臨界点――走れ、管理者⑤
夕方。事務室。
戸波さんが来た。
「灰嶋くん、報告書を読みました。臨界点、鎮圧成功ですね」
「はい」
「第一段階での鎮圧。お見事です。新人で第一段階鎮圧は、記録を遡っても三人目ですよ」
「走っただけですけど」
「走っただけで臨界点を止めた人は、佐久間さん以来です」
戸波さんは微笑んだ。いつもの微笑みだが、目の奥に、少しだけ光があった。20年ぶりかもしれない。
「あと、総務課からノートの補充が届きました。10冊」
「え、三営業日の期限はまだですが」
「僕から催促しました。『メルトさんのノートがなくなると区画の運営に支障が出る。支障が出ると臨界点対応に影響する。影響すると社内報に載る』と伝えたら、すぐ動いてくれました」
社内報に載る、が効くのか。この組織の行動原理が少し見えた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。あと、防護スーツの新品も手配しておきましたので。ファスナーが壊れていないやつです」
「本当ですか」
「ええ。ガムテープで臨界点を乗り切った前例が二件になりましたからね。さすがに上にも通りやすくなりました」
母数が増えた。ガムテープ臨界点対応、成功率100%、母数2。
相変わらず統計的には参考にならないが、新しいスーツがもらえるなら何でもいい。
端末に業務日誌を入力した。
<業務日誌 50億2025年4月12日 灰嶋司>
<本日の業務内容:臨界点対応>
<結果:第一段階で鎮圧成功。ラグナのエネルギー値を152%から88%に低減。安全圏に復帰。>
<使用手段:管理者が変位個体と並走し、運動方式による緊急抽出を実施。セラの空間接続による通路延長、メルトの凍結能力による通路補強を併用。>
<被害:第七区画運動スペース大破、隣接区画通路一部損壊、防護スーツ全損、ガムテープ三枚消費。>
<所感:走ってよかった>
自動返信。
<鎮圧成功おめでとうございます。退職届の提出に必要な臨界点生存実績が1/3になりました。残り2回です。>
退職のことはもう少し後でいい。
今は――チョコの在庫を確認しなければ。残り半個。来月の補充まであと十八日。
ノクスとの交渉が待っている。それはそれで、命懸けの仕事だ。
でも、まあ。
今日のところは、生きている。
明日も、たぶん、生きている。
カイムが笑ってたって言ってたから、明日の俺は、たぶん笑っている。
なら、それでいい。
人類最後のブラック企業の日常は、今日も続く。




