16 朝夷名
「おはよう!いただきます!」
制服のシャツのボタンを留めながら、ドタバタと階段を駆け下り、居間へと続く襖を派手に音を立てて開け放つ。そして、畳の上をスライディングしながら食卓に着いた。
「おはようございます、坊っちゃん。今日はお寝坊さんね」
縁側から砂かけ婆が顔を出す。
「先週から何かとバタバタしてて、うっかり目覚ましかけ忘れたんだよ!やばい、全力でチャリ飛ばさないと遅刻する!」
「ああ、そんなに慌てて食べたら喉に詰まらせますよ。ほらほら、少し落ち着いて」
きよに寝坊の理由を説明するのもそこそこに、俺は口の中にトーストを詰め込み始める。
「あのような大見得を切っておいて、早々に朝寝坊とは、陰陽師が聞いて呆れるな」
いつの間にかカルラも起きてきていたのか、部屋の片隅で胡座をかいて、朝飯にがっつく俺のことを呆れ顔で見つめていた。
朝礼の時間は八時五十分、現在時刻は八時二十分。移動にかかる時間は、どれだけ短縮したとしても二十五分だ。あと五分で家を出なくては本当に遅刻してしまう。西村のような遅刻常習犯は、一時間以上に上る遅刻でも何事も無かったかのように平気な顔をして入室してくるが、流石に俺にそこまでの度胸は無い。
俺は朝食をかき込み、大急ぎで歯を磨いて通学鞄を引ったくり、「行ってきます!」と叫んで、振り返ることなく外に飛び出した。
カゴに鞄を放り込み、鍵を開けて自転車に跨り地面を蹴る。カゴから持ち手がはみ出して、車輪に絡まりそうになっているのが気になったが、そんな事に気を取られている場合では無いと我に返り、そのままどんどんスピードを上げていった。
猛スピードで「きぬかけの路」を走り抜ける。
この時間帯になっても、多数のダークグレーの学ランが乗ったチャリが見られる。どれもかなりのスピードを出しており、競い合うように並走する様はさながら競輪のようだ。
どうにか校門が閉まる前に敷地内に滑り込み、駐輪場に自転車を停めて全力疾走で校舎に上がり込んだ。遅刻常習犯の西村の自転車が既に停められているのを見て、俺は本気で終わりを覚悟した。
階段を駆け上がり、息を切らしながら教室の扉を勢いよく開ける。
「お、おはようございます……!」
「おー!矢幡、おはようさん!ザビエルまだ来てへんで、良かったなあ」
てっきり教室に入るなり遅刻を咎められるものだとばかり思っていた俺は、西村の聞き慣れた声が響いたことに拍子抜けした。
幸いなことに、担任である日本史教師の中村先生は、まだ教室に到着していなかったらしい。先生が来ていないのをいいことに、クラスメイト達は雑談しながらフラフラと立ち歩いている。
因みに、「ザビエル」というのは、クラスメイト達の付けた中村先生のあだ名だ。確かにてっぺんハゲだし、おまけに髭も蓄えているが、もうちょっとマシなあだ名は無かったのだろうか。
「よ、良かった……。どうにか間に合った」
「いや、間に合ってへんわ!三分遅刻してるやんけ!」
「なあ頼む、ザビエルには黙っといてくれ!お前、今日日直だろ?学級日誌の記入、誤魔化しといてくれ!」
「うーん、ほなしゃーなしな」
その後間もなくザビエルこと中村先生が到着し、いつも通り誰もまともに話を聞いていない朝のホームルームが始まった。
そして時は過ぎ昼休み。
俺は購買でハンバーガーを買ってきて、そのまま中庭に向かっていた。今日は西村ともう一人、こちらもまたクラスメイトの山崎拓海と、中庭で昼食をとる約束をしているのだ。
「おっ、矢幡!お疲れ、ハンバーガー買うてきたん?」
中庭では既に西村と山崎が待ち構えていた。
「ああ、何とかな」
「ほな、早よ食べてまお!」
「そういえば、矢幡が遅刻って珍しいやん。何かあったん?」
山崎に聞かれて、俺はハンバーガーを飲み込んでから話し始める。
「いや、シンプルに寝坊……」
「へえー、昨日何時に寝たん?」
「夜中の二時。いつもは十一時半には寝てるんだけど……」
「へえー、毎朝何時に起きてるん?」
「七時半。八時間は寝とかないと、翌朝調子悪くなるんだよ」
「ほんまに?俺なんて五時間寝たら良い方やで。昨日なんて三時に寝たし」
「いや、それは遅すぎやろ!ほんで六時起きやろ、せやったら三時間しか寝てへんやん!」
西村の衝撃発言に、真面目な山崎がすかさずツッコんだ。
「せやで、一限目から四限目まで全部寝とったわ」
「ヤバすぎやろ!ちゃんとノート取ったん?」
「いや、全部白紙や……。
なあ二人とも、後でノート見してくれへん?」
「俺はかまわないけど……」
「俺もええけど、ちょっとは自分でノート取る努力もしろや。期末テストも近いんやし」
山崎のお小言に、西村は少しむくれた様子を見せた。
しかし、山崎は何だかんだ言って面倒見がいい奴だ。西村への説教も、きっと西村のことを思ってのことなのだろう。
「……あれ?あいつ何してるんやろ」
ふと、山崎が遠くの方を見て呟いた。
俺と西村も西村の目線を追うと、中庭の隅の方にある楠が目に止まった。
若々しい青い葉をつけた楠の木の下には、背の高い一人の生徒が立っていた。無論、男子生徒である。
よく目を凝らしてみると、彼は木の上の方に向かって何やら話しかけているようだった。
「何か、木に向かって必死に話しかけてるけど、鳥でも居るんかな?」
山崎は目を細めている。
「ああ、あいつ、E組の朝夷名やで。下の名前は……何やったっけ、カナメやったかカナトやったか……まあええか。
あいつ、ときどきちょっと変なことしてるらしいねん。何もあらへんとこに向かって話しかけとったり、いきなり何かに怯え始めたりとかな」
情報通の西村の話に、山崎は顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「……ああ、噂で聞いたことあるかもしれへんわ。
確か、太秦の方から来てる、背高くて数学好きな、めっちゃ足速い奴やろ?毎年、体育祭で矢幡とタメ張ってるよな」
確かに、俺と朝夷名は中等部の一年生の頃から、毎年体育祭でリレーのアンカーを任されている。互いに口に出しこそしなかったものの、互いのことをライバルとして意識している節はあった。
しかし、顔を合わせるのは一年に数回、それもトラックの上でだけだ。俺も朝夷名も、恐らく相手の下の名前もろくに覚えていない。
ただ、足の裏の全体をベタっと地面に着けるような不自然な歩き方だけは、妙に記憶に残っていた。




