午前九時、地下117階の管理棟に、地獄が出勤してきた⑥
ドアを開けた。
ラグナが部屋の隅で膝を抱えて泣いていた。臨界点の前夜と同じ姿だ。
ただし、一つだけ違うことがある。
ラグナの影が、ラグナの形をしていなかった。
非常灯の薄緑色の光が作るラグナの影は、少女ではなく、四つの脚で蹲る獣の形をしていた。背中から結晶のような突起が伸びている。影の中で、その結晶が脈動するように点滅していた。
影だけではない。ラグナの肩に、うっすらと紋様が浮かんでいた。服の上から透けて見える、赤紫色の模様。結晶の構造を思わせるフラクタル紋様が、肌の下で蠢いている。
第二形態。人型制御の綻びが、兆候の段階を超えて、身体に現れ始めている。
「つかさ……」
ラグナが顔を上げた。目は普段の色だ。しかし、涙と一緒に頬を伝っているものが、水ではなかった。透明ではなく、微かに赤い。結晶化した涙が、頬の上で砕けて粉になっている。
感情の結晶化。ラグナの本質の能力だ。制限されているはずの能力が、漏れ始めている。
「こわい。つかさ、こわい。なかのやつが、すごいぐるぐるして、出てこようとしてる」
「ラグナ、俺の声聞こえるか」
「きこえる……でも、つかさの声もぐるぐるする。つかさの声が、なんか色になって見える」
声が色になって見える。共感覚。ラグナの知覚が変容し始めている。感情だけでなく、あらゆる感覚が結晶化しかけている。
抽出室に連れて行く時間はない。今のラグナを歩かせたら、廊下が終わる。
「ラグナ。走ろう」
「走れない……立てない……」
「立てなくていい。じゃあ、別のことをする」
何をする。走れない。装置もない。部屋の中で、泣いている子供を前に、できることは何だ。
考えろ。前回は走って解決した。走ることが抽出であり、走ることがラグナの感情を安定させた。走れないなら、別の手段で感情を安定させるしかない。
人型制御は、個体の精神状態と連動する。感情が安定すれば、制御も安定する。
ラグナが一番安定するのは、いつだ。
走っている時。
笑っている時。
誰かがそばにいる時。
笑わせる。泣いている子供を、笑わせる。
……俺にそんな芸当ができるのか。人を笑わせた経験なんて、ほぼない。この地下に来てからの一ヶ月、笑いを取ったことは一度もない。取ろうとしたこともない。
しかし。
「ラグナ」
「……なに」
「俺の査察ボーナス、いくらだったか知ってるか」
「……しらない」
「50ポイント」
「……」
「命懸けで臨界点止めて、ガムテープで防護スーツ直して、通路ぶっ壊して、修繕依頼を148ページ書いて。その対価が50ポイント。チョコ5個分だ」
「……」
「しかもそのチョコ5個分は、全部ノクスに渡る」
「……ぷ」
笑った。
小さく、微かに、しかし確実に、ラグナが笑った。
「つかさ、かわいそう……」
「笑うところじゃないです」
「だって、お給料のチョコ、ぜんぶノクスに持ってかれるんでしょ……あはっ……あはははっ!」
笑い声。ラグナの笑い声。部屋が揺れた。床にひびが入った。
しかし同時に、肩の紋様が薄くなった。結晶化した涙が、普通の涙に戻り始めた。影が、揺らぎながらも、少女の輪郭に近づいていく。
「あたしも、チョコほしい」
「来月から三個です。ノクスに二個取られるので、残り一個をセラとメルトとラグナとカイムで分けます」
「四人で一個!?」
「四分の一個です」
「ちっちゃ!」
笑っている。泣きながら、笑っている。前回の臨界点と同じだ。ラグナは泣きながら笑える子だ。この子の感情は、悲しみと喜びが同居できる。
端末を確認する。ラグナのエネルギー値:121%……119%……117%。
笑っている間に、下がっている。感情が安定し、人型制御が持ち直している。内側のエネルギーが「破壊」ではなく「歓喜」に変換されている。歓喜のエネルギーは拡散するが、破壊の鋭さがない。
「ラグナ、立てるか?」
「……うん、ちょっとだけ」
「抽出室まで歩こう。ゆっくりでいい」
ラグナの手を取った。小さな手。熱い。前回ほどではないが、内側のエネルギーが手のひらを通じて伝わってくる。
「つかさ」
「ん?」
「チョコ四分の一じゃなくて、半分にして」
「交渉は抽出が終わってから」
「えー」
世界の危機の最中にチョコの配分を交渉する10歳。ノクスといい勝負だ。
しかし、この軽口が出る限り、ラグナは大丈夫だ。




