#01スズハラ・ケン
――灰色の夢を見ていた。
大地は燃え、立ち昇る黒煙が空を澱ませ、乾いた風からは血の臭いがする。
聞こえてくるものは、剣戟の音色に悲鳴、それに激しい地鳴り。
そんな絶望的な舞台、視線の先には甲冑に身を包んだ一人の女性が立っていた。
「俺と来い、共に逃げよう」
手を差し伸べる。その言葉とは裏腹に、心の内では『無駄だ』と冷たい声が響く。
「最初からこうなる定めなのだ。ヴァルキュリアとガルム、相容れぬ我らはこうする事でしかその存在理由を証明できない」
鎧を身に纏った女は手に持った槍を構えた。
「そんな事はない! 俺たちは――」
「やめろ!」
――“やはり今回もこうなる”……見慣れた光景。痛みと諦観がキリキリと胸を締め付ける。
「我々の時代は終わったのだ!」
「俺は嫌だ! 何があってもお前と生きる! 生き抜いてみせる! ジーグルーネ!」
「ありがとう、名も無きガルムよ……」
ジーグルーネと呼ばれた女は涙を流しながら微笑んだ。そして槍を強く握りしめ、こちらに向かってくる。
視界が揺れ、目元からは涙が零れる。これは胸を貫かれた激しい痛み故なのか、はたまた――。
* * *
「――ん?」
急な覚醒により彼は状況が飲み込めずに辺りを見回す。
胸の奥には、まだ僅かに痛みが残る。
前方より若い女性の声がした。
「スズハラ君、今は授業中でお昼寝タイムじゃあないぞ?」
「ア……ごめんなさい」
“スズハラ君”ことスズハラ・ケンは、頭を掻きながらもごもごとそう言う。
「まぁ、先生はスズハラ君の事情も知ってるから、あまりうるさい事は言うつもりはないけど――」
彼女は少し口をつぐむ。適当な言葉を模索しているようだが、やがて諦めたようにわずかに肩をすくめる。
「もちょっと誠意みせてくれると、先生は嬉しいんだな」
「ええと……努力、します」
まだ眠そうにしているケンは、担任、イチカワ・モナミに『顔を洗ってこい!』と追い立てられたため、顔を洗いに廊下の手洗い場まで来ていた。
「……ふう」
顔を洗いケンは鏡に映る自分の顔を見つめた。ハネっけの強い灰色の髪、24時間いつでも眠そうな半開きの双眸。クラスメイト達からも『早く目を覚ませ』などと茶化されるが、ケンにしてみればこれが普通なのである。
彼は先ほどまで没入していた“あの夢”を思い返した。ここ数か月何度もみた夢、見知らぬ戦場らしき場所で会ったこともない女性と対峙し殺しあう、悲しい夢。夢はヒトの脳が今までの経験を云々、と以前聞いたことをケンは思い出したが、それでは道理から外れてしまう。彼は今まで生きてきた17年、そんな大それた経験をしたことは無い。
何かの前兆なのか、はたまた警告なのか、ケンは遠い目で廊下の窓から外を眺める。春の月から夏の月へ。移りゆく季節の風が優しく吹き込む手洗い場。授業を受けんとする真面目な学生諸君を眠りへと誘う憎らしい午後の陽ざしに、ケンは半開きの目をさらに細めふわわと大きな欠伸をした。
「かー、見てるこっちまで眠うなりそうなアクビやな!」
自分しかいないと思っていた空間に突如声が響きわたり、ケンはキョロキョロと辺りを見回す。
「よっ!」
「わっ! うわぁ!」
ケンは背後に突如現れたその人物に驚かされる。
「まーったく、もーちょい周り見渡してみいや」
「リョ、リョウか……驚かせないでくれよ」
リョウと呼ばれた人物はケンより背が高く、ツンツンに立てた髪の毛にヘアバンド、そして喋り方に特徴のあるケンの友人だ。何度も留年しているらしい彼はクラスの中で浮いていて、“ダブりのリョウ”と呼ばれている。
二人は他愛のない話題で盛り上がる。終わりの見えない会話が続くかと思われた頃、二人は授業の終わりを告げるチャイムを耳にして我に返った。だが基本的にマイペースな二人、特に慌てる様子もなくのんびりと会話の続きをしながら教室へと戻った。
授業はすでに終わっていたらしく、教室ではクラスメート達が皆思い思いに休み時間を過ごしている。ケンは自分の席につきリョウはその横の席へと着く。まさに雑談を続けようとしたその時、一人の少女がケンとリョウの間に割り込んで話しかけてきた。
「スズハラ君、一体どこに行っていたの?」
流れるような見事な栗毛を後ろで一つにまとめ、表情や仕草、それらすべてにどこか勝気な性格を感じさせるこの少女はサカキ・ナナ。ケンの住む街では有名なサカキ財閥の令嬢であり、またクラスの学級委員長である。物事を非常にはっきりと言い、自分の信念も曲げない芯の強さを持っている女の子だ。しかし、他人への優しさも忘れておらず、彼女の家に代々伝わっているらしい家訓“他人に優しく自分に厳しく”をしっかりと守り、体現している。
「分かっているの? 来年は私たち、大事な年なのよ?」
「なんやいいんちょ、手前ケンに小言言いにきたん?」
ナナはキッとリョウの方を鋭く見やるが、ケンに伝えるべき事を思い出したらしく向きなおった。
「そうね、そうだったわ。あのねスズハラ君、モナミ先生が放課後先生の所へ来なさいって伝えてくれって」
放課後、ケンは職員室へと向かった。他の教師たちは不在らしく、かかっているクーラーがいつもの倍の効果を発揮しているような気がした。
「ゴメンね、呼び出しちゃって。今日はこの後あるんでしょ? あ、コーヒー飲む?」
モナミ先生は奇麗に整頓されているデスクの上のコーヒーメーカーをいじりながらそう言った。
「あ、俺、コーヒー苦手で……」
まるで舌が絡まっているかの如く、もごもごと言葉を絞り出す。
「そうだったね。ゴメンゴメン、先生忘れっぽいね」
クスッとそう笑う先生を見て、ケンは自分がコーヒーを飲めないことを恥じた。
「さて、と……本題に入ろうか」
モナミ先生は湯気の立つカップを持ちケンの目の前の椅子に再び座った。
その後彼女は事務的な口調で、矢継ぎ早に質問を繰り返した。内容はケンの日々の体調の事から始まり、対人関係、特別な家庭の事情等であった。ずっと同じ調子でケンに問いかけているが、時折デスクの上のラップトップに何かを打ち込んでいた。
その時ケンは、自身が見る“夢”について彼女に尋ねてみたくなった。夢なんて曖昧なものについて深刻になるのは可笑しい。ケン自身そう思ってはいるものの、本心では誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「先生……ちょっと聞いて欲しい事があって」
「何かしら?」
モナミの双眸がケンを見据える。見慣れたはずのその顔、何故だか今日は恐ろしく見えた。それはこれから話す内容があまりにも突飛で馬鹿馬鹿しいからだろうか? 本当にそれだけなのだろうか。ケンはおずおずと口を開く。
「最近、疲れているからなのか、夢、見るんです。変なヤツ」
「――夢?」
一瞬、ほんの一瞬だが、モナミの眉がピクリと動いた。取り繕うような笑みを浮かべる彼女に、なるべく子細が伝わるよう記憶の糸を手繰り寄せながらケンは話した。
地獄の様な状況、自身と対峙する甲冑姿の女性――そして、いつも締め括りは、死。
カタカタとキーボードを打つ音が静かに響き、ケンはモナミの言葉を待つ。
「そうね……ちょうどいいわ、その事を今日、“マチダ先生”に話してごらんなさい」
やはりモナミには伝えるべきではなかったのだろうか、ケンはばつの悪さを感じた。
「あぁ、そんな顔しないで。先生よりも、専門家の意見の方がスズハラくん、安心できるでしょ?」
モナミは静かにノートパソコンを閉じる。
「今日も頑張ってね」
ケンは一礼して職員室を出ると、静かに扉を閉めた。
* * *
茜色に染まる室内で、モナミは受話器を取り素早くダイヤルを押す。しばらく呼び出し音が鳴った後に、男の声が応じた。
「マチダ先生かしら? 私よ。彼――そう、いつもあなたの所に行っている子ね。……成功よ。研究所に伝えてちょうだい」
その頃ケンは足早に昇降口へ向かっていた。するとそこにポツンと一人、見慣れた姿が。
「あれ委員長、まだいたの?」
近づいてみると、それはナナだった。彼女は俯き黙っている。
「どうしたの?」
ケンが近づくとナナは突然顔をあげる。何やら深刻そうな面持ちだ。
「スズハラ君、最近顔色悪いし、どこかぼうっとしているし、私心配なの」
「あぁ……そういう……」
自分の態度が知らないうちに他人に心配をかけていた、その事実にケンは猛省する。
「ごめんね委員長、少し疲れてるだけだと思うから、ほんと、心配しないで――って、させちゃってるか……」
しばしの沈黙の後、靴をはき替え駆け出すケン。
「心配してくれてありがとう、それとごめんな。でも俺今日は急いでいるからもう行くね。また明日な!」
ケンは足早に遠ざかって行き、校門を出ると見えなくなった。
「え……ちょっと……」
茜色に染まった昇降口に、ナナの影法師がむなしく伸びている。
「…………バカ」
* * *
「なんとか、間に合いそうだな」
ケンは腕時計に目をやりながら目的地へと足を速めていた。
向かっている先はこの国にある総合中央病院。ケンはそこで“新薬開発”の名目で協力をしていた。医師の話によると、彼の体には普通の人には無い抗体のようなものがあるらしく、そこから難病にも効く新薬を開発することができるらしいのだ。そういうわけで彼は週に3日、街で一番大きな中央総合病院へ行き、何やら大がかりな機械で精密検査を受けたり、よく分からない薬品を投与されたりしている。ケンはそれに対し抵抗がないわけではない。しかし、毎回の協力により得ることのできる“アルバイト代”を考えれば、そんなことはどうでもよかった。
ケンは息せき切って病院のエントランスホールへと駆け込んだ。クーラーのよく効いたホールに入ると、病院独特の臭いが彼の鼻腔をくすぐる。なぜだかこの臭いだけは好きになれない。彼はそう思いながらも額の汗をぬぐい受付へと進んでいった。
『国民IDカードをご提示ください』
受付口に人の姿はなく、無機質な音声案内が聞こえるだけであった。ケンは自らの財布からカードを抜き出すと、音声案内が聞こえるスピーカーの横にあるスリットへとカードを通した。
『国民ID認証、スズハラ・ケン様、15階305号室にて先生がお待ちしております』
音声案内に促され、ケンは患者専用のエレベーターへと乗り込み、内部に設置されているカードリーダーへとIDカードを通した。するとポンという電子音の後に、再び音声案内が始り、エレベーターが動き始めた。
『この度はわが中央総合病院にお越しいただき、まことにありがとうございます。お客様の診察室は、15階、305号室でございます。なお、当院では――』
音声案内が病院内でのマナーのアナウンスを始めた。ケンは外の景色を眺める。眼下にずらりと並ぶ街並み。さらにそれらを囲みそびえ立つ防壁。この国が城塞都市の異名を持つ所以だ。そしてその向こうには遥か彼方まで広がる水平線。西に沈みゆく太陽に照らされ、それらは茜色に染まっていた。
目的の階層への到達を告げる音とともにエレベーターの扉が静かに開く。ケンは一歩、躊躇うように廊下へと足を踏み出した。真っ白な床は丹念に掃除が行き届いており、西から差し込む夕日に照らされ輝いている。彼はそんな廊下になぜか嫌なものを感じた。彼自身、何故だか理解できない。しかし、白い廊下や壁を見ていると、嫌な気持ちがこみ上げてくるのだ。
「305、さん、まる、ご……」
ケンは嫌な思いを無理やり振り払い、ドアに記されている番号を頼りに向かうべき部屋を探した。
「おう、来たか」
部屋に入ると一人の男性がケンを迎え入れた。白髪混じりのやや薄くなった頭、四角いその顔には常に笑顔が浮かんでいる。でっぷりと白衣からはみ出しているお腹は愛嬌すら感じさせる。
ケンは彼をマチダ先生と呼んでいる。彼がこの街に越してきた頃からお世話になっている、いわば専属の医師なのだ。何かと病気がちだったケンを診察し、いろいろな薬を提供してくれた。そのおかげか、今や健康体そのもの、むしろ昔よりもたくましくなった。
「もうすぐ終わるから、少しそこに座ってろ」
ケンは言われたとおりに診察者用の小さな椅子に腰かける。マチダ越しに窓の外の風景を眺める。やはり沈みゆく夕陽が目に入った。ケンは思う。なぜだろう、いつも夕陽を見ると何かを思い出しそうになる。それはそう、まるで“あの夢”で見た――
「で?」
「えっ」
窓の外の夕陽を眺めていたケンは不意な質問に視線をマチダへと向けた。
「ほら、この間試した薬……よっと」
彼は机の端にあるカルテに手を伸ばそうとするもお腹が邪魔してこずる。
「あ……あぁ、おかげさまで毎日元気ですよ」
「そうかそうか」
マチダはケンの報告に満足した様子で、手に持ったカルテに何か書き込んでいた。
「しかし悪ィな、お前でいろいろな薬を試すような真似をして」
マチダはカルテから目を離さずにそう言った。
「いえ、かまいません。俺も十分貰っていますから」
「彼女に“アレ”は効いているか?」
「はい、おかげさまで」
「そうかそうか」
声は満足そうだが、その目は笑っていなかった。
「じゃあ今日は、ちょっと血を抜かせてもらうぞ。そのあと、いちばん大事な薬を飲んでもらう」
マチダの後ろでてきぱきと準備を進める看護師。その手に光る注射器を見たとき、ケンは背筋にヒヤリと何かを感じた。
「力抜いてね」
看護師により腕に消毒が行われ、鈍く光る針が突き立てられる。そしてわずかな痛みが走る。空の注射器の中に注がれてゆく鮮血。その赤に、どこか見覚えがあった。まぶたの裏に焼きついたような、古くて、生々しい――恐怖の気配。
「はい、ご苦労様。ここ押さえていてね。薬はもうすぐ持ってくるから、少し待っていてね」
針が抜かれ、その上にガーゼを置かれる。ケンはそこを抑える。
看護師がケンの血を慎重に運びながら部屋を出ていった。
「あ、あの、マチダ先生」
「あぁ?」
再び机に向かい何やら書きものをしていたマチダは視線をそのままで答える。
「ええと、変な事なのですが、聞いてくれますか?」
「いいぞ」
やはり視線は机の上だ。
「なんていったらいいのでしょうか、マチダ先生は、その……」
「なんだはっきりしねーな」
口ごもるケンを笑うマチダ。声色とは裏腹に、表情は変わっていない。
「はい。ええと、マチダ先生は、特定のものを見ることによって、何かを思い出したり、思い出せそうになったり、ということはありませんか」
そう言ったまさにその瞬間、マチダがケンの方を見た。今まで机の上に固定されていた彼の視線がはじめて移動する。その奇妙な面持ちにケンは違和感を覚える。驚くでも、訝しがるでもなく、はたと見据えるその双眸は憐憫をはらんでいた。
「簡単に言ってしまうとデジャヴってやつ、ですか? なんか見た事あるな、みたいな」
それを聞くとマチダは物凄い速さで机の上のパソコンのキーボードに何かを打ち込み始めた。
「それで、他には?」
「他ですか? ええと、夢、です。最近、似たような夢を見て……」
マチダは話半分、といった様子で『そうか』とだけ言った。
「それで、マチダ先生はそういった経験は――」
そこまで言ったケンの言葉は、薬を持ち部屋に入ってきた看護師により遮られた。
「誰だってあることだ。だからデジャ……なんとかなんて名前もあんだよ。さ、薬を飲め」
結局尋ねた質問の満足な返答も貰えないままケンの会話は終了した。彼は腑に落ちなかったが、その気持ちを錠剤と共に水で流しこんだ。
「それは飲んだ後に眠気が来るから、そこで横になってろ」
マチダが指示したのは診察用のベッド。ケンはそこまで行くと周りのカーテンを引き横になる。結局気になっていた事は分からずじまい、それどころか気になるのはあの視線。あれは一体何だったのか。そんな事を考えているうちに、薬の副作用だろうか、強烈な眠気に襲われケンの意識は遠のいていった。
* * *
混濁する意識。沈んでゆく闇の中で、不思議とケンの意識はクリアになっていく。
そして――音。波の音、風の音。
ケンは自身の体に触れる、液体のようなものを感じた。そして鼻腔に広がる、血の臭い。
唐突な覚醒に混乱し、もがき暴れるケン。突如視界に侵入してきた情報はぼやけ、霞み、回っていた。鼻や口から容赦なく入り込んでくる液体。それをしこたま飲み込んだ後、彼はようやく気がつく。
「足が……着く?」
ケンはふらふらと立ち上がる。鼻から水を吸ってしまったせいか、頭がひどく痛む。誤った方向に水を飲み込んでしまったためにひどく噎せ込んだ。彼は眩む頭で周囲を見渡す。
「何だ……ここ」
灰色の世界。
空は雲に覆われ、鮮やかさを失っている。
そして見渡す限りに続く遠浅の海、海、海。 水面はケンの腰のあたり。その浅瀬が延々と続いている。水は濁った黄色をしており、これが血のような臭いの発生源であった。
「俺は、確か病院で薬をもらって、そのあと……」
その後どうなったのかが思い出せずにいるケン。時折風が不気味な音を立て通り過ぎてゆく。そのたびに濡れた彼の体から熱を奪っていった。
「上がらなきゃ」
陸に上がるにもその陸が見つからない。ケンはしきりに辺りを見回す。すると遥か彼方、わずかだが水平線上にぽつんとある黒い点を確認することができた。藁にもすがる思い、とはまさにこの事であろう。ケンは遥か彼方に点在する島かもわからない場所へ向かい動き始めた。
静かに流れる波の音、時折聞こえる風の声。何もない、果てしなく何もないこの空間をひたすらケンは進む。しかし、進めど進めど一向に点は大きくならない。
どれほど歩いただろうか、ふと立ち止まったケンの目の前に、彼の背丈ほどの白い十字架が立っていた。ケンは恐る恐る近づく。よくみるとそこには、赤い文字でこう書かれていた。
凡てのもの イヅルトコロ みなヒトツ
凡てのもの 還ルトコロ また同じく
汝 罪ヲ 背負いシ 咎人 カ
ケンの頭に、突如かつてないほどの衝撃が走った。そう、とてつもない量の情報が彼の頭に流れ込んできたのだ。
「ぐうっ……」
いろいろな映像のようなものが矢継ぎ早に流れていく。あまりに多すぎて一つ一つを認識する余裕さえない。
頭に走る激痛。次第に薄れゆく意識。ケンは前のめりになって倒れこんだ。
* * *
「っ!!!」
ケンは目を覚ます。そこは先ほどまでいた奇妙な海ではなく、病室のベッドの上であった。
「夢……だったのか」
体を起こすケン。制服のシャツは汗でぐっしょり濡れている。
夕焼け色に染まっていた診察室もいつの間にか闇に沈み、マチダの机の上のライトだけが部屋を灯す明かりとなっていた。
額の汗をぬぐっていると、カーテンの外から何やら話し声が聞こえてきた。卓上ライトがカーテンに二人の人物のシルエットを描き出している。一人は中年太りのマチダ先生、もう一人は誰だろうか、華奢なシルエットから察するに、女性だろう。ケンは気付かれないようカーテンの近くまで移動し、二人の会話に聞き耳を立てた。
「――以上が、俺の報告だ」
この声はマチダだ。しかしいつもの親しみのあるその口調ではなかった。
「ご苦労様。暴走せずに繋がった個体……ようやく始められるわあ」
女性の声だ。よく通るが、どこか軽薄、そんな声。
「報酬はいつもの所へと振り込んでおくわねえ。それと、“アレ”は、四拾七番倉庫の第八区画に来る予定よお。ついでにこれを置いてきてちょうだい」
女は何か小さな包みを渡しているようだった。ある程度の重さと固さがあるのか、机の上に置かれたのであろうその音はゴトリと重厚なものだった。
「“魔弾”よお。それと、“彼”に伝えなさい。『姉に逢える』とねえ」
「これが例の……? “静か”だな……」
「明日の夕刻、その時入る貨物の上に置いておくだけでいいわあ」
マチダの影が謎の包みをその手に取る。その後座っていた椅子を引き窮屈そうに屈むと、やや乱雑な様子で足元のカバンの中へ押し込んだ。その後、ややくぐもった声で『なァ……』と切り出す。
「本当に、やるのか?」
意味ありげなその問いに女は淡々と答える。
「記憶が交差した今、次なる成長を促すのはごく当たり前の事ではなくって?」
記憶の交差? 成長を促す……? ケンは会話の内容が掴めず困惑する。
「そうだけどよお……街中での実験なんて、どれだけ被害が――」
マチダの声から怯えが感じられた。
「あなたには関係のない事。これまでもそうだったでしょう?」
「……貴様らはいつもそうだ。見下した態度で偉そうに人を顎で使いやがる」
何やら物々しいその言葉に、カーテン越しとはいえケンはただならぬ雰囲気を感じた。彼の頬を汗が伝い零れ落ちる。
女のシルエットが立ち上がる。
「忘れないでちょうだいねえ先生、あなたも私たちに加担した人物の一人。罪の重さは一般人のそれと同じと思わないこと。然るべき日に裁かれることになるわあ」
「帰れ……!」
女が部屋から出て行ったあと、マチダのシルエットはしばらく頭を抱え机に突っ伏していた。 ケンは頃合いを見計らい、さも先程まで寝ていたかのような装いでカーテンを開いた。
「ああ……」
ケンに気が付き顔を上げるマチダ。その表情は普段の人のよさそうな彼のものではなかった。疲弊や焦りといった、重苦しさを放っている。
「悪ィ、起こしたか? ホラ、母ちゃんの薬だ。金はいつものところに振り込んでおくよ」
ケンは“アルバイト代”である小さな白い紙袋を受け取る。
「あ、いいえ……いや、はい。大丈夫です。ありがとうございました。それでは」
急ぎ足で病室を出ようとするケン。その時、
「スズハラァ」
不意にマチダに呼び止められる。その声はたった今話していた声とは違う、冷たいもの、あの女性と話していた時の声であった。ケンは背筋が凍りついた。
「聞いてたか? さっきの会話」
ケンは体から嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。
「し、失礼します!」
やっとのことでそれだけ言うと、ケンは一度も振り返らずに病院を後にした。




