上が決めて、下が壊れる。いつものことだが、今回は壊させない⑤
会議室。
戸波さんがほうじ茶を淹れていた。いつもの光景だ。ただし、戸波さんの笑顔がない。20年勤務のベテランが、三回目の真剣な顔をしている。いや、四回目か。
「上層部の決定です。レベル5の承認済み」
「覆せないんですか」
「通常の手続きでは。レベル5の決定は最終決定です」
「通常じゃない手続きは?」
戸波さんが一瞬だけ目を伏せた。
「……一つだけあります」
「教えてください」
「現場からの緊急異議申し立て。管理者が、管理対象の変位個体の安全に関する重大な懸念を根拠に、配置変更の一時停止を上層部に直接申し立てる制度。ネビュラスの就業規則第4812条に記載されています」
「そんな条文があるんですか」
「100年前に一度だけ使われた記録があります」
「100年前。使った人はどうなりました?」
「申し立ては受理され、配置変更は一時停止されました。ただし、その管理者は三日後に辞職しています」
「辞職? 退職届が通ったんですか?」
「緊急異議申し立てを行った管理者には、特例として即時退職の権利が与えられます。臨界点実績は不問」
つまり、緊急異議申し立てを行えば、分散移管を止められるかもしれないが、同時に退職の切符も手に入る。100年前の管理者は、申し立てで配置変更を止めた後、退職の切符を使って去った。
「止められても、申し立てた本人がいなくなったら意味がないんじゃ……」
「100年前のケースでは、申し立てによる一時停止の間に状況が変わり、結果的に配置変更は撤回されました。管理者が辞めた後も、その判断は残った」
「状況が変わった、というのは?」
「対象の変位個体が、自力で問題を解決したんです。管理者がいなくても」
自力で。
「戸波さん」
「はい」
「俺がこの申し立てをしたら、退職の権利が発生しますね」
「ええ」
「でも、退職するつもりはありません」
「……分かっています」
「分かってるなら、手続きを教えてください」
戸波さんが、初めて泣きそうな顔をした。
泣きそうだが、泣かなかった。代わりに、ほうじ茶を一口飲み、深呼吸して、言った。
「端末から、就業規則第4812条の申立フォームにアクセスできます。申立理由を記入し、管理対象の安全に関する根拠を添付して、送信してください。受理されれば、上層部が審議を行い、その間は配置変更が一時停止されます」
「審議にはどのくらいかかりますか」
「通常なら7~10営業日ですが……緊急異議申し立ての場合は48時間以内に回答が出ます」
48時間。移管予定日は22日。今日は16日。六日ある。48時間以内に回答が出るなら、間に合う。
「やります」
「灰嶋くん」
「はい」
「申立理由は、何を書きますか」
「全部書きます。臨界点で五人が連携して対応した実績。巡回抽出で全員の数値を維持した実績。セラの空間接続、メルトの凍結補強、ノクスの痛み忘却、カイムの早期警戒。五人がここにいるから機能するシステムだということ。バラバラにしたら、一体ごとの危機対応能力が下がること」
「データは?」
「全部あります。日報に書いてます。毎日」
毎日書いた日報が、ここで効く。自動返信で「転職先は存在しません」「生存を推奨します」と煽られ続けた日報が、根拠資料になる。
「戸波さん、一つお願いがあります」
「なんですか」
「この申し立て、上に出す前に、彼女たちに話してもいいですか」
「……彼女たちに?」
「分散移管のこと。まだ伝えてないので」
戸波さんが少し考えてから、頷いた。
「灰嶋くんの判断に任せます」




