#13相反するニル・アドミラリィ
暑い夏の日差し。耳障りなセミの鳴き声。太った少年は首にかけたタオルで都度汗を拭いながら、車いすを押していた。そこには一輪の花のような可憐な少女が座っている。少年と少女は楽し気に言葉を交わし、実に微笑ましい光景であった。
「それでヨウちゃん、その後はどうなったの?」
ヨウちゃんと呼ばれた肥満体型の少年は、しきりに何かを考えていたようだがやがてもったいぶったような口調で言った。
「騎士リュシアの冒険、今日はここまで! 続きは明日ね!」
「えーどうして? 学校までまだあるんでしょ? もっと聞きたいな! メイプル姫を助けに行こうよ!」
「ふふ、次があるから楽しいじゃん? 明日がもっと待ち遠しくなるでしょ?」
二人の笑い声が響く。しかしそれは、少女の咳き込みに掻き消された。
「ああっ、カエデ、無理しないで」
少年はカエデと呼ばれた少女の前へと回り込むと、ハンカチを取り出し彼女の手に握らせた。カエデはハンカチを握ると、もう片方の手を探るように動かし少年の手に触れる。
「ヨウちゃん、汗かいてる……暑いのに、私を押してるから……?」
カエデは顔を上げ、少年の顔があるであろう方向へと声をかける。彼女の栗色の毛がふわりと揺れた。
「平気だよ。今日はちょっと暑いからね!」
「……ありがとう」
二人は再び通学の道を進みだす。カエデはぽつりと口にする。
「ヨウちゃんのお話ってさ、騎士リュシアはヨウちゃんで、メイプル姫は私?」
明らかに動揺する少年。そんな震動を感じ取ったのか、カエデはくすくすと笑った。
「素敵だね。ヨウちゃん、声カッコイイからお話もすっごく楽しいんだ」
少年の頬は、夏の暑さとは別の理由で赤く染まっていた。
学校に着いてからも、少年は甲斐甲斐しくカエデの世話をした。教室の出入り、授業のサポート、昼食の支度……クラスメイトから茶化されても少年は決して誤魔化さずにただひたすら献身的に少女の面倒をみていた。
放課後、日陰の道を選び進む二人。
「ヨウちゃんはさ、どうしていつも私の面倒をみてくれるの? 本当はやりたいことあったり、友達と遊んだりしたいでしょ?」
カエデの控えめな問いに、少年は即答する。
「何言ってんだよ。幼馴染なんだもん、困ってたら手伝うのは当然だろ?」
それとは別な、胸中に隠した本当の言葉。今の少年にはそれを口することが出来なかった。
「でも、ずっとなんて無理でしょ? これから先……」
「ずっとだよ。俺がカエデの目や足になってやる。だって俺は……」
お前の騎士だ――そんな歯の浮くようなセリフはキャラじゃあないな、少年は笑った。
「ありがとう、ヨウちゃん」
その後も二人は支え合っていた。中等部に進学しても関係は変わらず、高等部は学力の差から違う学校になったが、それでも少年はカエデの送迎をやめなかった。
中等部、高等部と経て明るく成長したカエデには友人が多く、迎えに行った少年はよく彼女が多くの級友に囲まれているのを見た。その度に彼の中には安堵の気持ちが広がっていた。
「ヨウちゃん、そろそろ進学か就職の時期だよね……どこか決まった?」
昔より重くなった車いすを押しながら、青年はバツの悪そうに答える。
「ウチ……お金が厳しいから大学にはいけそうにないな……。今頑張って就職先探しているとこ」
……嘘だった。確かに、彼の両親は進学に対して非協力的だ。しかし、奨学金等の進学が難しい者に対しての補助制度は存在している。結局のところ、彼は勉学そのものを忌避していたのだ。
カエデの面倒をみなくては……。カエデの話を聞いてあげなくては……。今日はカエデの世話をして疲れたから……。カエデの、カエデの、カエデの……。嫌な事からの逃避。そしてその理由に幼馴染を使う自分自身に、彼は罪悪感を覚えた。
「そっか……。私はね、知り合いが紹介してくれた会社に入れるかもしれないの。そこは私みたいなハンディキャップ背負った人でも活躍できるような職場なんだって」
「ホント!? すごいじゃんカエデ! きっと上手くやっていけるよ!」
自分のことのように喜ぶ青年に、カエデはくすくす笑う。彼は昔からそうだなあ、と温かい気持ちに満たされていた。
時は更に流れ、二人はそれぞれの職に就いていた。
「おらデブ、遅ぇぞ! さっさとしろ!」
尻に蹴りを喰らう。男は湧き上がってくる怒りを抑えながら自分を蹴り上げた男に頭を下げた。
「すみません! 今終わりましたので、次お願いします!」
ゴミ収集車の後ろにしがみつき、蹴られた尻をさする。流れていくビルを眺めながら男はカエデは今頃どうしているかとふともの思いにふけった。
終業後、男はそそくさと着替えを済ませると制汗スプレーをこれでもかと体にふりかけ早足で歩き出した。向かう先はカエデが勤めている会社のあるビル。そこそこ大きな出で立ちに、自分には縁の遠い場所だな、と暗い気持ちになる。男はハッと我に返ると、頬を叩き頭を振った。入り口から少し離れた場所で待機していると、終業時間になったのか続々と人が出てくる。その中に――。
「あ、いた……」
カエデはいた。男女問わず多くの社員に囲まれ楽しそうに会話している。
「みんな、ありがとう」
お礼を言うカエデに、社員の人たちは次々別れを告げそれぞれの家路についた。最後まで残っていたのは、カエデの車いすを押していた背の高い顔だちの整った男性だった。
「タカマチ先輩、ありがとうございます」
「まだ来ていないのか……やっぱり僕が送って行こうか?」
タカマチはカエデの正面に回ると、優しく自身の手を彼女の手に重ねた。カエデの頬が染まっているように見えたが、男は見ないようにした。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「幼馴染なんだっけ? 彼」
「はい。小さい頃からずっと」
「ふぅん……まあ、いいか。それじゃあ、先に上がらせてもらうね」
「お疲れ様です」
タカマチがいなくなるのを確認してから、男はいそいそとカエデの元に駆け寄った。
「ごめん、待った?」
「あ、ヨウちゃん。お疲れ様です! 今終わったばっかりだよ」
二人で家路につく、いつものルーチン。子供の頃からそうだったし、これからもそうだろう。男は一日の中で今この時が一番満たされていた。
翌日、職場に向かった男に突き付けられたのは突然の解雇通知だった。
「どうしてですか……!? そろそろ働き始めて3年、正社員として雇っていただけると……!」
「あー……ウチも人手が足りてきてねえ。非正規は少しずつ減らしていこう、って事になったんだよ。悪いね」
その日、最後になる仕事の時間は、暗く沈んだ気持ちのまま過ぎていった。
悪いことは重なる。そんな言葉があるが、まさにこの日の男にはそれが相応しかった。
夕方、いつものようにカエデを迎えに行くが待ち合わせにしている場所に彼女の姿は無かった。慌てて辺りを見渡すと、視線の先に背の高い男がカエデの車いすを押して歩いているのが見えた。心の奥底から嫌な予感が湧き上がって来たが、男はそれを無視してこっそり二人の後を付けた。
「タカマチ先輩、どうしたんです? 話があるって」
夕方の公園。人々の憩いの場の一角に二人はいた。男は何とか彼らの会話が聞こえる位置に隠れるようにしゃがみこんだ。
「聞いて欲しい事があるんだ」
タカマチはポケットから小さな箱を取り出した。
――やめろ。
男の心がそう叫ぶ。
――彼女が受け取るハズがない。
悲痛な願望が脳裏に響く。
「え、これって……」
手にした小さな輪っかを確かめるように触るカエデ。
「結婚してほしい」
公園の喧騒が男の耳から一気に遠のく。さーっと血の気が引いていく感覚が彼を襲った。
「でも私、目も見えないし、自分の足で歩けないし、それに体も弱くて……」
「だから、傍にいさせてほしい。僕が君の力になるよ」
赤くなり俯くカエデ。
「少しだけ、時間を下さい……」
「すぐに答えを出さなくてもいいよ。さ、今日は僕が送っていくよ」
小さくなっていく二人の背中を、男はただ見送る事しかできなかった。
その日の晩、男は鬱屈とした気持ちを抱えつつ天井を眺めていた。その時、彼の部屋のドアを小刻みに叩く音が聞こえる。その叩き方に男は覚えがある。
「今開けますよ……」
うんざりとした気持ちでドアを開けると、神経質な表情をした中年女性――彼のアパートの管理人が立っていた。
「どうしたんですか?
「電話! またいつものあの子!」
甲高い声でまくしたてる女性。
「ああ、ありがとうございます――」
「こっちは善意で貸してやってるとは言え、こうも頻繁に使われたらたまったもんじゃあないんだよっ! 電話代だってバカにならないんだよ? だいたいねえアンタ、いい年してるんだからそろそろ自分で電話を持ったらどうなんだい?」
すっかりお決まりになった彼女の小言をのらりくらりとやり過ごすと、男は管理人室に向かった。
夕方にあんな光景を目の当たりにして、いったいどんな態度でカエデに接するべきだろうか? 男は憂鬱な気持ちで受話器を取った。
彼の耳に、聞きなれたあの声が届く。
「ヨウちゃん、ごめんねこんな時間に」
「……どうしたの?」
男は敢えて何も知らないふりをした。
「聞いて欲しいことがあって……」
「何でも言ってよ。昔からそうだったじゃん?」
男の心は悲鳴を上げ、心臓は痛い程に脈打っていた。
「私ね、会社の先輩から……その、プロポーズされて……その人、すっごく優しくて、みんなが言うにはすごいカッコイイんだって」
「イイと思うよ!」
「えっ?」
「カエデは見えないから分からないけど、とっても美人さんなんだぜ? 美男美女のカップル、誰がどう見たってお似合いだよ!」
心にもないこと――いや、実際にカエデが美人であることは一片の疑う余地もない。
「でも――でも、私、“普通”じゃあないんだよ? それを誰かに背負わせるなんて――」
「普通じゃあない? それ誰が言った?」
「え? 誰も言ってないけど……」
「じゃあそれは間違ってる、ってことだよ。ちょっとハンディキャップがあるだけ。カエデはみんなと同じだよ?」
沈黙が流れる。幼馴染が今まで抱えていた闇、どうしてそれに気付いてやれなかったんだろう。男は自身の察しの悪さにほとほと呆れた。
「でも、カエデが悩んでるなら、俺が何とかしてやる」
「えっ、何とかって……?」
「わかんない。でも、待ってて」
受話器の向こうから聞こえてくる声に別れを告げるように、ゆっくり通話を終える男。彼は行く当てもなくアパートを飛び出した。
「はあ……勢いで飛び出してきたけど……どうしよう……」
夜の公園で、男は頭を抱える。金もなければ頭脳もない。全くの“空っぽ”な人間である自分に何ができるのか。情けなさと無力感に、男の目からは涙がこぼれた。
「あらあ泣けるわねえ……? 美しいまでの自己犠牲――」
不意に目の前から聞こえる声に、男はギョっとして顔を上げる。そこには、金髪のショートボブを揺らし煙草片手に軽薄そうな笑みを浮かべる女性が立っていた。
「反吐がでるわあ」
「お前に何がわかるんだよ!?」
「何も分からないわあ……? だって他人だし?」
女は小ばかにしたような表情で『だけどお』と続ける。
「あなたが空っぽで中身のないスッカスカの入れ物クンってことだけははっきりと分かるわよお?」
男の頭に血が上るが、彼女の言い分は間違っていないと心は理解していた。
「……そうだな。俺には何も無かったんだ。彼女に優しくしていればいつかは結ばれる……浅はかで幼稚、自己中心的で独善的な考え。考えてみりゃわかるんだ、“優しい”なんて誰だってそうだ。そんなもの当たり前。なんの取柄にもなりはしないんだ」
女の笑い声が夜の公園に響く。男の心はそれに呼応するようにボロボロと崩れていった。
「でもねえ? 空っぽって、言い換えれば“何でも入る”んじゃあないかしらあ?」
この女は何が言いたい? 男は言い知れぬ恐怖を覚える。
「貸してあげてもいいわよお? “すっごい力”」
凄い力……? 男の鼓動が早まった。
「力……力をくれるのか?」
「貸してあげるのよお。とにかく、あなたはそれでなんだって出来ちゃうわあ」
何でもできる……男にはもう他の選択肢は存在していなかった。男が力強く頷くと、女は手にしていた煙草を投げ捨てどこからともなく銀色の小さな杖を取り出す。
「契約成立ねえ。後はあなたの思うままに、この虚飾に彩られた街を空っぽにしてやりましょお」
眩しいほどの光が広がり、男はたまらず倒れてしまう。次に彼が目を開けた時、女の姿はもうそこにはなかった。
「一体なんだったん――」
そこまで言いかけた男は、自身の内に湧き上がるものを瞬時に“理解”した。以前の彼ではおおよそ理解もできなかっただろう。しかし今は違う。
「……よし!」
男はカエデの元に向かって駆け出した。
この力でカエデの視力と健康、そして自分の足で歩く力を蘇らせる。そして彼女の“目”を見て伝えるんだ……! 男は強い思いと共に足を速めた。
「ヨウちゃん? どうしたの? すごい息が上がっているよ……?」
インターホン越しに聞こえるカエデの困惑した声。男は絶え絶えの息を整えはっきりと伝えた。
「騎士リュシアが、メイプル姫に“光”を届けに参りました!」
ドアが開き、カエデのルームメイトが胡散臭そうな表情で車いすを押してきた。そこに座るカエデもまた、困惑した表情をしている。
「よくわからないけど、話がある……のかな?」
「うん、重要な話」
「ちょっとカエデ、こんなの相手にしなくても……」
男を睨むカエデのルームメイト。
「大丈夫だよサキ。ちょっとだけ、二人で話しをさせて」
サキは不満げな表情で自室に入っていった。扉が閉まる音を聞いてから、二人はリビングへと向かう。初めて入るカエデの住居に、男は緊張しながらも気持ちを奮い立たせた。
「カエデ、聞いて欲しい」
カエデの正面にしゃがみ、ゆっくりと言葉を紡ぐ男。
「……うん」
彼女の声色から、微かな緊張が感じ取れる。
「カエデ、お前の目を見えるようにしてやる。それに、体も健康に。それと、自分の足で歩けるようにも」
一瞬カエデの眉が動く。しかしすぐに諦めたような声で彼女は否定する。
「できないよそんなこと。そんな魔法みたいなこと……」
「できる。カエデ、俺を信じて」
男はゆっくりと立ち上がると、カエデの頭にその手を添えた。そして、念じる。
(彼女に光を、健やかな体を、そしてその足で歩く力を……!)
眩い光が部屋を包み込む。そして――。
「さあカエデ、目を開けて立ってみなよ」
恐る恐る目を開くカエデ。小さく息を呑む声が聞こえる。震える手で車いすの肘当てに手を添えると、ゆっくり、しかし確実にその足がリビングの床を踏みしめた。
「ウソ……ウソウソウソ……! 視える……! 私歩ける……!」
カエデが顔を上げた瞬間――。
「ヨウちゃ――」
言葉が途切れた。視界に映った“それ”を、脳が理解するまでにわずかな時間を要した。
(この人が……ヨウちゃん……?)
声は、知っている。
でも――。
カエデの中で形作られていた“騎士リュシア”の姿と、目の前の現実が、あまりにもかけ離れていた。彼女の胸の奥で何かがすっと冷える。
「どうしたカエデ? 見えるだろう?」
「え、ああ、うん。いきなりだったから、ちょっとビックリしちゃったかも」
「そっか。なら良かった。でさ、聞いて欲しいんだ俺――」
「あっ、あのね? ごめん、今いろいろあって少し混乱してるから……出来れば明日にしてほしい……かな」
「あ? ああ……ごめん。そうだよな。なんかあったらいつでもいいから電話くれよな?」
「う、うん」
急によそよそしくなった彼女の態度を疑問に思いながらも、男は彼女の家を後にした。心なしか夜風が清々しく感じられた。
「明日、カエデは自分の足で会社に向かうんだろうな。それで、同僚たちはみんな驚く。『えっ!? どうしたの!? 何で!?』それでカエデは……カエデは――」
男の脳裏に、タカマチの顔がよぎる。さわやかで、目鼻立ちの整った顔。スラっと伸びた手足。カエデの上司であり、出で立ちからして金も持っているだろう。
「だからなんだ! 俺にはアイツと過ごしてきたウン十年があるんだ!」
男の強がりは、夜の闇に空しく溶けていった。
次の日、男は自身の“能力”について研究していた。使えば使うほど、その万能さ便利さに舌を巻いた。
「すごいな……ホントに思っただけでなんでもできる……」
掌の上に出現させた炎を眺めながら男はつぶやく。――これを使えばアイツも消せる。男は慌てて頭を横に振る。
「そろそろ時間か……」
時計の針は17時を指そうとしていた。
「少し早いけど、行ってみるか」
雑踏を抜け、男はビルの前にたどり着く。やはり早く来てしまっていたようで、帰宅する人の姿は見られなかった。
暇を持て余していた男は、ふとあることを思いついた。
「透視……というか……カエデの職場、覗けるかな……?」
いけないことだとは理解しつつも、男は好奇心に負けてしまった。ビルの影、路地裏に周ると男は目を閉じ意識を集中させる。
(あっ、視えた……!)
脳裏に映るヴィジョン。終礼を行っているのか、社員全員が起立していた。男は更に意識を集中させ、音を拾う。チューニングを合わせるかのようにノイズ交じりだった音がやがて収束していく。
「えー本日は、業務内容とは別に喜ばしい報告があります! まるで奇跡のような回復を遂げたカエデくんと、我が社きってのエース、タカマチくん、彼らの結婚が決まりました!」
割れんばかりの拍手。照れているカエデが見えた。男は強引に透視を止めると、頭を抱えその場にうずくまった。
「あらあ、つまらないわねえ? 心をいじっちゃえば彼女だってイチコロよお?」
突如鼻腔に煙草の煙の臭いが広がる。男のすぐ隣に、いつの間にか昨日の女がしゃがんでいた。
「本心じゃあない人と一緒にいて何が楽しい? 何が嬉しい……?」
「つまらないことにこだわるのねえ……。心なんてくだらないもの、必要ないじゃない? 他人なんて所詮道具。自分がいい思いするための踏み台よお」
「わからない……」
「わからないのはあなたの方よお。どうしてあんな女にこだわるのお? あんなのただの面食いのクソビッチじゃあないの。あなたと過ごした時間より、イケメンで優しくってスタイル良くってお金持ちな彼を選んだのよお?」
男の胸に突き刺さる容赦ない言葉の数々。しかし彼の心はもう枯れ果てており、流す血の一滴すら存在していなかった。
「わからない……」
「ならそのわからないで世界を包んじゃえばいいのよお。みんな空っぽ。誰も何も考える必要なんてない。その頂点であなただけは永遠の快楽を享受するの。素敵でしょお?」
男の心に、種が植え込まれる。それは負の意識を糧に芽吹く、邪悪な花。
「勉学に勤しむしかできなかった空っぽさん、あなたのように何も持たない空っぽさん。自己顕示欲は一丁前の無能な空っぽさん。みいーんなあなたが抱え込んで、駒にするのよお。誰にも負けない、最強の心無い集団。集団リンチこそが人間最強の武器よお?」
立ち上がった男の顔に、もはやかつての面影は存在していなかった。彼の脳裏に浮かぶのは、これまでの全て。
笑っていたカエデ。頼られていた日々。
そして――自分を見たあの一瞬の、冷えた視線。
「……ああ、そうか」
何も、間違っていなかった。
最初から全部――。
空っぽだったのは――。
死人のような表情の男を見て女はニヤつき、路地裏に覗く空目掛け煙を吐き出す。
「その調子よお……。こんな世界、ブッ壊れちゃえ」
女はそう言うと、無邪気で残酷な笑い声を響かせた。
* * *
リュシアは豪勢なベッドの上で目を覚ます。彼の体からシルクの掛布団がするりと滑り落ちた。動悸に激しい寝汗、まるで長距離マラソンを終えた後のように肩で息をしていた。
時折見る嫌な夢。過去の忌まわしい“思い出”が、何度もリフレインし執拗に痛めつけてくる。寝ぼけ眼をこすると、涙がこぼれていたことに気が付く。
「感情なんて、消えたはずなのになあ……」
誰に言うでもなく飛び出したその言葉に、予想外の人物からの返事が帰って来た。
「だったら、過去を清算したらいいんじゃあないのお?」
聞き覚えのあるその声がする方向へ顔を向けると、金髪の女があの日の姿のまま窓辺で煙草を吹かしていた。
「……ここは禁煙だ」
「禁煙って何かしらあ?」
相も変わらず人を馬鹿にしたような表情をしている。リュシアは忌々し気に顔をそらした。
「何の用だ?」
「分かっているはずよお? カエデちゃん、地下にいるんでしょお? どうして閉じ込めておくだけなのお? オマケにあの男も。復讐、したいんじゃあなくってえ?」
「……」
一瞬だけ、リュシアの視線が揺れた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように冷え切った目に戻る。
女はせせら笑いながら煙を吐き出す。嫌な臭気が部屋に充満していった。
「お前には関係ない」
「つまらないわねえ……まあいいわあ。それより、私が手配してあげた“あの子”、あなたの部下が連れてきたみたいよお?」
リュシアは勢いよく立ち上がる。ついに始まるその時に、彼の体は震えた。
「“あなたが”魔族を呼ぶのなら、“触媒”がいるものねえ。考えたじゃあないのお?」
「いちいち癪に障る女だな。一体どこまで覗いている?」
「別にい? ただ私はさっさと始めてもらいたいだけよお。あなた、とろくさいからそのブタみたいなお尻を叩きに来たのよお」
「言われなくても、これから我々の記念すべき第一歩が踏み出される。お前は高見の見物でもしていろ」
「うふふ、そうさせてもらうわあ。あ、そうだ。あの子を取り返しにワンちゃんと魔女が来るわよお」
リュシアは怪訝な顔をする。
「どういう意味だ?」
「意味はどうだっていいじゃない。ただ、邪魔者がそのうちやってくる、って言いたかったのよお」
女は窓ガラスに煙草を押し付けると、吸い殻を投げ捨て煙のようにその場から消え去った。それと入れ替わるようの形で、ジョーダンが部屋の扉を開け入って来た。
「導師……ああ、お目覚めでしたか。……導師、お煙草を?」
導師は喫煙者ではないはずだが……? ジョーダンは怪訝な顔をした。
「気にするな。それで、用は?」
促されたジョーダンは、即座に切り替える。
「準備が整いました。皆、導師のお言葉を待っております。支度をお願いいたします」
天啓の家上階にある集会場には多くの信者がひしめきあっており、リュシアの登場を今か今かと待ちわびていた。
派手な衣装に身を包んだリュシアが登壇すると、信者たちから喝采が沸き起こる。椅子に腰かけゆっくりと信者を見渡すと、リュシアは口を開く。
「……先日、愚かな世界は我が庇護を拒んだ」
信者たちからも怒りや非難の声が上がる。リュシアが手を上げて制すると、それはピタリと止んだ。
「ありがとう、我が愛しき弟子たちよ。しかし我々はヴァニタスだ。“怒り”という感情は内に飲み込み、ただ力のみを持ってして彼奴らに訴えようではないか」
壇上に、移動式ラックに掛けられた自動小銃が運び込まれる。信者たちの興奮した声が上がる。
「これは、我々ヴァニタスがはるか遠く海の向こうの別大陸――“氷塊の国”より買い入れ、量産に成功した“力”だ! 力無き正義は正義にあらず。今こそ誰が正義なのかを世界に示そうではないか!」
リュシアは小銃を手に取ると、天井向けて引き金を引いた。激しい発砲音と光、そして排出された薬莢の落ちる金属音。集会場は一度静まり返った後――。
「うおおー!」
「リュシア様万歳!」
「力こそ正義だ!」
口々に叫ぶ信者。その目は爛爛と輝き狂気に満ちていた。
「警察、軍、政治家……権力は全て敵だ! これは悪しき潰す聖戦だ! 義は我らにあり!」
建物全体が震えるほどの叫び。小銃を手にした信者たちが一人また一人と集会場を後にする。
「お疲れ様です、導師リュシア」
背後に控えていたジョーダンが、リュシアにそっと耳打ちした。
「少なくともこれで儀式完了までの時間稼ぎはできるでしょう。……準備は整いました。地下へお願いします」
巨大なエレベーターで地下へと向かう二人。
「恐怖心を破壊した人間というものは、実に便利だな。自分たちがどんな目に遭うか、その想像すら欠如するのだから」
「まったくでございます。あんな豆鉄砲、警察はまだしも軍に敵うわけありません」
「だが、それでいい。奴らはヴァニタスに恐怖する。命を恐れぬ兵、そして絶対的な力の“兵器”」
エレベーターの扉が開く。その先は広大な部屋になっており、多くの研究員らしき人々がそれぞれの役割に奔走している。
「地獄の門は開かれる。一切の望みを捨てるがいい……」
部屋の中央部、複雑なルーンの記号で描かれた魔方陣の中心に一人の少年が横たわっていた。
* * *
ケン、ルリ、リノエの三人は天啓の家目掛けて足を速めていた。
――数分前の出来事に遡る。
「どういうことですか!? 連れて行かれた!? どこに!?」
勢いよく立ち上がるケン。椅子が大きな音を立て倒れた。
「忌々しいあの白装束、あれはヴァニタスの連中だよ。つまり行くところは――」
「天啓の家? でも一体どうして……」
「知るかよ。理事長は袖の下を回されてるみたいで、私の話は一切取り合ってもらえなかったよクソが」
リノエは苛立たし気に前髪をかき上げる。
「行きましょう」
「はあ? 冗談だろ!?」
ケンは返事もせず、リュックから拳銃を取り出す。
「絶対にエイに会わせますから、一緒に来てください」
「……赤毛のあなた、リノエ、だったかしら? 今の彼はきっと何を言っても無駄よ。大人なら一緒に行って面倒を見てあげて」
ナギの声に青筋を立てるリノエ。わなわな震えつつも大きく息を吸い、呼吸を整えているようだった。
「私も!」
ルリが珍しく大きな声を上げる。ケンは驚きテーブル越しにルリを見つめる。
「魔力が戻った今なら、きっとお役に立てるはずです……それに、私がルーンを使えない間、ケンさんはずっと一人で頑張ってくれていましたよね? だから今度は私の番です!」
ルリの力強い蒼の瞳を見て、ケンは頷いた。
「リノエさん、お願いします。医者のあなたなら何とかごまかして入り込めるはずです。その間に、俺とルリちゃん……そしてナギさんの“三人”でエイを必ず連れ戻しますから!」
リノエは肩をすくめ諦めたような表情をする。
「ああもうわかったよ! だが、危険そうだったら迷わず警察に向かうぞ。正直、私たちには手に余る事だ。出来る限りのことが出来ない時を想定した上での行動だ。いいな?」
「分かりました!」
こうして現在、彼らは大通りを北上し天啓の家へと近づいていた。
「……何だ?」
彼らの進む方向から、多くの人々が走ってくる。皆背後を気にしているようで怯えた顔をしていた。
直後、銃声が響き渡る。その場にいる全員が反射的に体勢を低くした。鼓膜を叩く衝撃に、ケンの思考は一瞬真っ白になる。理解より先に彼の体は震えた。
車道から白装束の集団がやってくる。彼らの手には自動小銃。明らかに異常な光景にその場の全員が恐怖に動けなくなっていた。
「我々ヴァニタスは、新たな秩序を作るべく聖戦を行っている! 無辜の民の諸君らは邪魔さえしなければ危害は加えない! 道をあけよ!」
再び銃声が響く。通行人の悲鳴が上がった。
「おいあれ見ろ、警察だ」
リノエが指し示す方向、ヴァニタスの集団とは反対側の車道に次々と警察官の乗る車両がやって来た。
「止まりなさい。あなたたちの行為は処罰対象に当たる。今すぐ武器を捨て――」
銃声が鳴り、車両のフロントガラスにヒビが入る。防弾ガラスのようだったが、次々と浴びせられる弾丸に耐えられず、ついには砕け散った。
――死人が出た。銃声が止んだ後、一瞬の静寂の後一転してパニックになった大衆が逃げ場を求めて濁流の如く動き出した。
「絶対離れるなよ! この混乱に乗じて、天啓の家行くぞ!」
ケンはリノエの手を、ルリはケンの手をしっかりと握り、押し寄せる群衆の流れに突っ込んでいった。
混沌とした大通りから一変し、天啓の家付近は恐ろしいまでに静まり返っていた。ケンは耳を澄ますが、聞こえてくるのは遠くの銃撃戦や人々の悲鳴だけだった。
「かえって都合がいいさ。行くぞ」
ビルを見上げているケンとルリに、リノエが促す。三人は巨大ビルのエントランスへと足を踏み入れていった。
眩い照明に、煌びやかな内装。眩暈がするその光景の中、小銃を持った白装束の男がケン達に気が付き近づいてきた。
「入信希望者ですか? 恐れ入りますが今は期間ではありません。出直して下さい」
「医者だ。さっき運び込まれた少年について伝えることがある。案内してほしい」
「そんな話は受けていません。お引き取り願います。それに、そちらの少年たちは?」
ケンは咄嗟に愛想のいい笑みを浮かべる。
「道すがら出会った。外が危険だからここに非難させた。何か問題あるか?」
「いえ、それは構いませんが……。とにかく、我々は今取り込み中で――」
男が喋ってる最中、リノエは銃も恐れず男に近づくと勢いよく男の股間を蹴り上げた。体をくの字に曲げ悶絶する男に追撃するように、彼の頭を両手で掴むとその顔面に膝蹴りを喰らわせた。
「わあお……」
鼻血を出し昏倒する男。ドン引きするケンと小さな悲鳴をあげるルリ。
「非常事態だ。大目に見ろ」
リノエは小銃を拾い上げた。
「リノエさん、銃使えるんですか?」
「産まれてこの方一度も撃ったことなんてないさ。ただ、持っていればそれなりの“交渉”には使えるだろ?」
リノエの大胆さに舌を巻きつつ、つかつかと先に進むリノエを追いかけるケンとルリ。
ホールを横切り大きなエレベーターの扉の前に到達する。
「どこに行けばいいかわかるのですか?」
階層案内板を睨みつけるリノエにルリは訪ねる。
「全然。ただ、上の階の集会場やら導師の部屋やら……そこらへんにはいそうだけど……」
リノエの手がエレベーターのボタンへ伸びた時、目の前の扉が左右に開いた。中には小銃を手にした信者たちが。
「あなたたち、そこで何をしているのです? それに……なぜそれを!」
三人は銃を向けられ思わず身を寄せ合う。リノエは手にした小銃を床に置くと、ケンとルリの前に手を出し二人を庇うような体勢でじりじりと後ずさりした。
「ケン、あなたの“力”なら彼らを傷つけずに無力化できるでしょう?」
ケンはナギの囁きに我に返る。相手は10人にも満たない。狙いは彼らの得物……ケンは意識を集中させた。
次の瞬間、信者たちが手にしている小銃、その銃身が一斉に切断されたように分断される。刹那の出来事に、ケン以外のその場にいる人物全員があっけにとられる。
「イレギュラー発生、“犬”が来た。導師から賜った力を行使します」
信者の一人が手をかざすと、そこに深紅の炎が渦を巻く。
「アルギズの拒絶!」
ルリの描いたルーンが、彼女たちの前方に半透明の障壁を作り出す。まるでヘラジカの角のようなそれは、彼らの眼前で折り重なり飛来した火球を弾き飛ばした。
「魔女……!?」
障壁で弾き飛ばされた火の玉は、ホールのソファに激突し、爆風と炎を巻き上げた。けたたましいベルの音と共にスプリンクラーが作動した。
「逃げよう、あっちだ!」
三人はエレベーターから離れるように駆け出し、一階の廊下へ続く扉へと向かった。
「導師に連絡を、犬と魔女がやってきたと」
がむしゃらに廊下を駆ける三人。似たような景色が続き方向感覚が鈍る。目の前の扉を開けようと手をかけるも、その扉は施錠されているようでびくともしなかった。
「ケン、お行儀よくしてる必要なんてない、無限の軌跡で消し飛ばせ!」
リノエに頷くと、ケンは意識を集中させる。しかし――。
「あれ……?」
「どうしました?」
扉をどかそうとイメージするも、何の反応もない。首をかしげるケンに、彼らの後方から声が近づいてきた。透き通った、美しい声。
「無駄だよ。この建物内はたった今俺が“制御”した」
弾かれるように振り返る三人。廊下の奥から、多くの信者を引き連れやってくる紫色の装束に身を包んだ男……。
「リュシア……!」
「おっと動くな」
ルリが杖を取り出そうとするよりも一瞬早く、リュシアは指先をリノエに向けた。彼女の首はまるでみえないロープに縛り上げられているかのように上を向き、苦しそうな呻きが廊下に響いた。
「やめろ!」
ルリは手を上げ丸腰の意を示す。それを確認したリュシアは、リノエにかけていた術を解き隣にいる信者に言い放つ。
「そいつら三人、地下にブチ込んどけ。俺の用事が済んだら“話”をする」
三人は手錠をかけられ地下へと連行される。エレベーターを降りたその先には、冷たい鉄の檻が並ぶ無機質な廊下だった。
「後でリュシア様が来られる。それまでじっとしているのです」
鉄格子の扉が閉じられ、信者は去っていく。ケンは冷たい鉄の柵を掴み意識を集中させるも、やはり無限の軌跡の力は発現しなかった。
「リノエさん、無限の軌跡が……使えないんです……」
「見たところ、あのクソカルト野郎の仕業なのは間違いないが……何がなんだか……ルリ、何か分かるか?」
「すみません……見当もつきません」
「まいったね……魔法のプロがわからないってんならお手上げだ」
リノエは壁を背にしゃがみこむ。ただ無駄に過ぎてゆく時間。こうしている間にも、刻一刻とエイの身に危険が迫っているというのに……ケンは焦りから鉄格子を激しく揺らす。
「私を使って、鍵を壊しなさい」
ナギの提案に、ケンは首を横に振った。
「ダメです。それはできません。俺はあなたの“命”をあいつから預かったんです」
ナギは溜息をつくと、それ以上は何も言わなかった。
そんな時、廊下の奥から足音が近づいてくることにケンは気が付く。一人ではなく、二人。バラバラな足音は徐々に大きくなり、ルリもリノエも気が付いたようだ。
「あなたは……?」
栗色の髪の女性と、背が高く整った顔立ちの男性だった。女性は黙って手にした鍵を使い、ケン達を解き放った。
「リュシア……いえ、ヨウちゃんはこのさらに下の階に居るわ。お願い、彼を止めてあげて」
「ちょっと待てよ、助けてもらって悪いがアンタら何者だ? 信じていいのか?」
リノエの疑問に、男は頷き、女性の方に優しく手をかけた。
「カエデ、少しだけ彼らに話してあげたらどうだ? そうすればきっと彼らだってあの人を救ってくれるはずだよ」
カエデと呼ばれた女性は男性の手に自身の手を重ねると、頷き返した。そしてケン達の方へと向き直る。
「私はタカマチ・カエデ。彼は夫のタカマチ・シンゴ。まずは話を聞いて欲しいの」
カエデは語る。リュシアと呼ばれている教祖は、ヨウという名の男だったことを。そして、彼らの間に何があったのかを。
「じゃあ、アンタらはあの男にずっと地下に軟禁されてたってワケか!?」
リノエが素っ頓狂な声を上げる。
「ええ。多分だけど、ヨウちゃんは世界を自分の下に跪かせることで“自分の凄さ”を“私たち”に見せたいんだと思うの……。それで自分がどれだけ優れているか……ね」
「シンゴさんの目の前で、カエデさんが自分に乗り換えるところを見せつける……その為だけに、ですか……?」
ルリの推察に、カエデは力なく微笑む。
「私の所為なの。私が弱かったから、ヨウちゃんは私を見ることしかできなかった。そのせいで、彼の生き方を狭めてしまったの」
「カエデ……」
シンゴが優しく彼女の肩を抱いた。二人の絆は固く確かなもの、おそらくそれは皮肉なことに軟禁生活を経て更に強固なものへと変わったのだろう。ケンはやるせない気持ちになった。
「彼は言っていたわ。強力なものを呼び出して、それによって世界を征服すると。お願い、もうそんなに時間はないはずよ……私たちも一緒に行くから……手を貸してほしいの!」
悲痛なカエデの訴えに、ケンの気持ちはすでに固まっていた。
「ルリちゃん、リノエさん!」
「ええ!」
「だがなあケン、お前は力を封じられているし、ルリはまだしも私ら三人は何の力もない一般人だぞ?」
珍しく弱気なリノエ、そんな彼女の言葉に反対するように、カエデは声を上げた。
「私が……ヨウちゃんを説得してみる。彼だって、きっとわかってくれるはずよ」
降参だ、とでも言いたげに両手を上げるリノエ。
「だが、どうやって下に行く? 僕とカエデならどうとでもなるが、君たち三人は本来捕まっている立場なわけだし……」
「私にいい考えがあります!」
ルリの提案に、五人は額を寄せ合った。
エレベーターの巨大な鉄製の扉。その前に自動小銃を手にした信者が二人、虚空を見つめ立っていた。彼らは前方からやってくる“二人”に気が付いた。
「カエデ様、シンゴ様、お二人が許可されているエリアはこの階だけです。お引き取り下さい」
「聞いて、私やっとリュシア様の崇高さに気が付いたの。それを彼に伝えたくて」
顔を見合わせる信者。
「しかし現在、導師リュシアは計画の最重要段階に――」
「なら猶更、私もその場に立ち合いたいわ。そして彼に伝えるの。本当の愛はこの男じゃあなくって、あなたに対してなの、って」
カエデの後ろで縮こまるシンゴ。信者たちは諦めたようにエレベーターのボタンを押すと、鉄の扉が口を開ける。
乗り込む二人。信者の一人が、パネルを操作して行き先が最下層へと設定される。
「あなたたちは来なくていいわ」
「しかしカエデ様――ん?」
男はエレベーター内が僅かに揺れたのを感じる。それはまるで、誰かが乗り込んできたような――。
「むしろ一緒にいると何故勝手なことをしたと怒られるんじゃあないのかしら? 早く降りた方がいいと思うわ」
男はとうとう観念し、エレベーター内に“二人”だけ残して降りていった。
「やりましたね!」
動き出したエレベーター内で、三人が姿を現す。ルリは手慣れた様子で薄汚れた布を畳んで鞄にしまった。
「すごいわね……」
「魔女……初めて見た……まだ子供だ……」
まじまじとルリを見つめるカエデとシンゴ。ケンは話題を変えるようにカエデに話を振る。
「そ、そういえば、カエデさんって元々は歩けなかったって言っていましたよね?」
「え? ああ、そうよ。目も視えなくて、身体も弱くて……。でも、さっきも話した通り、ヨウちゃんが力をくれて……」
どこか遠い目のカエデ。咄嗟の質問、まずかったと後悔するケン。
「きっと、今もその時の心があの人にあるはずです! だから……その、上手くいきますよ!」
『ありがとう』と微笑むカエデ。その時、エレベーターは止まりゆっくりと扉が開いた。
長い一本道を抜けた先には天井の高い広い空間が待ち構えていた。様々な機会が並び、白衣を着た研究員らしき者たちが忙しなく動き回っている。五人はわき目も降らずに部屋の中心部へと進む。研究員たちのあっけにとられた表情をよそに、彼らは禍々しく輝く魔方陣に到達した。
「こ、これは……魔族召喚用のルーン……!」
ルリの声が震えている。ケンは、セントラル・ハイスクールでの惨劇を思い出し戦慄する。そして彼の視線の先には――。
「エイ!」
魔方陣の中央で横たわる親友の姿。ケンの呼びかけに返事はない。しかし、彼の胸はゆっくり上下しているようで、ケンはほっと胸をなでおろした。
「なんだお前たち……カ、カエデ!?」
リュシアが近づいてくる。
「ヨウちゃん、もうやめよう? こんなこと、誰も喜ばないよ?」
リュシアの顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
「何を言っている? わからないのか? これが成功すれば、俺は世界で一番強くなれるんだ! その男なんてちっぽけな存在より、すっと大きくな!」
シンゴはカエデの前に進み出ると、はっきりとリュシアに言う。
「今の君は、ただ力に固執して周りが見えなくなっているだけに過ぎない。そんな男、魅力的でも何でもない! 彼女のことを想うなら、なぜ彼女の言葉に耳を傾けようとしない?」
「黙れ! 俺から全部奪っていったお前が……俺とは違い満ち足りたお前が……!!」
リュシアはわなわなと震えていたが、大きく息を吸うと無理やり落ち着いたような表情を作った。
「まあいい。おいジョーダン、やれ」
「承知いたしました」
緑の装束の男は魔方陣の傍まで歩み寄ると、手をかざした。召喚を始める気だ! ケンは考えるよりも先に動き出す。しかし――。
「邪魔させはしないぞ、クソ犬めが」
リュシアの放つ火炎弾がケンの顔をかすめる。鼻先を擦る熱気に顔をしかめ、ケンは後ずさった。
「……リノエさん、カエデさん、シンゴさん、下がっていてください」
「ルリ、アンタ何を――」
「大丈夫です、彼に“本当のルーン”を教えてあげます……!」
落ち着いた、真剣な眼差しでルリは踏み出す。彼女は鞄から魔力吸収の儀式に使った大型の杖を取り出した。
「ガキが……最強の俺に歯向かうのか?」
リュシアは火炎弾を発生させようとするも、それはまるで吹き消される蝋燭のように溶けていった。
「な、何だ? どうして……?」
「遅いです!」
ルリの手にした杖、その先端に取り付けられている青い宝石が眩い光を放っていた。
「連続魔法、消せるなら消してみろ!」
次々に火炎弾を放つリュシア。しかしどれもルリに命中することはなく明後日の方向へと逸れていく。機材を破壊し床を砕く火球に、研究員たちの悲鳴が上がった。
「地に這え……エイワズの轟雷!」
ルリが杖の柄で床を叩くと、地面に映し出されたルーンから木の根の様な青白い光が伸び、それはリュシアの足を捉えた。
電撃に足を取られ転倒するリュシア。フラフラと立ち上がると忌々し気にルリを睨んだ。
「ば、馬鹿にしやがって……! ならこれでどうだあっ!」
リュシアは両手を高く天に掲げる。宙で空気が渦を巻き、紫色の電撃が走る。
「なんて膨大な量の魔力……!」
「受けて見ろ! 全てを灰燼に帰す、神の雷霆……サンダードーム!!」
紫電が所かまわず暴れまわる。ルリは瞬時に判断を切り替えアルギズの拒絶を展開した。
研究者たちは皆怯え、出口目指して一目散に逃げ出した。周囲の機材は破壊され、稲妻の嵐が収まる頃には一帯焼け焦げた荒地と化していた。
「まずいですね……あれをずっと続けられたら手も足も出せません。――それにしても、あんな勢いで魔力を使ったらすぐに底をつくハズなのに……彼はいったい……?」
「ルリちゃん、少しだけ、アイツの気を引ける?」
姿勢を低くしながら、ケンはルリに近づく。
「できますが……」
「ならお願い。大丈夫、上手くやるさ」
ケンのウインクに、ルリも頷く。
「凍てつく霧よ、心を止めよ……イスの静寂!」
雷霆が止む隙を狙い、ルリのルーンが迸る。
それは白い霧を生み出し、リュシアを包み込んだ。
「な、何だあ!? 何も見えない!!」
纏わりつく霧に、リュシアは暴れる。しかし彼の手は虚空を切るだけだった。
「ええい、解呪だ!」
視界が戻り、自身の優位性も再び戻って来たと勝ち誇った顔をするリュシア。慢心の彼には視界には防御に徹するルリしか見えていなかった。
素早い身のこなしでリュシアに接近するケン。リュシアが気が付きルーンを発動させようとするも、時は既に遅かった。
彼の目に、迫り来るケンの拳がスローモーションのように映る。脳を揺さぶる衝撃、そして遅れてやってくる顔面への鋭い痛み。リュシアは大きくよろめき機材の残骸へと突っ込んでいった。
「やべ……やりすぎたか……?」
ケンは恐る恐る大の字に倒れるリュシアに近づく。その時、背後から歓喜に満ちた声が響いた。
「やった……ッ! 成功だ……! 来たれ……魔族――バルバリッツィア!!」
部屋が魔方陣から発せられる赤い光に照らされた。ケン、ルリ、リノエ、カエデ、シンゴはただその光景に意識を奪われていた。
魔方陣から発せられる光の柱、その中から“それ”はやって来た。筋骨隆々な腕、2メートルを越える巨体。牙が飛び出た巨大な口に白く濁った双眸。明らかに言葉の通じる相手ではないことがその容姿から見て取れた。
「ハ、ハハ……! よくやった! どうだ……これが俺の“力”だ!」
ケンは振り返ると、リュシアが勝ち誇った顔をしていた。
「バルバリッツィアよ、その“贄”を捧げる!」
ジョーダンは興奮した面持ちで続ける。
「俺に従え!!」
その場が静まり返る。リュシアの高笑いが消えた。
「ジョーダン、お前何を――」
「黙れデブ。世界征服だあ? 夢見てんじゃあねえよ! 俺はコイツで“世界の裏”を捕る。全てを裏から支配してやるのさ! お前の下らないカリスマのおかげで、ずっと夢見てきた悪魔召喚、それが今日叶ったぜ! 礼を言うよ!」
ジョーダンの狂ったような笑いが響く。
このままではエイが危ない、ケンはエイの元へ駆け寄ろうとした。だがその時、魔族はジョーダンの傍へ歩き出す。
「どうした? 贄はそこだ。はやく――」
魔族の手がジョーダンの頭に添えられ、次の瞬間、一気に下まで降ろされる。途方もない力で一気に圧縮された彼の体はひとたまりもなかった。
「Non mi serve alcun sacrificio. Tu che ci hai evocati, hai osato scherzare con le vite dei miei simili... ora pagherai per questo peccato con la tua stessa carne.(贄などいらぬ。召喚者よ、我が同胞の命を弄んだ罪、その身を以てして償え)」
バルバリッツィアは足もとに横たわるエイに視線を向けると、何の感慨も無く蹴り飛ばした。
「Verme.(虫ケラめ)」
「エイ!」
ケンはすぐさま飛び出し、エイが落下するすんでのところで彼を抱きとめた。息はあるようで、ケンは安堵の息を吐いた。
「そうか、ジョーダンには従わなかったか! よし、それなら俺に――」
恐ろしく楽観的なリュシアに、バルバリッツィアは巨体に似合わぬ速度で一瞬のうちに距離を詰めた。
「え――」
そしてその腕に力を込め握りこぶしを作ると、上半身を捻り凄まじい速度の横殴りを繰り出した。咄嗟に防御の姿勢をとったリュシアの腕が、ありえない曲がり方をする。弧を描き遥か彼方に派手な音を立て着地した。
「E ora... chi è il prossimo che desidera morire?(次に死にたいヤツは?)」
魔族の目は怯えるルリ達を捉えた。重い足音を響かせ近づくその姿に、ケンは走り出す。リュシアの意識が無い今なら――両足に力を込め跳躍する。彼の姿は消え、次の瞬間にはバルバリッツィアの顔の横にいた。
勢いの乗ったケンの足が、バルバリッツィアの頭部を捉える。脚部に走る、鈍い痛み。まるで岩石に足を打ち付けたような衝撃に、ケンは顔をしかめる。
「Sei tu?(オマエか?)」
巨大な手がケンの足首を掴むと、そのままコンクリートの床目掛けて振り下ろされる。
ケンは全身の骨が軋む音を聞く。強い衝撃、身体の感覚が消え視界が回る。激しい痛みと吐き気にえづき、彼の口から黒い血が零れ落ちた。遠くでルリたちの悲鳴が聞こえた。
「Bestia nefasta.(呪われた獣め)」
ケンの黒い血を見てバルバリッツィアはそう呟く。ケンは必死に起き上がろうとするも、身体が言う事を聞かない。ルリがルーンをバルバリッツィアに向けて放っているようだが、彼は全く気にも留めずにケンに近づく。
「Muori(死ね)」
ケンのすぐ近くまで接近していたバルバリッツィアは、その拳を躊躇なく彼目掛け振り下ろした。
その時、ケンの視界の端から誰かが俊敏な動きで躍り出る。そして彼は、迫ってくる拳目掛け自身の拳を打ち付けた。
「Questo... è il potere dei miei simili...!(それは……我が同胞の力……!)」
吹き出す紫色の血液。バルバリッツィアは負傷した腕を押さえ後ずさる。
「エ、エイ……!」
「痛……岩かアイツ……」
エイは漆黒に染まった右腕を振っていたが、ケンの方へと振り返ると左手を差し出した。
「何が何だかさっぱりだが、ひとまずは無事なようだな」
ケンは親友の帰還に涙を流しその手を掴んだ。




