#12贄
「……知り合いか?」
書類をめくる手を止め、怪訝な表情でケンを見上げるリノエ。
「昨日話ましたよね? 俺の学校が魔族に襲撃された、って。その時にこいつは俺を庇って怪我して……」
「未知の感染症ってまさか魔族から受けた傷が原因……? はあ……道理で前例が無いワケだ」
リノエは前髪をかき上げ、背もたれに寄り掛かると天を仰ぐ。ケンはリノエの言葉に引っかかるものがあった。
「前例が無い……?」
「どうしましたケンさん?」
「ルリちゃんさ、学校で魔族に襲われた時に、魔族は人魔大戦でも使役されて成果を挙げたって言ったよね?」
「ええ、確かにそう言いましたけど……」
「ならさ、確実に人と魔族の接触はあったんじゃあないかな? それでエイと同じようにこちらには存在しない病原菌に侵された、って人も……」
ケンの疑問に、リノエも唸る。
「そう言われてみればそうだよな。私は昔大学で様々なこと学んできたが、今回みたいな症例は初耳だ」
症例。その言葉にケンの胸中に嫌な痛みが走る。エイは一体どんな状態なのだろうか? 聞きたくはないが、知らなくてはいけない。ケンは恐る恐るリノエに問いかけた。
「記された通り、身体の一部に変異としか言いようのない変化が確認されている。私が診たときは胸部から右腕にかけてと、右目の瞳孔。命に別状はないが意識は依然として戻らない、って感じだったな」
命に別状はない――ケンはほっと胸をなでおろした。しかし意識が戻らず身体に変異がある以上、決していい状況などではないことは確かだ。現代医学でも対処のしようがない病原菌。悠長に事を構えている時間などない。焦るケンと黙りこくるリノエの横で、ルリがおずおずと口を開いた。
「あの……もしかしたら、ですけど……この薬なら何とかできるかもしれません」
彼女は鞄から小さな瓶を取り出すと机の上に置いた。銀色に輝く液体が満たされており、妖しい輝きを放っていた。
「なんだい、これ?」
訝し気な表情で小瓶を睨むリノエ。
「ユグドラシルの露です。万病に効く解毒剤で、昔からごく一部の限られた魔女にしか調合できないと言われている薬です」
「へえ……アンタ見かけによらずすごいんだねえ」
「あ、いえ、その……これは……」
感心するリノエに対し言葉を濁すルリ。その様子に不思議な表情をするリノエだったが、ケンは理由が分かった。おそらくルリのお師匠様――フレイヤが調合したものなのだろう。
「とにかくさ、これがあればエイも治るんだしさっそく――」
「ダメだ」
鋭い制止が差し込まれる。ケンは思わず食って掛かった。
「どうしてですか!? 病院で何もできない以上、もうこれに頼るしかないじゃあないですか!」
熱くなるケンを諭す様に、リノエはゆっくり、はっきりと言葉を紡ぐ。
「いいか? 薬ってのは治験を経て審査に審査を重ねようやく出せるものなんだ。だから私らは信用を置いて患者へ出せる。魔女たちや、今この場だとルリには悪いがこれは認可された正式のものではない。そんな“信用ならない”ものを患者へ投与するなんて無責任なこと医者は絶対にしちゃあいけないんだ。もう一度言うが、魔女たちが紡いできたものやルリの善意には敬意を示す。でも、それと患者への責任は別物だ。分かってくれ」
一片も付け入る隙のない大人の言い分に、ケンは返す言葉もなくうなだれる。両耳が倒れ、力なく俯く。
そんなケンの様子を見て、僅かにリノエの心も揺らぐ。救えるものを救いたい――かつての親友が持っていた矜持を、目の前の少年は確かに受け継いでいる。マリは彼の中で確かに生きているのだ。静かな時間が流れた後、リノエは溜息をついた。
「――と言ったところでアンタらは納得しないんだろ? 私もらしくないことずらずら並べたけど、ぶっちゃけ本心としては何もできずにただ現状を眺めているだけなのは癪だからな」
顔を見合わせ安堵の表情を見せるケンとルリを横目にリノエは自然と口元が緩む。
「正論よりも感情を優先させるなんて、アンタのせいだぞ、マリ」
本当に小さなその呟きは誰に届くこともなかったが、リノエはそれでよかった。
「リノエさん、案内お願いします!」
居ても立っても居られないといった様子のケンに、リノエも疲れた体に鞭を入れ立ち上がる。
「よし、それじゃあ付いてきな」
「その前に服をちゃんと着てください!」
ルリの悲鳴にも似た声がリビングに響き渡る。
そんな様子に苦笑しつつ、ケンは思い出したように自身のリュックへと駆け寄る。中をまさぐり、一丁の拳銃を取り出した。
「ナギさん、あなたも一緒に来てください」
返事はない。
「ナギさん? 聞こえているんでしょう? あなたの弟が大変なんですよ?」
「……私は、行かなくていいわ」
静かな声が聞こえてくる。しかしその返答にケンは納得がいかなかった。
「どうしてですか? あいつだってきっとあなたの声を聞けば――」
「ケン、一体誰と話して――お前なんてもん持ってんだ!?」
ケンは我に返り顔を上げる。リノエとルリが奇妙な表情でケンを見ていた。
「これは――」
リノエなら何か知っているかもしれない、そう考えケンは全てを話した。
「もしかして、プロジェクトFか……?」
話を聞き終えたリノエは、興味深そうに拳銃を眺める。依然としてナギは沈黙を貫いたままだ。
「まあ、詳しい事情は知らないが本人が拒んでるなら無理して連れていくことじゃあないだろ?」
「でも……」
「どっちにしろ入り口の金属探知機で引っかかったら面倒なことになるぞ?」
ケンは腑に落ちないまま拳銃を鞄の中へとしまい込むと立ち上がった。
「よし、それでいいさ。それじゃあ行こうか?」
リノエを先頭に、三人は部屋を後にした。
ハバラ・シティ中心部に位置する総合病院。ビルが乱立する中、それは堂々とした出で立ちを構えそびえ立っていた。
リノエは職員用の裏口にてこの日二度目となる入館チェックを行っていた。
「ミュラー先生、先程帰られたのでは? どうされました?」
守衛はリノエの手荷物を確認しながら眉根を寄せた。
「あの急患の様子がどうしても気になってね。もう少し調べておきたいんだよ」
「そうですか。仕事熱心なんですね――ん?」
それ以上は特に疑問に思う様子もなく荷物検査を行っていた守衛だが、ふとリノエの背後に“何か”気配を感じ顔を上げた。
「どうした?」
「ああ、いえ。気のせいです。入館いいですよ」
リノエは感謝を伝えると、探知機を越えて足早に病院の建物内へと進む。人の気配がない廊下の一角で、彼女は“何もない”空間へ声をかけた。
「もういいぞ」
その言葉につられ、ケンとルリが姿を現した。ルリは手にした薄汚れた大きな布を素早く畳み鞄へとしまい込む。
「あ、待て。これから向かう先は隔離病棟だから、更衣室に入るまでは姿が見えない方が都合がいいだろう」
「ああ、そうですね」
再び二人の姿が見えなくなったのを確認してから、リノエは声を潜めて言う。
「なるべく音を立てずに歩け。あと、ドアはなるべく自然に開けるから隙を見て入れよ」
「わかりました!」
「声も抑えろ」
「わかりました……」
足早に歩くリノエと、その後ろを慎重に追うケンとルリ。幸い誰ともすれ違うことなく更衣室へと辿り着いた。
「よし、誰もいないな……二人ともいいぞ」
再度姿を現したケンとルリ。リノエはもじもじとしているケンに気が付いた。
「なんだケン、トイレか?」
「いや、あの、ここって女性用の更衣室だから……」
「そんなこと言っている場合か? 服の上からでいいから誰か来る前に早くこれ着ておけ」
ビニールに包まれた防護服を二人に投げてよこすリノエ。ケンにはLサイズを、ルリにはSサイズ。どれも染み一つない清潔な白で、それがこれから向かう場所の重大さを示しているようだった。
「ルリちゃん?」
「ケンさん?」
まるで宇宙服を思わせる出で立ち、頭部を覆う被り物は銀色に反射しており着ているものの表情を伺うことはできなかった。
「都合いいだろ? アンタらは今から研修生だ。誰かに会っても私が対処するから何も喋るな。いいな?」
ケンはゴム手袋に覆われた手を挙げ応える。ルリは頷いた際に被り物が少しズレたようで頭を押さえていた。
エアシャワーを抜けた先、真っ白な廊下を進む三人。恐ろしい程静かなそこに三人分の足音が反響する。いくつもの扉を通り過ぎた先にそれはあった。
「着いたぞ、ここだ」
入り口にはサエキ・エイの名が掲示されている。リノエは小さく頷くとスライド式の扉の取っ手に手をかけようとする。しかしその時、扉が勝手に開き、中から防護服を着た医師が数人出てきた。これまで一切人に遭遇しておらずに完全に気が緩んでいたケンは、想定外の対面に自身の鼓動が早まるのを感じた。
「おや? ミュラー医師……? さっき退勤されたのでは……?」
防護服の下から響く男性のくぐもった声。リノエは動揺を一切見せずに答える。
「また呼ばれたんだよ。珍しい症例だろ? この研修生たちにも見せてやれだとさ」
あまりにも自然なその物言いに医師たちも納得したのか、はたまた興味がないのか、静かに会釈をするとケンたちの横を通り過ぎていった。
「……言ってみるもんだな」
廊下の奥へと小さくなっていく一団を見送りながらリノエは呟いた。
「エイ!」
ケンは病室へと駆け込むと、防護服を乱暴に脱ぎ去り一目散にベッドへと近寄った。そしてそこに横たわる友人の姿を見て言葉を失った。
包帯を巻かれた胸部、ケンとルリを庇って受けた傷だろう。そして肩部から右腕にかけては黒く変色し、まるであの魔族を彷彿とさせる鋭い爪が伸びていた。
「う……」
酸素マスクの下からわずかな呻きが聞こえた。
「エイ! 俺だ! ケンだ! 聞こえるか!?」
うっすらエイの目が開き、焦点の合わない瞳がケンを見据えた。その片方、彼の右目は黒く染まっており、瞳孔は金色に変わっていた。
「混濁はしているが、意識は戻ったみたいだな……さっきよりも症状は進行しているみたいだが」
ベッドの脇に置かれたカルテをめくりながらリノエは冷静にエイを観察している。心電図の音、それに酸素マスクへと空気を送る音のみが静かに響いていた。
「ルリちゃん、薬を!」
「リノエさん、いいですね……?」
防護服越しに見上げるルリに、リノエは頷く。ルリは素早く防護服を脱ぎ去ると、鞄から小瓶を取り出した。
「エイ、聞こえるか? これを飲むんだ!」
ケンがエイの酸素マスクを外すと、抱きかかえるようにその上半身を起こす。ルリは瓶の蓋を開けると、エイの口に添えゆっくりと中身を流し込んだ。虚ろな意識のエイだったが、ゆっくりと確実に薬を飲み込んでいるようだった。彼の喉の動きがケンとルリを安堵させた。
「さて、と……後は鬼が出るか蛇が出るか……だな」
「大丈夫です、きっと……!」
静かな寝息を立て横になっているエイ。心なしかその表情は先程よりも穏やかになっているように見えた。
「傍にいてやりたいのはわかるが、あまりここに長居するのは良くないから引き上げるぞ」
彼女なりの優しい声で諭すリノエ。ケンは後ろ髪を引かれつつも、頷き彼女に従う。急いで防護服を身に着けると三人は病室を後にした。
「私はこの後病院のコンピュータにアクセスして、大戦時のデータが何かないか調べてみる。こっちの方向に行けば正面エントランスだから、そこからなら怪しまれずに外に出られるさ」
隔離病棟を出た先で、リノエは廊下の先を指さしそう言った。
「リノエさん、ありがとう、いろいろ……」
頭を下げ声を絞り出すケンに、リノエは一瞬面食らった様子を見せる。すぐに彼女は背を向けると後ろ手に手を振りながらケン達とは逆方向の廊下へ消えていった。
「ひとまずは、大丈夫かなあ?」
病院を出てすぐ、ケンは大きく伸びをしながら言った。夜の帳が降り、ネオンで眩しい通りを生暖かい風が通り過ぎていった。
「あの薬ならきっと……いえ、絶対大丈夫です。だって――」
ルリのその言葉は、彼女の腹の底から響く音に掻き消された。
「ああっ、もうやだっ……!」
赤面するルリに、ケンは微笑みながら辺りを見回す。
「そろそろ夕飯時だね、ホラ、あそこなんてどう?」
ケンの指し示す先、通りにずらっと並ぶ様々な屋台があった。
「屋台ってやつですね……? 以前別の国で見て気になっていましたけど、なんというか……一人では入りにくくて……」
「ならちょうどいいね。あそこのラーメンにしようか」
二人は並んで暖簾をくぐる。頭に手ぬぐいを巻き、気難しい顔をした男性が新聞を読んでいた。
「……ウチは一種類しかないけどいいか?」
「はい。二人前お願いします」
椅子に腰かけ、店主が慣れた手つきで調理する様子を眺める二人。特にルリは、ラーメンは初めてらしく興味津々といった様子だった。
程なくして、油でべたつく屋台のテーブルに二つの丼が並ぶ。湯気を立て食欲をそそる匂いを放つそれに、ケンとルリの期待は高まった。
「じゃ、いただきます!」
両手を合わせ割り箸を取るケンを、ルリは不思議そうな顔で見つめる。
「ん? どうしたの?」
「あの、前から気になっていたのですが、食べる前にケンさんは手を合わせますよね? それってどういう意味なのですか?」
「うん? 食べる前に感謝しない?」
「食べ物にですか?」
「命に」
予想外の返答にルリは困惑した。彼女の育った環境では、“与えられること”への感謝の祈りを行っており、食材そのものへの感謝という概念は無かったのだ。
「あ、ごめん。俺なんか変なこと言っちゃった?」
固まるルリを見て、ケンは慌てた。
「いえ、こちらこそ急に黙ってすみません。ただ、考えたことがありませんでした。……そうですね、このおいしそうな料理も、元の食材は殆どが命だったものなのですよね」
「そ。このラーメンだったら、豚、鳥、魚、小麦、昆布……。だから食べる“命”に感謝するんだ。あなたの命を頂きます、ってね。――なんて偉そうに言うけど、マリさんの受け売り」
「桜花帝国……そのルーツになった人たちの出身の国……オーエド・シティの人たちがその考えですよね……?」
「そうそう。マリさん桜花帝国出身らしいから、結構思想とかはそこにあるのかもね。あ、俺もそうなるのかな?」
呑気に麺を啜るケン。それにルリは少し顔をしかめつつも、慣れない手つきで箸を持ち麺を口に運んだ。初めて口にする味に、思わず頬が緩んだ。
「おいしい……!」
突然、仏頂面の店主が新聞から視線を上げた。
「二人とも、ナルトは最後まで取っておけ」
「ナルトって何ですか?」
首をかしげるルリ。今まさにナルトを口へと運ぼうとしていたケンは、箸で摘まんでいたそれをひらひらとルリに見せた。
「白くてギザギザでぐるぐるなヤツ。魚のすり身で出来てるんだ」
「不思議な食べ物ですね……でも、なんだか可愛らしいです」
『ナルト占いしてやる』。店主はそれだけ言うと、再び視線を新聞に落とした。
その後、ナルトを残しラーメンを完食した二人は、期待と不安が入り混じった表情で店主の動向を伺う。それに気が付いたのか、店主は身を乗り出す。ただじっと丼に残されたナルトを見つめる彼を、二人は固唾をのんで見守る。
「兄ちゃん、アンタ……相当苦労するよ。嬢ちゃんもな」
ケンは背筋にヒヤリとした感覚を覚える。ルリも言葉を失っているようだ。
「だが……ほお……お前たち二人とも、仲間には恵まれるみたいだ……良かったな。さあ、ナルト食っちまえ」
なんだかよくわからない体験をした二人。ケンは店主に礼を告げると代金を渡しルリと共にそそくさと屋台を後にした。
「ごちそうさまでした」
「おいしかったでしょ?」
満腹感に包まれ、食後の火照りを冷ますかのようにゆっくりと歩く二人。雑踏に身を任せ、まるで川の流れに乗っているかのような錯覚を覚える。穏やかな空気は一人の男により一変した。
「た、助けてくれえ!」
人々を押し分けるように、若い男が乱暴に通りを駆け抜ける。彼は白い装束に身を包み、頭部には何やら見慣れないヘッドギアのような機械が取り付けられている。
最初は皆男の奇行とも取れる行動に面食らっていた様子だったが、じきに興味が失せたのかそれとも関りを持ちたくないのか、一人二人と視線を逸らす様に通り過ぎていった。男はしきりに辺りを見回し誰かを探しているようだったが、目当ての人物を見つけたらしく通行人を突き飛ばしながら一目散に駆け出した。
「お巡りさん! 助けて! 俺、殺される!」
男が縋りついた人物は、昨日ケンとルリが道を尋ねた警官だった。
「どうした穏やかじゃあないね」
相も変わらずの気だるげな対応で、男との温度差に異質な空気すら感じられた。
「ヴァニタスは、ヤバい! あいつら……ああっ!!」
男は突然頭を押さえうずくまる。警官もさすがに事の重大さに気が付いたのか、慌てた様子で男の傍に片膝をつきしゃがみこんだ。
「おいしっかりしろ! 一体何がどうなっているんだ?」
警官が男のヘッドギアに手を伸ばそうとしたとき、背後から抑揚のない声が響いた。
「触らないで。彼はまだイニシエーションを終えていません」
雑踏が二手に割れ、その中心を堂々と歩いてくる三人の人物。彼らも男と同じような白い装束に身を包んでいた。
「ああ……?」
呆けた表情の警官を意にもせず、白装束たちは男を左右から支え立たせる。男は意識を失ったのか、左右から吊り上げられるような体勢で足はだらりと力なく地面に着いていた。三人は目配せすると小さく頷き、男を支えた二人は来た道を戻っていった。
「皆さまお騒がせしまして大変申し訳ありませんでした。我々の求道は長く険しいもので、ああやって逃げ出す者もいるのです。ですが心配はいりません。苦難を乗り越えた先にこそ我々の理想郷は待っているのです」
理解の追い付かない群衆を尻目に、白装束はその場を去っていった。
「アレ、明らかに普通じゃあないよね……?」
「私もそう思います……」
何事もなかったかのようにまた歩き出す人々。困惑していた警官も、立ち上がると大きく伸びをしてどこかへ消えていった。明らかに異常な男の様子に、誰も何も思わないのだろうか? それとも、関わると碌な目に合わないと分かりきっているから無関心を決め込むのだろうか? ケンとルリは、この街の異質さに恐怖を覚えた。
嫌な予感が徐々に膨れ上がり形を成していく……その巨大な威圧感から逃れるように、ケンとルリは足早に家路を急いだ。
二人は部屋に戻ると何をするでもなくただじっとソファに腰掛けていた。あまりの静寂に耐えられずに付けたテレビから流れる不釣り合いなまでに明るい音楽。ただただ時間だけが流れていった。
「私、シャワー浴びてきますね」
廊下へと消えていくルリを見送りながら、ケンは一人膝を抱いた。今この時、大人であるリノエの不在が無性に心細さを際立たせていた。
「あっそうだ」
ケンは鞄から拳銃を取り出す。今は誰でもいい、話し相手が欲しかった。
「ナギさん、少しだけお話しませんか?」
「何も話すことなんて無いわ」
返事が返ってくることなど期待していなかったケンの口から、思わず笑いが漏れた。
「何が可笑しいのかしら?」
明らかにムッとしたような口ぶり。ケンは慌てて謝罪をした。
「ごめんなさい。その……話すことが無いってわざわざ伝えてくれるんだなって……」
「じゃあもう二度と口を聞かなければいいのかしら?」
「ああっだからごめんなさいって……。エイの容態、伝えたくて……」
ケンは病院での出来事を全てナギに伝えた。一切口を挟まずに聞いていたナギ。最後に一言、『……そう』と小さくつぶやいた。
「ナギさんは心配じゃあないんですか?」
「あの子にはあなたたちがいる。それでいいのよ」
ナギの突き放すような態度、エイが彼女を想う気持ちとは正反対のそれにケンは素直な疑問をぶつけた。
「エイは……あいつはあなたのことをとても大事に想っています。寝る間を惜しんであなたの行方を追っていたり、危険を承知で自治隊の倉庫に入ったり……。そんなあいつを、どうして――」
「あの子は私から離れなければいけないの。誰だってそう、ずっと一緒にいることなんてできない。だったら離れるのは早い方がいいわ」
明らかに含みのある物言い。プロジェクトFの被験体にされた人に対して配慮が足りない無責任な事を言ってしまった……ケンは悔やむ。
「私たちは、本当の姉弟じゃあないの」
「えっ」
初めて耳にする事実にケンは面食らう。
「詳しくは言えないのだけれど、私たちは“ある施設”で育ったの。ただそれだけよ。あなただって血の繋がっていない家族が――ごめんなさい、失言だったわ」
ナギのトーンダウンに、ケンは軽く微笑むと首を横に振る。
「俺だって無遠慮でしたから、おあいこです」
テレビの音が耳に響く。ケンはリモコンを手に取ると電源ボタンを押し込む。静寂が部屋に戻って来た。
「これは、あいつの親友としての“お願い”です。あいつに会って話をしてやってください。目を覚ましたあいつは自分の体の変化が恐い、そう……思っているはずですから」
ケンは無意識に自分の耳に触れる。
「そんなとき、誰かが隣にいてくれるって……本当に救われるんです……」
ナギの溜息が聞こえる。
「あなたって、見た目以上に頑固なとこあるのね」
「へへ、母親譲りですよ……血の繋がっていない、ね」
「ふふ……わかったわ。あの子が退院できたのなら、その時は私をあの子に返してあげて」
ケンは深くナギに感謝の意を伝えると、彼女を丁寧に鞄の中へとしまった。ちょうどその時、ルリがシャンプーの香りを漂わせながらリビングに戻ってきた。
「誰かと話していました……?」
「エイのお姉さんと、少し」
ルリはああ、と理解した様子でそれ以上は何も言わず冷蔵庫へと向かった。
「彼女のこと、黙っていてゴメン。でも、どう伝えたらいいかわからなくて……」
「気にしないでください。その方が必要ないと判断したのならば、私にどうこう言う資格はありませんもの。……でも、もし可能ならお話してみたいですね」
牛乳をコップに注ぎながらルリははにかんだ。
「うん……うん! きっとそのうち、みんなでね!」
その後時計の針は回りもうすぐ日付が変わる頃、リノエは帰宅した。完全に疲れ切った様子で、服を脱ぎ散らかしながらリビングへとなだれ込んできた。
「どけっ!」
ケンを押しのけソファーに飛び込むリノエ。下着姿のままソファに突っ伏し動く気配がない。ケンもルリも完全にあきれ果てていた。
「見たよ、病院のデータ、ぜ・ん・ぶ」
クッションに顔をうずめ、くぐもった声が聞こえる。
「えっそれじゃあ、エイの症状についても何か――」
「ダメ。大戦中の傷病データの一切は、桜花帝国の病院が抱え込んでる。こんな木っ端の病院からじゃあ文字通り手も足も出やしないさ……」
落胆するケンに、『いい知らせもあるぞ』と付け加えるリノエ。
「エイのやつ、山場を越えたぞ。立場上あんま褒められないけどさ、お手柄だルリ」
心の底から湧き上がる喜びと安堵。ケンはルリの手を取り何度も礼を述べた。ルリは頬を染め何とも言えない表情をしていた。
「意識ははっきりしないみたいだが、体は変異した部分を除いて健康そのもの。ただ、外に出せるかってのはまだ判断しかねる。そんな具合だな」
「そっか……でも、一歩前進だな」
「心配するな。私が明日も様子を見に行くから」
リノエはゆっくり起き上がると大きく伸びをし、リビングを後にした。
翌日、早朝から家を出たリノエは昼過ぎに帰宅した。
「エイのやつ、どうでした?」
「意識は相変わらずだが、体調は問題ない。体の変異……その進行は止まったみたいだけど、元には戻らないねアレは……ホラ見るか?」
リノエはケンに書類を投げてよこした。とりあえずで目を通してみるが、細かい字がみっちりと敷き詰められておりさらには聞きなれない単語も入り混じっておりケンは軽い眩暈のようなものを感じた。
「あ……もう大丈夫です……ん?」
その時ケンは、目の端に見慣れた名前を発見する。それは『マチダ』の名前だった。
「リノエさん、ここのマチダって……」
「ん? ああ、イースト・シティでエイを担当してた医師の名前だろ? 知り合いか?」
ケンはリノエにマチダについて話した。アルバイトと称した謎の投薬、採血。マリの薬。そしてホロウとのやり取り……。
「どうも胡散臭いな……おそらく研究所に関係してる野郎だと思うが……」
「面識は無いんですか?」
「名前も初耳だし、顔も知らん。なんせ研究所は人が多いうえに入れ替わりが激しかったからな」
深まる謎に二人は沈黙する。ルリが念入りにかけている掃除機の音のみが響いていた。
「リノエさん、マリさん……母さんについて知っていることを教えてくれませんか?」
俯いていたリノエの視線が上がりケンの表情を捉える。
「いいよ。ああそうだ、この前渡した写真も持ってきな」
ケンはリュックから写真立てを取り出すとリノエに手渡した。彼女はそれを柔らかな表情でしばらく眺めていた後、テーブルに静かに置いた。
「……あの頃私は飛び級で入った大学を出たばっかの青二才でさ。手前の才能を鼻にかけたそりゃ嫌な奴だったろうね」
遠い記憶の糸を手繰り寄せるかのように、リノエは遠い目で天井を見つめる。
「マリはそんな私にも一切物怖じしないヤツだったよ。よく言えば人懐っこい、悪く言えば馴れ馴れしい……かな? まあ、アイツも私みたいに飛び級で大学入るようなヤツだったらしいから、何かしらシンパシー? みたいなのがあったんじゃあないかな……」
「飛び級って……マジですか……」
もうどんなことを突き付けられても驚かないつもりでいたケンだったが、さっそく明かされたその内容に度肝を抜かれていた。
「友達なんていらないし必要ないと思ってた私だったけど、アイツと関わっているうちに……そういうのも悪くないかなあって……そう思ったりもしたよ」
「じゃあこの写真はその時に撮ったんですね」
「若いだろ? 惚れるなよ?」
「時の流れって残酷ですね」
「やっぱお前殴らせろ」
ほのぼの殺伐とした雰囲気に釣られ、ルリも話の輪に加わった。
「何の話ですか?」
「リノエさんから、マリさんのことを聞いてて」
「あ……私外した方がいいですよね……?」
「ううん、いいんだ。ルリちゃんも一緒に聞いて」
リノエは咳払いすると、一転して深刻な表情になった。ケンも察知し、覚悟を決めた。
「知っての通り、研究所のやってることは人の道から大きく外れてやがる。私もマリも、日に日に心が削られていったよ。研究員になってからどれくらい経った頃だったかな……ある事件が起こったんだ。開発中のコード“デュナミス”、その一体が暴走。多くの研究員を殺害した」
急激な話題の変化に、ケンの背筋は凍り付く。
「どういうわけか、その個体はマリに危害を加えることはなかった。ただ、掃除屋がその個体を“処理”したことで……マリは……」
不意に言葉を詰まらせるリノエ。
「母さんはどうしたんですか!?」
「ここからはアンタ自身にも関わる話になるが、覚悟はいいな?」
今更話を終わらせる理由もない。ケンは力強く頷いた。それに合わせるようにリノエも頷いた。
「マリの研究所への不満は爆発。機密と、開発コードD-11150……ケン、お前を連れて姿を消したんだ」
「どうして俺を……?」
「次に廃棄処分される個体だったからだ」
ケンの頭に、まるで鈍器で強く殴られたような重い衝撃が走る。視界は揺れ、全ての音が遠くに聞こえた。
「……続けるぞ。その後マリは桜花帝国内を転々としていたようだ。ケン、記憶にあるんじゃあないのか?」
ケンは首を横に振る。怪訝な表情を見せるリノエだったが、すぐに合点がいったようだった。
「ああ……そうだ。マリとアンタはその後研究所に捕まり、元の場所――廃墟の国となったセントラル、そこに秘匿されている施設に連れ戻されたんだったな。その際、研究所はD-11150の脳波にわずかな異変を見つけた。ほんの数日、人との触れ合いが実験体に変調の兆しを与えたらしい。奴らはD-11150を再調整した後観察を続行することにした。マリは“監視付き”でその観察係を命じられ、研究所と懇意のあるイースト・シティに送られたんだよ」
リノエは一気に語り終えると、大きく息を吐いた。
「……リノエさんは、いつ研究所を離れたんですか?」
「マリがイースト・シティに送られたその少し後ぐらいかな。デュナミスの開発が終了になったからそのどさくさに紛れて個人情報全部消して抜け出してきた」
リノエの表情が曇った。
「マリが監視下に置かれて国に幽閉されたってのにさ、私は一人で逃げ出して……それでアイツに合わせる顔なんて無くて……」
何故訪ねてきたケンを追い返そうとしたのか、何故二人の写真が伏せられていたのか、今のケンには十分理解できた。
「何もかもどうでも良くなって……時間だけが過ぎていって、気付いたらアンタらが来て、ってなワケさ……」
自嘲気味に笑うリノエ。
「でもリノエさんは俺たちに手を貸してくれたし、今もこうやって助けてくれてるじゃあないですか。母さんだって、きっと感謝していますよ」
ケンの隣でルリも強く頷いた。
「ああ、ありがとな。お前たち、ホント真っすぐ育ってるのな……」
目元を拭うと、リノエは写真立てに手を伸ばし、中身を取り出した。
「かさばるだろうから、そのまま持っとけ……ん?」
手渡そうと伸ばしたリノエの手が止まる。不思議そうな顔をしたケンとルリをよそに、リノエは食い入るように写真の裏側を見ていた。
「こんなん書いてあったんだ……」
彼女はケンとルリに見えるようにテーブルの上に写真を置く。ややくすんだ裏地に、黒のペンで『07/14 なんでもない日を最高の親友と』と記されている。その下にはかなり慌てて書かれたのか、乱れた文字で電話番号らしき数字、その傍に番号を指し示す矢印と『もしも私に何かあったら、教授に“痛み止めを造る時は今”と伝えて』とあった。
“私に何かあったら”……マリが書いたのだとしたら、彼女は出来事を一体どこまで想定していたのだろう。ケンを研究所から連れ出す時点で既に最期までの覚悟を決めていたのだろうか……。ケンの胸は痛み、それを振り払う様にリノエに質問をした。
「なんだろう、これ。リノエさん知っていましたか?」
「いいや、写真立てごと私の荷物に紛れ込んでいたから……裏側は今初めて見た。……教授? 誰のことだ?」
深刻な表情のリノエ。彼女の焦点は写真の裏側を通り越して自身の脳裏に浮かぶ思考へと向いていた。
「それに何かの暗号か……? 痛み止め……? アスピリン……いや違う……痛みを止める……解毒……プロジェクトAか……? いやまさか……あれは名前だけの存在だ」
彼女は一人唸るも答えは依然闇の中といった様子だ。ケンは番号が気になってしょうがなかった。明らかに慌てて書かれたであろう筆跡。そこまでして伝えたい何かが番号の先にあるはずだ。ケンは口を開く。
「リノエさん、掛けてみませんか?」
リノエはしばらく文字を睨みつけていたが、やがて顔を上げる。
「この番号……ハバラのじゃあないな」
「あっ、国際電話となると専用の回線が――」
残念そうにするケンに、リノエは不敵に笑いながら告げる。
「対応してるぞ。仕事上外の国に掛けたり掛かってきたりが当たり前だからな……自宅でも、だ」
感心した様子のケンと、電話の回線についてさっぱりなルリ。対照的な二人を見ながら、リノエは真剣な口調になる。
「もし何かあったら即切ってここを離れるぞ。いいな?」
ケンもルリも、その表情の前には頷くのみだった。
三人は壁に掛けられた電話の前に立つ。リノエが受話器を取ると、震える手で恐る恐る記されている番号を押していく。その動作は、まるで暗闇の中手探りで明かりを探すかのような恐怖をはらむものだった。
番号を押し終わると、リノエは受話器を耳に当てる。少しでも音を拾おうと、ケンとルリもリノエにぴったりとくっつき受話器に意識を集中させた。
「……繋がった」
ケンの耳にもコール音が受話器の奥から小さく聞こえる。どれくらい待っただろうか、突然コール音は途切れ、受話器の奥から声がした。
『帝都大医学部、教授のタカハシだ』
男性、それも年季の入った感じの声だった。それに、“教授”……男の声ははっきりとそう言った。
『……もしもし? 何も言わないなら切るがいいかね?』
「あ、待って! ……ええと、アンタ誰だ?」
状況が状況だったらケンは思わず吹き出していただろう。しかし今はリノエの動揺も理解できる。受話器の向こうの声は、明らかに気分を害した様子だった。
『それはずいぶんな物言いだね。掛けてきたのはそちらではないのか?』
「あ……悪い、違うんだ、そうじゃあなくて……!」
リノエ自身も、己の動揺っぷりに腹が立ったらしく、一度大きく深呼吸をした。
「いきなりで悪いが、こっちもよくわからない状況なんだ。ただ、聞いてほしいことがある。いいか? 今から言う言葉に聞き覚えがあったら何でもいいから教えて欲しい」
『……言ってみなさい』
向こう側の人はずいぶん辛抱強い人だな、ケンは感心した。
「痛み止めを造る時は今……この意味分かるか?」
息を呑む音が聞こえる。どうやら当たりのようだ。しばらくしてから男の落ち着いた声がした。
『誰から聞いたのかね?』
威圧感のない、ごく自然な問い。しかし声色には慎重さも感じられた。
「写真の裏に書いてあった。何だか普通じゃあない筆跡で書き殴られているもんだから……」
『……この回線ではまずい。私用の番号を教えるから、そこに掛けなさい』
リノエはジェスチャーでペンとメモを要求する。ルリはすぐさま駆け出し、ペンとメモを引っ掴んで戻って来た。リノエは受け取ると、素早く番号をメモに書き記していった。
「すぐ掛けなおすぞ、いいな?」
『ああ、かまわない』
短い会話を終えた後、リノエは受話器を置く。間髪入れずにたった今書き記した番号をプッシュした。
『それで、君は一体誰だね? その言葉を知っているということはスズハラくんの知り合いかね?』
スズハラくん――おそらくマリのことだろう。ケンは心臓のあたりがキュウと締め付けられる感覚を受ける。
「ああ、親友だ」
『――なるほど。それで、彼女は壮健か?』
「……死んだ。いや、殺された」
恐ろしい程静かな間。受話器の向こうで深いため息が聞こえた。
『事態は思っていた以上か……。あれから10年……あの少年はどうなっている?』
おそらくケンの事を言っているのだろう。リノエも理解しているようで即答した。
「元気には元気だが、状況がヤバい。プロジェクトDとしては成功だろうがそのせいでヤバい」
『……このまま続けるより、直接会って話をしよう。私は伝えた通り帝都大のある地区にいるが、君は?』
「ハバラだ」
『遠いな。出来ればすぐにでも桜花帝国へと来てほしい所だが……』
リノエは素っ頓狂な声を上げる。それも無理はないだろう。なぜなら――。
「はあ!? 馬鹿言うなよ!? どんだけ距離あると思ってんだ!? 国跨いで海越えて……いきます、はい! で行ける距離じゃあないだろ!」
『分かったからいちいち大声を出さないでくれたまえ……』
タカハシは溜息をつくと、一呼吸おいてから続けた。
『半月後に私は“ラヴィアン・ローズ”に用があって向かうことになっている。そこで落ち合うのはどうだろうか? ハバラの隣のはずだが?』
受話器を片手に、リノエは考えを逡巡させている様子だった。
「アンタを信用しろってのか?」
『証明のしようが無い以上、そうしてもらえるとこちらは助かる』
「マリのこと知ってるんだな?」
『私の教え子だった』
その言葉で、リノエはハッとしたようだった。
「教授……帝都大……それにタカハシ……アンタ医学界でも名のある“タカハシ・カズオ”か?」
『そうだ』
「はー、マリ、アンタすごいねえ……」
しばらく目を閉じていたリノエだが、やがてはっきりとした声で伝える。
「分かった、半月後、ラヴィアン・ローズだな。こっちは私と少年少女が一人ずつの三人で向かう。赤毛のオバサンが私、背の高い銀髪と、ちっこいメスガキだ」
ルリが憤慨したような表情を見せる。
『分かった、三人だな。覚えておこう。場所は波止場近くにある喫茶店、“カモメ亭”だ。それと、君も携帯できる電話端末を持っておきなさい。いざという時に連絡が取れるように』
「ああわかったよ。じゃあ切るぞ?」
『それでは、カモメ亭で』
静かに受話器を置くリノエ。わずかな出来事だったが、ケンはまだ胸が高鳴っていた。
「凄いことになりましたね……」
「なんですかメスガキって!?」
眉根を吊り上げるルリを宥め、リノエは提案する。
「携帯買いに行くぞ。ついでに夕飯も外で食おう。私が奢るからさ」
三人は街へと繰り出していた。様々な店舗が立ち並ぶ中、リノエは慣れた様子ですいすいと目的の店を目指し歩いている。都会の歩き方を熟知しているその様子に、ケンは密かに尊敬の念を抱いた。
「携帯の電話端末……高いんだよなあホント……」
専門店の軒先に、ずらりと端末のダミーが並ぶ。値札をみると、どれも自動車以上の値が付けられている。
「凄い値段ですね……でもどうしてですか? さっきリノエさんが電話するときも、国際電話がどうとか言っていましたが……」
ルリが不思議そうな顔でダミーを突いている。
「ホラ……飛竜が空を支配しているじゃん? そのせいで電波塔を建てるのも一苦労なんだよ。だから個々に回線を持って通信技術を使うのってどうしても高額になっちゃうんだ。国内なら飛竜の影響はないからいいんだけど、外との通信となるとどうしてもね」
「ああ……」
ケンとルリは口をつぐむ。ちょうどタイミング良くリノエが全ての手続きを終え端末の箱を手に店から出てきた。
「おおー、リノエさん、見せて!」
ケンは目を輝かせる。
「あそこのレストラン入るぞ。飯だ飯!」
三人は案内されたテーブルに着くと、メニューそっちのけで端末の箱を開封した。中には無骨だが頑丈な造りの端末が入っていた。
「すげえ!」
ケンは興味津々で電源を入れた。バックライト付きのディスプレイが点灯する。
「タカハシのおっさんの番号入れておきな」
リノエはケンにメモを手渡すと、メニューを開き吟味を始めた。ケンはテキパキと操作し、電話帳にタカハシの番号を登録する。その様子をルリは目を丸くして眺めていた。
「凄いですねケンさん。前から思っていたのですが、初めてなのにすぐ機械を使いこなしていますよね」
「んー、ゲーム機や授業でコンピュータに触る機会が結構あるから慣れちゃったのかな?」
メニュー越しにリノエがいたずらっぽく笑った。
「今からおっさんに掛けてやりなよ。『電話買ったよー』って」
ケンは頷くと、すぐさまコールボタンを押し、端末を耳に当てた。
「ちょ、馬鹿! 本当にやるヤツがあるか!?」
慌てるリノエをよそに応答を待つケン。しばらく経った後、向こう側からタカハシの声が聞こえてきた。
「あっ、もしもしタカハシさんですか?」
『君は……』
「俺ケンって言います。マリさんの息子です。母さんがお世話になっていたみたいで、どうしてもお礼が言いたくて」
少年のどこかヘンな、だが温かみのある言葉に反応してか、端末から短く笑う声が聞こえる。
『そうか君が……。ということはこの番号は先程の“元気な”女性のものでいいということだね?』
「はい!」
元気な女性……ケンは可笑しくなりにやけながらリノエを見た。リノエの怪訝な表情に吹き出しそうになりながら、タカハシとの通話を続ける。
『半月後に会えることを楽しみにしているよ。それと、なるべく通話は控えなさい。いつ誰が、どこで聞いているかわからないからね』
「はい、気を付けます。では、半月後に」
通話終了ボタンを押すと、リノエに端末を返した。
「まったく……お前ホントヘンなとこで行動力あるな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
その後三人は次々と運ばれてくる料理に舌鼓を打つ。夢中になって料理を口に運んでいたケンだが、不意にリノエに対して申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
「すみません……リノエさんにたくさんお金を使わせてしまって……」
リノエは口元を拭くと、自身の財布から小さな黒いカードを取り出した。
「見ろよ、コレ。ブラックカード。私らの大陸じゃあだいたいどこでも使えるし、限度額で豪邸が建てられる。限られた金持ちしか持てないもんだ」
彼女は手にしたそれをひらひらと振り、これ見よがしに見せつけた。
「つまり、何が言いたいかって言うと金に関しては私を見くびるな、ってことだ。独身の医者舐めんな! ……独身の……独身」
自分で言った言葉に傷ついたのか、リノエは俯く。ケンは慌ててフォローを入れる。
「き、きっとそのうちいい人と出会えますって! ね? ルリちゃん?」
「え? え、ええ! そうですね! まだまだ若いですから大丈夫ですよ!」
顔を上げるリノエ。恨めし気な表情が、目元の隈も相まってかなりの迫力だった。
「アンタらなあ……こういうときは空気読んで黙ってるのが大人への近道だぞ? 覚えとけ?」
哀愁漂うその姿に、引きつった笑いを浮かべるケンとルリだった。
「それにまあなんだ、子供は遠慮するな。子供の頃だけの特権なんだぞ? 有意義に使っとけ」
ケンもルリもいまいちピンとこない表情をしている。リノエは気まずそうに窓の外に目を向ける、西から差し込む茜色に目を細めた。
「私は気付いたら大人だもんなあ……もっと早く、誰かに素直になれてたら何かしら違ったのかな……」
それからの数日、エイの心配やらタカハシとの予定への期待と不安やらで、ケンはそわそわして過ごしていた。
そんなある日、先日行われたハバラ・シティのトップを決める代表選挙の開票結果が報道されていた。ヴァニタス代表リュシアも出馬しており、ダントツ最下位の歴史的大敗を喫していた。
「ハハッ、ざまあみろ。これでようやくあのうるさい街宣カーがいなくなるな」
スーツに着替えながらテレビを見ていたリノエは楽しそうに笑った。ここ最近うるさい街宣車の声がピッタリ止んでいることにケンもその時ふと気が付いた。
「それじゃ、行ってくるわ。夕方……遅くても夜までには帰るから、そうだな……今日もどこか食べに行くか?」
「いいのですか!?」
目を輝かせるルリに、リノエは歯を見せて笑うと手を振りながら背中を見せた。
* * *
ハバラ・シティ中央部、“天啓の家”。豪勢な造りのビルの最上階に、リュシアの部屋はあった。
「……で、どうなってんの?」
窓際に置かれた巨大なデスク。そこにリュシアが肘をついて緑色の装束を着た幹部の男に冷たい言葉を投げつけていた。
「思っていた以上に票が集まらず……」
「そんなこと聞いてんじゃないんだよジョーダン!」
ジョーダンと呼ばれた男は叱責の声にその体が一瞬縮こまる。冷汗をかきながら顔を上げ、必死の弁明をする。
「これも……ッ! ひとえに……ッ! 我々弟子たちの至らぬところ……! 何とぞ、何とぞ御寛大な――」
「だから違うってッ! いいか? 馬鹿にされてんだぞ? 見下されてんだぞ? 分かる? どいつもこいつもそうだ。外面は人畜無害な善人のふりして、その内面はゲロカス以下のゴミ野郎どもだ!」
頭を床に着ける勢いで下げるジョーダンの額に、汗が流れる。
「……“処理”、ですか……?」
「違うよ、“聖戦”だろ? 俺たちの“兵隊”が、この国を捕るのさ。捕ったら隣、そのまた隣……どんどん広げて、最後は桜花帝国も、捕る。この大陸全土をヴァニタスで染め上げるんだ」
ジョーダンの表情が一変する。狂気にも似た笑みを浮かべ顔を上げる。
「導師リュシア、ということは……!」
「見つかったよ。俺たちの崇高なる“贄”がね。総合病院だ」
「ようやく、我らの第一歩が始まるのですね……!」
リュシアは立ち上がると、窓ガラスの下に広がる街並みを見下ろす。
「見てろよ……後悔させてやる……全てに……!」
* * *
昼過ぎ、昼食を終え一息ついているケンとルリ。のんびりと食後のお茶を楽しんでいると、リノエが凄まじい勢いでドアを開け部屋に飛び込んできた。
「え!? 何!? どうしたのリノエさん!?」
肩で息をしており、焦燥にかられた表情をしている。
「ケン! 大変だ……! エイが……エイが奴らに連れていかれた……!」
ケンの手をコップが離れ、テーブルの上に盛大に中身をぶちまけた。




