#25光
静かに上がってゆく幕。赤い絨毯が続くその先には大きなベッドが一つ、ポツンと存在していた。
周囲には様々な機械が並び、ベッドからは多くの管がまるで植物の根の様に伸びている。
心電図を測る、規則的な電子音。そして、空気が漏れるような音……。ケンは自分が今病室にいる、そんな錯覚を覚える。
「あなたも“眼”で視ていたでしょう? 説明している時間が惜しいわ。彼らに聞かせてあげて。世界の表と裏を」
フレイヤのその声に応じるかのように、ベッドが傾き始める。まるでリクライニングシートを起こすかのようなゆっくりとした動きで、ヴィーザルの姿が徐々に現れる。
その姿に、ケンは言葉を失った。
体中に巻かれた包帯には、“黒い血”が滲んでおり、呼吸器に繋がるマスクに覆われたその表情は虚ろだった。体の至る所には管が繋がっており、機械と彼の身体を黒い液体が絶えず循環していた。
「……驚いたか? 君と同じ黒い血だ」
ヴィーザルの見透かすような声。彼の左の目は金色に輝いており、虹彩があるはずの部分にはルーンが浮かび上がっていた。
「同じって、どういうことです? あなたも、兵器なんですか?」
ケンはそう言いながら、自身をそのような目で見ている自分に気が付き嫌悪した。
ヴィーザルは笑って答える。彼のマスクが吐息で曇った。
「少し違うな……。我々は、人の至ることができる極致を目指した。その成れの果てだ。私の身体だけではない。この世界そのものも……力に驕った者たちの末路さ」
「世界……ここって、アースガルズ……そう聞きました。一体何なんですか?」
「そうだな……世界……我々の住む世界は、ギンヌンガの淵と呼ばれる暗渠に浮かぶ、世界樹……その枝葉の先に点在する一つに過ぎないのだよ」
小首をかしげるケン。隣でしきりに何か考えていたエイだったが、興奮した面持ちで顔を上げた。
「つまり……平行世界だ。コンピュータで例えるのならば、ギンヌンガの淵はハードウェア、そして世界樹はソフトウェア、それぞれの世界は……サーバーだ」
「スマン、エイ、余計ワケ分からんわ」
頭を掻くリョウ。ヴィーザルは笑ったが、やがて苦しそうに咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうに駆け寄るケンを、ヴィーザルは手を上げて制止する。
広大な王の間に、機械的な音が響く。
「……続けよう。まずは我々の世界がこうなった理由からだ」
若干、ヴィーザルの心電図の波形に揺らぎが現れた。
「我々アースガルズは、高度な科学力と魔術、その両方を併せ持った“人類”だった」
エイの眉が動く。
「神、ではないのですね?」
「それは人間が定義した概念に過ぎない。我々の世界に、自称するもの以外で神など存在しないのだよ」
赤裸々にされていく真実。神などいないのに、一体どういう経緯で神話として伝わったのか……ケンの興味は深まるばかりだった。
「力を持った我々は、あらゆる理を理解し、分解し、己が力へと変換していった。その結果……命を操作し、心を捨て、ただ高みを目指す存在に成り下がった」
フレイヤは何も言わない。ただ黙っていた。
「そんなある日、我々の中に眩い“光”が産まれた。彼の名はバルドル。人が持ちうる全てを持って産まれた、唯一無二の存在……私の兄だ」
どこか遠くを見るような表情をするヴィーザル。何か思うところがあるのだろうか? ケンは黙って彼の次の言葉を待った。
「彼は科学でも魔術でも説明のつかない力を持っていた。ギンヌンガの淵の“向こう側”にいる存在との意思疎通ができたのだ」
世界の外側にいる存在……? ケンは混乱する。それは人間なのだろうか?
「向こう側って、何ですか? 色んな世界の一つですか?」
ヴィーザルは首を横に振る。
「君の旅路の中で、彼らの一人と接触しているはずだ」
ピンとこない様子のケン。エイは何かに気が付いた。
「まさか、観測者……オーバーシアか……?」
ケンに電流走る。砂漠の神殿で遭遇した存在……しかし、ケンにはその記憶が無い。しかし、西の滅びを消し去ったり、コロニーの存在をケンに示唆した者が確かにいたことはケンも覚えていた。
ヴィーザルはゆっくりと頷いた。
「そうだ。我々の住む世界とはかけ離れた存在。彼はバルドルに、様々な知恵を与えた。我々はそれによりさらなる発展を享受した……あの日までは」
ヴィーザルの声に陰りが見える。明らかに愁いを含んだそれに、ただならぬ気配を感じた。
「バルドルには兄がいた。彼は盲目で、弟に比べたら“何も持たない”者だった。――そんな彼、ホズが……弟バルドルを殺害したのだ」
「な、何でだ!? 弟はすっごい可愛いし、大事だゾ! それを殺すなんて……!」
ギィギの悲痛な声が反響する。弟の世話をしている彼だからこそ、許せないのだろう。ヴィーザルは溜息を吐いた。
「光輝く弟に照らされた兄の影……それは暗く深いものだっただろう。しかし、これはそれだけの単純な話ではないのだ」
「……誰かが、そうなるように仕向けた……ということですか?」
エイの推察に、ヴィーザルは一瞬驚いたような表情を見せる。しかし、すぐに悲しそうな表情に変わると……頷いた。
「私の義叔父……その名を“ロキ”と言うのだが……ヤツはホズの心の内にある劣等感を刺激し、兵器“ミストルティン”を与えた」
「ミストルティン……?」
「そうだ。我々に流れるこの黒い血……絶対的頑強さと生命力を与える“呪い”を通り抜ける、見えない棘……」
エイは顎に手を当て考える。
「黒い血を無力化する装置なのか……? まるで魔女に対するアルマロスのようだな」
「それで合っている。それもまた、我々の技術なのだからな」
「そんなことはどうでもいいゾ! それで! 弟を殺したホズってヤツはどうなったんだゾ?」
ギィギらしくもない焦燥の入り混じった声。ヴィーザルが語る内容は残酷なものだった。
「自身の行いが血の分けた弟を殺したと知ったホズは……自ら命を絶った」
膝から崩れ落ちるギィギ。
「アースガルズの者は皆怒り狂った。敵対していた世界からやってきたロキ……もともと彼にいい印象を抱く者は少なかったというのもあるが……」
フレイヤからため息が聞こえてきた。苛立ちの色をはらんだそれは、“遠き”過去を睨みつけていた。
「彼には三人の幼い子がいたが、一人はミズガルズ、一人はこのヴァルハラの地下深く、そして最後の一人はヘルヘイムと呼ばれる色のない死者の世界に放逐された」
「そらまた、残酷な……」
リョウの声色から、いつもの調子が消えている。
「それでもまだ人々の怒りは収まらず、最終的に彼はナストロンドの岩窟に幽閉された。心と体を侵す毒の充満した洞窟からは、日昼夜問わずロキの叫びが聞こえていたらしい」
「そんな……でも、どうしてロキって人はバルドルさんを殺したんですか?」
「ロキは、バルドルが観測するよりも先に向こう側の存在に気づいていた。しかし、彼はどうしてもそこにコンタクトが取れなかった。一方ホズは知っての通り。……光に嫉妬していたのは一人だけじゃあなかったのだよ」
やるせない気持ちに浸る一行。その時、ケンたちの足元、それも遥か深くよりこの世のものとは思えない咆哮が轟く。オオカミの遠吠えのようなそれは、ビリビリと空気を揺らし、空気の振動が強く体を打ち付けた。
「な、何やこのバカでかい鳴き声は!?」
リョウが耳を押さえて叫ぶ。
ケンも、頭痛を覚える程の耳鳴りに眩暈を起こしながら片膝をつく。そして、先程のヴィーザルの話を思い出す。
「もしかして、今のって……」
「ああそうだ。ロキの息子の一人、“フェンリル”の咆哮だ。私の父ウォーダンを喰い殺したのも、この身体の傷を負わせたのも、ヤツだ」
ヴィーザルの胸元に滲む血。その範囲と先程の咆哮からして、フェンリルは相当な大きさをしているのかもしれない。ケンは恐怖を覚える。
「“先程”再捕縛したのだが、それからずいぶんと成長したようだな……あれは時間に関係なく、恨みや憎しみで大きくなっていく」
ヴィーザルは、『時間が進まない世界で、唯一時間の進みを感じられる存在だよ』と皮肉っぽく笑った。
「君の存在を察知したんだろうな」
うずくまるギィギに肩を貸しながら、ケンは立ち上がる。ヴィーザルの意味深な言葉に、ケンは疑問が湧き上がってきた。
「それは一体、どういう意味ですか?」
「簡単なことだよ。ヘルヘイムの番犬ガルムは、フェンリルのクローン。そして、君はそのガルムの言わばコピーだ。自分に近しい存在を察知して、フェンリルの気が昂ったのだろう」
皆衝撃に打たれ、何も言葉が出てこなかった。リノエがかつて言っていた、“別の世界の兵器の再現”……。まさにそれが繋がった瞬間だった。
「でも、どうしてですか……? どうして、遠く離れたアースガルズという世界の兵器が……俺の世界で……?」
「君たちの世界でも、向こう側に気が付いた者がいるんだ」
『わかるだろう?』とでも言いたげなヴィーザルの眼差し。
「オスカル……研究所ですね」
「そうだ。その者は、観測者の“端末”を手に入れ、世界の理を垣間見た。そして見つけたのだよ。アースガルズの地中に眠る、ロキを」
予想外の言葉。ロキという人物はこちらの世界にいるのではないのか? 訝しがるケンたちに言い聞かせるように、ヴィーザルは続けた。
「話は先程の、ロキが岩窟に幽閉されたというところに戻ろう。……毒に心身共に侵されたロキは、子を失った恨みも併せてアースガルズへの報復を考えた」
「んな、逆恨みやないか! ホンマしょーもないやっちゃな!」
「それがロキという人物だ。あれに常識というものは通用しないさ。……彼の復讐は、世界を巻き込んだ壮絶なものだった。もともと次元統一を狙っていたアースガルズに敵は多く、ムスペルヘイム、ニブルヘイム、そしてロキの娘が治めるヘルヘイム……混迷を極める地獄のような戦争だった」
次々とヴィーザルの口から飛び出してくる様々な世界。そこからどう研究所へと話が繋がっていくのか、ケンはヴィーザルの言葉を待った。
「戦争も終盤、両陣営多くの戦死者を出し、ロキは逃亡。そして、彼はヘイムダルに捕らわれた」
ケンは思い出す。アースガルズに来た際に、最初に出会った人物だ。
「しかし、ヘイムダルにロキを殺すことはできなかった。悩んだ末、彼はロキはビフロストから突き落とした。ビフロストの下に流れる次元の潮流に飲まれたまま、ギンヌンガの淵に落ち、彼の座標はアースガルズの遥か地下深くへと転移してしまったのだ」
「そして、オスカルが彼を見つけた……でも、それがどうしてプロジェクトAtoZになるんですか? ロキって奴はオスカルに手を貸す義理なんて無いと思うんですが」
ヴィーザルが考え込むように黙る。彼もまた確証の持てないことがあるようだった。
「ヘイムダルは、奴をエリヴァガル・コフィンと言う名の装置を用いて捕縛した。それは我々が作り出した、絶対に破ることのできない封印……。おそらくロキは、その封印をなんとしてでも解きたいのではないのだろうか」
「その為に、オスカルを利用して……さまざまな能力の実験を……」
頷くヴィーザル。彼の眼には、憐憫の色が浮かんでいる。
「奴は自身の封印を解き、再びこのアースガルズにやってくるだろう。そして、この世界を完全に終わらせるつもりだ」
「どうしてそこまで……」
ケンは、この壊れた黄昏の世界の風景を思い出し胸が痛んだ。
「恨みとはそういうものよ。時間が経てば、それに比例して深く強くなってゆくものよ」
フレイヤを見ると、彼女もやるせない表情をしている。諦観とはまた違う、愁いを帯びたものだ。
「ここまで君に聞かせたのには訳がある。君に、ロキを殺害してほしい」
空気が変わった。ケンは、隣にいるリョウの呼吸が早くなっていることに気が付いた。
「おっさん、アンタ……ふざけんなや! ケンに人殺ししろと? ああ!?」
ケン、エイ、ギィギの三人がかりで怒り狂うリョウを押さえる。
「リョウ、落ち着け! 相手は怪我人だぞ!」
「知らんわそんなん!」
猛牛を押さえつけるように奮闘する三人、しかし、ヴィーザルは対照的に全く動じていない様子だった。
「君の怒りは尤もだ。しかし、こちらとしても他に手の打ちようはないのだ」
「……話し合って、どうにかなりませんか?」
「駄目だ。あれと話をするな。持っていかれるぞ。君は世界を敵に回したいのか?」
取り付く島も無し……。ケンは俯く。自身の生まれた理由……研究所の言いなりになってロキの封印を壊す為、またはロキを殺害する為……。本当にただそれだけ……それはまるで、ただ用途に沿って動く機械のようではないか。
しばらくじたばたしていたリョウだったが、やがてぶっきらぼうにエイとギィギの手を振り払う。そして、俯くケンの肩を乱暴に揺さぶった。
「おいしっかりせえ! お前の人生、研究所やこのおっさんの言うこと聞く為にあると違うやろ? それしかないなんて決めつけんなや」
ケンはリョウの真っすぐな目を見つめる。彼の言う通りだ、見えている二択だけが答えじゃあない。ペインキラーズも、プロジェクトAもある。一人ではどん詰まりでも、仲間と知恵を絞れば必ず――。
「ヴィーザルさん、俺……人殺しはしません。でも、プロジェクトAtoZは終わらせます。それに、ロキって奴は封印されているんでしょう? だったらもっと地下深くに埋めちゃえば、手出しはできないはずです」
ヴィーザルは失望したように溜息を吐く。
「それではまた似たようなことを繰り返すだけだ……。奴に常識は通用しないのだ……」
「それでも……俺、なんとかします。ひとりでダメだったら、仲間たちと」
「青いな……全くもって青い……」
ヴィーザルのベッドが機械音を立て倒れていく。フレイヤはゆっくり近づくと、ヴィーザルにそっと耳打ちした。
「仕方ないわ。子供だもの。でも、そのうち分かるはずよ。それに心配しないで。私もあの子たちを見守るつもりだから」
「……世話をかけるな」
「いいのよ。故郷の落とし前、しっかりつけたいもの」
カツカツとヒールを打ち鳴らしヴィーザルのもとを離れるフレイヤ。彼女の背後で、再び幕が下りていた。
「さあ、帰りましょう」
ケンは頷く。そのとき、あることを思い出した。
「あっ、フレイヤさん、聞きそびれたことがありました……」
「何かしら?」
「ヴァルキュリアについてです。どうしてヴァルキュリアの子じゃあないルリちゃんが、その力を継いでいるのか――」
その言葉に、フレイヤも思い出した様だった。額に手を当て、やがて口を開く。
「ごめんなさいね、私がヴィーザルに丸投げしたばっかりに。……ヴィーザルはヘソ曲げちゃったから、私が帰りの道すがら説明するわ」
フレイヤは悪戯っぽく笑いながら、ヴィーザルのベッドの方を見た。そして、歩き出す。ケンたちも彼女に続いた。
「アースガルズとは別の世界……魂を管理する世界があるの。その名前を、ヘルヘイム――」
* * *
ニブルヘイム下層、昼も夜もない、薄暗い世界。青白い大地はやせ細り、砂利が転がるだけだった。
暗く深い谷底を、ギョッルと呼ばれている川が流れる。それに沿って歩く人影があった。
そのシルエットには、大きなふわふわの尻尾がついていた。川の流れる音に加え、その人物が歌う鼻歌が谷底に響いていた。
彼がしばらく歩くと、黄金で出来た大きな橋が現れる。そこを渡れば、死者の世界、ヘルヘイムだ。
橋の中央に、別の人影が見える。鎧を身に着けた、筋骨たくましい女性だった。彼女は身の丈ほどもある戦斧を手に仁王立ちしている。
「そこの者、止まるであります!」
女性の声が谷底に響く。
「相変わらずうるっさいなあ……。モーズグズ、ボクだよ。ラタトスク!」
モーズグズと呼ばれた巨人族の女性は、それでも険しい表情を崩すことはなかった。
「顔見知りだろうと自分には関係ないのであります! さあ! 通過する者よ! 何故このギャッラル橋を渡るでありますか!?」
ラタトスクは耳を塞ぎながら顔をしかめる。
「いちいち言わなきゃダメ?」
「ダメであります!」
「女王様にお知らせ」
「ご苦労様であります! 通るであります!」
足音を立て脇に退くモーズグズ。心底馬鹿馬鹿しい、という表情でラタトスクはその横を通り過ぎようとした。その時。
「待つであります」
「何? ボク忙しいんだけど?」
うんざりとした表情で振り返るラタトスク。それに合わせて大きな尻尾が揺れた。
モーズグズは、遠慮がちに、もじもじした様子で言った。
「その……ラタトスク殿の服……今日のは……その、可愛いで、あります」
その言葉に、ラタトスクの表情は一変する。
「あ……あー! わかる? やっぱ、分かる? 街で見つけたんだよ!」
「街、でありますか?」
「そ。アースガルズのね」
顔を曇らせるモーズグズ。
「ラタトスク殿は、羨ましいであります……」
「ん? まあそうだよね。ボクって世界一カワイイもんね。女の子だって嫉妬しちゃうよね」
「いやそれは違うであります」
「ああーん?」
素早い否定に腕を組むラタトスク。そんな様子などお構いなしに、モーズグズは続ける。
「自分、ずっとこの任務を任されているから……どこへも行けないのであります……」
『もちろん!』と慌てて付け足す。
「女王陛下のお役に立てるなんて、この上ない名誉なことであるのですが……」
「あー……やっぱキミもオシャレしたいんだ」
ラタトスクの視線がモーズグズの逞しい筋肉を眺める。
「そんなに見られると照れるであります!」
ものすごい速さで振り抜かれた戦斧。その巨大な刃は、咄嗟にしゃがんだラタトスクの頭が先程まであった空間を凄まじい風圧とともに切り裂いていった。
「殺す気!?」
「……はっ! 申し訳ないであります! ……つまらぬ事でお引き留めしてしまいました。お許しを」
やれやれ、とラタトスクは立ち上がると、金色の橋を足早に駆けていった。
橋を越えると、文字通り世界が変わった。
殺風景なニブルヘイムの下層でさえ、今ラタトスクが立っているこの地に比べたら“生きている場所”であると感じられるだろう。
薄暗く、周囲が霧に閉ざされており、用がなければ誰もこの地に踏み入れる事など考えないだろう。
「うー、さっむーい……」
ラタトスクは、小刻みに震えながらその身を抱く。彼の吐く息は白く昇って周囲の霧に溶けていった。
彼はギョッル川沿いに北を目指す。その途中、川の上にぽつり、ぽつりと淡い光を放つ玉が浮かび上がる。それは進むにつれ数を増していく。どれも皆同じように北を目指しギョッル川を上っていた。
「いつ見ても幻想的だよねこれ……。人の行きつくところはみんな同じかあ……」
ラタトスクが光の玉を目で追いかける。その先、川の傍に巨大な洞窟がぽっかりとその口を開けていた。洞窟の名はグニパヘリル――そしてその先に、死者の国“ヘルヘイム”がある。周囲の暗闇よりもさらに黒いその洞に、ラタトスクは思わず身震いをした。
グニパヘリルまで近づいたラタトスク。彼はそこで、脇にうち捨てられた鎖を見つける。
「……やっぱりガルムはあの日からここにはいないよね」
誰に言うでもなくそう呟くと、意を決したようにグニパヘリルへと足を進める。
静寂が支配する、極寒の洞窟。通常、洞窟の内部は外界ほど気温の変化が大きくない。しかしここは人知の及ばない土地。グニパヘリル内部は極寒のニブルヘイム下層よりもさらに鋭い寒さが支配していた。
雫が落ちる音が洞窟内にこだまする。砂利を踏みしめ進むラタトスクの視線の先に、カンテラの明かりが見えた。
「さすが女王様。ボクが来るのはお見通しか」
嬉しそうに明かりに近づくラタトスク。彼を女王の下男下女が迎えた。
「やあガングラティ、ガングレト」
そう呼びかけられた者たちは、人ではなかった。ブリキ作りの身体に、人形のような顔。まるで操り人形のようなぎこちない動きでカンテラを手に近づいてきた。
彼らはしばらくラタトスクを見つめていたが、やがてその場で反転すると、先導するかのように来た道を引き返した。
「……なかなかホラーな見た目だよね、彼ら」
カタカタ、と歩く人形たちの背を追い、ラタトスクはやがて巨大な垣根にたどり着く。洞窟の天井まで届く、魔力の棘を持つ黒い茨。それが幾重にも折り重なり強固な城壁のようになっていた。
そしてその中央に、これまた同じくらい巨大な門がどっしりと構えられている。それはガングレトが近づくとひとりでに開き出す。巨大な石造りの門が、洞窟内にその音を響かせた。
「ヘルヘイムに……入国ー」
門を越え、軽快な足取りで飛び込むラタトスク。彼の背後で巨大な門は再び閉じていった。
「いつ見ても立派だなあ」
目の前に荘厳にたたずむ城を見つめるラタトスク。そこには、死者の世界を治める女王の居城、“エーリューズニル”があった。
城に取り付けられている松明はみな青い炎を灯しており、それが幻想的な佇まいを強調させている。
下男下女の後に続き、城の敷居、ファランダ・フォラズを跨ぐ。青い絨毯を踏みしめながら、ラタトスクは女王・ヘルの部屋へと足を踏み入れた。
広大な部屋の中央に、天蓋付きのベッドが一つ。下男下女は、そのカーテン、ブリーキンダ・ベルをそれぞれが左右に引いていった。
「ご苦労様。あなたたちは下がりなさい」
ヘルヘイムの極寒に負けないほどの、冷たい声が聞こえる。女性の声と、半音下がった声がまじりあった不協和音のような声。下男下女は恭しく一礼をした後、ベッドの脇へと引いていった。
「よく来たわね、伝令手ラタトスク。要件を聞きましょうかしら」
ラタトスクは帽子を脱ぎ去ると、その場で跪く。
「陛下、アースガルズでフレイヤを見かけました」
「懐かしい名前ね……それで?」
見通すかのような声が響く。
「アイツ、ガルムを連れていました。でもおかしいですよね? ガルムって――」
一瞬、その場の空気が変わる。ラタトスクの背筋に、冷たい感覚が流れた。
「忌々しい名ね。恩も使命も役割も忘れ、ヴァルキュリアなぞにかどわかされた愚か者……」
マズかったか? ラタトスクの額から、一筋の汗が流れる。しかし意外にも、ヘルは笑い出す。冷たい、不気味な笑い声だった。
ベッドからヘルが降りてくる。黒い薄手のネグリジェを纏った色白で完璧な女性的体型……。ラタトスクは心底羨んだ。
「昔のことはいいわ。……それよりも、ガルムのコピーがここまで来たということは……ようやくお父様が動き出せたのね」
ヘルは歓喜の表情で天井を仰ぐ。黒と白、半々に分かれている彼女の長い髪が揺れた。
「長かった……。アース神族への復讐が、また始まるのね……」
ひたひた、とヘルの素足が大理石の床を歩く。彼女はラタトスクの前まで来ると、右の爪先を彼の顎に添え、上を向かせた。死人のような白い足は、恐ろしい程に冷たかった。
「よく伝えに来てくれたわ。値千金よ。……ガングレト!」
部屋の奥から、カタカタと音を立て下女がやってくる。彼女の手には純銀製の盆があり、その上には純白のドレスが畳まれていた。
「女王様、これって」
「褒美よ。受け取りなさい」
ラタトスクは震える手でドレスを手に取る。
「衣服をくださるなんて……そんな、ボクには身に余るものです……」
ヘルは身を屈めると、その手でラタトスクの顔を掴む。
「あなたには頼みたいことがあるのよ。これはその前金分も含めてよ」
「はひぇひう……?」
挟み込むように両頬を掴まれ、その手の冷たさにラタトスクの舌はもつれる。
「あなた、ミズガルズに行きなさい。そして、あのコピー品の動向を監視なさい。いずれお父様の下へたどり着けるように……」
そう言うと、ヘルはラタトスクの顔から手を放す。彼はドレスを脇に抱え両手で頬を摩った。
「女王様の命なら……全力で全うします」
それを聞くと、ヘルは嬉しそうな顔をしてベッドにもぐりこむ。下男下女がやってきて、静かにブリーキンダ・ベルを引く。
「それじゃあ、行ってきます」
踵を返すラタトスクに、ヘルはカーテン越しの声を投げかける。
「定期的に進捗を伝えに戻ってきなさい。それから――」
冷たさの中に、僅かな温かみの含まれた声。
「今日のあなたの服、可愛いわね。とても似合っているわ」
ラタトスクは満面の笑みを浮かべると、恭しく礼をする。そして勢いよく部屋を飛び出していった。
ヘルはゆっくりと横たわり、枕に頭を沈めるとひとり呟く。
「便利ね……本当に便利。後は寝て待つだけ……。もう少しね、お父様」
死の国の女王は、ゆっくりと目を閉じた。
* * *
「それじゃあ、ヘルヘイムってところに、いろんな世界からやってくる魂が集まるんですか?」
素っ頓狂な声を上げるケンに、フレイヤが訂正を入れる。
「少し違うわ。魂なんて無いわ。前にも言ったけど、人は死んだらおしまいよ。見た目は青白い光の球で、まさに想像する魂そのものなのだけど……言うなれば、“人だったもの”かしらね」
「なんだか想像がつきません。死んだ後にそんなことになるなんて……」
そこまで言って、ケンはマリのことを思う。彼女もまた、青白い光の球となってヘルヘイムにいるのだろうか? マリだけではない。モリィやプロジェクトEで実験材料にされた子供たち、リカや彼女の犠牲になった子供たち、そして、ギィギの弟ラォラも……。
「……大丈夫かしら?」
フレイヤの心配そうな声で我に返るケン。
「あっ、すみません……。それで、ヘルヘイムに行ったらどうなるんですか?」
「そこにはギョッルって川が流れているのだけれど、死んだ者は皆そこを上っていくの。そして、たどり着く先は死の館、エーリューズニル。死者の国を治める女王、ヘルの居城よ」
ケンは先程のヴィーザルの話を思い出す。彼の話によるとヘルは、ロキの娘だ。彼女はおそらく父と同じようにアースガルズを恨んでいるはずだ。そんな者が死者を管理するのだろうか?
「死者の循環は、この世界本来のものよ。彼女はあくまで管理人。それも、アースガルズに命じられている、ね。潤滑な命の移り変わりを手助けしている、ただそれだけよ」
フレイヤはケンの表情から読み取ったのか、そう言った。しかし、抽象的なその言葉をケンは理解できなかった。
「命とは、本来巡回するものなの。天命を終えた命は、ヘルヘイムの“命の坩堝”に還り、やがて新しい命へと精製される」
「うん? つまりは生まれ変わっとるっちゅうことやないのかそれ?」
リョウの疑問に、エイは首を横に振った。
「いいや、フレイヤさんが以前言ったように、生まれ変わりなどない。これは俺の推測なんだが、世界は命というものを“使いまわしている”んじゃあないのか?」
フレイヤは首肯する。
「その考えで合っているわ。使命を終えた命は、また次の命へと作り変えられる。それはこの世界の始原よりの摂理なの」
「それじゃあ……アアルは無いのか? ラォラは、アアルじゃあなくって、ヘルヘイムってとこに行っちゃったのか!?」
ギィギの悲痛な声。ケンは彼の肩に手を置く。
「違うよ。ラォラは間違いなく楽園に行ったさ。あの子が使っていた命は、また別の誰かが生きる為に輝くんだよ。ラォラ本人は、楽園で幸せにしているよ。だってそうだろ? そこは、砂漠の民みんなが信じている楽園なんだから」
「ケン……そうだな。ありがとうだゾ」
彼らのやり取りを微笑んで見ていたフレイヤは思う。やはり彼らなら正しい答えに到達できるかもしれない。かつてアースガルズの人間が、どれだけの技術力を持ってしてもたどり着けなかった場所へ……。
「命の仕組みについて分かってもらったところで、本題に入るわね。ルリのことよ」
一行に緊張感が走る。
「私の憶測なのだけど、あの子の命が出来上がる際に、同じ坩堝にあったジーグルーネの魂の一部が紛れ込んだの」
『あくまで憶測よ?』と、フレイヤでも確信を持てていない様子だった。
「と言うのもね……言いにくいのだけれど、ケン、あなたは命の精製……その成功例なの。あなたは人為的、一方ルリは偶然的……。とんでもない確率なのだけれど、そう考えるのが自然ね」
繋がっていく……全ての事象が意味を成していく。それも、世界の理に触れながら……。ケンは改めて自身が直面した事の壮大さに震えた。
「あなたが怖いと思う気持ち、分かるわ。でも、お願い……ルリの隣にいてあげてほしいの。あなたにしかあの子を救えないのだから……」
フレイヤの顔を見て、力強く頷くケン。黄昏に照らされたその顔は、確固たる意志による力強いものだった。
廃墟の街を通り抜け、再びビフロストに戻ってくる一行。ヘイムダルは相変わらず力なく座り込んだままだった。
「さあ、帰りましょう」
翠色の釣り針を掲げるフレイヤ。夕日に照らされた世界が消えていった。
* * *
アースガルズの極北の地――戦火を逃れ、僅かに生き残ったフレースヴェルグの民たちが住むその地。巨木が立ち並び、人々はその上に住居を築いていた。そのなかのひとつに、ラタトスクの生家はあった。
家路を目指し急ぐラタトスク、そんな彼の背中に声をかける者があった。
「おい、ニブルヘイムに行ったのか? ヤツらはどうだった?」
声の主はフレースヴェルグの民の若者だった。緊張した面持ちで、ラタトスクの言葉を待つ。
(あー、こいつらまだやる気まんまんなのか……。面白いんだけど、今は女王様に任された仕事が一番だし……)
どうしたものかと頭をひねるラタトスクの周囲に、次々と若者たちが集まる。
「奴らは俺たちを侮辱した」
「先の戦いで家族が殺された」
「アースガルズはもうおしまいなのか?」
ひっきりなしに飛び込んでくる言葉を、ラタトスクはなんとか宥める。
「待って待って! 一度に言われても困るから! ……そうだね――」
ラタトスクは顎に手を当てわざとらしく唸る。
「ニブルヘイムの、ニーズヘッグの民……“準備”していたよ」
「準備って……」
若者たちはたじろぐ。まさに思い通りの反応に、ラタトスクは心の中で嗤った。
「キミたちも準備を急いだほうがいいんじゃあないかな? やられる前にやれ、って言うじゃん?」
男たちの怒号が響く。女性や子供は、真っ青になり各々の家に駆けこんだ。
ラタトスクも鼻歌交じりに自身の家のドアを開ける。外から聞こえてくる喧噪をよそに、テキパキと身支度を整えていた。
「ミズガルズかあ……。どんなところだろう。カワイイ服あるのかなあ? 楽しみだなあ」
場所は変わり、ミズガルズ。廃墟の街、セントラル。摩天楼の残骸が並ぶ死の国に、退廃的な風景とは真逆の建物が存在していた。巨大なビルで、唯一光を発している。
最上階、オスカル・ムトニエは自室から廃墟の街を眺めていた。すると彼の背後、部屋の入り口が開き一人の少年が入ってきた。
「オスカル、暇だ! いつまで待っていればいいの?」
カインは開口一番不満をぶちまける。オスカルはそんな彼を気にする様子もなく手にしたグラスを揺らした。
「今は待つ他あるまい。“定時連絡”によるとデュナミスは現在魔女の森だ。そこまで来れば桜花帝国までそうかからないだろう」
「何もしていないのが一番嫌なんだよ! 何かないの? 他のプロジェクトとか!」
その場で地団太を踏むカインを、オスカルは冷たく一蹴する。
「無い。用があればこちらから呼ぶ。以上だ、出ていけ」
カインは不平不満を漏らしながら部屋を後にする。大きな足音を立てながら廊下を歩いていると、白衣を着た肥満体型の男と出くわした。
「おっ若、今日は一段と荒れているね」
「なんだよサノ、喧嘩売ってるの?」
「ジュース飲む?」
サノと呼ばれた男は、手にした袋の中から缶ジュースを取り出した。
「……飲む」
並んで廊下を歩く凸凹な二人。カインの不満をサノは黙って聞いていた。
「そっか。そりゃ退屈だね。だったらさ、面白いものあるんだけど、見る?」
「面白いもの?」
カインはサノの後に続き彼の研究室に入る。薄暗い室内はゴミで散らかっており、電源の光を放つモニターの周囲には様々なゲームキャラクターのフィギュアが置かれていた。
「相変わらず汚い部屋だね」
「まあまあ、これ見てよ。5年前、とある田舎の村で起こった事件」
サノの指さすモニターをまじまじと見つめるカイン。それはある慈善団体の職員が、最期の瞬間まで記し続けていたレポートだった。めんどくさそうにレポートに目を通すカイン。最初は心底興味の無い顔をしていたが、やがてそれは変わっていった。
「……これって、もしかしてヴァルキュリア?」
「当たり!」
「これに書いてあることが本当なら、すごい破壊力だね……ん?」
カインは気になる記述を見つける。惨劇の舞台となった村、カナイド。そこには母子二名の魔女が素性を隠し暮らしていた。そして、ヴァルキュリアの力を発現させたのは、その娘――。
「暴走したのは、子供の方?」
「そう。その子は今どこにいるかと言うと……君ならわかるんじゃあないかな?」
「もしかして、わざわざこうやって見せたってことは……あれか、あの骨董品、デュナミスと一緒にいる魔女のことだね?」
サノは満足げに頷いてみせる。しかしカインはつまらなそうにモニターから顔を放した。
「それで、結局サノは何が言いたいわけ?」
「せっかくだからさ、その魔女で遊んでみるってのは? アースガルズ、だっけ? そこの兵器とボクらの兵器、どちらが優れているかってね」
『それに』とサノは付け加える。
「もしもデュナミスがヴァルキュリアとぶつかれば、それはそれで何か新しい事が起きるかもしれないじゃん?」
「新しいこと?」
「ああ。わざわざ因縁のある魂を選んだんだ。そこにオスカルも知らないような新たな発見があるかもしれないだろ?」
しばらく何か考えるように俯いていたカインだったが、やがて顔を上げる。無邪気な笑顔と共に。
「面白そう!」
「だろ? アルマロスとミストルティン、忘れずに持って行って」
カインはベルトに小型の機械装置を取り付けると、“行き先”をイメージする。
「魔女たちの密集地……目的地はここだと思うよ」
サノは地図の一部分をペンで叩く。
「わかった。じゃあ、行ってくるよ」
「データ収集、よろしくね!」
カインは手を振って応えると、無限の軌跡で一気に跳躍し、その場から音もなく消え去った。
魔女の里、ルリは部屋から外を眺めていた。胸の奥から湧いてくる、言いようのない不安。彼女の心は今にも押しつぶされそうになっていた。
その時、廊下から誰かの声が近づいてきた。一人はエイル。そしてもう一人は――。
「ルリ、あなたにお客さんだよ。イースト・シティで離れ離れになったらしいじゃん? よかったね、また会え――ルリ?」
ルリはエイルの傍に立つ少年を見て、恐怖の色を浮かべる。
「嘘……どうしてあなたが……!」
「どうしたのルリ、ルリ!」
怯えるルリのもとへと駆け寄ろうとしたエイルに、カインは強烈な蹴りを喰らわせる。小柄な体躯からは想像もつかない強烈な蹴りは、エイルを吹き飛ばし机に激突させる。額から血を流したエイルはぐったりと動かなくなった。
「久しぶり。……なんだか体調よくなさそうだね」
カインはこともなげに部屋のドアを閉じると、ゆっくりと窓際のルリの傍に近寄った。
シオンが必死にルリに呼びかけるが、今の彼女には届かなかった。
「こ、来ないでください!」
ルリは震える手で杖を握りしめる。カインは肩をすくめ、余裕の表情を見せた。
「いいよ。やってみなよ。あのあばら家に住んでるじーさんにやったみたいにさ!」
次の瞬間、ルリの描いたルーンから眩い閃光が迸る。青い稲妻が走り、それはカインの肩を貫いた。彼は驚愕の表情のまま、背後の壁に激突した。
「痛ったぁー! 何でだ? アルマロスが作動しない?」
焼け焦げた自身の肩のことなど気にも留めず、カインはベルトに取り付けられた機械を調べ始める。その様子にルリは言葉を失っていた。
「んなバカな、動かない……? 壊れた……?」
銀色の小さな箱状の物体を、忌々し気に振るうカイン。ルリは震える声を絞り出した。
「魔女の里の中では、機械はみなそうなるのです……」
その言葉に、カインは『あっ、そっかあ』と納得した様子だった。彼は手にした機械と、腰に付けているもう一つの機械をベルトから取り外すとその場に放り投げる。そしてゆっくりと立ち上がった。
「そんな怖い顔しないでよ。お姉さんさ、5年前に何があったか知りたいんじゃあないの?」
「な、何のことです……?」
ルリの表情が変わる。……これはいけるな。カインは意地の悪い笑みを浮かべた。
「カナイド村だよ。ある一人を残して、全員が殺された、あの村のこと」
「そ、それは……オリンポス12神が……」
「違うよ」
ルリの手から、杖が落ちる。
「知りたいでしょ? 何があったか。だから今、苦しいんじゃあないの?」
カインは手を差し出す。
「行こうよ。行けば、分かるよ」
ルリは震える手を伸ばす。
シオンの声が聞こえる。
一度躊躇するように引っ込んだ手を、カインは掴む。すると――。
「ここ……ここは……!」
ルリの膝は震え、滝のような汗が流れ出す。
ほぼ自然に還りかけている村。草が伸び放題で、その中に家屋だった名残が点在している。
「思い出した?」
「思い、出す……?」
分からない。ルリは記憶の糸を辿るように手繰り寄せる。
優しい両親、仲のいい多くの友達、親切な村の人たち。大事な人たち。
「本当の事を」
「本当……」
遊び疲れて帰宅したルリを、両親は温かく包み込む。二人に抱かれたルリは、幸せな気持ちに浸る。
そんな村を、オリンポス12神を名乗る集団が襲う。村を焼き、人々を殺害する。
ルリの家にも、奴らは来た。家族を守る為に飛び出した父親は殺され、物言わぬ躯と化す。
奴らの代表が近づいてくる。
ルリの母親は、ルリをかばう様にその前に立ちふさがった――。
「それも、全部、嘘」
カインの声に、ルリは現実に引き戻される。それと同時に、洪水のように忘れられないものが彼女の中になだれ込んできた。
孤独な日々、辛い記憶。
――いらないわ汚い。
――来ないでって言ッてるでしょッ!!
信じたい人からの、拒絶。
――殺せ!
向けられる殺意。
人々の悲鳴、恐怖。
自身の意識とは別に動く体。あっけなく死んでいく人々。
見ているだけ――。
――化け物……!
自分を見つめる、憎しみに満ちた眼差し。
「守らなきゃ、殺されるよ?」
その言葉が引き金となり、ルリは思い出した。
* * *
ミズガルズに無事帰還したケン。しかし、フレイヤの館の様子がどこかおかしいことにすぐに気が付いた。
「なんだか、騒がしいゾ……!」
ギィギも耳をピンと立てて尋常ではない様子だった。
フレイヤは真っ青になり駆け出す。一行も黙って後に続いた。
「お、お師匠さまあ~」
エルルーンが涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら駆けてきた。フレイヤは優しくハンカチでその顔を拭う。部屋の中からカーラや他の魔女たちが出てくる。皆真っ青な顔をしていた。
「何があったの?」
フレイヤの声は震えている。
「私も居合わせたわけじゃあないから詳しいことは分からないのだけれど、エイルが“男の子”を招き入れたみたいなの。そしたら、彼がルリを連れてどこかに……」
「エイルは?」
「ケガして意識を失ってたけど、さっき目が覚めたよ……」
フレイヤは立ち上がると部屋の中に駆け込む。ケンたちもその背中を追った。
部屋の中に入ると、エイルがベッドに横たわっていた。頭に巻かれた包帯には血が滲んでいる。彼女は両手で目を覆い、涙を流していた。
「エイル、何があったの」
フレイヤの呼びかけに、エイルの嗚咽は止まる。しかし――。
「ごめんなさい、私のせいなの……ごめんなさい……」
ただそういうだけで一向に要領を掴むことができなかった。しびれを切らしたフレイヤが、優しく喝を入れる。
「しゃんとなさい。後悔は後でするものよ。今はやるべきことがあるんじゃあなくって?」
その言葉に、エイルも我に返る。そして、彼女の口から事の顛末が聞かされた。
「ルリの知り合いって言う男の子が訪ねてきたから……私、ルリが元気になれたらいいなって思って……彼をここまで案内して……」
明らかに不自然で怪しい来訪者。しかしそんな者にでも頼りたくなるほど、エイルはルリに対して思い詰めていたのだろう。ケンはそう思った。
「その子を見たルリは、ひどく怯えていて……普通じゃあなかったから私は彼を止めに行ったわ。そうしたら、蹴られて……頭をぶつけて、そこまでしか覚えていないわ」
フレイヤは『わかったわ。よく話してくれたわね』とエイルの頭を撫でる。さめざめと泣くエイル。その時、エイが部屋の中で何かを見つけた。
「フレイヤさん、これ……機械ですよね」
エイの手の上で光る銀色の箱。それを見たフレイヤの表情が変わる。
「アルマロスに、ミストルティンね……」
その言葉に、ケンは全身の毛が逆立つのを感じる。
「と言うことは、研究所ですよね……!」
ケンは思い出す。イースト・シティ出国ゲートでの出来事を。無邪気にマリの命を奪った少年のことを。
「落ち着きなさい。怒りは自分を見失わせるわ」
震えるケンの語気からその気持ちを汲み取ったフレイヤは、震える声で窘める。しかし同時に、それは彼女自身にも言い聞かせているかのようだった。
「またあのカスどもか! せやけど、一体どうしてや? 何でルリちゃんを……」
憤るリョウをよそに、フレイヤは立ち上がると右手をかざす。彼女の手の甲には深紅の魔女の印が浮かび上がった。
「……カナイド村ね」
ケンの中で嫌な予感が膨らんでいく。かつて惨劇があった場所に、それを引き起こした張本人を連れていく……。まるで、“再来”を引き起こそうとしているような――。
「行きましょう!」
立ち上がるケン。エイ、リョウ、ギィギもほぼ同時に立ち上がった。しかしフレイヤは、大きく首を横に振った。
「ダメよ。ケンならまだしも、それ以外の三人はヴァルキュリアの攻撃から身を守ることなんてできないわ」
「んなこと知るか!」
声を張り上げるリョウ。そんな彼を、エイは宥める。
「落ち着けリョウ……。すみませんフレイヤさん。でも、俺もリョウと同じ考えです。ケンだけじゃあなくって、俺も、リョウも、ギィギだって、ルリの友達です。呼びかける声は、一人でも多いに越したことではありません」
「そうだゾ。オレたちだって、足手まといになるつもりはないゾ!」
フレイヤは湧き上がってくる言葉を、歯噛みすることで押さえつける。そして、大きく息を吐いた後――。
「駄目よ」
そう言い残すと、まるで霧のようにその場から溶けていった。
「ああっ! そんな! どないすんねん!」
リョウの狼狽える声。しかしケンは、至って冷静だった。考えれば考えるほど、彼の頭は澄み渡っていく。そして、その澄んだ思考の先に視えるものがあった。ルリの気配だ。
「みんなで行こう」
「行こうと言っても……俺たちにフレイヤさんのような長距離を瞬時に飛ぶ方法なんてないぞ? いや、それどころかカナイド村の正確な位置すらしらないんだぞ?」
エイの指摘は尤もだった。しかし、今のケンには絶対に行けるという確信があった。
「大丈夫。行けるよ」
「どうしてだゾ?」
ギィギの不安そうな表情。ケンは笑って応える。
「研究所のアイツがやれたんだ。だったら俺だってできるさ」
「……なら、何も言うことないわ。任せるで、ケン」
リョウからの信頼。ケンの中で確信が完全に固まった瞬間だった。
「絶対にルリちゃんを連れて帰ってくる。だから、待ってて」
ケンはエイルに呼びかける。彼女は静かに涙を流して頷いた。
「じゃあみんな、行こう」
そう言うと、ケンは息を吐き全身の力を抜く。目標は視えている。後はそこまで仲間たちと行くだけだ。
「無限の軌跡……頼んだぞ……!」
刹那、目の前の景色が変わる。緑に包まれた、物哀しい廃村。鼻腔を突く自然の香りが先程までいた館内部との絶対的な違いを教えてくれていた。
「あなたたち……どうして……!」
血相を変えたフレイヤが、ケンたちに近づく。しかし、ケンたちの目に彼女は映っていなかった。
皆の視線を奪ったもの、それはどす黒い力場に覆われたルリの姿だった。
そして彼女の前には、忘れたくても忘れられないあの少年が。
「カイン……!」
ケンの声にカインは反応し、振り返る。その表情は相変わらずへらへらと笑っていた。
「おっ、骨董品野郎のデュナミス、やっときたか。見ろよこれ。すごいなあ」
まるで物でも見ているかのような口ぶりに、リョウはキレた。
「ざけんなや! 手前ェ、自分が何やったのか分かっとんのか!? こんな――」
途切れるリョウの声。彼の視線を追う様に、カインも振り返る。その先には、漆黒の甲冑が顕現していた。
「わお、すっご――」
凄まじい速度で薙ぎ払われる槍。しかし、カインは無限の軌跡を使い瞬時に彼女から距離を取った。
安全地帯だ、そうほくそ笑んだカインの顔面を、人間離れした動きの甲冑の足が抉った。
「この動きは……高次予測……? まいったね……」
黒い鼻血を吹き出し、放物線を描きながら草むらに落下するカイン。甲冑は体勢を整えると、深紅の双眸をケンたちへと向けた。
誰が動くよりも先に動いた人物、それはフレイヤだった。彼女が素早く杖を振るうと、漆黒の甲冑は一瞬白い光に包まれる。しかし、甲冑はそれを意にも介さず、一直線に突進してきた。
「そんな……どうして……!?」
散り散りになる一行。フレイヤは動揺した声を出しながらも杖を振るった。霧のように湧き上がったフレイヤの4体の影が、甲冑を翻弄する。
その隙に、ケンは急いでフレイヤに近づいた。
「どうしたんですか?」
「以前は、今のルーンでルリの正気を戻して止めたの。でも、それが効かなかった……つまり……」
「今のルリちゃんが正気……ルリちゃんの意思で暴れているんですか!?」
「分からないわ――危ないっ!」
フレイヤは咄嗟にケンを突き飛ばす。二人の間を風切り音が通り過ぎる。そして次の瞬間、フレイヤの腕から鮮血が迸った。
「ああっ!」
倒れるフレイヤに近づこうとケンが起き上がったとき、彼の目の前に黒い影が立っている。
「ルリちゃんッ!」
無意識のうちにケンはその名を口走っていた。それに反応するかのように、黒い甲冑の動きに乱れが生じる。
声が届いたのだろうか? ケンは無防備なまま甲冑に近づく。その時、フレイヤの危険を告げる声が聞こえた。
咄嗟に腕を交差させ防御姿勢をとるケン。しかし、叩きつけられる槍は彼の両の腕の骨を砕き、遥か後方の草むらへと弾き飛ばした。
「くっ!」
フレイヤは杖を振るう。巨大な炎の壁がせり上がり、甲冑を包み込んだ。
「ケン、大丈夫か!」
草むらに倒れるケンのもとに、エイたちは駆け寄る。
「ああ……ちょっと痛かったけど、何とか……」
「はあ? お前何言って……ウソやろ……?」
ケンはリョウの困惑の意味が分からなかった。しかし、起き上がろうと地面に手をついたとき、ケン自身も気が付く。
「腕が、なんともない……」
自分の両腕を摩るケン。確かに攻撃を受け、動かせないほどの痛みを感じたはずなのに……。
しかし今はそれどころではない。ケンは頭を振ると、仲間たちに顔を向ける。
「みんな、ちょっと聞いてほしい――」
その頃、甲冑を相手にしているフレイヤは攻めあぐねていた。彼女はあらゆるルーンを修めている。それらを用いれば、いかにヴァルキュリアといえどひとたまりもないだろう。
しかし、今の彼女の目的は倒すことではない。中にいるルリを救い出すことが重要なのだ。それが彼女にとって大きな枷となっていた。
「まずいわね……心に呼びかけるルーンは反応が無い……かといって甲冑を破壊するほどのルーンを使えば中のルリが無事じゃあ済まないわ……」
焦りからか、フレイヤの回避行動が乱れていく。そして戦闘のさ中飛んできた小さな石ころ、彼女の顔にぶつかったそれが僅かな隙を生み出してしまう。
「しまった……!」
甲冑が手にした槍が、真っすぐ自分の心臓を狙っているのが見える。終わりを悟ったその時、横から割り込むようにケンが飛び込んでくると、フレイヤの身体を掴んだ。
ケンは無限の軌跡を使い距離をとろうとする。当然、ヴァルキュリアの甲冑はそれも織り込み済みで、着地点を瞬時に割り出す。あとは出現に合わせ止めを刺すだけ。しかし――。
「ルリーッ! オレだゾ! ギィギだ!」
不意に外野から飛んでくるその声に、思考が搔き乱され、動きが止まった。
「ルリ! 目ェ覚まさんか!」
反対方向からはリョウの声が響く。甲冑は狼狽えたように周囲を見回す。
「ルリ……思い出すんだ! 君自身を!」
背後から聞こえるエイの声。ヴァルキュリアの手から、槍が重たい音を立てて離れる。
「今だ!」
その隙をケンは見逃さなかった。素早く近づくと、背後から甲冑を羽交い絞めにした。
「ルリちゃん、戻ってきてくれ! ルリ――」
その時、ケンの脳裏に、あの光景がフラッシュバックする。終末戦争……黄昏を背景に、殺し合う二人の姿。
「違う、それは俺の記憶じゃあない……!」
ケンは思わず甲冑から離れてしまう。仲間たちの声が聞こえるが、何と言っているのか分からない……。
「ああ……ダメだ……ジーグルーネ……!」
手足が震え、その場に膝をつく。目と鼻の先まで甲冑が近づいてきた。しかし、ケンは動けずにいた。
「俺の記憶じゃあない……俺の――」
甲冑の腕が振り下ろされ、ケンの肩、鎖骨を砕いた。立て続けに強烈な蹴りがとび、ケンは後方へと吹き飛ばされる。
地面に落ちた槍がひとりでに浮き上がった次の瞬間、それは甲冑の手に収まっていた。彼女は、それを天高くに向け掲げる。広範囲を焼き払う、破滅の光を撃ち出す予備動作だ。
「ああっ、まずい……!」
フレイヤは真っ青になり杖を振るう。ケンたち一人一人に、彼らを覆う透明な障壁が現れる。
そして天から降り注ぐ閃光。フレイヤの意識はそこで途切れた。
煙の臭い。草が焼ける音が聞こえる。ケンは体を起こすと、燃え盛る周囲の惨状に絶句した。
「そんな……」
ケンはあの時、フラッシュバックを見て動けなくなった自分を呪った。呼びかけることを止めてしまった自分を、強く呪った。
冷たい音を立て近づいてくる甲冑。ケンが唇を噛んだその時、ルーンの光が迸り、甲冑を遥か後方へと吹き飛ばした。
「だ、誰だ……?」
燃える地面をものともせずに歩いてくる人物……。ケンは彼女の姿を見て息を呑んだ。
「ホロウ……!」
彼女はケンに目もくれず、彼の隣を通過する。そしてその手にしている大型の杖を脇に投げ捨てた。
「ジーグルーネ……私が終わらせてやるよ……!」
そう言うと、彼女の周囲を白い力場が覆う。それは力強く渦を巻き、炎と煙を天高く巻き上げていった。
戦場を渦巻く旋風が晴れた時――。そこには純白の甲冑を纏ったホロウが、堂々と立っていた。
「お前も……ヴァルキュリアなのか……?」
ケンはその姿に圧倒されていた。そして、フレイヤから聞かされた真実を思い出す。アースガルズの支配者、ウォーダンの娘……ブリュンヒルデ。圧倒的な力を備えていてもなんら不思議ではない。
ホロウはケンの言葉に耳も貸さずに、手にした槍を携え漆黒の鎧目掛け猛進する。
白と黒、二つの甲冑が切り結ぶとそこに凄まじい衝撃が発生する。ケンは吹き飛ばされないように体勢を低く、地面にその四肢を押し付けた。遠くでギィギやリョウの悲鳴が聞こえた。
人の力を超越した闘い。誰もがそれに圧倒され、呆けた表情のままただ眺めることしかできなかった。
「ケン、無事か!?」
駆け寄ってくるエイの声に、ケンは我に返る。額から血を流したギィギもその隣にいた。
「ちょっと切っちゃっただけだから、大丈夫だゾ」
ケンの表情から察したのか、ギィギはケンを宥めるように慌ててそう言った。
「……リョウは?」
「ここやで」
声のする方に顔を向けると、意識が朦朧としているフレイヤに肩を貸しながら歩み寄ってくるリョウの姿があった。
「フレイヤさん、大丈夫なの?」
「命に別状はないで。……ただ、決して安心できるワケやないけどな」
肩で息をしており、満身創痍の表情をしているフレイヤ。ケンは奥歯を強く噛みしめる。
「俺たち、何もできないのか……?」
「あれに任せるしかないだろうな……ん?」
遠巻きにヴァルキュリアの壮絶な闘いを見ていたエイが、異変に気が付く。
「なんだか、ホロウの様子がおかしいぞ……」
黒の鎧と対峙するホロウ、その動きがどこかぎこちなく見えた。息が上がっており、時折体が震えている。
「オイ……なんかヤバくないかアレ!?」
次第に形勢が不利になっていくホロウ。ついには地面に片膝をつき、手にした槍が遥か遠くへ弾き飛ばされる。漆黒の槍が、まさにホロウの胸部目掛け突き出されようとしていた。
ケンは咄嗟に跳躍する。黒い甲冑を勢い任せに蹴りつける。その体は土煙を上げ遥か後方まで横滑りしていった。
「余計な真似をするなッ!」
白い兜の奥から聞こえる怒号。それはホロウの声であるものの、いつもの軽薄な色は全く感じられない。それどころか、まるで別人のようであった。
「でもアンタ、あのままじゃあやられてた!」
「それが余計だと――」
ホロウの言葉は途切れ、ケンの前に躍り出る。凄まじい速さで飛んできた槍を、自身の槍で弾き飛ばした。その際僅かに掠ったホロウの甲冑、その肩部分が破損し金属片が黒い血と共に宙を舞った。
「アイツは全ヴァルキュリアの中で最も優れた戦闘力を持っているんだ、お前らの手に負える相手じゃあない!」
「知るか! あいつは……あの子はルリちゃんなんだ!」
ケンはホロウの制止も聞かずに駆け出す。目にもとまらぬ速さで繰り出される槍の刺突を、紙一重で躱す。槍が掠め、千切れた髪が宙を舞う。しかし、それが地面に落ちるよりも速くケンは甲冑に組み付いた。
「ルリちゃん! 俺だ!」
強烈な膝蹴り――まるで勢いよく振り上げられた金づちのような衝撃がケンの鳩尾を捉える。ケンの視界は一瞬揺らぐが、それでも彼はその手を離さなかった。
ケンの脳裏に強く浮かぶ、あの日の情景。かつて何度も夢で見た、凄惨な光景。
「違う――、違う! 俺はガルムなんかじゃあない! 俺は、スズハラ・ケンだ!」
黒い血をまき散らしながら、ケンは叫ぶ。
「そうだ!」
黒い甲冑に、背後から組み付く人影。エイだった。そして――。
「思い出せルリ! お前自身のこと、そして……俺たちのことも!」
片足にしがみつくリョウ。
「オマエはヴァルキュリアなんかじゃあないゾ! オマエはルリだゾ!」
ギィギも続く。
「馬鹿な……どうして……どうして殺さない……? あんな脆弱な人間に抑え込まれるなんて……」
力なく膝をつき、ケンたちの足掻きをただ見つめるホロウ。
「あの少女の心が揺れているのか……? 仲間の、想いに……? 嘘だ、嘘だ嘘だ! 人間なんて、ヒトなんて……!」
その時、ホロウの脳裏に過去の光景がフラッシュバックする。目を背け蓋をしていた、断片的な記憶――。
――ジークフリート……!
――残念ね! 彼はもう、あなたのことなんて分からないのよ!
塞がっていた心の傷口から、真っ赤な血が流れ出す。
――お前は……代替品だ。ブリュンヒルデは……幼き頃にその生涯を終えた。
この鎧を再び纏った時から幽かに聞こえていた声が、脳裏にはっきりと浮かび上がる。――やはりこの鎧は、呪いだ。ホロウの目から涙がこぼれ落ちる。
――お前は敵だ! 森の魔女でも、私ら自由の魔女でもない! どっちでもない、ハンパ者! 死ね、死んでしまえ!
どれだけ耳を塞ごうと、その声は絶対に消えることはない。
――ゴメンねブリュンヒルデ、もう……こうするしかないの。
――だめだロタ! それを使ったら戻れなくなるぞ!
――さようなら。
絶対に取り戻せない、大切な友。
――このユーラシア落ちようとも、人々に危害は加えさせない。……君にも心があるのなら、“命”を学びたまえ……。
「あ、ああ……」
ホロウの様々な痛みや悔恨の再来。それはまるで、目の前の若者たちの光に当てられ、自身の闇が浮かび上がったようだった。
彼女の身を包む白き甲冑は、分解されるように彼女の身体を離れる。
その時、漆黒の甲冑は槍を地面に突き立てる。強烈な衝撃が、その場にいる全員を襲った。ケンたちは、まるで暴風に弄ばれる木の葉の如く吹き飛ばされた。
* * *
ルリは独り、暗闇の中膝を抱えていた。
覆せない過去、そして、今現在仲間たちを傷つけている事実。聞こえてくる仲間たちの声は、彼女にナイフの様に突き刺さる。
「ルリ、聞いて」
脳裏ではなく、直接鼓膜に届く声。聞きなれたその声に、ルリは顔を上げる。
そこには自分と瓜二つの少女がいた。どこか勝気な表情をしている以外は、まるで鏡に映し出された虚像のようだ。
「シオン……」
「やっと、会えたね」
シオンはルリの隣に腰を下ろす。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
ルリの顔を覗き込むシオン。彼女の深紅の瞳に、ルリが映りこむ。
「私は、傷つけることしかできない。みんな、みんな不幸になっていく……」
自分の身体を抱きしめるルリ。そんな彼女に、シオンは優しく寄り添う。
「ううん、それは違うよ。あなたは怖がっているだけ。でもそれは誰もが持っている心よ。誰だって痛いのはいやよ」
シオンは立ち上がると、ルリの前に進み出る。眩しい微笑みがルリを見つめる。
「でもね、もうそれを独りで抱え込まなくってもいいの。あなたには、素敵なお友達がいるじゃあないの」
「シオン……?」
ルリは顔を上げる。彼女には“解った”。かけがえのない彼女が、どこか遠くへ行ってしまうことに。
「あなたの業も、呪いも……全部私が“持っていく”わ。あなたは自分の居場所に戻ろう? だってみんな待っていてくれるのよ? これほど幸せなことってないわ」
シオンの胸の高さに、光輝く球体が現れる。力強く輝くその光を、シオンは愛おしそうに抱きしめる。
「待って――私を――また独りにしないで……!」
ルリの身体は動かない。次第に離れていくシオン。
「独りじゃあないわ。みんながいるでしょ? 私はここまで。後はあなたが自分の足で立つの。辛いけど、みんなと一緒ならきっと大丈夫」
シオンの背後から眩い光が差し込む。ルリは目を細めた。
「大丈夫、私の知っているあなたはとっても強いの――」
『だから――』微笑むシオン。ルリはよろよろと立ち上がると、彼女に向かって手を伸ばす。
「――さようなら!」
* * *
それは突然だった。
黒い甲冑が地面から槍を引き抜いたとき、その動きがピタリと止まった。
光の柱が天へと伸び、甲冑が解けていく。
「ルリちゃん!」
誰よりも早く、ケンは駆け出す。光の渦の中心に、意識を失ったルリがいた。自身の身体の痛みなどお構いなしのケンが、ゆっくりと降下してくるルリの体を抱きとめた。
「大丈夫!?」
ケンはルリの頬に手を当てる。……息をしている。安堵したケンはその場に膝をついた。満身創痍の仲間たちも、体を引きずりながら徐々にケンのもとへとやって来る。皆ルリが無事なことに胸を撫でおろしていた。
一方ホロウは、そんな彼らの様子を離れた場所から見つめていた。
自分の失ったものを、目の前にいる者たちは持っている……。彼女は立ち上がると忌々し気に血が混じった唾を吐き捨てる。
草むらに転がった杖を拾い上げると、ホロウは煙草を取り出しながら歩き出した。草むらで伸びている馬鹿者を回収するために、ケンたち一行の横を無言で通り過ぎた。
「ホロウ!」
ケンの声が彼女の背中に届く。しかしホロウは振り返らない。
「何かしらあ? 勘違いしないでちょうだいねえ、別にあなたたちを助けるつもりなんてこれっぽっちも――」
「ありがとう」
ありったけ、気持ちのこもったケンの感謝の言葉。ホロウの肩がピクリと動いた。
ホロウの煙草を持つ手が震える。彼女はゆっくりと振り返る。その顔は、泣き顔と笑い顔の混じった歪なものだった。
「プロジェクトの障害を、と、取り除いたに過ぎないわあ……次に会うときはまたいつもどおりよお……。せいぜい……怯えて過ごすことねえ」
そう言うとホロウは、火の付いていない煙草を投げ捨てると、草むらに横たわるカインを小脇に抱えてその場から消えていった。
「相変わらず、不気味なヤツやな……」
リョウは血混じりの額の汗を拭う。しかしケンはそうは思わなかった。彼は先の戦いで、ホロウの中に僅かな人間性を感じたのだった。いつもの人を馬鹿にしたような、軽薄なものではない、真に迫る人間的な素顔……。
その時、ケンは腕の中のルリが僅かに声を上げたことに気が付く。
「ルリちゃん? 気が付いた?」
ゆっくりと目を開くルリ。仲間たちの歓声が上がる。フレイヤも安心したように胸を撫でおろしていた。
ルリは目を見開いたまましばらく黙っていたが、やがて彼女の目からは大粒の涙があふれ出した。
「いない……もうどこにも……いなくなっちゃった……!」
声を上げ泣きじゃくるルリ。困惑するケンたちをよそに、フレイヤは優しくルリの頭を撫でる。
「そうね……。でも、あの子は最後にあなたに心を残してくれたわ」
「心……?」
「そう。それはあの子とあなたの確かな絆よ。あなたが健やかに生きることが、あの子へのはなむけになるの……あの子の生きた証を証明するために……歩き続けましょう、みんなで」
ルリは仲間たちの顔を見る。ケンは強くルリを抱きしめた。
廃墟となった村を、太陽はいつもと変わらない光で照らし続けていた。




