#00創世暦1012年
愛しきものよ、私はお前を愛していた。お前も私を愛していた。
それだけで、私は生きていけたはずだった。
だが、お前は去った。私の心に、癒えることのない巨大な空洞を残して。
七年と六十五日。眠れない、苦しい夜を過ごした私は、ただ己の内にある虚空を眺めるだけだった。
そんなある日、私は“彼”に出会った。彼のもたらす光こそ、人間を更なる高みへと誘う標となるだろう。
彼は私に“力”を与え、私は最高の“舞台”を創り上げた。
「さあさあ、お立ち会い! 罪深き皆様、迷える子羊の皆様!
今宵、この最果ての地“グランギニョル”にて開演いたしますは、世にも残酷で、美しい救済の物語!
この世の最も罪深き場所にて、終わりを始めましょう!」
* * *
漆黒の空から大粒の雨が降り注ぎ、時折閃光とともに轟音が鳴り響いた。雨脚は一向に弱まる気配を見せない。
摩天楼の残骸――かつては煌びやかな灯りで夜も眠らなかった都市の名残。しかし今ではその面影すらない。道路は砕け、倒壊した建物の瓦礫が地を覆い、街は機能を失っていた。
そんな瓦礫の中を、足早に進む人影があった。外套に身を包み、顔は見えない。ただ大股で瓦礫を跨ぎ、ただ前へと進む。その人物はふと立ち止まり、闇に霞む中で唯一、人工的な光を放つ巨大な建物を見上げる。それは土砂降りの中でかすみ、まるで蜃気楼のように幻想的に揺らめいていた。
「神は人を創り、人はいったい何を創ろうというのだ……?」
人影はかすれるような声でそう呟き、再び歩みを速めた。
まもなく建物の入口に到達し、ガラス製の自動ドアをくぐる。外套のフードを外すと、その人物は20代半ばほどの男性だった。短く刈り揃えた黒髪、精悍な顔立ち。
「……」
無人のホールは、真っ白な壁と床だけが広がる。チカチカと瞬く蛍光灯が唯一の明かりだった。
空間にあるのは、自動ドア、エレベーター、そしてホール奥の鉄製自動ドアのみ。
男は鉄製自動ドアに向かって歩く。
『現在、非常事態宣言発令中。職員通用口および緊急用避難経路は封鎖されています』
扉に拒まれたその時、警告音声が耳に入る。幾度となく聞いたその音に男は溜息をつく。呼び出しを受けた時に任されることは決まって“後始末”だった。今回こそは違っていて欲しい、そんな彼の淡い期待は無機質な警告音声によって粉々に打ち砕かれた。
男は方向を変え、無人の来訪者窓口へ向かう。簡素なスピーカーとカメラがついているだけだった。彼はスピーカー下のボタンを押し、はっきりと名乗る。
「開発コードD-10095、“エネルゲイア”だ」
自らをエネルゲイアと名乗るその男は、心内で己を嗤った。開発コードとプロダクトネーム、これじゃあまるで機械ではないか。だがそれもあながち間違いではないのだろう――自身は言われるがままに行動する、冷酷な機械。他には何もないのだ。
スピーカーから機械的な女性の声が流れる。
『生体コードの認証、開始します』
カメラのアームが伸び、彼の目の前で停止。赤い光線が放たれ、彼の両目をスキャンする。
『生体コード、一致を確認。特例として、通用口を60秒間開放します』
エネルゲイアはホールを横切り、エレベーターへ乗り込む。静かに下降し、やがて鉄扉が開いた瞬間、鼻腔に血の臭いが突き刺さる。
慎重に周囲を伺いながら進む。白く無機質な廊下に、嫌な沈黙が満ちていた。血の臭いが強まり、惨劇の存在を否応なく感じさせる。
やがて四つ目の角を曲がると、視界は一変する。壁も天井も、赤黒い血で覆われていた。床には人間のものと思しき肉片が散乱している。
エネルゲイアはそれらを避けながら進み、職員用ラウンジに到達する。普段は憩いの場であっただろうその空間も、今は重苦しい空気に満ちていた。白衣の職員たちは皆、深刻な表情を浮かべていた。頭を抱える者、ラップトップを睨む者、負傷して血を流す者さえいた。
「ずいぶん早いな。逃げ出したとばかり」
目の前に現れた女性は、まさに“疲れた女”だった。トイレサンダル、薄汚れた白衣、隈の浮いた目元、ぼさぼさの赤髪。生気を感じさせない彼女に、エネルゲイアは淡々と返す。
「この土砂降りでは、多少の遅れも仕方ない」
彼は続ける。
「開発コードD-11125、“デュナミス”は順調だと聞いたが」
赤髪の女は疲れた様子で息を吐く。
「ダメだ。適合率も低くて、このままでは力に飲み込まれるのも時間の問題。今のままでは危険だ」
一拍置いて言い放つ。
「処分しろ。“ソレ”は資料室にいる。マリ――研究員の一人も一緒だけど、彼女は――殺すな……頼む」
女の懇願するような口調に、エネルゲイアは眉根一つ動かさずに背を向けた。
* * *
廊下は赤く染まっていた。職員たちの血が、白い床に広がっていた。
エネルゲイアはその血溜まりを踏みしめながら進む。資料室の扉を蹴り破ると、中は荒れ果て、瓦礫と書類の山に覆われていた。
その奥、少年と女性がいた。
少年は血塗れのまま俯いて座り込み、女は彼の前に立ちふさがっている。
「何の用?」
「察している通りだ。D-11125の観察は終わりだ」
「信じられない……この子を殺すの?」
女は詰め寄る。
「自我がある。会話もできる。それに、この子は――」
言葉が詰まり、声が掠れる。
「あの子、母親の愛を求めてるのよ……あなたには分からないでしょう? 愛される日を信じて、ただ毎日を待ってるこの子の気持ちが!」
沈黙の後、エネルゲイアは言う。
「お前も研究所の規定を容認してきたはずだ。今までだって処分してきただろう。ソレが懐いてきたからって……」
「もうやめて! もうたくさんよ! 何が救済への導き手よ! こんなことをしている私もあなたも、皆地獄行きよ!」
女は拳銃を取り出し、彼に向けて構える。
「どういうつもりだ」
男は動じず、それが女の怒りをさらに煽る。次の瞬間、銃声が響いた。
「そんなもので俺を殺せると思っているのか」
胸を撃たれたはずのエネルゲイアの足元に、ひしゃげた弾が転がる。女は銃を取り落とし、崩れ落ちる。
「……悪魔、化け物……」
「承知している」
彼は女の胸ぐらをつかみ、壁へ向けて投げ飛ばす。女は壁に激突し、そのまま動かなくなった。
「すまないな」
サーベルを抜き放ち、低く呟く。この言葉を告げるのは、一体何度目になるのだろうか。呟く度、彼の心から人間性が剥がれ落ちてゆき、それは知らず知らずのうちに感覚を麻痺させる。それが放つ謝罪の言葉に、一体何の意味が宿るのだろうか。
エネルゲイアが刃を持つ手に力を込めた瞬間、異様な気配が彼を凍らせる。本能が告げる“恐怖”だった。
「暴走ではない……?」
彼は俯いた少年に刃を向ける。が、サーベルは肉体を貫かず止まった。
「黒い血……? まさか……」
もう一度、さらにもう一度。だが手応えはない。
「これは……」
三度目を試みた瞬間、凄まじい衝撃が彼を襲い、一直線に廊下まで吹き飛ばされた。




