臨界点――走れ、管理者④
通路の惨状を確認した。
第七区画の運動スペース:照明全滅、床の70%が損壊、壁に人型の凹み三箇所、天井に亀裂多数。
セラが繋いだ隣の区画の通路:床の30%が損壊、壁面のメルトの氷の補強材が残存。
修繕依頼。
今回ばかりは148ページの申請書を全部書く必要がありそうだ。
「つかさ」
セラが近づいてきた。空間の裂け目はもう閉じている。
「すごかったね。ラグナと走るなんて」
「すごくない。走っただけです」
「走っただけって、あの中を? あたし、外から見てたけど、つかさの防護スーツ、ぼろぼろだよ」
見下ろすと、確かにぼろぼろだった。背中のガムテープは全部剥がれ、スーツの表面は振動による摩耗で毛羽立っている。型落ち三世代前のスーツに、これ以上の耐久性を求めるのは酷だ。
メルトが来た。ノートを掲げる。
『声、出しすぎた。しばらく喉が痛い。氷が内側にもできたかも。』
「大丈夫ですか?」
『大丈夫。声が出なくなるのはいつものこと。今日はちょっと多く出しただけ。』
強がりなのか本心なのか、無表情のメルトからは読み取れない。しかし、ノートを持つ手が少し震えていた。
「ありがとう、メルト。助かった」
『別に。ノートの補充のほうが助かる。』
そうだった。総務課に殴り込みに行く約束を忘れるところだった。
「ラグナー!」
セラがラグナに駆け寄った。ラグナはまだ息を切らしていたが、セラの姿を見て笑顔になった。
「セラ! あたし、走った!」
「うん、見てた! すっごい速かった!」
「つかさもね! つかさもあたしと一緒に走ったの!」
「うん、知ってる! つかさ、遅かったけどね!」
「おっそかったー!」
二人して笑っている。セラが笑うと空間が歪み、ラグナが笑うと床が揺れる。笑顔の併発は建物にとって最悪の組み合わせだが、今日に限っては許す。
リビングに戻ると、ノクスが毛布の中から顔を出した。
「……おわった?」
「終わりました」
「うるさかった」
「すみません」
「……ラグナ、だいじょぶ?」
「大丈夫です。安全圏に戻りました」
ノクスは小さく頷いて、また毛布を被った。
「……あたしのチョコ、半分だったぶん、来月は二個ちょうだい」
ここぞとばかりに交渉してくる【忘却の魔王】。しかし、今日は許す。
「検討します」
「検討じゃなくて確約して」
「善処します」
「善処じゃなくて――」
「ノクス」
「……なに」
「ありがとう。痛みを忘れさせてくれるって言ってくれたこと」
毛布が少し動いた。
「……べつに。言っただけ。使わなかったし」
「使わなくて済んだのは、みんなのおかげです」
毛布の下で、小さな声が聞こえた。
「……よかったね」
聞こえないふりをした。二回目だ。
カイムがソファから立ち上がり、近づいてきた。
「司くん」
「はい」
「黄色、役に立ったでしょ?」
「……立ちました。ありがとうございます」
「チョコの包装紙とは思わなかったけど」
カイムが笑った。
「わたしが見た未来では、司くんは黄色い何かをラグナに見せてた。何かまではわからなかったけど、司くんならちゃんと見つけるって思ってたよ」
「見つけたというか、咄嗟に出ただけです」
「咄嗟に出たものが正解だったんだから、それでいいんだよ」
カイムは手を振って、自分の部屋に戻っていった。
途中で振り返って、言った。
「ちなみに、明日の司くん、泣いてなかったよ。笑ってた」
今度の予言は、信じてもいい気がした。




