2 ちょっと変わった日常
今日も、学校に近付くにつれて、白いシャツにダークグレーのスラックスのチャリの数が増えていっている。金閣寺から龍安寺を通って仁和寺へと続く坂道の「きぬかけの路」に差し掛かる頃には、気付けば物凄い数の自転車が列を作っていた。
「よっ!矢幡、おはようさん!」
「西村!おはよう、今日も遅刻ギリギリだな」
チャイムが鳴り終わる寸前にどうにか敷地内に滑り込んだところで、後ろから話しかけてきたのは、クラスメイトの西村駿佑だ。
彼も俺と同じく、自転車で通学している生徒のうちの一人である。俺の住む衣笠街道町よりも遠方の、花園の辺りから通学しているらしく、彼の赤茶けた癖っ毛からは、毎朝滝のような汗が滴っている。
「お前がこないな時間に居るの珍しいな、寝坊したんか?」
「いや、寝坊じゃねえよ!」
「そうなん?めっちゃ寝不足って顔してるやん」
「え、何で分かるんだ?」
「『眠い』って顔に書いてあるで、そないなお化けみたいな顔色した奴やら中々おらへんわ。しかも分かりやすく瞼重そうにしてるし。
で、こないな時間まで何しとったん?」
「あー……えーっと……」
植え込みに引っかかっていた妖怪を助けていただなんて正直に言える訳もなく、俺は適当な嘘をついて誤魔化すことにした。
「……民家の生垣に、猫が引っかかって抜けなくなってたんだよ。そいつを引っ張り出してやってたら、この通り遅刻しそうになってさ……」
俺は「妖怪」を「猫」に変えてから事の顛末を話す。嘘をつくときは事実を織り交ぜると現実味を帯びて聞こえると、いつかのテレビ番組で言っていた。
「はあ!?お前な……。本当、矢幡って馬鹿がつく程のお人好しやな……」
「あはは、よく言われるよ……」
俺は肩を竦めてみせる。
俺は自他共に認める「馬鹿がつく程のお人好し」だ。
元々無鉄砲であまり後先のことを考えない性格に、頭より先に身体が動く癖という最悪の組み合わせ。大抵の場合は、困っている人を見ると、それが知らない相手だろうと人間じゃなかろうと、大した力もない癖に殆ど条件反射的にしゃしゃり出てきて、後になって自分の首を絞めるというパターンだ。西村を含む周りの人々からは、しょっちゅう呆れられている。
急ぎ足で一年B組の教室に上がると、何やら教室が騒がしいことに気がついた。
「おはよう、朝から何かあったのか?」
何やらせっせと机を動かしていたクラスメイトに問う。
「今日、一時間目と二時間目自習やって!皆で机くっ付けて大卓球大会や!」
「ホンマに!?うわ最高やん!」
西村が歓喜の声を上げる。
「これで全員揃ったし、早速対戦表作るで!」
「人数多いしダブルスでええかいな?」
「このクラス奇数やけど、どないすん?」
「お前卓球部やし一人でやってくれへん?ハンデ、ハンデ」
「つか、先公にバレたらどないすんねん!」
「そんなん廊下側のブラインド全閉めで、教室に鍵かけといたらええわ!」
「うーわっ、お前ヤバすぎやろ!」
「天才やん!」
教室はいつも通りの騒がしさだ。
彼らとは中等部の頃からの付き合いで、互いにすっかり気の置けない仲になっているのだ。
そして、宗坂高校の偏差値は七十六と非常に高いのだが、学校内は正に無法地帯で、一週間に一回は校舎のどこかしらが破壊されるくらいには治安が悪い。
更に、校則には「他校の制服、着ぐるみ、女装、下着、コスプレ、アルミホイル等での登校の禁止」や、「一輪車、三輪車、スケートボード、ローラースケート、スノーボード、ソリ、スキー板、ホッピング等の特殊な乗物での登校の禁止」、「生徒間でデモやボイコット等の大規模な集会を決行する場合は、必ず決行日の二週間前までに生徒課に届出を出すこと」など、とても校則とは思えないような文章が陳列されている。その中でも「マルチ商法、催眠商法等の悪質商法の禁止」と「校内での新興宗教、反政府組織、過激派組織等の設立禁止」は異彩を放っていた。
何が言いたいかって、常識ではとても考えられないような奇行に走る輩が、この学校にはごろごろ転がっているのだ。
俺は小学校の頃はクラスで一番勉強の出来る子供だったし、今よりはもっと活発でイタズラ好きな悪ガキだったと思う。
しかし、中学に入ってからはすっかり平々凡々とした生徒になってしまった。そりゃ、入学初日に地下足袋で登校した登山部や、一ヶ月で学校の試験管を三十本も破壊した化学部なんかに、面白さとパワフルさで敵う訳がない。勉強だって、殆ど滑り込みで合格した俺が目立った成績を残せる筈もなく、唯一の取り柄は無惨に散ったのだ。
とはいえ、少し変わった校風だが、非常にのびのびと過ごせる学校だ。ちょっと制服を着崩したり、放課後に買い食いをしたくらいでは、誰からも何も言われない。
俺はこの学校が気に入っていた。
「あー、卓球ホンマに楽しかったわー!」
「西村、敗者復活戦で大健闘だったな」
「お前こそ、足速いくせに意外と卓球苦手やったんやな」
「そりゃ、走るのと卓球じゃ勝手が違うだろ」
時刻は十九時五十五分、完全下校時刻の五分前。黒いリュックを背負った俺は、西村と共に駐輪場へと向かっていた。
帰宅部の俺達がこんな時間まで残っていた理由は、例の卓球大会が思いの外盛り上がってしまったからだ。
自習時間だけでは終わらなかった試合は、放課後まで延長されて、結局下校時刻ギリギリになるまで、クラス全員で卓球をしていた。結局、校門が閉まる限界まで延長しても試合は終わらず、明日の朝イチで敗者復活戦の決勝戦が行われることになっている。
特に卓球が得意な訳でも何でもない俺は、本戦でも敗者復活戦でも早々に敗退している。しかし、クラスメイトと馬鹿騒ぎして大笑いして、ときどき野次を飛ばしながら観戦する方が性に合っているのか、自分が試合に出ているときよりは、人の試合を眺めているときの方が楽しかった。
「あ、やばっ!」
「どないしたん?」
歩いているうちにふと、教室に数学の参考書を忘れてきたことを思い出した。
「ちょっと忘れ物!取りに行ってくるから、先帰ってて!」
「おー。ほな、また明日な!」
「うん、また!」
俺は踵を返し、教室を目指して走り出した。階段を駆け上がり、廊下を走って教室のドアに手をかける。
「良かった、まだ鍵閉まってなかった……」
自分の机の中から参考書を抜き取り、鞄に入れて教室を出る。早く戻らないと校門が閉まってしまう。
階段を降りようとしたところで、俺は妙なことに気がついた。
何か黒い影のようなものが、俺の身体を掠めていった。
反射的に影が向かっていった方向を見るが、そこには静寂が広がっているだけだった。
気のせいだと思い階段を降り始めると、踊り場に出たところで再び影が現れた。
その影は、低空飛行する燕のように猛スピードで視界を横切っていき、壁に取り付けられている鏡の中に吸い込まれていった。
鏡の前に立つ。
そこには、普段と何ら変わらない自分の姿が映っているだけだった。
「やっぱり気のせいだったのかな……。というか、こんな場所に鏡なんてあったのか……?」
そう呟いて鏡に触れる。
すると驚くべきことに、俺の指は鏡面を通り越して、鏡の向こう側へと突き抜けた。
「うわっ!?」
驚いた拍子にバランスを崩し、俺はそのまま鏡の中の世界へと飛び込んでしまった。




