの朗らかで優しい彼女とは、まるで別人のように感じられた。
ルリの胸を突き刺す鋭い痛み。最後の頼みも、今ここに崩れ去ったのだ。
ざわざわと狼狽する声が響く廊下。すると、建物の外にも人の気配が集まり出していた。
――魔女だ! 魔女が出たぞ!
――まだ幼くて力はないはずだ! 今のうちにやっちまえ!
――火あぶりだ!
――串刺しだ!
一斉に向けられる殺意に、ルリの膝が震え、失禁する。
デメテルは、ルリの襟首を掴むと勢いよく扉を開け放つ。その先には、農耕用具を手にした群衆の目がギラギラと輝いていた。
――殺せ!
――殺せ!
――殺せ!
そのとき、ルリの中で光が消えた。それとは逆に、彼女の手の甲の紋様が血の様に赤く輝き出した。
恐れおののく群衆。デメテルの手が離れる。
ルリの身体が宙に浮き、彼女の身体を強力な力場が渦巻き覆っていく。どす黒いそれは、やがて甲冑のような形を形成していった。幼いルリの体系とは似ても似つかない、成人体型だった。
その様子を遠くから見ている男がひとりいた。壮年の男性で、わずかに残った白髪に、皴の刻まれた顔。ただひとり、仲間たちより遅れてこの村にやってきたばかりのオリンポス12神の代表、ゼウスだった。
「な、なんなのだあの少女は……!? 魔女……いや、あれはまるで、神話の“ヴァルキュリア”そのものではないかッ!」
止めどなく流れる嫌な汗を拭おうともせず、ゼウスはただその光景に目を奪われている。
一方そのころ、群衆は突如目の前に顕現した甲冑にたじろいでいた。
「な、なんだコイツは……?」
「あの小さなガキじゃあなかったのか?」
どよめく者たち。しかしデメテルは怯まなかった。甲冑の脇に躍り出ると、群衆に呼びかけるように声を張り上げた。
「狼狽えるな! 数はこちらの方が上よ! みんなでかかれば、魔女なんて――」
途切れる声。デメテルの頭部は、甲冑がいつの間にか手にしていた槍によって粉砕されていた。
血しぶきを上げ倒れるデメテルの胴体。じわじわ広がっていく血だまり。
「あ――デメっち? あ……?」
その衝撃的な光景を目の当たりにして、アプロディーテの正気度はねじ切れてしまう。彼女は狂ったように笑い出した。
「あは……あはははは! もう終わりだあ! オワオワのオワピっぴ! うふ、あは――」
彼女の胴体は、槍の強烈な一撃で粉々に四散していった。
一斉に広まる悲鳴。先程までいきり立っていた群衆は一転、逃げ惑う羊の群れに変貌していた。
ひとり、またひとりと肉塊に変わっていく村人。その様子を見て、ゼウスは慌てて踵を返した。
恵まれない者に手を差し伸べる為に結成したオリンポス12神、しかし、今やそれはあっけなくも無残に撃ち砕かれていた。
耳にこびりつく悲鳴を遮るかのように、ゼウスは来た道をひた走る。
「すまない……皆の者、本当にすまない……っ!」
彼は一度も振り返ることなく村から逃げ出した。
散っていった群衆。甲冑、“ジーグルーネ”は近接攻撃が不可能だと判断すると、次の行動に移った。
槍を天高く掲げ、それに光が満ちていく。すると、一瞬のうちにそれは空まで昇っていくと、最高到達点から無数の光の束となって村中に降り注いだ。
家屋を砕き、燃やし尽くす破滅の光。隠れ震えていた人々を一瞬で蒸発させた。
* * *
「どうしてこんなところに“ヴァルキュリア”が……?」
フレイヤは戦猪、“ヒルディスヴィーニ”を駆りカナイド村に向かっていた。
“いつも通り”に魔女に接触し、自身の館へと導く。ただそれだけだと気を抜いていたツケだと彼女は歯噛みした。
「……っ、危ないっ!」
突如目の前に駆けてきた男性との接触を避けようと、フレイヤは慌ててヒルディスヴィーニの手綱を引いた。暴れ猪は顔を上げ急停止すると、不満そうに蹄を大地に打ち付けた。
「あなた、大事ないかしら?」
尻もちをつき、恐怖の表情でフレイヤを見つめる男性。皴の刻まれたその顔をさらにくしゃくしゃにさせていた。
「ヴァルキュリアの次は大猪!? もう勘弁してくれ!!」
男はフレイヤが引き留めるよりも早く逃げ出していく。残されたフレイヤは小さく肩をすくめた。
場面は再び惨劇の渦中であるカナイド村へと移る。
ジーグルーネは、“撃ち漏らした”人間をひとりずつ処分しているところだった。瓦礫に挟まれ動けない者、負傷し動けない者。すべて等しく息の根を止めていた。
そして最後の一件、完全に倒壊した家屋――ルリの家だった場所にたどり着く。ルリの母と、その愛人もまた、悪運強く生き残っていた。
男は瓦礫に腰から下を潰され身動きが取れず、ルリの母親は頭から血を流しその場にうずくまっていた。
「お、お前、ルリなんだってな? え? そうなんだろ?」
男は震える声でジーグルーネに呼びかける。
「俺はお前の父さんなんだぞ? 分かるか? さあ、助けろ。そうするのが娘の――」
途切れる声。彼の頭は踏みつぶされ、熟れたトマトのように真っ赤に飛び散った。
“最後のひとり”にゆっくりと近づくジーグルーネ。歩くたびに甲冑の金属音が響いた。
「化け物……!」
ルリの母親は、自分の娘を睨みつけるとそう言い放つ。
「恩知らず……! 誰が世話してやったと思っているの!? この――」
それが彼女の、あまりにも無情な最期の言葉だった。
* * *
「でも、私がカナイド村に到着したときには、村は壊滅。生存者はゼロ……地獄のような有様だったわ」
「そこで一体何が……?」
「“ヴァルキュリア因子”の発現と、力の暴走……」
「ヴァルキュリア因子……? ヴァルキュリアって、神話に出てくるあの……?」
何故だろうか、ヴァルキュリアという言葉にケンの胸はざわついた。
「ええ。正確には少し違うのだけれど、今はそれでいいわ。でね……その因子ってのは、ヴァルキュリアが己の子へと受け渡す力の証みたいなものよ」
「……話の流れからして、ルリちゃんが関係しているんですよね?」
フレイヤはケンに微笑みかける。
「理解が早くて助かるわ」
「ルリちゃんって、ヴァルキュリアの子だったんですか?」
フレイヤは首を横に振る。はっきりとした否定の意。しかし、彼女の表情は複雑なものだった。
「あの子が魔女の子であるのは間違いないのだけれど……ええと……」
額に手を当て顔を伏せるフレイヤ。彼女らしくもない仕草だとケンは怪訝な顔をした。
「ごめんなさい、これ以上の深入りは話が逸れてしまうし、あなたにも関わってくる話なの。明日、アースガルズでヴィーザルも交えて……そうしてもらえるかしら?」
ヴィーザルが誰なのか分からないケンだったが、今は首を縦に振るしかなかった。
「わ、わかりました……」
「しかしまあ、エラいこっちゃな。村を壊滅させるなんて……ヴァルキュリアってのは、まるで兵器みたいやないか」
リョウは頭の後ろで手を組み、深刻な顔で椅子の背もたれを軋ませた。
「ええ、兵器よ。“アースガルズ”のね」
フレイヤの口から事も無げに飛び出してくる言葉に、ケンは衝撃をうける。リョウはあやうく背中から転倒するところだった。
ヴァルキュリアは子をなすことができる……。つまり、生きた存在である。そして、兵器……つまるところ、生体兵器ということなのだろう。
ケンは以前、自身が生体兵器として造られた存在だとリノエから聞かされたことを思い出す。アースガルズという世界にも、研究所のように非人道的な行いをしている存在があるのだろうか? そして、フレイヤの“あなたにも関わってくる話”という言葉。
奇妙な偶然性に、ケンの疑念は深まるばかりだった。
「話を戻すわね。……私はヴァルキュリアの反応を追って村の中に足を踏み入れたの――」
食卓の誰もが食事の手を止め彼女の話に聞き入る。しかし、誰も食事を喉に通す気分ではなかった。……ただひとり、もりもりと食べ進めるヨシノを除いて。
フレイヤは再び口を開き惨劇の続きを語った……。
* * *
立ち昇る煙と死臭に、フレイヤは袖で口元を覆う。大規模な破壊跡、ヴァルキュリアの甲冑から発せられる強烈なルーンが大気を震わせ、それが肌に伝わる感覚……。額から流れる汗を拭うことも忘れ、フレイヤは自身の右手の印を頼りにヴァルキュリアの許へと足を速めた。
「いた……!」
村はずれ、倒壊した家屋の前で、黒い甲冑が独り立ちつくしていた。
「たゆたう水面に、その真実を映し出せ……ラグズの鏡」
フレイヤが杖で空中にルーン文字を描き、正体不明のヴァルキュリアの観察を行う。
「装着者の意識が無い……? それに、自己防衛機構が働いている……?」
フレイヤは怪訝な顔をする。山間の閑静な村、竜がいなければ飛竜もいないような辺境の地で、このヴァルキュリアは一体何から“身を守っていた”のだろうか?
彼女の存在にヴァルキュリアは気が付いたのか、その場でゆっくりと向きを変える。甲冑が揺れる音が聞こえ、音のない村の中でそれは異様に大きく響いた。
甲冑の頭部にはフェイスガードが展開されており、装着者の表情を伺うことはできなかった。しかし、フレイヤを認識したそれは紅い二つの眼が輝き、睨みつけるように彼女に射殺さんばかりの視線を送る。
しばしの静寂、家屋の焼ける音、風が揺らす木々のおと、そして遠くで聞こえる鳥のさえずり……。次の瞬間、ヴァルキュリアは人のそれを遥かに凌駕した脚力で大地を蹴る。漆黒の弾丸は、一直線、フレイヤ目掛けて放たれた。
疾風が駆け抜け、音を越える速さで突き出されるヴァルキュリアの槍。しかしそこにフレイヤの姿はなかった。
「止まりなさい……真実の光」
音もなく背後に周りこんでいたフレイヤは、瞬時に杖を振るう。眩い光に包まれる漆黒の甲冑は、一度大きく震えた後、重々しい金属音をたててその場に膝をついた。
ヴァルキュリアは両手を地面につき、肩を上下させている。それは装着者の意識が戻ったことを表していた。フレイヤは息を吐き額の汗を拭った。しかし――。
「あれ……? なに、これ……? え……?」
ヴァルキュリアの様子がおかしい。まるで確かめるかのように、自身の顔、体に触れている。その身振りから、動揺が伺える。
「大丈夫よ、すぐに――」
「いやっ!!」
フレイヤは、無力化できたと完全に気を緩めていた。不用心に近づいた彼女の顔面に、ヴァルキュリアが振るう指先がまるで刃のように横切る。
激しい痛みと、流血。そして、光の喪失。しかしフレイヤは一切動揺していなかった。混乱するヴァルキュリアにゆっくりと近づくと、冷たい甲冑を抱きしめる。
「大丈夫よ、束縛の解放……」
フレイヤの静かな詠唱に、黒の鎧は溶けるように消えていく。そして、その中から幼い少女がひとり姿を現した。少女は怯えた表情でフレイヤの顔を見ていたが、やがて彼女の腕の中でぐったりと気を失った。
小さな手に光る魔女の印、それを“確認”したフレイヤは小さく溜息をついた。
「……複雑な理由がありそうね」
少女を抱きかかえると、フレイヤは来た道を戻っていった。
* * *
「鎧の中から、ルリちゃんが……?」
ケンは改めてフレイヤの顔の傷跡を見る。
「ええそうよ。私も、まさか子どもが出てくるなんて想定外だったから……面食らったわね」
フレイヤはグラスを傾けミードを流し込む。ヨシノが動かすナイフとフォークの音のみが響いた。
「それから、どうなりました……?」
「それはもう大変だったわ。まともに会話ができるようになるまで……半年はかかったかしら?」
「半年!?」
「無理もないわ。あの子がこれまでどんな辛い目に遭ってきたか……それを考えると、心を閉ざすのも無理はないわ」
俯くケン、ここで彼の中である引っかかりが生まれる。彼は顔を上げると、思うままその疑問をフレイヤに投げかけた。
「フレイヤさんは、その村で初めてルリちゃんに出会ったんですよね? あなたの言い方だと、何だかルリちゃんの全てを知っているみたいで……」
「ああ、それね。魔女には、人の記憶を“視る”ことだってできるのよ」
さらりとそう言うフレイヤだったが、すぐに『でも、あまり褒められたことじゃあないし、よほどのことがない限りはやらないわ』と付け加えた。
「愛情を受けるはずの親からは虐げられ、他人からは無関心。そして、ようやくできた“繋がり”も目の前で消え去り、向けられる殺意……。村をまるごと焼き払うまでの過剰な防衛は、彼女自身の防衛反応でもあったのよ」
「そう、だったんですね……」
「エイルはルリを見るなり、『私がやらなくちゃ』って張り切っていたわ。あまり深くは言えないのだけれど、あの子も“心の死んだ人間”を間近で見てきたの。だからこそ、ルリ救済への使命感……そんなものがあったんじゃあないのかしら」
ただ言葉だけではなく、実の姉妹のようにルリに接するエイルも、深く悲しい事情を抱えている……。ケンは最初にエイルに会ったときの彼女の涙を思い出した。
「ただねえ……私とエイル、それに他の魔女たちじゃあどうしても彼女の心を取り戻すことはできなかったの。そこで、私は彼女の“心の防衛機能”に呼びかけたわ」
「それって、ヴァルキュリアですか?」
フレイヤは首を横に振った。
「詳しく話すと心理学になってしまうのだけれど、“解離性同一症”と呼ばれているものよ。壊れそうな心を守る為にあの子が作り出した、“たったひとりのお友達”ね。世界で一番の、あの子の理解者よ」
「かつては“多重人格”と言われていたもの、ですね?」
エイの静かな投げかけに、フレイヤはそっと頷く。その言葉に聞き覚えのあるケンだったが、ルリにそのような兆候は見られなかった。エイはそんな様子を察知したのか、簡潔に伝える。
「症例は人それぞれだが、人格が変わることだけが全てってわけじゃあないんだ」
エイの言葉に、フレイヤは感心したような驚いたような表情を見せ、彼の後に続いた。
「そのとおりよ。ルリの場合は、イマジナリーフレンドも近いのかもしれないわ。……とにかく、“彼女”はルリを守る為に母親から逃がした後、眠っていたの。でも、私の呼びかけに応えてくれたわ」
固唾をのみ次の言葉を待つケン。彼の拳はテーブルの上できつく握られていた。
「それからルリは、徐々に心を開いていってくれたわ」
大きく息を吐くケン。しかし、フレイヤは暗い顔で続けた。
「でも、あの子は“自分のやったこと”を思い出しちゃったの。自身に宿った兵器の暴走……そんな理屈が通じるはずもなく、あの子の心を蝕んでいったわ。日に日に焦燥に駆られて弱っていくルリ……しまいには、自分を傷つけ始めたの」
ケンはルリの右手にいつも巻かれているリストバンドを思い出した。気にしたこともなかったが、あの下には――。
「そんな様子を見かねた“ルリの中のあの子”は、ルリに“新しい真実”を教えたの。“オリンポス12神”という組織が村を襲った、母親は最期までルリを守り死んでいった。そして、最期までルリを愛していた、と」
フレイヤの口から語られる言葉に衝撃を受けるケン。それと同時に、納得も行った。イースト・シティのスラム街、そこで独り暮らしていたスズキは、自身がオリンポス12神のリーダーだったと言った。そしてルリは、そんなスズキの殺害を考えていた。
「つまり……ルリちゃんの罪悪感を拭い去るために、スズキ先生を……オリンポス12神を……その、悪者に仕立て上げて……」
「ええ。聞こえは悪いけれど、言ってしまえばそういうことよ。残酷な代替案ね。でも仕方のないことなの。心ってものは、一度壊れてしまうともう二度と同じ形には戻らないの。そして、修復したように見えて、端からボロボロと崩れていくのよ。ゆっくりね」
誰もが口をつぐむ。フレイヤは三度、ミードを口に含んだ。
「でもね、そんなある日私は情報を掴んだの。どこかの愚か者か知らないけれど、アースガルズの技術をこのミズガルズで実験している者がいるってね」
「それって……まさか、研究所!?」
ケンは勢いよく立ち上がった。グラスが倒れ、中の水がテーブル上に広がる。
「そうよ。気取った見世物小屋の名前を冠しているけれど、やっていることは人の道から外れた畜生共よ」
フレイヤの語り口の端から、僅かな怒りが感じられる。その様子にケンは冷静になり着席した。
「ルリの中で発現した力……それはかつてジーグルーネと呼ばれたヴァルキュリアの物だったの。そして彼女は、悲恋の末散っていったわ」
「んー? ヴァルキュリアのラブストーリーになんの関係があるんや?」
「大ありよ。研究所の研究のひとつに、かつての生体兵器……“ガルム”を研究しているものがあるの。ケン、分かるわよね?」
ケンは頷く。かつてリノエから聞かされた、“別の世界の兵器を再現しようとして造られた”という真実。彼女の仮説はバッチリ当たっていたのだ。舌を巻くと同時に、リノエが訝しんでいたルリの関係性も徐々に輪郭を見せてくる。ケンは次第にはまっていくパズルのピースを眺めている気分だった。
「アースガルズが滅ぶ切っ掛けになった終末戦争――“神々の黄昏”。その際、敵対関係にありながらも恋に落ち、そのまま共に命を落とした二人がいるの。ジーグルーネと、ガルム」
「じゃあ、俺とルリちゃんは……その人たちの生まれ変わり……?」
フレイヤははっきりと首を横に振る。
「いいえ、生まれ変わり……転生など絶対にありえないことなの。これは思想や個人の主義主張なんかじゃあなくって、世界のシステムそのものが“そう”なっているの」
「生まれ変わりじゃあないのに、その人たちと関係があるんですか……? なんだかややこしいですね……」
「明日、ヴィーザルに話を聞けば納得できるはずよ」
腑に落ちないものの、しっくりくる……奇妙な感覚であったが、ケンはまさにそんな気分だった。奇妙な夢、そしてその登場人物、ルリと初めて会ったにも関わらず彼女に抱いた不思議な感覚……。真実を聞かされた今、思い起こすと全て納得がいくものだった。
「ごめんなさいね、また話が逸れてしまったわ。……それで私は、ルリの心を癒せるのはかつてジーグルーネの魂に寄り添った者……ガルムしかいないと考えたの。ケン、あなたね」
「俺……そんな……自分のことで精一杯で、ルリちゃんの気持ちに目を向けるなんて――」
「そこは自信を持ちなさい。私、ルリを“外”に送り出して良かったと心から思っているわ」
「えっ、今……それじゃあ……ああ、そうなのか」
「ルリはオリンポス12神の打倒、私はルリにガルム……ケン、あなたとの邂逅を望んだわ。そして、私が“さりげなく”示した行き先……イースト・シティであなたたちの今日までが始まったの」
フレイヤは『まあ、あの子が貨物に閉じ込められるのは想定外だったけれど……』と小声で付け足した。
しんと静まり返る広間。ヨシノは口元を拭くと、静かに立ち上がった。
「ご馳走様ー。お先に失礼させてもらうわ」
手を振りその場を後にするヨシノを、フレイヤを除く全員が呆気にとられ見送った。
突然、チリンチリンと軽快な音が響く。ケンが顔を上げると、フレイヤの手にはいつの間にか小さなベルがあった。
しばらくすると、扉からエルルーンが飛び出してきた。
「テーブルの上……そう、彼のとこね。濡れちゃったから拭いてあげて」
エルルーンは手早くケンがこぼした水をふき取っていく。
「少し冷めちゃったわね」
フレイヤは杖を振ると、テーブルの上の料理から再び湯気が立ち昇った。
「……あ、これおいしいゾ」
ギィギは料理に手を付けているようだった。それを皮切りに、皆思い思いに料理を皿の上に載せていく。柔らかく煮込まれた豚肉のようなもの……先程の金色の猪だろうか? それに柔らかいパン、野菜たっぷりのスープ、果物……。暗い気持ちを押し込めるように、ケンは料理を飲み込む。
淡々と、静かに夕餉の時は過ぎていった。
「さて、と。お話できて良かったわ。明日は太陽が高く昇る頃に出るから、それまでゆっくりしていて構わないわ」
それだけ言うとフレイヤは口元を拭く。いつの間にかやってきていたエルルーンが、いそいそと彼女の椅子を引き立ち上がる手伝いをした。
広間を後にしようとしたフレイヤだったが、扉の前で足を止めると『そうだわ』と、さもついでのような口振りでケンたちに告げた。
「今日私がした話、ルリには内緒にしてもらえるかしら? いつになるか分からないけれど、あの子の口から話せるようになるのが一番だもの……」
皆一様に頷く。それを見たフレイヤは嬉しそうに微笑むと、手を振りながら広間を後にした。
エルルーンの案内で再び部屋に戻った一行。誰も口を開く気になれなかった。時折ギィギがくしゃみをしていた。
「エイとリョウはさ……」
不意にケンがぽつりと言う。
「俺のこと、研究所にどこまで聞かされてた?」
「全くだ。ただ、研究対象から目を離すな、何か異変があったら伝えろ……それだけだな」
ケンはリョウを見やるも、彼は肩をすくめる。どうやらエイと同じようだ。
「そっか。なんだか、事が壮大過ぎて実感わかないなあ……」
「せやな。あ、でも昔四拾七番倉庫に侵入したやろ? あの手引きも研究所がやってくれたんよ。ケン、お前を四拾七番倉庫に連れていけって命令でな」
都合の良い手際の良さも、今なら納得できた。エイも何かを思い出したようだった。
「ああ、俺は姉さんの銃が四拾七番倉庫にあると教えられたな。今思えば、それもケンをルリと会わせる為の誘導だったんだろうな」
「フレイヤさんは、信頼していいのかなあ……?」
ケンのつぶやきに、皆黙り込む。
「研究所はお前の能力が目覚めるキッカケになるからルリに会わせたかった、一方フレイヤさんはルリ自身の救済になると信じお前に会わせた……。少なくとも俺はさっきの話でそう思ったで」
リョウの言葉に、エイも同調した。
「そうだな。手放しに信じることはできないが、悪と断定するには早計だろうな」
「うん、そうだね……」
『それにしても』とケンは続けた。
「ヨシノさんって何者なんだろう……? さっきの話もずうっと黙って聞いてたし、一切動揺していなかったよね……?」
「あー、あの人はアカンわ。何もかもが分からなさすぎるわ。掴みどころなさすぎやホンマ」
ギィギのベッドから、彼の寝息が聞こえてくる。いつの間にか彼は寝ているようだった。ケンもそんな様子を見て気が緩んだのか、大きく伸びをした。
「ま、これからどうなるかなんて、文字通り“神のみぞ知る”ってヤツだから、今どうこういったって仕方ないよね」
『それでも』とケンは続ける。
「ルリちゃん……あの子のことは、皆で支えてあげよう。必要なのは、“同情”でも“特別視”でもなくて、ただ“傍にいてあげる”ことだと思うから」
皆頷く。そして各々がベッドにもぐりこむと、勝手に室内の照明が落ちた。魔法の便利さに感心しながら、ケンの意識は薄れていった。
翌朝、ケンは誰かの話声で目が覚める。徐々に現実にチューニングされていく意識が、それはギィギの声だと認識する。彼は誰かと話をしているようだ……溌溂とした口調の女性……エイルだろう。
「わかったゾ。起きていないのはケンだけだから、すぐに起こしてくるゾ」
向かってくる足音。ケンは身を起こして大きな欠伸をする。
「おっ、ちょうど良かった。ケン、朝メシだゾ!」
嬉しそうに飛び跳ねるギィギ。しかし直後、盛大にくしゃみをする。昨日からギィギがやけにくしゃみをしている。ケンはなんだか嫌な予感がした。
「ギィギ、風邪ひいた?」
「カゼ……? それってなんだ?」
強靭な体を持つ砂漠の民の彼だ、今まで病床に伏したことなどないのだろう。だからこそケンは心配だった。環境の変化が与える影響が無いとは言い切れない。
「……後で薬を分けてもらおうか」
ケンは手早く身支度を終えると部屋を後にする。廊下ではエイル、リョウ、エイ、ギィギがケンを待っていた。
「おっ、来たみたいね。いい天気だし、朝食は庭でみんなと食べようよ」
「みんな? 他の魔女の人たちってこと?」
「そ。全員ってわけじゃあないんだけど、君たちに興味ある子もちらほらいてね。勝手に決めちゃってゴメンね」
肩をすくめるエイル。慌てて手を振るケンだったが、ふとあることに気が付く。
「あのさエイルさん、ルリちゃんはいないみたいだけど……」
「ああ、うん……少し疲れが出てるみたいだからまだ休んでるよ……。私が看てるから心配しないで」
歯切れの悪い言葉を誤魔化すかのように、『それよりも』とエイルは言う。
「エイル“さん”なんて他人行儀はやめてよ。ただエイルって呼んで。ね?」
人懐っこい笑顔を浮かべる彼女に、ケンも微笑み返す。朝日が照らす廊下を一行は和気藹々と進んでいった。
フォルクヴァングの外、青々とした草原の上に石造りのテーブルと椅子が用意されている。その周りで数人の魔女たちが忙しなく動き回っていた。
「連れてきたよー」
エイルが手を振り声を上げる。すると、魔女の一人がケンたちの方へとやってきた。昨日出会った、顔に火傷跡のある魔女……カーラだった。彼女はケンたちを一人ずつその顔を確かめるように確認していく。そしてすぐに笑顔になり、その手をテーブルの方へ向けた。
「ああエイル、ありがとう」
「ん。それじゃあ、後よろしくね。君たちは、朝食楽しんでねー」
再び館へと戻っていくエイル。その背中をぼーっと見送るケンに、カーラの明るい声が届く。
「来てくれてありがとうね。さあ、こっちこっち」
男一同緊張した面持ちで、カーラに促されるまま石造りの椅子に座っていく。
「はい、どうぞ」
「ありがとう――」
魔女のひとりがケンの目の前にグラスを置く、彼はその手を見て言葉を失う。青白く半透明の、ルーンにより形成された腕。彼女のもう片方の腕も同様だった。
そんな様子に気づいた彼女はスカートの裾を掴むと、僅かにたくし上げて自身の足をケンに見せた。彼女の膝から下も“ルーンで作られた足”だったのだ。
「驚いた? 手足全部ルーンで補ってるんだ。でもね? 疲れないからいくらでも動かせて便利なんだよこれが」
「フリスト! なんてはしたない!」
カーラの声に、フリストと呼ばれた女性は舌を出しケンにウインクした。あっけにとられるケンをよそに、魔女たちはてきぱきと朝食の支度を済ませる。カーラは皆が座ったことを確認するとケンたちに声をかけた。
「食べる前のお祈り、分かるかしら?」
「お祈り?」
「手を、こうやって……こう」
彼女は両手を胸の前で組んで見せる。ケンも見よう見まねで手を組む。横目で仲間たちを確認すると、エイやギィギは知っているようで、リョウはどこかぎこちない手つきだった。
「そ。それじゃあ……」
カーラは軽く咳払いすると、その後に言葉を続ける。
「今日も、血肉となる大いなる恵みに感謝を」
軽く目を閉じ、俯く。まるで黙とうのようだな、とケンは思いながらその様子を真似する。草木の揺れる音、鳥のさえずり……静かな朝の音が穏やかな時を彩る。
「それじゃあ、いただきましょうか」
その声を皮切りに、朝食は始まった。そして、魔女たちの質問攻めも――。
「どこから来たの?」
「ルリのお友達? ホントにそれだけ?」
「君も砂漠の民なの?」
最初は面食らっていたケンたちだったが、魔女たちの友好的な雰囲気に次第に緊張が解れていく。種族も立場も関係ない、年相応な談笑へ至るにそれほどの時間はかからなかった。
「へええ……ずいぶん遠くから来たのねえ」
フォークを揺らしながらフリストは感心する。ケンの視線は彼女の半透明の手にくぎ付けだった。それに気が付いた別の魔女が、いたずらっぽい表情で言う。
「やっぱ気になるっしょ? 魔法の義手。フリストは私らの中でも重症度高かったからねー」
彼女の表情と温度差の違いすぎる内容。フリストは特に気を悪くするでもなく笑っている。
「ほんとほんと。あの時は死んでたよ」
「みんな何かしら怪我しているみたいだけど……」
さすがに踏み込みすぎたか? 内心焦るケンとは裏腹に、魔女たちは“昔の思い出”を語るように事も無げに語る。
「まーねー。私は歯を全部抜かれたよ。また全部生やしてやったけどね!」
彼女は口を横に開き整った歯並びを見せる。
「硫酸をかけられたときは死んだと思ったなあ」
カーラはフォークでベーコンを口に運ぶ。
あまりの衝撃的な内容に、ケンたちは言葉を失う。その様子を見て、魔女たちは少し喋りすぎたと肩をすくめた。
「ごめんなさいね、食事時にする話じゃあなかったわ」
「……どうして」
ケンの声は震えている。
「どうしてみんなは笑っていられるんですか?」
カーラは小さく息を吐き微笑む。
「“今”笑っていられるからよ。別に、今さえ良ければいいという刹那主義的な考えじゃあないわ。ただ、起きたことはどうしようもないのだから、手の届かない過去に苦しみ続けるよりも……生き方次第でどうにでもなる今を精一杯楽しむ方が建設的でしょ?」
ケンは顔を上げる。魔女たちの顔に嘘偽りは無かった。
「でも、あなたがそう思ってくれて……なんだかちょっぴり救われた気分だわ。ありがとう」
フリストの“手”がケンに触れる。それは温かかった。
食後、片づけの手伝いをやんわりと断られた一行は、手持ちぶさたに草原に腰を下ろしていた。
ケンは思う。この世界に蔓延る悪意、憎悪……それはとても根深く人とは切って離せないものだ。
善良な者がいることも間違いない。砂漠の民に魔女、廃研究所で出会ったモリィ、リノエ、タカハシ教授、リョウの家族……。彼らは皆他者を思い行動をしていた。そんな人たちがいれば、世界は少しずついい方向へと向かっていくのではないのだろうか。
しかしそれは、ケン個人の願望にすぎない。世界がどこへ向かっていくのか、答えは誰にも分らない。彼の青い苦悩は、吹き抜ける風に舞い上がり空高く消えていった。
「朝食……あの子たちとのお話も楽しめたかしら?」
突然の声に、ケンは座ったまま飛び上がりそうになる。いつの間にかフレイヤが彼らの傍に立っていたのだ。
「ふ、フレイヤさんいつの間に!?」
ケンは激しく鼓動する胸を押さえる。
「今来たところよ。それより――」
彼女の手に、翠色の石で作られた釣り針が握られている。
「行きましょう、“アースガルズ”へ」
その言葉に、一行は立ち上がる。謎多き世界、アースガルズ。そこで一体何が待ち構えているのか。ケンは身震いした。
「準備は――」
「必要ないわ。長居はできないからね」
その言葉の真意を確かめる間もなく、彼女は右手の人差し指に翠の釣り針を引っかける。
ケンたちに近寄るよう手招きをすると、空高く右腕を掲げた。
「――天翔ける船の忘れ物」
フレイヤがそうつぶやくと、ケンは体の内側から見えない力に引っ張られるような感覚を覚える。足が地面から離れ、体が浮遊感に包まれていく。視界がぼやけ、霞み、目をこすった次の瞬間――。
「……え?」
明らかに周囲の空気が変わった。どこか煙臭い臭い。そして、ケンたちは“夕日”に照らされていた。おそらく西の方角だろう、赤々とした巨大な太陽が眩しく輝き、ケンたちから影法師が伸びている。
「ここが、アースガルズ?」
「ええそうよ。その入り口、ビフロストよ」
「あれ……ヨシノさんいませんね?」
仲間たちの姿を確認した後、ケンが気付く。彼の中では、てっきり彼女も同行するものだと思いこんでいた。
「彼女は今朝方里を発ったわ。今度は“バル・ベルデ共和国”に用事があるみたいで……無理しすぎないといいのだけれど」
ヨシノのフットワークの軽さに、肩透かしを食らったように呆けるケン。フレイヤはそんな彼を気にも留めずに歩き出す。ケンたちもそれに続いた。
石畳の地面を踏みしめ歩いていると、道の脇に誰かが力なく腰を下ろしているのが見えた。鎧をまとっているが、兜は脱ぎ去り脇に投げやられている。
「ヘイムダル、変わりはないかしら?」
ヘイムダルと呼ばれたその男はフレイヤの声に反応して顔を上げる。皴の刻まれた彼の表情は、疲労困憊といった具合だった。
「フレイヤ様……“先程ぶり”ですね。もう戻ってこられたのですか?」
なんとも意味深な発言に、フレイヤは首を横に振る。
「いいえヘイムダル、ミズガルズでは“時が流れている”のよ。そうね……数世紀は経ったかしら」
なんとも規模の大きなその言葉に、ヘイムダルは乾いた笑い声を上げる。
「“そちら”がどうなっていようと、“こちら”はもうこのままですよ……。“あの日”から一秒も時が進まず、変わるのは頭上の“あれ”だけ……」
力なく頭上を見上げるヘイムダル。ケンもそれに釣られて空を仰ぐと、異様な光景に驚愕する。ギィギも同様だったようで声を上げた。
「あれって、“西の滅び”だゾ……!」
茜色の空に、ところどころひび割れのような亀裂が走り、漆黒の色が顔を覗かせている。ギィギの言う通り、かつて砂漠で見た西の滅びに似ていたが、ケンはどこか違うものを感じていた。
「少し違うわ。あれはギンヌンガの淵……この世界を満たしているものよ」
「???」
首をひねるギィギ。エイは声を絞り出す。どこか興奮の色が混じっているようだった。
「宇宙よりも外側……この世界を構成しているもの、ですか? それが、ここを侵食し始めている……?」
「あなたは本当に賢い子ね。概ねそれで合っているわ。終末戦争……神々の黄昏にて世界のバランスを大きく崩したアースガルズは、止まった時の中で緩やかな死を迎えているの」
世界の滅亡が迫っているというのに、フレイヤの口調は穏やかだった。疑問に思うケンたちをよそに、フレイヤは再び歩き出す。
「あの、彼はあのままでいいんですか?」
ケンはフレイヤの背中に問いかける。
「いいのよ。再び立つかどうか……それを決めるのは他の誰でもない、彼自身なのだから」
それは今までのフレイヤとは違う、どこか冷たい語り口だった。
* * *
アースガルズ都市部。夕日に照らされた建物はどれもボロボロで、かつての戦いの凄惨さを物語っていた。時折吹く風が、空っぽな街に不気味な鳴き声を反響させる。
廃墟となった居住区の一角に、風の音とは違った音が響く。軽快なそれは、ある人物の鼻歌だった。破滅的な風景とは真逆の明るい曲調、その声の主は派手な音を立てながら無人の室内を漁っていた。
「お、あったあー! 焼けてないし状態もいいー!」
ふわりとした栗毛に、中性的な顔立ち。大きな双眸はきらきらと輝いている。
「わ、下着もある! 男物ってカワイくないから嫌だったんだよねー」
彼はタンスの中身を片っ端から肩掛け鞄に詰め込んでいく。鼻歌に合わせ、華奢な体から伸びるリスのような大きくふわふわの尻尾が揺れる。
あらかた詰め込むと、今度はクローゼットを開く。傾いた扉を力任せに開け放つと、中身の物色をはじめる。すると、彼の頭部にある丸みを帯びた“耳”がピクリと動いた。
「わわっ! この服……可愛い!」
周囲を見回した後、彼は着ている衣服を脱ぎ出す。そして手にした衣装へと着替え始めた。廃墟内での異様な行動、しかし今は誰もそれを咎める者はいなかった。
「うーん、やっぱり可愛い! やっぱりこういうのは世界一可愛いボクにこそ相応しいんだよね」
嬉しそうにその場でくるくると回る少年。
「あとは尻尾を通す穴を開けるぐらいかなあ。大きさもピッタリだ」
彼は大きく息を吸うと、部屋の片隅……倒壊したベッドの脇に転がる“誰か”に語り掛ける。
「“藁の死”を迎えたキミにはもう必要ないから、ボクがもらっていくよ? 大丈夫、世界でイチバン似合うから、キミは“下”から見てるといいさ」
そう言うと、彼は帽子を被り窓から飛び出す。身軽にベランダを伝い、飛ぶように廃墟を進んでゆく。
そのとき、彼は眼下に見慣れないものを見つけビルの手すりの上で急停止した。
「んん……? こんなところに、人……?」
鞄から双眼鏡を取り出すと、覗き込む。そしてその人物を確認するやいなや、驚きの声を上げた。
「フレイヤじゃん! もう戻ってきたの!? ……あーそっか、ミズガルズじゃあ時間が流れてるんだっけ? ええと……」
彼は指折り何かを数えているようだったが、やがて計算を終える。
「うひゃー、結構経ってるんだねー。あの人ぜんっぜん老けてないからわからないよ。……でも目のところ、怪我したのかなあ?」
ひとりごちながら観察を続ける。そして、フレイヤの隣の人物を見て彼の顔から笑顔が消えた。
「あれは……ガルム……? 黒い方は全然違う雑魚だけど、白い方は……。おかしいな。ヴァルキュリアのジーグルーネと一緒に死んだはずじゃあ……?」
双眼鏡を覗くのを止め、彼は考えを巡らせる。そして――。
「……“ヘルヘイムの女王様”に報告だな。うん」
鞄に双眼鏡をしまい込むと、代わりに翠色の釣り針を取り出し、高々と掲げる。
「――天翔ける船の忘れ物」
“小さな伝令手”はその場から音もなく消え去った。
* * *
ケンたちはフレイヤに続き廃墟の街を進む。
神話的な、人知の及ばないような建造物を想像していたケンは、アースガルズの建物が彼の世界の物と形状の相違がそこまで無いことに拍子抜けしていた。
それと同時に、この世界の人々が殺し合ったという生々しい情報を目の当たりにし、哀しみを覚える。悪意や憎悪が溢れた結果なのだろうか? ケンはやるせなさでいっぱいになった。
破壊された道を進んで行くと、次第に周囲に建物が少なくなっていくことにケンは気が付いた。そして視線の先には――。
「あれがこの世界の中枢“だった”もの、“ヴァルハラ”よ」
フレイヤの指さす先に、巨大な建造物がそびえ立っている。道すがら目にしてきた建造物とは異なり、格式ばった造りと荘厳な装飾。柵で囲われた広大な敷地がその権威を示しているかのようだった。
一行はヴァルハラの正面入り口に立つ。門も守衛室も破壊されており、人の気配すらない。ひび割れた大理石の階段を上り、敷地内へと足を踏み入れる。かつては壮麗な造りの庭園だったのだろうが、今は無残な荒地と化している。
巨大な正面扉は、フレイヤが近づくとひとりでに開き出す。破損があるのか、その動きはどこかぎこちなかった。
「このまま真っすぐ、王の間に彼がいるわ」
緊張した面持ちで歩みを進めるケン。鼻腔には焦げた匂いと、それに掻き消されない血の匂いがこびり付く。ヴァルハラのホールに5人の足音が寂しく反響し、他の存在の有無をはっきりと否定しているかのようだ。
ホール奥の扉が開き、赤い絨毯が敷かれた道が見える。それを目で追うケン。その先に、薄い材質で造られたカーテンのような幕が下りている。その向こう側から、ただ者ではない気配が溢れている。そして、何かの機械の駆動音と、呼吸器の音……。
「よく来た、フレイヤ……そして、運命の上で転がる者たちよ……」
マスク越しのような、くぐもった声が王の間に響いた。




