深層は、ゆっくりと這い上がってくる②
査察の準備を始めた。しかし、その最中に別の異変が起きた。
午後の巡回中。メルトの部屋でいつものようにノートのやり取りをしていた時だ。
メルトが突然、書く手を止めた。
顔を上げ、天井を見る。無表情のまま。しかし、目が大きく見開かれている。
「メルト?」
メルトが口を開いた。
声が凍る。いつものことだ。しかし、今回は結晶の落ち方が違った。
結晶が落ちない。
凍った声が、空中に浮いたまま停止した。淡い青色の結晶が、テーブルの上でゆっくりと回転している。重力を無視して。
「……これは」
メルトが素早くノートに書いた。
『いつもと違う。声が落ちない……空間の重力が歪んでる。』
重力の歪み。セラの能力に似ている。しかし、セラは今自分の部屋にいるはずだ。
端末が鳴った。
<異常検知:第七区画 重力異常>
<重力値が局所的に変動しています。原因を調査中。>
重力異常。この区画の中で、局所的に重力が変動している。
「メルトの部屋だけか?」
メルトがノートに書いた。
『分からない。でも、さっきからペンが重い。机に押しつけられる感じがする。』
上向きの重力と下向きの重力が混在している。凍った声は浮き上がり、ペンは重くなる。
廊下に出た。蛍光灯が普段と違う角度で揺れている。壁に貼った掲示物が、一枚だけ逆さまになっていた。画鋲ごと180度回転している。
端末を操作し、区画全体のセンサーデータを呼び出す。
<重力異常発生箇所:区画中央部(リビングスペース付近)>
<原因:不明>
<推定発生源:下層>
下層。また、下からだ。
リビングスペースに急いだ。
ソファの上で、ノクスが毛布ごと浮いていた。
「……なに、これ」
ノクスの身体が、ソファから30センチほど浮いている。毛布に包まれたまま、ゆっくりと回転している。
「ノクス、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない。めんどい。降ろして」
降ろすも何も、浮いている理由が分からない。
セラが部屋から飛び出してきた。
「つかさ! なにこれ、空間が――」
セラが立ち止まった。目を見開いている。
「これ、あたしのじゃない。あたしが歪めたんじゃない。下から来てる」
「下から?」
「うん。下の層から、空間をねじる力が上がってきてる。あたしの力と似てるけど、違う。もっと大きくて、もっと乱暴」
深層からの干渉。共鳴現象とは違う。今度は直接的に空間が歪められている。
ラグナが走ってきた。走るたびに床が揺れるのはいつものことだが、今日は揺れ方がおかしい。床がたわんでいる。水面のように波打っている。
「つかさ! 床がぐにゃぐにゃ!」
「走るな! 床が安定してない!」
カイムがリビングの入口に立っていた。いつもの穏やかな微笑みはなく、目を閉じて何かに耳を澄ませている。
「……聞こえる」
「何が?」
「声。下から。呼んでる」
カイムが目を開けた。紫がかった瞳が、まっすぐに俺を見た。
「司くん。来る。一ヶ月って言ったけど、早まった」
「何が来る」
「分からない。でも、深層の封印が、一つ緩んだ」
封印が緩んだ。
端末が鳴った。今度は警報だ。
<緊急警報>
<深層層・封印区画D-07より、エネルギー漏洩を検知>
<漏洩規模:中程度>
<影響範囲:第六~第八地下区画>
<全管理者は待機してください>
<上層部より指示があるまで、通常業務を継続してください>
通常業務を継続。床がぐにゃぐにゃなのに通常業務を継続しろと言うのか。
「戸波さん!」
端末で戸波さんに連絡する。
「読みました。深層のD-07区画ですか……」
「D-07って何ですか」
「深層の封印区画のひとつです。そこに何が封印されているかは、僕の閲覧権限では見られません」
「見られないんですか」
「閲覧制限です」
「また閲覧制限」
「この組織、閲覧制限が多いんですよ。20年やってても、見られないものだらけです」
「見られないものが上がってきてるんですけど」
「ですよねぇ」
その「ですよねぇ」を聞くのは何度目だ。
「とりあえず、指示を待ちましょう。上が対応するはずです」
「7~10営業日ですか」
「いや、深層の封印漏洩は優先度が高いので、もう少し早いはずです」
「どのくらい」
「3~5営業日くらいかな」
3~5営業日。来週の水曜から金曜。カイムが「来週の金曜にいいことがある」と言っていた。いいことの定義がこの組織基準でなければいいが。
30分後、重力異常は収まった。
ノクスはソファに着地し、不機嫌そうに毛布を被り直した。床のたわみも消えた。メルトの凍った声の結晶は、重力が戻ると同時にテーブルの上に落ちて砕けた。
一時的な現象だった。しかし、【深層】からの干渉が、物理的に区画に影響を及ぼすようになっている。前回は共鳴現象でラグナのエネルギーが上がっただけだった。今回は重力が歪んだ。次は何が起きる。
端末に状況をまとめ、戸波さんに送った。
返信。
<報告ありがとうございます。上層部に転送しました。査察は予定通り月曜日に実施されます。>
深層から何かが這い上がってきているのに、査察は予定通り。
この組織の優先順位は相変わらずだ。




