3 夜の嵐山
地面に顔面から倒れ込んでしまい、俺は間抜けな声を上げた。
スラックスに付いた砂埃を払って立ち上がる。
顔を上げると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「どこだ、ここ……!?」
俺が倒れていたのは、どこかの日本庭園の中だった。
辺りは完全に暗くなっており、大きな黒い池に見事な満月が映っている。雨上がりなのか、地面は少しじっとりと湿っていた。
後ろを振り返ると、大きな和風の建物が聳え立っている。俺はこの建物に見覚えがあった。
間違いない、ここは嵐山にある天龍寺だ。
あの鏡からワープしてきたことは明白だが、辺りにそれらしき鏡は見当たらない。
後から考えると、あの鏡には何らかの細工がかかっていたのだろう。俺は運悪くその鏡にちょっかいを出してしまい、こうして夜中の天龍寺に迷い込んでしまったという訳だ。
とりあえず、竹林の小路を抜ければ街に出られる筈だ。そこから嵐電に乗れば、三十分もすれば家に帰り着くことが出来るだろう。
出来るだけ早く帰らなければ、家の妖怪達にも心配をかけてしまう。厄介事に巻き込まれないうちにトンズラこかせて頂こう。
俺は交通系ICカードの残高を心配しつつ、竹林の小径を目指して歩き出した。
このときの俺は、自分がたった今巨大な罠に嵌められていることなどつゆ知らず、ただいつもと違う家路を急ぐ一方だった。
人っ子一人居ない天龍寺の境内を、足早に通り過ぎていく。
真夜中の寺は中々に不気味なものだが、何よりも恐ろしいのは、不法侵入で警察のお世話になる可能性があることだった。学校に置いてある鏡に吸い込まれて、真夜中の世界遺産に迷い込んじゃいました、という男子高校生の発言を信じる警察官がいるとは思えない。
暫く歩いて竹林の小路に差し掛かったところで、俺はある違和感に気がついた。
いくら歩いたところで、竹林を抜けられる気配がない。色々な方向に曲がりくねっている小路を迷走しているうちに、だんだん同じ場所を延々とぐるぐる回っているような気さえしてくる。スマホで地図アプリを起動しても、何故か俺はコンゴ民主共和国に居ることになっていて、この鉄屑は何の役にも立たなかった。
更に、辺りには濃い霧が立ち込めており、視界が悪いためほぼ手探りで歩みを進めなくてはならない。更に、六月初旬にしては異様に肌寒く、空気が薄いのかすぐに息切れを起こしてしまう。
出来るだけ早くここを立ち去りたいのだが、もう来た道も分からなくなっている。俺は途方に暮れてしまった。
完全に遭難だ。
もういっその事、道を外れて山を下りてみようか。
いや、ニホンザルやらイノシシやらが潜んでいるやもしれない夜の山に、半袖のカッターシャツに夏用のスラックスという軽装で立ち入るのは、いくら何でも流石に危険すぎる。
前後不覚のまま竹林の小路をただひたすらに彷徨っていると、道の先に何やら炎のようなものが揺らめいているのが見えてきた。
俺は一心にその光を追いかけ、先を急いだ。
光を追って歩いているうちに、その光は道の両脇に無数に立ち並んでいる石灯籠の明かりであることが分かった。
おかしい。俺が知っている竹林の小径には、こんな場所は無かった筈だ。
もしかすると、道に迷った末に立入禁止区域に来てしまったのだろうか。
しかし、今来た道を戻ってしまったら、もう二度とこの竹林から出られないような気がする。
俺はおちおち引き返すことも出来ずに歩き続けた。
すると、向こう側から提灯の明かりを下げた人影が現れた。
俺は最早補導されようが不法侵入で逮捕されようがこの際何でも良かったから、藁にもすがる思いで人影に向かって駆け寄っていった。
「あの、すみません!」
俺が声をかけると、人影は足を止めた。
「おや、こんな時間にどうされたのですか?」
俺が話しかけたのは、亜麻色の長髪を後ろで一つに束ねた、灰色の和服姿の男性だった。
辺りが暗いのと、編笠を目深に被っているのとで顔はよく見えなかったが、声色と立ち姿からして、そこまで年老いてはいないだろう。
「あの、嵐電の嵯峨嵐山駅まで行きたいんですけど、道を教えてもらえませんか?」
「ああ、道に迷ってしまったのですね。
もう遅いですし、麓まで私が送って差し上げましょう」
「え、いいんですか!?ありがとうございます!」
俺は親切な男性の後を追って歩き出した。
「あの、ここはどこなんですか?」
「竹林の小径を抜けて、常寂光寺を過ぎた辺りですよ」
「俺、いつの間にそんな所まで来てたんだ……」
ここにきて、自分の方向音痴具合に呆れそうになる。
「君はどうして、こんな夜更けに嵐山に?」
痛いところを突かれた。
どう弁明したら良いのだろう。正直に話したところで信じてもらえる筈もないし、もう適当に受け流しておくか。
「と、友達と肝試しに来て、そのまま逸れちゃって……」
「肝試しですか。好奇心があるのは良いことですが、そう易々と危険なことに首を突っ込むのは、褒められたことではありませんね」
「はい、すみません……」
友達と肝試しというのは、あまり上手い言い訳ではなかったかもしれない。
「君とお友達は、どこから来たのですか?」
「龍安寺の側にある学校からです」
「ああ、大雲中学校ですか。あそこの生徒さんは、昔から本当にやんちゃな子が多いですね」
俺は男性の言葉に小さな引っかかりを感じた。
今の時代に珍しい和服に編笠に提灯に、そして何より、京都府民なら誰もが知っている宗坂高校のことを、大雲中学校と言い間違えた訳。
今、全ての点が線で繋がった。
「……あの、すみません。もし間違っていたら、申し訳ないんですけど……貴方は、本当に俺と同じ存在なんですか?」
少し変わった俺の問いに、男性は足を止める。
「……君と同じ存在、とは?」
「……貴方はさっき、宗坂高校のことを、大雲中学校と言いましたよね。
大雲中学校は、宗坂高校の前身である旧制中学校の名前です。ご年配の方ならともかく、まだお若そうな貴方がこんな言い間違いをするのは、少しおかしいですよ」
中学受験の面接のために身につけた知識が、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。
「……何が言いたいのです?」
「……貴方、本当に生きている人間なんですか?」




