1 妖がいっぱい
翌朝。
回らない頭をどうにか働かせて、何回かシャツのボタンを掛け違えながらも、どうにか着替えを終えて、部屋を出て危うい足取りで階段を降りた。
あの大騒ぎ以降、妙に目が冴えてしまい、結局一睡も出来なかった。お蔭でこっちは寝不足だ。
洗面所の鏡には、青白い顔色で目の下に濃い隈を作った、とてつもなく不健康そうな見慣れた顔が映っている。色素の薄い細い髪の毛が、所々おかしな方向に跳ねていた。
目を覚ますために顔に冷水を豪快に浴びせてから洗面所を出て、庭に面した長い廊下を歩く。
とてもじゃないが学生風情には勿体ない程に立派な池付きの日本庭園は、桜の時期を過ぎて、見事な新緑に包まれている。鮮やかな緑に良く映えた、陽の光で燦々と輝く古池が目に眩しい。
「おはよう……」
俺は寝起き特有の掠れ声で挨拶をし、大あくびをしながら居間の敷居を跨いだ。
鳳凰の装飾の付いた欄間に、どこぞの山々の水墨画の描かれた色褪せた襖に、床の間には謎の草書体の文字が書かれた掛け軸。広々とした居間は、人が八人くらい集まれば丁度良い広さなのだろうが、一人暮らしには少々身に余る。
「おはようございます、坊っちゃん。朝ごはん、出来ていますよ」
庭に面した縁側には、砂かけ婆がちょこんと腰掛けて、数匹のキジやら茶トラやらと戯れていた。彼女は毎朝こうして気まぐれにやって来る野良猫と戯れるのが日課なのだ。
彼女はいつも鮮やかな橙色の上等な着物を身に纏っており、真っ白な柔らかい髪は、簪で綺麗に纏められている。
砂かけ婆というと、世間一般の人々は、薄汚れた着物を着て、胡麻塩の頭を蓬々と乱した老婆を想像するだろう。しかし実際のところは、品の良い老婦人と表現する方が、彼女の出で立ちには合っている。
「きよ、今日も朝ごはんありがとう。本当、お蔭で毎朝助かってるよ……」
「いいのよ、宗兵衛の可愛い可愛い曾孫のためなんですから。毎朝元気な顔見せてくれたら、それで十分」
砂かけ婆の本名はきよといい、彼女は俺の母方の曾祖父である郭賀宗兵衛がまだ幼かった頃から、陰ながらその成長を見守ってきたらしく、曾孫である俺のこともいつも可愛がってくれている。朝早くから手間暇かけて美味しい朝食を作ってくれている彼女には、俺も頭が上がらない。
彼女から聞くところによると、曾祖父は陰陽師という怪しげな職に就いていたらしい。何でも、妖を祓うことを専門にしていたとか。
勿論、安倍晴明に然り、かつてはそのような職業が存在していたのかもしれないが、いかんせん曾祖父については未だに分かっていないことが多い。そもそも、どうにかして妖を祓う方法があるのかどうかも怪しいところだ。
彼が妖を見ることが出来たというのは知っているが、本当に妖祓いを仕事としていたのか、詐欺紛いの霊感商法を働いていたのかは、神のみぞ知る所である。
「ほらほら、喋ってないでさっさと食べちゃいなさい。学校、遅刻しますよ」
「うん、ありがとう!」
今日の朝食は、トーストとサラダと目玉焼きと、昨日の残り物のスープが少々。これらは毎朝砂かけ婆が用意してくれている。
俺は急ぎつつも味わって朝食を平らげ、洗面所に戻って歯を磨いてから、通学用の黒いリュックサックを背負って玄関に向かう。
「それじゃ、行ってきまーす!」
『行ってらっしゃーい……。』
見送りに来た妖怪達に暫しの別れを告げ、玄関扉を開けて外へと足を踏み出す。しっかりと戸締りをしてから、自転車のカゴに荷物を乗せて、力強く地面を蹴って漕ぎ出した。
俺が通っている私立宝徳大学附属宗坂高校は、京都市北区にある中高一貫の男子校だ。かの有名な龍安寺のある大雲山の中腹にあり、地理的には龍安寺を見下ろすような位置にある。
俺はそこの一年生で、毎日こうして自転車を飛ばして通っているのだ。
気付けば、高等部に進学してからかれこれ二ヶ月が経過していた。
時の流れは早いもので、段々過ごしやすい気候になってきたかと思えば、一息つく間もなく梅雨という不快な季節が姿を現した。自転車を走らせる間にも、俺の周りには噎せ返るような湿気と熱気が纏わりついており、ペダルを漕ぐ度に、頬や額から汗が飛び散るのが感じられた。
暫くチャリを走らせて西大路通に入った辺りで、俺は妙なものを見つけた。
とある民家の生垣から、動物の足が飛びだしている。茶色の毛皮に覆われていて、蹄が生えていることから、恐らく鹿等の偶蹄目の類だろう。
俺は好奇心からブレーキをかけて自転車を停める。置物かと思って試しに指で軽くつついてみると、バタバタと脚を暴れさせた為、俺は腰を抜かしてしまった。
「何だこれ、生きてるのか……?」
しかし、触れてみると表面は氷のように冷たく、どこか生気のない感じがする。
俺が困惑している間にも、蹄は俺の視界を行ったり来たりしている。
「……もしかして、植え込みに嵌って抜けなくなっちゃったのか?」
俺の質問に、蹄は頷くように縦に激しく動き、早く引っこ抜いてくれと言わんばかりに、脚をこちらに突き出してきている。
俺は時間が気になったが、このまま見捨てる訳にもいかずにその場に腰を下ろした。
「よし、すぐ引っこ抜いてやるから、大人しくしてろよ……」
俺は膝立ちになって脚を両手で恐る恐る掴み、ゆっくりと力をかけた。
しかし、何かに引っかかっているのか、いくら力を込めても中々抜けてくれない。
「よし、ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくれよ」
俺は体勢を変え、綱引きのような姿勢で思い切りそれを引っ張った。
すると、茂みが音を立てて揺れたかと思うと、毛むくじゃらの物体が勢いよく俺の方に倒れ込んできた。
「うわっ!って、何だ、こいつ……?」
毛玉は脚を地面に突き立て、大きく身体を震わせた。
出てきたのは、鹿の身体に竜の頭を持ち、鳳凰のような赤い羽根を生やした、猫くらいの大きさの動物だった。
俺はここで初めて、俺が引っ張り出した毛玉が妖であることに気がついたのだった。
毛玉は俺のことを一瞥すると、足元に擦り寄って「キュウ」と一鳴きし、どこか遠くへと走り去っていってしまった。
「もう植え込みに突っ込むんじゃないぞー!」
毛玉はもう豆粒のような大きさになってしまっている。俺の言葉が聞こえているのか聞こえてないのか、分かっているのか分かっていないのか。
「……こりゃ遅刻だな」
俺はため息混じりにチャリに跨り、勢いよく地面を蹴った。




