#10それでも続く、旅は続く
二人は研究施設を後にして、黙々と歩き続けた。ルリが定期的にくしゃみをしていることに気付き、ケンは足を止めた。
「ルリちゃん、大丈夫?」
俯き加減なルリの顔を覗き込むと、彼女の頬が僅かに赤みを帯びているようにも見えた。ケンの不安そうな表情に、ルリは慌てて手を振り答える。
「標高も上がってきましたし、少し気温が下がったからだと思います。それより、これを見てください」
ルリは鞄から羊皮紙を取り出す。魔法の地図だ。しかし、広げられたそれはまっさらで線の一本も見当たらなかった。
「魔力が無いから……こうなるとただの羊皮紙ですね。それで――」
彼女は鞄から小さなナイフを取り出すと、自身の親指の腹に先端を当てる。顔をしかめつつ刃先を放すと、ルリの親指に赤い雫が浮き上がった。
「本当に緊急の使い方で、あまりやりたくは無いんですけど、そうも言っていられませんからね」
「そんな……! 言ってくれれば俺がやったのに……!」
親指を羊皮紙に押し当てながら、ルリは優しく微笑む。
「ありがとうございます。でも、“魔女の血”じゃあないと反応してくれないんです」
腑に落ちない表情のケン。そんな彼をよそに、羊皮紙上に赤い線が走り地図を形作っていく。
「2、3日くらいは機能しますので、なんとか山越えまで持ちそうですね。ほら、い…ふぇっ――」
言葉を遮るように、ルリは大きなくしゃみをする。ポケットからハンカチをとりだすと、恥ずかしそうに鼻を隠した。
「……すみません。今は、このあたりですね」
ルリの指し示す場所に目を向けるケン。まだ山の中腹あたりだろうか。周りを見渡すと針葉樹が多いことに改めて気が付く。気温の変化も含め、環境は僅かだが変わっていたのだ。
ケンはリュックを漁ると、中からコンパスを取り出す。バナナ畑で聞いた話――過去の人魔大戦での環境変化……その影響は磁場にも及んでいるのではと危惧していた。しかし、赤い針の示し方を見るにそれはどうやら杞憂だったようだ。
「じゃあこっちの方角か。焦らず、ゆっくり行こう。ちょっとでも疲れたらすぐ言ってね。休憩、大事」
ルリは頷くと、歩き出す。獣道に近い山中、歩きなれていない二人は時折休憩を挟みつつ、確実に歩みを進めていた。
辺りの木々は徐々に背の高さが低くなり、形は曲がりくねったようなものが増えてきた。興味津々にそれを観察するケン。ルリは倒木に腰掛け、鞄から薬包紙を取り出すとそれを水で流し込んでいた。
「本当に大丈夫? 今日はこの辺で休もうか?」
心の底からの不安を口にするケン。
「この薬、お師匠様が調合したものなんです。ですからよく効くんですよ。心配してくれてありがとうございます」
気丈に笑うルリ。しかしその直後再び大きなくしゃみをする。
「ねえ、やっぱり今日はこれ以上は――」
「ほらケンさん、はやくしないと日が暮れてしまいますよ! 行きましょう!」
倒木から飛び降りると、ルリは地図を手に進みだす。ケンもしぶしぶ後を追った。
いつの間にか背の高い木は消え、辺りは地を這うように繁茂する植物ばかりになっていた。足もとにも、湿った土ではなく小石の多い道へと変わっており、足への負担を増していた。
「森林限界ですね……。ここから先は、上空にも注意しながら進みましょう」
「上空に……?」
不思議に思うケンだったが、すぐに“あの出来事”を思い出した。恐ろしい鳴き声に巨体……飛竜だ。
「遮蔽物の無い山だと、俺たちいい獲物だよね……」
「なるべく岩陰や壁伝いに行きましょう」
岩石地帯へと踏み出したケンとルリ。緑の香り溢れる場所から一変して、殺風景な地帯。吹き付ける風は強く、ケンは身震いした。
ゆっくりと高度を上げていくケンだったが、隣を行くルリのペースが徐々に落ちていることに気が付く。最初は彼女を気遣うように都度立ち止まっていたが、そのうちルリは歩みを止めてしまい、その場から動くことができなくなってしまった。
「ルリちゃん……? ルリちゃん!?」
膝から崩れ落ちるように力なく倒れるルリ。ケンはすんでのところで抱きかかえる。浅くて速い呼吸、額に手を当てるととてつもなく熱かった。
疲労や心労で体が弱っていたところに雨という追い打ち……。彼女の体は耐えられなかったのだろう。
――いや、思い返せばイースト・シティの自宅にいた頃からその予兆は出ていたとケンは今になって思う。あの時変に静かだった様子の彼女をなぜ黙って見過ごしたのか――。
「あぁ……マズい……まずい!!」
ケンは自身をなじる。まだ周囲に木が生えている場所で、何としてでもルリを引き留めておくべきだった。しかし、こうなってしまった以上どれだけ悔いても意味が無い。ケンはルリを抱きかかえると周囲を見渡す。視線の先には断崖絶壁の山肌が聳え立っている。
「もしかしたら、壁の裂け目が洞窟みたいになってるかも……」
誰に語り掛けるでもなく、自身の不安を拭い去る為にケンはひとりごちる。どこか安全な場を求め、絶望的な状況の中ケンは赤茶色の斜面を登っていった。
半ばパニックのような状態で岩石の壁伝いに歩くケン。その時、彼の視線の先にぽっかりと口を開ける洞穴のような裂け目を見つけた。
「あぁ、良かった……!」
ケンは安堵し裂け目に駆け込む。中はそこまで深くないものの、雨風を防ぐには十分な場所だった。
「ルリちゃん、大丈夫? 聞こえる?」
ルリは相変わらず辛そうにしている。どうしたらいい? 自分に何ができる? ケンはまずは火を起こそうと辺りを見渡すが、燃やせそうなものは何一つ見当たらない。
「そ、そうだ、病人には水分……!」
ケンは自身のリュックを開こうとしたが、そこで彼は自身の水筒に水を入れていないことに気が付く。ルリの鞄に手を伸ばした時、ケンの手をルリが掴んだ。
「ま、待って……ください、これ、持って……」
ルリは虚ろな表情で胸元から琥珀のペンダントを取り出しケンに握らせた。
「これは……?」
「ブリージンガメン……これがないと……中に閉じ込められて……」
彼女は一体何を言っているのだろうか? 熱にうなされているのか? ケンは訝しく思いながらも首飾りを受け取ると、もう片方の手でルリの鞄に手を入れた。
「……ん?」
違和感を覚える。鞄に手を入れたのに、“何も触れない”。ケンは中身を覗き込んで驚愕した。鞄の中には、倉庫のような空間への入り口になっていたのだ。
「嘘だろ……何でもありだな……」
真下に梯子のようなものが見える。ケンは意を決して“鞄の中”へと入っていった。何度も踏み外しそうになりながらも“床”に足を付けると、恐る恐る内部を見渡す。僅かに埃臭く、気温はほのかに温かい。『中に閉じ込められて』ルリは確かにそう言った。ケンは生唾を呑み込み手にした首飾りを握りしめる。
「全くあの子は、いっつも無茶ばっかりして……!」
突然室内に響く女性の声に、ケンは飛び上がる。痛いほどに拍動する胸を抑えながら辺りを見渡すも、整然と並べられた棚、それに綺麗に並ぶ様々なもの、人間の姿などどこにもなかった。
「ここよ、ここ」
ケンは自身が手にしている首飾りを顔に近づける。美しい装飾が施され、中心部には琥珀がはめ込まれている。声はそこから響いていた。
「あぁ……喋る拳銃の次は喋るペンダントかよ……」
「片や人間が自然の摂理に反して産み出した異物。片やこの私、ヴァナディースのフレイヤの持ち物を一緒くたにするなんて心外ね」
フレイヤと名乗るその声は、透き通るような声で不満を口にする。あっけにとられるケンだったがすぐに我に返り、手元のペンダントに話しかける。傍から見れば異常なその光景にも、彼自身知らないうちに慣れてしまっていた。
「あんたが誰でもいい! 今――」
「ルリが大変なことになっている、違うかしら?」
ケンは呆けた表情でペンダントを見つめる。フレイヤの声は笑っていた。
「私があの子を放り出すとでも? どれだけ心配に思っているか分かっていて?」
「あんた……いえ、あなたは、ルリちゃんの言っていた“お師匠様”……?」
フレイヤの声色が若干優しくなる。
「あなたの事も“見させて”もらっていたわ。ルリを守っていてくれたみたいね。ありがとう」
突然の告白。ケンは驚くと同時に自身の心に温かいものが流れ込むのを感じた。思わず顔を逸らし、声を絞り出した。
「薬……あと、水が必要、です……。どこにあるか教えてください」
「落ち着きなさい。この中は“時が止まって”いるの。焦らなくてもいいわ」
もはや無法とも言えるほどの超常っぷりに、ケンの脳が理解を拒む。フレイヤもそれを察知したのか、ため息交じりに言う。
「水は手前のそこ、あと奥から二番目、瓶の中に入った炎を持っていきなさい。あとは……そこ、そう、缶詰。あぁ、一個でいいわ。あの子、高山病にもかかってるから食べ物は受け付けないわ。その代わり、定期的に水を飲ませてあげて。薬はあの子さっき飲んでいたでしょう? 私の調合は、完璧。あれで十分よ」
ケンは指示通りに拾い上げていく。ふと手が止まる。
「あの……この中の方が安全だし、環境もいいから、この中でルリちゃんの調子がよくなるまでいちゃだめですか……?」
「ダメよ。言ったでしょう? この中は、時が止まっているの。治るものも治らないし、長く滞在すると“外との時間”がズレて人として困ったことになるわ」
身震いするケンに、『少しなら問題ないわ』とフォローを入れるフレイヤ。せっせと必要な物資を手に取ると、梯子に足をかける。その際、フレイヤが再び声を発した。
「そうだわ、私と会話したこと、私がこのブリージンガメンを通して見ていること、ルリには言わないでもらえるかしら」
「どうして――」
「理由は聞かないでちょうだい。あの子の出奔は、あの子自身に納得させるためにわざと見逃したの。それに、あなたたちとはそう遠くない未来会うことになるわ。お話はその時でも遅くないでしょう?」
ケンはフレイヤに礼を告げると、足早に梯子を上る。ひやりとした洞窟の空気が頬を撫でる。命の危機すら感じさせる山岳の環境だが、なぜだかケンには魔法の倉庫内よりも生を感じられた。
鞄から這い出たケンは、ルリの姿を確認する。横たわり相変わらず苦しそうな浅い呼吸を続けていた。急いで傍によると、そっと抱き起こす。
「ルリちゃん、水を……!」
水筒の蓋を開け、ルリの口元へと近づけるが、意識の朦朧としている彼女は口を開かない。傾けた飲み口から零れた雫が、唇を伝い顎へと流れ落ちていった。
血の気が引くケン。叫びそうになる気持ちを無理やり押さえつけ、頭を動かすことに努める。
「どうする……どうする……?」
もはや迷っているその時間すら惜しい。ケンは覚悟を決めると、水筒に口を付け軽く水を口に含んだ。熱に浮かされる彼女の顎を、祈るような手つきで支える。触れ合った唇から伝わる、尋常ではない熱。ケンは意識を集中させ、ゆっくりと、彼女の喉が動くのを待って水を送る。自分の肺の空気まで分け与えるような、静かで、必死な共同作業。彼女の喉が小さく鳴るたびに、ケンは救われたような錯覚に陥る。
口を離しルリを静かに横たわらせると、ケンは目の前の地面に、以前ルリがやっていたように瓶の中の炎をこぼす。柔らかな温かさが肌を撫で、ケンは息を吐く。鞄の中から持ってきた毛布をルリにかけようとした時、彼女の小さな身体が小刻みに震えていることに気が付く。
「ルリちゃん! しっかり!」
「寒い……」
半ばうわごとのように、擦れる声でそう呟くルリ。ケンは慌てて彼女を毛布で包むと、胡坐をかきしっかりと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから……頑張って!」
もはや自身にそう言い聞かせているかのような、懇願のようなケンの言葉。ルリのうわごとは止まらなかった。
「ごめんなさい……ママ……私じゃない……」
高地に吹きすさぶ風が、空洞内で怪物の唸りのように響く。たった一人消えそうな灯を前に、心細さに抗うケンの孤独な戦いは続いた。定期的に水分を取らせ、彼女の身体が凍えないようにしっかりと抱きしめる。
外から差し込む光が消え、洞窟内が炎の明かりに照らされる頃、ようやくルリの容体は落ち着きを見せた。震えは止まり、呼吸も安定し、自身の力で水を飲むことができるようになっていた。
「よかった……あぁ……」
腕の中静かな寝息を立てるルリの、確かな温もりを感じつつ、ケンの疲労も限界に達し彼の意識はまどろみの中へ消えていった。彼の意識の途切れる寸前、久しい“あの感覚”――闇に沈みながらも意識がはっきりしていく感覚に襲われた。
* * *
風が通り抜ける静かな草原。大樹の下に二人の人物がいた。一人は女性、木に寄り掛かり足を投げ出している。もう一人は、頭部に犬のような耳と腰部に尻尾のあるみすぼらしい恰好をした男性だ。彼は横になり、女性の膝の上に頭を乗せくつろいでいる様子だった。
「グニパヘリルの外にこんな世界があるなんて、知らなかった」
「これだけじゃあないさ。世界には、もっと様々な、美しい場所がある」
男は見上げた先、女性の頬に手を伸ばす。
「見たい……お前と一緒に……!」
「もうすぐ……“黄昏”だ……」
女性の頬に涙が流れ、それは男の手に伝う。男もまた、涙を流していた。
* * *
「――ん……」
ケンは目を覚ます。理由は知れないが、何故だか胸の奥を刺す痛みに涙を流していた。目の前には依然魔法の炎が揺らめいている。洞窟の外からは明かりが差し込んでいた。眠りに落ちてから相当な時間が経ったのだろう。ルリを抱えている腕や足が悲鳴を上げているのを感じ、ケンはもぞもぞと体勢を整えようと奮闘する。その時、腕の中のルリが目を覚ましたようだった。
「あ……ケンさん……? あれ……ここは……? えっ……?」
自身の置かれた状況に戸惑っている様子で、ルリはケンの膝の上からゆっくりと下りた。ゆっくりと体を伸ばすがすぐにふらつき、壁を背にしゃがみこんでしまった。
「昨日の今日だし、無理しないで。ここなら雨風を防ぐことができるから、一日じっとしていよう」
ケンはルリの額に手を触れる。昨日のような熱さはなく健康そのもの、といった感じだった。フレイヤの調合した薬、あれは大言壮語などではなく本物なのだな、ケンは心底感心していた。
ルリに琥珀の首飾りを手渡す。ルリは訝し気な表情でそれを受け取った。
「あれ、覚えてない?」
「曖昧で……。でも、渡せてよかったです」
もしもあの時、ブリージンガメンを手にせずに鞄の中へ入っていたら……。ケンは背筋に冷たいものを感じた。
「あー……そうだ、炎! 中にあったんだよ。辺りに燃やせるもの無かったからさ、助かったよ」
「中に、ですか……?」
ルリの不思議そうな表情に、ケンも思い出す。
「そういえばバナナ料理のときに、ルリちゃんの口ぶりじゃああの時使ったのが最後の一個みたいな感じだったよね?」
廃研究所でも、火種が無いからわざわざ燃えるものを探し回るはめになっていた。ルリは珍妙な面持ちで鞄に視線を向ける。
「この鞄、不思議なんですよ。中身が減ってくると、いつの間にか足りない分が補充されていて……」
ケンは考える。ひょっとしたら、ルリを気遣うフレイヤがこっそり補充しているのでは。だとしたらなんとも微笑ましい限りだが、ケンはフレイヤとの約束を思い出しその言葉を胸の奥にしまい込んだ。
「まあ、とにかくさ、俺お腹すいちゃったから……これ、もらっていいかな?」
銀色の缶詰を手にするケン。
「どうぞ。私は……まだ食欲が戻りませんので、お水だけで大丈夫です」
ケンはリュックから十徳ナイフを取り出すと、缶切りの部分で開封していく。魔法の炎の横に置くと、その場に腰を下ろした。
缶詰の中身は、豆の煮物で様々な野菜や肉がトマトや香辛料とともに煮込まれていた。食欲をそそる香りに、口に運ぶ手が止まらなかった。
「……ん? あぁ、はいどうぞ」
ケンはルリが横目でチラチラと覗く視線に気が付く。彼女の回復への喜びもあり、温かい気持ちで缶詰を手渡した。
「ありがとうございます」
一口、二口とゆっくり口に入れていたルリだったが、その手は止まらず結局半分完食してしまった。
食後、揺れる炎を見つめる二人。入り口から吹き込む冷たい風に、知らぬ間に寄り添うように座り毛布を共有していた。
「……あのさ、ルリちゃんは夢って見る?」
「夢、ですか? そうですね……見るときもあれば見ないときも……それがどうかしましたか?」
隣で不思議そうな表情でケンを見上げる。その表情に、ケンの胸は何故か痛みを覚える。
「やけにリアル……というか、生々しい夢でさ……。俺ともう一人……」
そこまで言ってケンは言葉に迷う。果たしてそのまま伝えるべきなのだろうか? あまりにも突飛な言葉に、ルリは気味悪がらないだろうか? しかし、彼の中の何かがその必然性を強く訴えている、そんな気がしてならなかった。
「もう一人出てくるんだけど、その人……ルリちゃんにそっくり……な気がするんだよね」
「私に、ですか?」
「うん。その所為か知らないけど、俺、恐いんだ。ルリちゃんがいなくなっちゃうのが……ああ、何言ってるんだろう。ゴメン、忘れて」
後悔からうなだれるケンの腕に、ルリは優しく自身の腕を回す。温かい彼女の体温がケンに伝わった。
「私も同じです。夢は見ませんけど、私も、ケンさんがいなくなるのが恐いです。どうしてでしょうね」
しばらくの沈黙。最初にルリが口を開く。
「イースト・シティの倉庫でケンさんと最初に会ったとき、あのとき私も、懐かしいようなそんな気持ちになって……それが恐くて、私はあなたから離れようとしたけど……それでもあなたは……ね?」
言葉にできないけど、何か特別な繋がりを感じる、ケンはそう強く感じた。
「……なんだかシリアスになっちゃったね。んー……まあ、一緒に協力していくなら、同じ考えだと心強いよね! きっと、そういう巡り合わせなのかなあ?」
「そうですね」
軽く微笑むと、頭をケンの肩に預けるルリ。ケンは赤くなり天井に目を向けた。二人だけのゆっくりとした時間が、静かに流れていった。
太陽は沈み月が昇る。やがて月が沈むとまた新しい一日が始まる。過酷な環境にさらされた若者二人は、小さな安全地帯で英気を養い再び歩みを進めていた。
「標高のピークは過ぎましたから、後はもう少し進んだ先から下山ルートに行けると思います」
風に負けないよう声を張り上げルリは言う。照りつける太陽に目を細めながらケンも頷いた。
「体は平気?」
ルリが答えようとしたとき、“あの鳴き声”が澄んだ空気に伝播する。全身の毛が逆立ち、嫌な汗が流れるのを感じる。
「伏せてっ!」
ケンはルリを庇う様に地面に倒れこむ。その上空を、凄まじい大気の流れを引き連れ巨体が通り過ぎていく。
「ああっ……そんなっ……こんなところで!」
二人がそのままの体勢で顔だけを上げると、彼らの視線の先にそれはいた。巨大な体躯に、コバルトブルーの鱗。両手は巨大な翼になっており、強靭な足には鋭い鉤爪が光る。空中で羽ばたきながらそれはケンとルリを睨みつけていた。
「あれが、飛竜……!」
ケンは必死で頭を動かす。圧倒的存在に狙いを付けられた今、一体どうすれば生き抜くことができるのか。考えに考えた末、ケンはルリに耳打ちする。
「俺が合図したら、立ち上がって」
ルリは震えたまま小さく頷く。視線の先の飛竜は、突如体勢を変え二人目掛け滑空してきた。
「今だ!」
勢いよく立ち上がる二人。ケンはルリを抱き上げると、飛竜目掛け跳躍した。刹那、視界が切り替わる。彼らの背後で巨体が轟音を立てながら山肌を両足で削っていた。
「急げ……急げ……!!」
ケンは震えそうになる自分の足を無理やり動かし駆け出す。背後で飛竜の動く気配がする。死に物狂いで駆けるケン。捕まりそうになる度に無限の軌跡により跳躍で距離を離す。そんな逃走劇は、不意に終幕を迎える。
「どうしたんだ……? 追ってこない?」
山肌に囲まれた谷間の様な道に差し掛かった時、ケンは違和感を覚える。しつこいほどに追跡してきた飛竜が彼らの視線の先に降り立ち、鋭い眼光を送っている。しかししばらくした後、飛竜はどこかへと飛び去ってしまった。
ルリを地面に降ろすと、二人は生き抜いた喜びを分かち合う。興奮した面持ちで道を下っていくと、やけに小枝の多い道に出る。乾いた細長いものが踏み折れる音を響かせ、二人は進んで行くと、突如目の間が開ける。それと同時に、ルリの表情は真っ青になった。
「ケンさん……」
広大な“白い”広場に目を奪われていたケンは、ルリに袖を引かれて我に返る。
「どうしたの? 顔色悪いよ? また体調悪い?」
「違います……それよりもっと大変なことが……ここ、竜の巣です……!」
何がそこまでルリを恐怖させているのか、ケンはいまいち理解できない様子だった。
「前に言いましたよね? 飛竜が小さく見えるぐらいの竜がいると。この一帯、その縄張りです……!」
ケンはしゃがみ、足もとの白い枝を手に取り、驚愕する。それは何かの動物の骨だった。つまり、彼の見える限り全て屍が積み上げられたことによる白だったのだ。ケンもようやく自身の置かれた状況に気が付いたのか、表情が凍り付く。
「戻ろう!」
「ダメです! 戻ったら飛竜が! あれは竜の領域を恐れているだけで、戻ったらまた襲われます!」
進めば竜、戻れば飛竜、絵に描いたような危機的状況。谷間に響く不気味な風の音が、より一層恐怖心を煽る。
「幸い、この巣の主は今不在のようです……なら、進みましょう……!」
正気を疑うその言葉に、ケンはルリの顔を見る。冷汗が流れ震えている彼女だが、正気は失っていない。ケンは不本意ながらも頷く。
「なるべく、中心から離れて進もう……」
慎重に足を運ぶ二人。時折脆くなった骨が潰され乾いた音が響く。その度に二人は動きを止め周囲を見渡す。この死の広場の先が下山の道に繋がっている。それだけを希望という名の杖にして進む。
「これだけの巣だったらさ……一体大きさはどれくらいか分かる?」
声を潜めルリに問うケン。ルリはしばらく全体を見渡していたが、やがて頭を振る。
「おそらく、50メートルは超えるかと……考えたくもありません」
「ははっ……そんだけでかいと、飛竜でもおやつ感覚で食べられちゃうな」
自分の冗談で笑うケン。その時、彼らが来た道の遥か奥から飛竜のけたたましい鳴き声が轟く。先程の威嚇のようなものとは違う、“何かと争っている”ような鳴き声。ビリビリと空気を伝う震動に合わせ、斜面を砂利が滑り落ちていく。二人は顔を見合わせ駆け出す。もはや踏みぬく骨の音など気にしていられない。
「ああっ……!」
ルリが骨につまずき転倒する。ケンが駆け寄ったとき、背後の山、その向こう側が昼間だというのに一瞬暗くなる。その後、耳をつんざく轟音と共に青白い光弾が空を駆け抜けていった。
「何あれぇ!?」
情けない声を上げるケン。ルリもその光景に視線を奪われ立ち尽くす。
「竜の息です……! 大気中のエーテルを体内で圧縮して一気に放出す――」
ルリの声が途切れる。大気を揺らす竜の息、その青白い閃光がエーテルに伝播し魔力に作用する。魔女にしか感知できないわずかなその揺らぎがルリに語り掛ける。それはまるで、旧知の友の呼びかけのような、郷愁の感情を揺さぶるものだった。
「ロタ……?」
不意に口から飛び出したその名前……誰の名か一切見当もつかないそれにルリは困惑する。全てを忘れ山の向こう側の巨大な気配にただ意識を奪われていた。
「ルリちゃん……? どうしたの?」
ケンが自身の腕を掴むのを感じ、ルリは我に返る。
「すみません、少し――いえ、それよりも早くここを離れましょう……!」
その言葉に、ケンは不安を抱きつつも頷く。そしてルリを抱き上げると、足が千切れんばかりの早さで駆け出す。背後の戦いはいつ終わるのか? 終わったら戻ってくるのか? 着実に近づいてくる死の影に追われ、ケンは死に物狂いになっていた。
駆け抜ける足元はいつしか“いつもの”山肌へと変わり、それは二人が死の広場から無事生還したことを意味していた。ルリを下ろすとその場に腰を着き荒い息を整えるケン。そんな彼にルリは鞄から水筒を取り出し手渡そうとする。すると背後の広場から突風が吹きすさび、何か巨大な物が着地するような地鳴りが響いた。
「ダメ! ダメ! ダ……メッッッ!!!」
その様子を伺いに行こうとするケンを、ルリは鬼の形相で阻止する。何も言い返せずにケンは肩をすくめた。
その後二人は山道を下って行く。登りの時とは正反対で、徐々に色づいていく景色にどこか安心感すら抱いていた。
「山を挟んでこんなにも環境が違うものなのかな?」
「いえ、この山は特に魔力の乱れによる影響を受けていましたから……。珍しい方だと思いますよ」
見慣れない植物に興味を示すケン。ルリもまんざらではない様子で、時折足を止めては採取を行い鞄へとしまい込んでいた。
「この森を抜けてしばらく行けば、やっとハバラシティか……」
「私たち、頑張りましたよね……?」
力強く頷くケン。過酷な状況を乗り越えたという経験は、彼らに成功という名の勲章を与え、更なる活力をもたらした。
「リノエ、さんだったっけ……。いっぱい聞きたい事あるんだ……」
「そうですね……あっ!」
ルリが何かを発見する。ケンも同時にそれを確認し、安堵する。
「道だ!」
アスファルトで舗装された道。廃研究所へ伸びていたそれとは違い、荒れていないものだ。二人は力強くハバラ・シティへ歩みを進めていった。




