#23翠緑の大樹海
南の村を発ってから3日、砂漠の民が造った休息所を経由しながら一行は砂漠を縦断する。日差しの強い日中は身を休め、日没と共に出発する。昼夜逆転の生活に慣れ始めた頃、ケンは周囲の景色や空気が変わっていることに気が付いた。
熱砂はいつしか鳴りを潜め、ひび割れた赤土の隙間から、這うような蔦や頑強な野草が砂漠を押し返すように生い茂っていた。見上げる空も、砂漠のあの突き抜けるような乾燥した青ではなく、湿り気を帯びた深い青へと溶け込んでいる。そして何よりも――。
「緑の匂いがする……」
ケンは深く息を吸うと、鼻腔に湿った香りが届く。砂漠では深呼吸などもってのほかだったため、今こうして深呼吸していることこそ環境の変化を如実に物語っていた。
「もうそろそろ森が見えてくるはずだゾ」
「はあー、フツーに息を吸えるってありがたいなあ!」
リョウはフードを取り払い、天を仰いで深呼吸をする。皆それに倣い頭部を覆う外套を脱ぎ去った。砂漠の夜風とはまた違う、“生命の色”をはらんだ風が彼らの頬を撫ぜていった。
「今日はこの辺りで休んで、日の出と一緒に森に入りましょう」
「あ、そうか!」
ルリの提案に、ケンはかつての経験を思い出す。一方でギィギは首をかしげた。
「どうしてだ?」
「俺が説明しよう! 夜の森はな――」
得意げに高説を始めようとするケンだったが――。
「夜の森は危険だな」
「せやな。獣も活発になる」
「周囲の確認が疎かになって、前後不覚に陥りやすくなる。つまり遭難のリスクが高まるってことだね」
「俺に言わせてよ……」
エイとリョウ、そしてトリッガーのインタラプトにしょげるケン。そんな彼を笑いながら、一行はその場に馬を止めて野営の準備を始める。
焚火を囲う様に座る少年少女たちを、オレンジ色の光が照らす。彼らは腰を下ろし、ルリが淹れたハーブティーを静かに味わっていた。
「父ちゃんたち、ちゃんとやれてるかなあ……」
ぽつりとそう漏らすギィギ。彼を励ますように、トリッガーは声を出す。
「心配いらないよ。僕の兄弟機たちも順調に起動しているようだったし、目下の障害もないんでしょ?」
「あートリッガー、ギィギの心配はそういうことやないで?」
「うん?」
モニターにクエスチョンマークが浮かぶトリッガー。リョウはそんな彼に目もくれず、鞄からM&Wのデッキを取り出しギィギに近寄った。
「なあギィギ、ヒマやろ? 俺がM&W教えたるわ」
「それ、なんだゾ?」
不思議そうな顔でリョウの手にあるカードの束を見つめるギィギ。ケンも自分の鞄からデッキを取り出した。
「俺とリョウがやるから見ててよ」
冷汗をかくリョウを横目に、ケンは敷物の砂を落とすように叩く。それを焚火の前に敷くと、ギィギを手招きする。
「アカンわ……俺に花持たせろよな……」
2人のゲームプレイを興味津々に観察するギィギ。ギオとダルも同様だった。ルールを教え、横からレクチャーを交えながらプレイさせると、3人とも目を見張る速さでゲームを理解していった。砂漠の民の学習能力の高さを知り、ケンもリョウも驚愕する。
「これ、おもしろいゾ! オレも自分のでっき? 欲しいゾ!」
「あ、ああ……桜花帝国についたら買ったるわ」
何はともあれ、ギィギの心細さを払しょくしてくれたM&Wにケンは心の中で感謝をした。
その後一行はそれぞれ横になり、静かに日の出を待った。起きている者、寝ている者、それぞれが新天地への英気を養っていた。
赤熱の朝陽が地平線からその顔を覗かせる頃、ケンたちは出立の準備をしていた。ギオとダルに馬を任せ、彼らに別れを告げる。2人とも再びの往路があるにも関わらず、笑顔で手を振り砂漠の地平線へと消えていった。そしてそこから少し視点をずらす方角に、廃コロニーの巨体が霞んでいた。朝もやも合わさり、それは幻想的な出で立ちをしている。
「さあ、ここからは自分たちの足で歩くゾ!」
ギィギの明るい号令とともに、一行は樹海目指し足を動かす。次第に濃くなっていく緑の香りに誘われるかのように、ケンたちは北上する。次第に周囲に木々が現れ始め、気が付けばいつしか風景は様変わりしていた。
「おおー、すっごいなあ」
感嘆するリョウ。ケンもそれに同意した。カタシア山とも異なる木々や草花。色とりどりのそれらはさながら異界のような光景創り上げていた。
「……ルリちゃん、大丈夫?」
ケンはルリの顔を伺う。彼女はどこか落ち着きがなくそわそわとした様子だった。
「あっ……えっと、はい。すみません」
「俺たちもいるから、ね?」
ルリは笑顔をつくってみせるも、どこかぎこちなかった。
それからしばらくは、誰も口を開くことなくただ黙々と歩き続ける。木々は深まり、いつしか周囲は鬱蒼とした大樹の腕の中だった。
「……これ以上下手に動き回るのは得策ではないな。ルリ、わかる範囲でいい。案内を頼めるか?」
「はい……その……」
何か煮え切らない様子のルリに、エイは首をかしげる。
「どうした?」
「魔女の里……寄りたいのですが、かまいませんか?」
エイはただ一言、『ああ』とだけ言う。それを聞いたルリは覚悟を決めた様子で顔を真っすぐ上げる。
「魔女はこの広大な森のそこかしこにルーンを刻んで道しるべにしているんです」
「それを探すっちゅうわけか。……にしても骨折れるで? アタリは付いとるんか?」
ルリは頷くと、左手の甲に青白く浮かぶ模様を見せた。
「便利な物、ありますから!」
彼女を先頭に、一行は樹海を進む。ケンは、ギィギがしきりに耳を動かしていることに気が付いた。
「ギィギは森に入るの初めて?」
「ん? そうだゾ。でもすごいな。色んな音がするゾ」
きょろきょろと周囲を観察している彼を見て、ケンは自分が初めて森に足を踏み入れた時のことを思い出す。耳に飛び込んでくる様々な音に参り、ルリから耳栓をもらったことも思い出した。まだそれほど日数が経っていないにも関わらず、彼には遥か遠い昔の出来事のように感じられた。
「色んな音がして、ギィギは辛くない? 俺が最初に森に入った時は大変だったよ」
「最初は驚いたけど、慣れたゾ!」
さすがの順応性だと舌を巻くケン。それと同時に、今耳栓を外したままでも特に違和感を覚えない自分にも気が付く。なんだかんだで、この体との付き合いも上手くいっているのだろうと密かな達成感に浸っていた。
「標までもう少しです」
枯れ枝を踏み抜き、草木をかき分け進む一行。すると、ケンとギィギの耳が別の足音を拾う。
「ケン……」
「ああ、ギィギも聞こえる? 誰か人が、こっちに向かって歩いてくるね……」
その言葉に思わず身を寄せ合う少年少女。
「ギィギ、それっとどっちの方角か分かる? 僕の音声スピーカー、森の中じゃあ上手く音が拾えないんだ」
「あっちだゾ」
ギィギの指さす方向に向き、トリッガーはセンサーを向ける。彼の高性能赤外線センサーは、確かに近づいてくる人物を捉えていた。
「ああいるね。距離は2、30メートルってとこ? 身長は170前後……細身で……女の人だ」
「魔女なんか?」
「分からないよ」
身構える一行。頬を伝う汗。緊迫した状況とは裏腹に、鳥たちの楽し気な声が響く。
そして、彼らの目の前の茂みが揺れ……。
「ふーっ、やっと抜けた」
草をかき分け現れたのは、オーエド・シティ由来の服装に身を包んだ妙齢の女性だった。長い黒髪を頭頂部で結っており、腰には長いものと短いもの、二振りの刀を差している。
「あら珍しい、こんなところに少年少女が――」
女性は素早くケンたちに目を向けると、言葉を途切れさせる。その表情に驚愕の色を浮かべながらケンに向かってくる。
「ウソ……兄様そっくり……てことは、ウソ……!」
彼女は興奮した面持ちでケンの頬に両手を添える。切れ長の双眸がじっくりと観察するようにケンの顔を見つめる。彼女の虹彩に映る、花弁のような形状がケンの意識にはっきりと焼き付いた。
「あの……」
困惑するケンの声に、女性は我に返ったように手を離した。彼女は、不審な視線を向ける一行に愛想笑いを向ける。
「ヤダごめんね、知り合いにそっくりだったからつい……」
「ついってなんやねん! そもそも、姐さんこんな森の中でひとり何しとんねん? つーか誰やねん?」
まくしたてるリョウを宥めながらも、女性は注意深く一行や周囲の様子を見ているようだった。
「私? ええと……ヨシノ。そう! ソメイ・ヨシノって言うの! この先に魔女たちの住んでいるとこあるでしょ? 私そこの代表者に用があって来ているのよ」
「お師匠様に……?」
疑惑の視線を送るルリに、ヨシノと名乗る女性ははにかんでみせた。
「ちょっとターイム!」
リョウがケンたちを連れ、ヨシノから距離を取る。そして額を寄せ合い声を落とす。
「信じるんか? 怪しいで?」
「でも悪い人じゃあなさそうだし……」
「アホかケン! 武器持っとるとはいえ、魔女でもない若い女がひとり樹海のど真ん中におるか普通?」
円陣を組む一団を遠巻きに眺めるヨシノを、トリッガーが興味深そうに観察していた。
「驚いたね、お姉さんの身体……筋組織の構成が常人よりも遥かに頑強だ。しかも先天的なもの……興味深い体質だね」
「勝手にスキャンしないでよエッチ」
ヨシノはトリッガーのモニターにデコピンを入れる。バランスを失ったトリッガーはすっ飛んでいき、リョウの後頭部に直撃した。
「痛ったあー! 何すんねんトリッガー!」
再び浮き上がるトリッガーを押しのけ、ヨシノが笑顔で進み出る。
「君たちに危害を加えるつもりはないし、どう? 魔女の里まで一緒しない? こう見えて私、結構腕に自信があるのよ? ここって野盗とかもいるみたいだから、守ってあげられるよ?」
困り果てた顔でエイに視線を向けるケン。エイは腰のホルスターに手を添えたまま静かに頷いた。
「魔女の里までだったら……まあ……って、どうして俺たちが魔女の里に向かうって知っているんですか!?」
「ホラ今、行くって教えてくれたでしょ?」
「あっ」
しまった、と口を押さえるケン。エイは溜息をついた。
「ふふ、半分冗談よ。でも、こんなところに来る理由なんて魔女の里しか無いと私は思うけど?」
「そうなんですか?」
「そうよ。鬱蒼とした木々は、危険をはらむもの。誰も近づきたがらないものよ」
「……魔女の里までですよ?」
仕方なくそう言うケンに、ヨシノは嬉しそうに両手を合わせる。
「わあ嬉しい! お姉さんあなたに聞きたいことたくさんあるんだ! さ、進みながらお話しましょ!」
そう言うと彼女はつかつかと足を進める。そんな背中に、ルリは鋭い視線を送った。
「ちょっと! どこに行くのか分かるんですか?」
「前にフレイヤから聞いたから覚えているわ。ホラ、ここ」
ヨシノが示す先には、表皮を一部剥がされ、そこにルーン文字が刻み込まれた木があった。
「本当だ……じゃあなくって、あなた、お師匠様の知り合いなのですか?」
「まあ、ね。魔女だって悪い人たちだけってワケじゃあないんだから、そういう人たちと仲良くしてもいいでしょ?」
「えっ……?」
予想外の返答に、ルリは言葉を失っているようだった。
「ホラ、ここからは魔女の出番よ。私だけだったら印から印を伝っていかなくっちゃあならなかったけど、よかったわ魔女っ子にも出会えて」
複雑な表情をしたまま、ルリは樹木に刻まれたルーン文字に触れる。
「それじゃあ……みなさん、できるだけ私の傍に来てください」
手招きをするルリ。その後静かに目を閉じると、意識を集中させた。刻まれた文字が赤々と光輝き、ルリの手の紋様も輝きを増す。
「導きのルーンよ、同胞を集いの地へと導きたまえ」
ルリが唱えた刹那、ケンは腹の内側から見えない力に引っ張られる。そしてその僅かな違和感の後、彼ら一行は別の木の前に立っていた。ルーン文字の輝きも、ルリの手の甲の輝きも消え去っていた。
「もう少しですよ、行きましょう」
そう言ってルリは歩き出す。ケンたちも遅れまいとその後に続いた。
「ね、あなたどこから来たの?」
ヨシノは両手を後ろ手組んでケンを覗き込む。女性であるが、ケンとはそう変わらない背丈。彼は不思議な感覚に陥った。
「イースト・シティですが……」
「ま! そんな遠くから?」
大げさな反応を見せるヨシノ。彼女の質問はその後も止まらなかった。ケンは研究所や自身の力については伏せたまま、話しても差し支えないことのみを話した。
「へえ、それじゃああのボールくんは、前の時代の人が造ったものなんだ……」
「その割には、トリッガーを見てもあまり驚いていませんでしたよね?」
「ええ、だって文献で読んだからね。人魔大戦以前に栄えていた人類がどんな生活をしていたか……割と知っているわよ」
飄々とそう言い切るヨシノの人物像に、ケンが抱く謎はますます深まるばかりだった。
しばらく歩き続けると、ケンの耳に聞きなれない息遣いが聞こえる。人とは違う、大きく深い息。
「なんだか、この先にデッカイ獣がいるみたいだゾ……」
青ざめるギィギ。そんな彼をルリは宥めた。
「少しびっくりするかもしれませんが、大丈夫です。私に任せてください」
何がびっくりするのか、何を任せるのか、質問をする前にケンの目の前に“それ”は現れた。
まるでアーチのように折り重なった木々の通り、そこを塞ぐかのように一匹の巨大な猿がうつ伏せに寝ていた。ぼうぼうに伸びた、若干苔むした長い体毛。規則的に聞こえてくる重低音のような寝息。それが吐き出される口元には鋭い牙が見え隠れしている。
それはケンたちの足音を聞いて目を覚ます。瞼がゆっくりと開き、白く濁った瞳が一行を捉えた。
「ガルガンチュア、私だよ。ルリ。帰ってきたから、通してほしいな」
聞いた事のない口調で巨大な獣に語り掛けるルリ。ガルガンチュアと呼ばれた巨猿は、ゆっくりと瞬きをした。
「ン……ルリ? ルリナノカ……?」
「うん。元気だった?」
「ルリ……ルリ!」
ガルガンチュアは手を伸ばす。エグザフレームとそん色ないその大きさに、ケンは眩暈を起こしそうになる。彼の人差し指に、ルリは優しく触れた。
「ただいま」
「オカエリ。ウシロノソイツラハ? クッテイイ?」
「だめだよ。みんな、私の友達。わかるでしょ?」
ゆっくりと言って聞かせるルリ。ケンは冷汗をかいたまま行く末を見守った。
「ウン。ルリノトモダチ、オレモトモダチ」
「ありがとう。それじゃあ、道を空けてくれるかな?」
ガルガンチュアは素直に頷くと、横にごろりと転がる。彼が仰向けに寝転ぶと地響きが起こり、近くの木々から鳥が飛び立っていった。
「それじゃあ皆さん、行きましょうか。……あっ、そうだ、トリッガーさん……その」
「どうしたの、ルリ?」
ルリは非常に気まずそうに、言葉を選んでトリッガーに打ち明ける。
「本当にごめんなさい。魔女の里の中に、機械を持ち込むことはできないんです……いえ、正確には、持ち込むと壊れてしまうんです」
「そうなの?」
「はい……。もちろん、トリッガーさんのことは機械とか、物じゃあなくってちゃんとひとりの人として接していますし――」
畏まるルリに、トリッガーは笑って答える。
「ルリが申し訳なく思う必要はないよ。僕も昔、人と魔女が争っていたってのは耳にしたことはあるからね。彼女らが機械を嫌っているってのも知っているよ」
「用事が済んだら、すぐに戻ってきます」
「本当に気にしないで。光学迷彩かけてスリープモードに入るから。ね?」
「ルリ、マダカ?」
ルリはトリッガーに何度も頭を下げながらその場を離れる。ケンたちもルリに続いてガルガンチュアの横を通り抜けていく。ちらりと横目で巨体を見やるケン。もしもルリがいなかったら……この巨体に襲い掛かられたら……彼は身震いしながら足早に駆け出した。
トリッガーを除く全員が通り過ぎた後、ガルガンチュアはゆっくり転がる。再びの地鳴りが森を揺らした。
「さて、と。僕はなるべく陽の当たる所でスリープモードだな……ん?」
ひとりごちるトリッガーは、自分に向けられる好奇の視線に気が付く。
「オマエ……ハジメテミルカタチ……ニンゲンッテ、ソウイウノモイルノカ?」
「んー……異種族との交流も悪くない、のかなあ……?」
* * *
木のトンネルを進む一行。ヨシノはルリに嬉しそうに話しかけた。
「私も“友達”なんだ? 嬉しいなあ」
からかうようなその言葉に、ルリは訂正するかのように声を上げる。
「あの場は、そうするしかないでしょう? ……気に障ったのなら、謝ります」
「そんなことないわよ。私、友達いないから嬉しかったわ」
思わず顔を上げるルリ。ヨシノの横顔は、到底嘘を言っているようには見えなかった。
薄暗い通路の先に、光が見えてくる。思わず足早になるケン。魔女たちの住む所はどんな様子なのだろうか? 胸の内から溢れる好奇心は抑えられなかった。
「おお……」
彼らの目に飛び込んできたのは、様々な形をした家屋だった。石畳の敷かれた通りに面して、石造りの牧歌的な建造物が並んでいる。同じものはひとつとしてなく、それぞれが独特な色や形をしていた。
商店のような構えの建物では、ショーウィンドウに様々な道具が並んでいる。煙突からはカラフルな煙が吐き出されており、不思議な匂いが漂っていた。
「……ん? ルリ? うそ、ルリが帰ってきた!」
パブのような建物から出てきた女性と目が合うと、彼女は一目散にルリ目掛け駆けてきた。
「みんな心配してたよ? 急にいなくなっちゃうんだもん! あれから何年経ったっけ……あら? そちらの人たちは……?」
「みんな私の友達だよカーラ。勝手に招いたのは……まずかったかな?」
顔半分に大やけどの跡がある彼女は、首を横に振ると微笑んだ。
「そんなことないよ。ルリの友達なら大歓迎さ。みんな、ようこそ。楽しんでいってよ」
手を振り去っていくカーラ。その後ろ姿を唖然と見送るケンだったが、ルリの声で我に返る。
「まずはお師匠様に会う必要があるから……行きましょう」
その先、すれ違う者全員がルリの帰還を喜んでいるようだった。そして、ケンはあることに気が付く。大小の差はあれど、魔女たちほぼ全員が何かしらの傷跡を抱えていた。しかし彼女たちはみな笑顔で、その表情には陰りは無かった。
建物が密集する地帯を抜けると、草原が広がっていた。ケンは里に入ったときから感じていたが、外の鬱蒼とした森と同じ場所かと疑うほど陽の降り注ぐ明るい場所だったのだ。
そして草原の先、巨大な館がそこにはあった。荘厳な佇まいで、煌びやかな装飾が夕日に輝いていた。
「あそこがお師匠様……魔女フレイヤの館、“フォルクヴァング”です」
ルリの声色に緊張の色がはっきりと浮かんでいる。どう声をかけるべきか……。ケンは悩んでいると、彼らの前方、館の方から悲鳴に似た声が聞こえてきた。
「セーフリームニルが逃げたあああ! 誰か止めてええええ!!」
その必死な声を聞いたとき、ケンは“セーフリームニル”が何であるのかを理解した。そう、まさに彼らの眼前に巨大な金色のイノシシが走ってきていたのだ。
「なんやあのイノシシ!? 見たことない色……というか、デケぇ!」
地響きを立て突っ込んでくるセーフリームニル。ルリは溜息をつくと鞄から杖を取り出した。
「翠の旅路!」
彼女のルーンに呼応するかのように草が伸びると、猛進するイノシシの足を絡めとり転倒させる。大地を揺らし倒れるその巨体を、さらに伸びる草が拘束した。
「ありがとう! もう! 私ルーンからっきしになのにセーフリームニルの当番やらされちゃって……えっ? ルリ!?」
眼鏡をかけた高身長の魔女は、信じられないといった表情でルリを見つめる。草に縛られ暴れるイノシシのことなど気にも留めずにルリに近づく。
「ただいま、エイル」
「ルリ!」
エイルと呼ばれた女性はルリに抱き着くと、静かに涙を流した。
「もう……! 心配したんだよ? ずっと戻ってこないし、フレイヤは大丈夫しか言わないし」
「うん、ごめんね……」
「それで、この人たちは……フレイヤが言ってた客人かな?」
エイルのその言葉に、ルリは驚嘆の声を上げる。
「えっ? お師匠様、私たちが来るって分かってたの?」
「そうだよー。だからセーフリームニルの準備しようとしてたの」
『あの人ってなんでもお見通しだよねー』と朗らかに笑うエイル。ルリは気まずそうに体をもじもじとさせた。そんな様子を、エイルは見逃さなかった。
「……一緒に行こうか? 一緒に謝って――」
ルリは慌ててエイルを制止する。
「ううん。それは私がやらなくっちゃあダメ。……ありがとう、エイル」
その言葉にエイルは微笑むと、ケンたちに声をかける。
「それじゃあ、ルリが外で作ってきたお友達さん、案内がてら自己紹介といこうじゃあない!」
道すがら楽し気に語るエイル。その喜びようから、どれほどルリの帰還を心待ちにしていたのかが読み取れた。ケンたちの自己紹介も興味津々といった様子で聞いていたが、ふと彼女は疑問を口にする。
「んー……聞いたところ、結構な長旅をしてきたんだね。でも全く接点のなさそうな君たちがどうしてルリとここまで来たんだい?」
好奇の色に光るエイルの瞳。彼女は口調こそくだけているものの、会話の一言一句に注意を向けている様子だった。ケンは悩む。彼女に旅の真意を伝えるか否か……。伝えたとして、その結果ルリの同行を快く思わなかったら……。
僅かに生まれる間。ルリは咄嗟に助け舟を出した。
「私が船の貨物に紛れ込んで、それでイースト・シティに行っちゃったの。倉庫で閉じ込められているのを皆が助けてくれて」
「へええ。じゃあ砂漠の民の君もイースト・シティ住みだったの?」
エイルからの質問に、ギィギはきょとんとした表情をする。
「うん? オレはイウヌで仲間たちと暮らしているゾ? ケンたちは海岸に流れ着いたんだゾ」
「は? 流れ着いた……? ええ……?」
困惑の色を浮かべるエイルに、ルリはやれやれとため息をつく。その後彼女は真相を隠しつつも、これまでの道のりを上手く説明していった。
草原の丘を越え、豪華な門をくぐり抜け、中庭を抜ける。一行が館の扉にたどり着いたころ、一通りの説明は終わりを迎えた。
「すごいね……ルリ、逞しくなったよホント」
「私ひとりじゃあできなかったよ」
「そうだね。きみたち、ありがとう……。姉として礼を言うよ」
微笑むエイルに、ルリは慌てて訂正を入れる。
「勝手にお姉ちゃんにならないでよ! ただの同室でしょ!?」
「ええー傷つくなあ」
ふたりの微笑ましいやり取りを見て、ケンは本当の姉妹のようだと思った。それと同時に、今までに見たことのないルリの口調に、彼女との間の壁はまだ完全に消えたわけではないとも考え複雑な気分になっていた。
その時、彼らの目の前の両開きの扉が音を立てた。ぎょっとするケンたち。しかし、エイルは動じていない。ルリは緊張した面持ちで背筋を伸ばしていた。
「フレイヤー、連れて来たよ」
エイルの飄々とした声が、ホール内に反響する。一体どれだけ広い館なのだろうか? ケンがそんな風に考えていると、中から聞き覚えのある声が返ってきた。
「エイル、あなたはセーフリームニルの世話をするのではなくて?」
以前カタシア山脈でビバークを行った際に、ルリの手持ちの琥珀のペンダント“ブリージンガメン”から聞こえたあの透き通るような声。……フレイヤだ! ケンの心臓は鼓動を速めた。
「無茶言わないでよ。私、ルーン全然なんだよ? あんなのが暴れたらどうしようもないっての!」
「あなたのその諦めの早さ……前々から言っていますよね? よくないと――」
「あーわかったから! お客様を待たせるの?」
ケンは冷汗をかきながらも、エイルの胆力に驚嘆する。
「……セーフリームニルは私が小屋に戻しました。あなたはお客様の部屋の支度をなさい」
ため息交じりの声がする。エイルは小さく手を振ると館の中へと消えていった。ケンもその後に続こうとしたが、ルリがそれを手で制した。
「お師匠様の許可なく館に立ち入ると、何が起こるのか分かりません。まだ待っていてください」
ルリの耳打ちに、ケンは青ざめて後ずさる。彼は己の迂闊さを恥じた。以前ルリの鞄……いや、フレイヤの鞄へと入った際にも似たような“制約”を目の当たりにしたというのに。
「待たせてごめんなさいね。いいわ、あなたたちを歓迎しましょう。入りなさい」
「……行きましょう」
一行は恐る恐る足を踏み入れる。磨き上げられた大理石の床は、まるで鏡のように光っていた。左右にはたくさんの扉が連なり、正面には大きな階段が上の階へと伸びている。
そしてその中継地点の踊り場、背面のステンドグラスから差し込む後光を背に女性の影が見える。肩まで伸びた深紅の毛に、ゆったりとしたドレスを纏うその姿はどこか神々しささえ感じられた。
「お師匠様、あの……私……」
ルリは言葉を絞り出そうとしているが、どうもその後が続かないようだ。ケンが口を開こうとしたそのとき、フレイヤはゆっくりと優雅に階段を一歩ずつ降りてきた。
彼女が近づくにつれ、その姿ははっきりとする。そして、その顔を見たケンは思わず息を呑んだ。
「えっ……!?」
彼女の整った顔を横切るように、一本の大きな傷跡が走っている。そしてそれはこめかみから両の目を通り、反対側まで続いていた。彼女は完全に盲いているのだ。
「驚かせたようね。でも心配しないで。私には目の有無はさしたる問題じゃあないの」
まるで全てを見通しているかのようなその言葉に、ケンは言葉を完全に失った。フレイヤはそんな彼を気にも留めずに小さく微笑んだ。そしてルリへと近づく。カツカツと大理石を叩くフレイヤのヒールの音が静かに反響する。身を縮めるルリに、フレイヤはそっと手を伸ばした。
「おかえりなさい」
優しくルリを抱きしめるフレイヤ。予想外の出来事に、ケンの肩から力が抜け去った。背後からはギィギが大きく息を吐く音が聞こえる。
「あの、私――」
「いいの。今は疲れているでしょう? エイルに部屋の掃除をさせておいたから、ゆっくりと休みましょう? お話はその後でも遅くはないはずよ?」
ルリは肩を震わせながら『はい』とだけ言うと、ケンたちへと向き直る。
「部屋に案内――」
「それはいいのよ。エイルを呼ぶわ」
フレイヤは何もない空中から小さなベルを取り出すと小さく揺らす。高い澄んだ音色が響くと、パタパタと大理石を蹴る音が近づいてきた。
「あーもう今度は何? 部屋の準備はちょうど終わったけど?」
「ルリとこの子たちを、部屋まで案内してあげて。必要なら何か食べ物も出してあげなさい」
エイルは『私はメイドじゃあないんだけどなあ!』と文句を言いつつ、ルリの手を取った。
「みんなもこっち来て。案内するよ」
ぞろぞろとエイルに続き扉に向かうケンたち。その背中をヨシノは見送っていた。
「……そろそろ喋ってもいいかな?」
わざとらしく咳払いをするヨシノ。フレイヤは笑って続きを促した。
「ありがと。まあお察しだろうけど、プロジェクトDとヴァルキュリアについてお話に来たんだけど……」
ヨシノはケンたちが消えた扉に再び目を向ける。
「まさか道中その当人に会っちゃうなんてねえ……。偶然とはいえ、驚いたよ」
「これも星の導きね。ちょうどいいわ。あの子たちにも知ってもらう時が来たのかもしれないわ」
その言葉に、ヨシノの表情が変わる。
「“瑪瑙の釣り針”、使う?」
「ええ。彼らに“ヴィーザル”と会ってもらうわ」
「そっか……私アースガルズってどうも好きじゃあないのよね。なんか辛気臭くて」
そこまで言って、ヨシノは慌てて口を塞ぐ。フレイヤは口元に手を当て苦笑する。
「素直でいいわ。私だって同感よ。“黄昏”で時の止まった、ただ滅びを待つだけの世界……」
肩を落とすヨシノ。額に手を当て素直に謝罪の意を述べた。
「悪かったわ……“あなたの故郷”に……」
「いいのよ。私はあそこを捨てたのだから。それより、あなたも疲れているわね。お話はまた明日でもいいでしょう? 部屋は……いつもの場所でいいかしら?」
ヨシノは顔を上げ困り顔のまま微笑んでみせた。そしてケンたちとは反対の方向の扉へと足を進める。そんな彼女の背中に、フレイヤは声を投げかける。
「ああ、そうだ。さっきあなた言っていたわよね? “友達がいない”って。心外だわ……私がいるじゃあないの」
足を止めるヨシノ。ゆっくりと振り返ると、まるで子供のような笑みを見せた。
「へへ……あなたには何もかもお見通しね……フレイヤ」
「友達だもの……ね? サクラ」
窓から夕日が差し込む廊下を、一行はエイルを先頭に進んで行く。いくつもの扉を越えた先で、エイルは足を止めた。
「ここ、君たちが泊まる場所だよ。ちょっと狭いかもしれないけど、ベッドは4つあるし、シャワーもバスタブもあるよ」
開け開かれる扉、ケンは促されるまま入室すると言葉を失った。
「ちょっと狭い……? これで……?」
室内は真っ赤な絨毯が敷かれ、奥には大きな暖炉が見える。ケンの生家よりも広いその空間に、大きなベッドが4つ並べられている。
「はああ……こりゃホテルやでホンマ……」
リョウは感心しながらベッドに腰掛ける。
「この部屋は何なんだゾ? 真っ暗だゾ?」
「入ってみなよ。人が入れば明かりが点くようになってるから」
ギィギが言われるまま足を踏み入れると、まるで自動照明のように部屋に明かりが灯る。しかしそれはフィラメントのものではなく、壁に吊るされたランプからだった。
真っ白な便器とバスタブ、壁から伸びるシャワーホース……見事な造りのユニットバスだった。
「家畜を洗うところか?」
「それは、お風呂で――」
首をかしげるギィギにケンはハッとさせられる。使える水が限られている砂漠の民たちに、風呂という文化はないのだ。濡らした布で体を拭く程度で、砂漠では十分だった。
「フロ? ……それにこの椅子みたいなのは……? 中に水が張ってるゾ。家畜の水飲み場?」
砂漠のトイレもまた独特なもので、浅く掘った穴を薄い板で囲う簡素な物だ。出した“モノ”は、砂漠の気候で瞬く間に乾燥していき風化する。それを彼らは作物や家畜のエサに利用していた。
「トイレだよ。ここで、こうやって座ってするんだ。しゃがむんじゃあないよ」
ケンが座ってみせると、ギィギは奇妙な表情をした。
「座ってするのか? なんだか慣れるまで大変そうだゾ」
「何言っとるんギィギ。あのコロニー内にだって同じモンあるんやから、きっとお前が帰る頃には村のみんな使い慣れとるで」
「そっか、じゃあオレも使いこなせないとマズいな!」
トイレ談義を微笑ましく眺めていたエイルは、小さく咳ばらいをするとケンたちの注意を引いた。
「それじゃあ、夕食ができたらまた呼びにくるから……それまではまあ、シャワー浴びるなり何なりゆっくりしていてよ」
「何から何まで、ありがとうエイル」
ケンは手を差し出しエイルと握手を交わす。その時、ケンは彼女の後ろ、廊下の窓際でぼーっとしているルリに気が付いた。
フレイヤと言葉を交わして、彼女からの叱責もなく済んだはずなのに……どこかルリの様子がおかしい。エイルもケンの視線に気付いたようだった。
「……ちょっと疲れているだけだと思うよ。私に任せて。ね?」
扉の向こうに消えていくエイル。何やらルリと言葉を交わしているようだったが、ケンは彼女を信頼しあえて耳を向けなかった。
「ケン! オフロの使い方教えてほしいゾ!」
不意打ち気味のその言葉に、ケンの身体はビクリと反応する。声の先に視線を向けると、ギィギがバスタブを覗き込んでいた。
「あ、ああ……。エイ、リョウ、先にいい?」
「構わない」
エイはベッドの上で荷物の整理を行っていた。
「ええけど長風呂は堪忍なー?」
リョウはベッドに寝転がったまま片足を突き上げゆらゆら振っていた。ケンは微笑みながら小さく息を吐くと、風呂場へと入っていった。
「これを取って……ここから水が出るんだ」
ケンは壁に掛けられたシャワーヘッドに手を伸ばす。そしていざ蛇口を捻ろうとしたそのとき、あることに気が付く。
「あれ? ひとつしかない……?」
「もっとあるのが普通なのか?」
普通は熱水用と冷水用で別れているものなのだが、どこにも見当たらない。仕方なくケンはひとつしかないそれを捻ってみると、すぐに心地の良い温水が吹き出してきた。
「すごいゾ……! 火にかけていないのに温かい水が……! それに、この水綺麗だゾ!」
ギィギは目を輝かせながら手をお湯に浸している。そして着ているものを取っ払うと、バスタブの中に飛び込んだ。
「ここで体を流すんだな!」
「そう。それで、これも使うよ」
ケンは壁に吊るされている洗体用のブラシと、石鹸を手に取る。そして泡立てるとギィギの体を洗い始めた。
「わ、くすぐったいゾ」
ゴシゴシと擦っていたケンだったが、泡の立ちがいまいちなことに気が付く。そしてギィギの体から流れ落ちていく汚れ。
「……これは一回じゃあ終わらないな」
生まれて初めて体を洗う人の手ごわさを身をもって体験するケンだった。
「さっぱりしたゾ! 海に飛び込んだ後みたいだゾ!」
すっぽんぽんで浴室から飛び出してきたギィギは、勢いよく体を振るう。水しぶきが勢いよく辺りに飛び散っていった。
「わ! やめーや! 犬かお前!」
リョウがベッドの上で身を丸くする。その悲鳴を聞き、ケンが裸のまま慌てて飛び出してくる。手に持ったタオルでギィギを包むと、ごしごしとその体を拭いた。
慌ただしくも気を緩めることができる時間を過ごす男性陣。一方その頃、自室に入ったルリは窓辺に腰掛け、何をするでもなくただ夕日を眺めていた。
「ハーブティー、飲む?」
「あ……うん……」
エイルの問いかけに、ルリは曖昧な返事を返す。それはまるで、問いが彼女の左耳から頭の中を通り抜け、右耳から飛び出していったような具合だった。
「待っててね」
小さく笑い部屋を後にするエイル。
ルリは独り、自身の膝を抱き部屋を眺める。出ていったときから何も変わっていない。ふたつのベッドに、ふたつの机。整理されたルリのものとは対照的に、様々な参考書やらノートやらが散らかっているエイルの机。
「変わっていない……あの日のまま……」
ルリの胸中には、居心地の良さと居心地の悪さ、ふたつの相反する想いが存在していた。
自分を受け入れてくれた魔女たち、優しいフレイヤ、姉のようなエイル……。皆かけがえのない存在であるし、彼女らのおかげで今のルリがあるということは彼女も痛感している。
温かく、優しい場所だが、同時にそれがルリの過去……まだこの館に来たばかりの頃を想起させていた。
ルリは必死に頭を振り、両手で耳を押さえる。その時、聞き慣れたあの声が聞こえてきた。
――まだ辛い?
「……ここには、いい思い出も、嫌な記憶もある。いい思い出はいっぱい思い出せるのに、嫌な記憶は思い出せない……。でも、頭から離れなくって、ずっと胸の奥で痛いの……」
――じきによくなるよ。
「それっていつ? シオン言ってたよね? ここを離れたら嫌な記憶は消えるって。でも消えなかった!」
――うん。
「次に言ったのは、私の嫌な記憶の原因はオリンポス12神の偉い人にあるから、その人を殺したら楽になるって。 でも、楽になるどころか、すごく嫌な気持ちになった。人を傷つけることって、私も痛いんだね……」
――でも、“オオカミの耳のあの子”がルリを助けてくれる、力になってくれるって言ったでしょ? ルリも彼の力になるって。それで上手くやっていたじゃあないの。
「それでも! ここに帰ってきたら! 思い出の裏側から何かが覗いているの! じっと、ただこっちを見ている……知っているはずなのに分からない!」
――ルリ、明日にでもここを出ましょう? みんなで、また旅に出るの。そうすれば――。
「シオンは私に何か隠しているの? ねえ!?」
そのとき部屋の扉が開き、ティーセットの載った盆を手にしたエイルが血相を変えて入ってきた。彼女は盆を机の上に置くと、悲痛な表情でルリのもとへと駆け寄る。
「ルリ、あなた……」
心配そうにルリの顔を覗き込むエイル。ルリはその真っすぐな瞳を見つめることができずに視線を窓の外へと向けた。
* * *
「……腹、減ったなァ……」
陽は沈み、辺りは闇に切り替わろうとしているころ、部屋でくつろいでいたケンがポツリと漏らした。
「オレもペコペコだゾ」
ケンとギィギは暖炉脇のテーブルの上でM&Wに興じており、エイは自身のベッドの上で静かに目を閉じている。リョウに至っては、盛大ないびきから察するに爆睡中といった様子だろう。
どうしたものかと腕時計に目をやるケン。時計の針は既に7時を指そうとしていた。そのとき、部屋の戸を誰かがコンコンと叩いた。小さく、遠慮がちな音だ。ケンとギィギは小走りに扉に近づくとゆっくりと開け放った。
「あの……御夕飯の支度ができましたので……その……」
大きな三角帽をかぶった少女がそこにはいた。華奢なその背丈から、ルリよりも年下であるだろうとケンは思った。彼女は帽子のつばをつかんだまま、震える声で続ける。
「お師匠様が呼んで来いと……あっ、ええと、呼びにきました。あっ、私はエルルーンです……」
完全に焦っている少女の前で、ケンはしゃがんで目線を合わせる。帽子の向こう側から緑色の瞳がおそるおそるケンを観察するように見つめていた。
「わざわざ呼びに来てくれたんだね、ありがとう。すぐに準備をするから待ってて」
ケンとギィギは、眠っているふたりを起こすべく踵を返す。そんな彼らの背中を見ながら、エルルーンはつぶやいた。
「耳、しっぽ……オオカミの……? 男の人ってみんなそうだったっけ……?」
エルルーンを先頭に、ケンたちは屋敷の廊下を進む。外はすでに夜の帳が降りており、昼間の温かさは嘘のように鳴りを潜めている。
何度も角を曲がり、階段を降り、似たような風景を進む。時折エルルーンが杖で壁に吊るされているランプを突くと、オレンジ色の温かい光が廊下を照らした。
「ここです。えい」
彼女が杖で両開きの扉を指すと、それらはひとりでに音もなく開いた。それと同時に、鼻腔に広がる食欲をそそる香りが流れ出してくる。リョウは軽く口笛を吹き、ギィギは尻尾を振っていた。
扉の先は大広間のような開けた空間になっており、長いテーブルが部屋の奥側から手前まで伸びている。そしてその上には、見たこともないような料理が並べられていた。
「おっ、少年たち。お揃いで~」
ケンが声のする方に顔を向けると、ヨシノが手を振っていた。片手にはワインが注がれたグラスを持っており、頬は上気したように染まっている。
「ワインあるんか!? 楽しみやなー! 久々の酒や!」
リョウが嬉しそうな声を出す。エルルーンは急いで椅子を引いてリョウに着席を促した。彼女はいそいそと座席にケンたちを案内する。そして全員が座ったのを確認すると、上座の方に存在している扉へと消えていった。
「あれ? リョウってまだ学生だよね? 酒飲んでいいの?」
楽しそうにグラスを眺めるリョウに、ケンは疑惑の眼差しを向ける。
「俺今年で20やで? ……まー、確かに学生やっとったけど」
「えっ!? そうだったの!?」
素っ頓狂な声を上げるケンに、リョウは『俺ってそんな威厳ないんか……?』とショックを受けた様子だった。
そのとき、エルルーンが消えていった扉からフレイヤが優雅に現れた。その後ろにはエルルーンが付き従っている。
「ありがとう」
フレイヤはエルルーンの引いた座席に腰を下ろすと、彼女の頬を撫でる。エルルーンは嬉しそうに小走りで扉に駆け込んだ。
扉の閉まる音。そしてしばしの静寂……否、ヨシノが手にしているナイフとフォークから聞こえる音のみが空間を支配している。
「いいわよ、ほら召し上がって? みんなで楽しみましょう?」
フレイヤはケンたちに食事を促す。リョウとギィギは待ってましたと言わんばかりに手当たり次第に料理を皿に取り分ける。ケンはしばらく空の皿を眺めていたが、やがて顔を上げた。
「あの、夕飯は……俺たちだけですか? ルリちゃんは……?」
ケンの問いに、フレイヤは自分の皿に肉塊を乗せながら答える。
「ルリは少し疲れているみたいだから、部屋で休んでいるわ。他のみんなはそれぞれの場所で食べているわ。気にしてくれてありがとう。……その様子じゃあ、まだ聞きたいことがあるみたいね?」
完全に見透かされている、ケンはそう思い肩をすくめる。それと同時に、緊張感も溶けていくのを感じた。
「この館に来るまでに、魔女の人たちが住んでいる家の前を通ってきました。みんなそこに住んでいるんですよね? でもこの館に住んでいる人もいるみたいだし……どうしてかなあって」
「あら、あなた面白いことに興味を持つのね」
フレイヤはナプキンで口元を拭くと微笑む。
「答えは簡単よ。彼女たちがそう望んだからよ」
「望んだ?」
「ええ。人っていろいろあるでしょ? 誰かといたいって思う人もいれば、ひとりがいいって人も。もちろん、ひとりが好きなわけじゃあなくって、自立した生活がしたいから家を持ちたいって子もいるけどね」
首をかしげるケンに、フレイヤはほんの少し身を乗り出す。
「要は、みんなに自由に生きてほしいのよ。あなたもここに来るまでに見てきたでしょう? 彼女たちが“外”でどういう目にあったのかを」
「……」
ケンは胸の痛みに言葉を失う。館に来るまでに出会った様々な魔女たち、彼女らの抱える傷は意図的につけられたものだとフレイヤは言っているのだ。
「でも、でも……どうしてですか? 魔女が持っているルーンの力だったら、人間に抵抗することだって――」
「簡単さ少年。“堕天使が人間に英知を与えた”のだよ」
仰々しくグラスを揺らすヨシノ。訝し気な表情を向けるケンに、彼女は真剣な表情で答える。
「“アルマロス”……大戦時、魔女からもたらされたルーンの情報を解析した人間が生み出したマジック・ジャマー……。人魔大戦の明暗を分けた世紀の大発明さ」
皮肉っぽく笑うヨシノ。ケンは衝撃の事実に脳を揺さぶられた気分だった。
「いったいどういうことです!? その言い方じゃあ、魔女が人間に力を貸したみたいじゃあないですか!?」
「みたいも何も、その通りさ少年。魔女たちも一枚岩じゃあないってことさ」
縋る様な表情でフレイヤを見るケンに、彼女は優しい口調で語る。
「サ――ヨシノの言う通りよ。“こっち《ミズガルズ》”にやってきた私たちだけど、生きていくうちにふたつに分かれたの。人と関わる者、そうでない者……」
ミズガルズ……やってきた……? 普通ではない言葉に眉根を寄せるケン。そんな彼を気にも留めずに親指と人差し指を立てるフレイヤ。そして彼女はゆっくりと人差し指を折る。
「ひとつは、私たち。この広大な森に身を隠し、ひっそりと生きていく道を選んだもの」
今度は親指を折る。
「もうひとつは、持っている力を最大限使って、思うがままに生きるもの……」
フレイヤは拳をきつく握りしめ、ゆっくりとテーブルの上に降ろす。
「ルーンの力を使って、持たざる者の上に立とうとしたの。でも、人間だって馬鹿じゃあないわ。持つ者持たざる者の間にできた亀裂は大きくなっていき、やがてそれは憎しみへと変わっていき……」
「その話だと、人魔大戦って魔女たちの一派と人間の戦いだったってことですか? でも、だったらなんでルーンの情報を人間に渡すような人が……?」
ケンの疑問に、フレイヤは溜息を吐いた。
「ケン、あなたも会ったことがあるはずよ。軽薄で、人の死を望み、喜ぶ者……“彼女”に」
最初、ケンはフレイヤの言っていることが分からなかった。そんな人物に会った事など……そこまで考えたケンの脳裏に、ひとりの人物が浮かび上がる。――ホロウだ。
「そんな……あいつが……? でもおかしいですよ、あいつは若いです。人魔大戦はずっと昔の出来事ですよ?」
「“私たち”ルーンを使う者の中でも、とりわけ極めた人はね……人の概念を遥かに超越した存在になるの。もちろん、私も」
フレイヤはグラスを傾け喉を潤す。そして静かにテーブルに置いた。
「彼女の本当の名前は“ブリュンヒルデ”。アースガルズの支配者たる“ウォーダン”の一人娘よ」
頭が混乱し、どうにかなったのかとさえ錯覚するケン。そのとき、じっと聞いていたエイが口を開いた。
「あなたの語るそれは……俺たちが知っている神話の話そのものです。本当だとするのなら、“この世界とは別にもう一つの世界がある”ということになりますが……」
「その認識で合っているわよ。そう、私たち魔女は、遥か昔にアースガルズというこの世界ではない別の場所からやってきたの」
「なんや、姐さん宇宙人なんか? たまげたなあ……」
「話が難しくて全然わからないゾ……」
リョウとギィギの緊張感のなさに、ヨシノは大笑いした。
「まあ、つまりは……遥か昔に私らの世界にやってきた人たち……魔女はその方向性の違いから二分して、その一派が人間と揉めて盛大に殺し合いしました。そのせいで今でも魔女のイメージは最悪、しかもルーンも対策されているから迫害待ったなしの崖っぷちってこと。でしょ?」
「忌憚のない説明、ありがとう」
ヨシノはフレイヤに向け高々とグラスを掲げた。
「どうして魔女の人たちはひどい目に遭わなきゃいけないんだゾ? オレたち砂漠の民はたまに魔女に必要な物分けてもらったりしていたゾ。みんなやさしくていい人ばかりだったゾ!」
「あなたたちがそう思っていてくれるだけでも救われるわ。その思い、大事にしてね」
微笑むフレイヤ。ギィギは手にしたコップから勢いよく水を飲み込んだ。
「フレイヤさん、そのブリュンヒルデ……ホロウなんですが――」
「ええ分かっているわ。彼女、今度は世界をひっくり返そうとしているわ」
飛躍した返答に、なんと答えたら良いのか詰まるケン。フレイヤはヨシノに目配せをすると、彼女は小さく頷いた。
「この話は“然るべき場所”で“あの人”の口から聞いてほしいから、また明日にしましょう?」
「どこかに行くんですか?」
「ええ、行きましょう、アースガルズへ」
静まり返る食堂。ギィギのくしゃみが静寂を破った。
「え……ええ!? 別の世界に行くことなんてできるんですか!?」
「来たんだもの、戻ることだってできるわよ」
ケンはいやに落ち着いているエイを横目で見ると、どこか彼は嬉しそうな表情をしている。
「パラレルワールド……いや異次元か? それとも多元宇宙……? 興味深い」
完全に自分の世界に入ってしまっていた。
不安な表情でフレイヤを見るケン、大きな傷跡が走る彼女の両目は、確かに彼の方を見ている。
「ど、どうしました……?」
明らかに変わった空気に、ケンは思わず座りなおし背筋を伸ばした。
フレイヤは葛藤していた。言うべきか否か……。しばしの逡巡のあと、大きく息を吐いた。
「話は変わるのだけれど、とっても大事な話だから聞いてほしいの。いいかしら?」
「あっはい……」
ただならぬ雰囲気に、ケンの背筋は冷える。しかし、彼女の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「ルリについてのことなの」
「ルリちゃんの?」
「ええ」
今この場所にルリが来ていないこと、彼女の様子がどこかおかしいこと……ケンの中で嫌な予感が育っていった。
「……なんだか様子が変だったし、何かあったんですか?」
不吉な予感がケンの脳裏をよぎる。第六感だろうか? ケンは必死に否定しながらフレイヤの次の言葉を待った。
「私は辛い目に遭っている仲間を探してはここに誘導するっていう……まあお節介みたいなものね。そんなことをしているのだけれど、5年程前だったかしら……カナイド村っていう小さな集落に魔女がいると知って向かったの――」




