臨界点の翌日は、修繕依頼と反省会と、少しだけ穏やかな午後①
四月十三日。木曜日。
臨界点の翌日。
驚くべきことに、カイムの予言通り、泣いていなかった。
朝の端末確認。
<ノクス:エネルギー値 93%(安全圏)>
<セラ:エネルギー値 96%(安全圏)>
<メルト:エネルギー値 89%(安全圏)>
<ラグナ:エネルギー値 91%(安全圏)>
<カイム:エネルギー値 95%(安全圏)>
全員、安全圏。
こんな朝は初めてだった。五人全員が安全圏に収まっている。通常、ラグナは蓄積速度が速いため朝の時点で100%を超えていることが多い。しかし昨日の大放出が効いたのか、91%。余裕がある。
平和な朝だ。
平和すぎて逆に不安になるのは、この職場に毒されている証拠だ。
朝の巡回に向かう。新品の防護スーツに袖を通す。ファスナーが動く。背中が閉まる。こんな当たり前のことに感動する自分が情けないが、ガムテープの日々を思えば、ファスナーは文明の象徴だ。
ノクスの部屋。
「ノクス、生存確認です」
「……いきてる」
いつもの返事。いつものことだが、今日はそれだけで安心する。
「体調はどうですか」
「ふつう。下のうるさいの、少しおさまった」
深層からの圧力が弱まっている。ラグナの臨界点が解消されたことで、共鳴現象も収まったのかもしれない。
「チョコ」
「先月の分はもう渡しました。来月まで待ってください」
「…………」
無言。金色の瞳が毛布の隙間からこちらを睨んでいる。
「来月になったら二個渡します。約束です」
「……二個半」
「二個」
「二個と、銀紙」
銀紙?
「銀紙がほしいんですか」
「……べつに。捨てるなら、ちょうだいって言ってるだけ」
チョコの銀紙を集めている忘却の魔王。目的は不明。しかし害はない。
「分かりました。銀紙は今後全部取っておきます」
「……ふーん」
満足そうに毛布を被った。交渉成立。
セラの部屋。
「つかさ! おはよ!」
いつもの笑顔。いつもの元気。空間の歪みは――ない。珍しい。
「今日、すごく調子いい!」
「空間の制御は?」
「九割!」
九割。セラの自己申告で九割は、過去最高だ。
「昨日の空間接続、疲れませんでしたか」
「うーん、ちょっとだけ。でも、あれができてよかった。ラグナのために使えたから」
セラは笑った。今日は空間が歪まなかった。
「あたしの力、いつもは壊すだけだって思ってた。でも昨日、つなげることにも使えたんだなって。ちょっとうれしい」
壊す力が、繋ぐ力にもなる。それを教えたのは俺ではなく、セラ自身だ。
「次も頼むかもしれません」
「まかせて! 壁に穴を開けることと、空間をつなげること、どっちも得意!」
どっちも大惨事の可能性を含んでいるが、頼もしいことは確かだ。
メルトの部屋。ドアの下からノートが出てきた。
『おはよう。喉、まだ少し痛い。でも大丈夫。ノート、届いたんだね。ありがとう。』
「10冊あります。当分は大丈夫です」
ノートが引っ込み、新しいページが出てきた。
『10冊。わたしの声の100日分くらい。ありがとう。戸波さんにも。』
声の100日分。一冊で10日。メルトにとって、ノートは日数で数えるものなのだ。
『つかさ。昨日のこと。』
「はい」
『わたしが声を出したのは、自分のためじゃなくて、ラグナのためだった。声を出すと凍る。凍ると喉が痛い。でも、あの時は出したかった。ラグナを止めるために。』
「メルトの判断は正しかったです。通路の補強がなかったら、走り切れなかった」
『ありがとう。でも、次は声を出さなくていい方法も考えたい。喉が痛いのは、やっぱりイヤだから。』
メルトらしい。感情に流されず、次の改善策を考えている。
「一緒に考えましょう」
『うん。』
ラグナの部屋。
ドアを開けると、ラグナがベッドの上に座っていた。昨日までの不安な表情ではなく、いつもの笑顔。ただ、少しだけ照れくさそうな顔をしている。
「……おはよ、つかさ」
「おはよう。体調は?」
「いい。おなかのぐるぐる、なくなった」
安全圏。91%。ぐるぐるがなくなった。よかった。
「つかさ」
「ん?」
「きのう、ありがと」
「いえ。走っただけです」
「走っただけじゃないよ」
ラグナが俺の目をじっと見た。
「前のひとたちは、走ってくれなかった。みんな、装置で止めようとした。でも装置じゃ止まらなくて、それで、みんないなくなった。佐久間さんだけが走ってくれた。そして、つかさも」
「……佐久間さんのこと、覚えてるんだな」
「覚えてるよ。佐久間さんは、あたしと一緒に走って、止めてくれた。でもそのあと、ずっと怖がってた。あたしのこと。走ってくれたけど、そのあとは近づかなくなった」
一度目の臨界点を乗り越えても、恐怖は消えない。佐久間さんは生き延びた。しかし、ラグナの暴走を目の当たりにした恐怖が、その後の関係を変えてしまった。
「つかさは?」
「俺は……というと?」
「怖い? あたしのこと」
正直に答える。俺にはそれしかできない。
「怖いよ。昨日も怖かった」
ラグナの表情が曇りかけた。
「でも、怖いから離れるかって言うと、それは別の話だ」
「……べつのはなし?」
「怖くても、お前の手は離さない」
ラグナが黙った。しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……つかさ、やっぱりへんなひとだね」
「よく言われます」
「でも、へんなひとのほうが、いい」
ラグナが笑った。
床がほんの少しだけ揺れた。
いつもの、日常の揺れだった。
カイムの部屋。
「おはよう、司くん。笑ってるね」
「笑ってますか?」
「うん。昨日の予言、当たったでしょ?」
「当たりました」
「よかった。はずれてたら恥ずかしかったから」
境界の魔法少女が予言の的中を気にしているのは、なんだか微笑ましかった。
「カイム、ひとつ訊いていいですか」
「なに?」
「深層のこと。共鳴現象が臨界点を引き起こしたとしたら、今後も同じことが起きる可能性はありますか」
カイムの目が、一瞬だけ遠くなった。未来を見ているような目だ。
「……うん。あるよ。でも、すぐじゃない。しばらくは静かだと思う」
「しばらくとは」
「一ヶ月くらい。でも、その先のことは……ちょっとぼやけてて見えない」
一ヶ月の猶予。その間に、深層の共鳴現象について情報を集め、対策を考える必要がある。
「もうひとつ。佐久間さんが第七区画で死んだ原因は、臨界点ですか」
カイムは少し黙ってから、首を横に振った。
「臨界点じゃないよ。佐久間さんは、臨界点には強かった。走れたから。でも……」
「でも?」
「深層から来たものには、走っても勝てなかった」
深層から来たもの。
「それは、変位個体ですか」
「分からない。わたしにも見えなかったの。佐久間さんがいなくなった日のこと、わたしの目には映らなかった。時間の隙間に、何かがいたんだと思う。でも、それが何かは……」
カイムの目に、微かな不安が浮かんだ。未来が見える少女が、見えないものに怯えている。
「……司くん、気をつけてね。一ヶ月、静かだと思う。でも、その先は……わたしにも分からないから」
「分かりました」
「分かった、って言えるところが、司くんの強いところだと思う。分からないことを分かったって言える人は、ちゃんと怖がれる人だから」
褒められているのか分析されているのか、よく分からない。しかし、カイムの言葉には不思議な重みがある。過去と未来の境界を歩く少女は、時間の両側から人間を見ているのかもしれない。
「一ヶ月、頑張ります」
「うん。頑張って。明日の司くんも、明後日の司くんも、頑張ってたよ」
未来形で応援される管理者は、たぶん世界で俺だけだ。




