10 地獄門
化け物の周りを飛び回っているソラは相変わらず防戦一方で、最初の頃と比べて息が荒くなっていることが伝わってきた。
更に、その白い頬と腕には、薄らとミミズの這ったような文様が現れており、彼女がそう長くは持たないであろうことを、如実に表していた。
「これ、受け取れ!」
太秦さんが走りながら俺に何かを差し出してきている。
片手でそれを受け取ると、思いの外ずっしりと重みがあり、それが彼が腰に差していた刀のうちの一つであることが分かった。カルラと戦う時に用いていた七星剣とは違い、中世から用いられている、何の変哲もない普通の日本刀だ。
「お前、武器も何も持ってねえだろ。気休め程度にしかなんねえかもしんねえけど、こんなナマクラでも、丸腰よりかはマシだ。持ってけ」
「ありがとうございます。あ、でも銃刀法……」
俺は再び脳内に「補導」の二文字が思い浮かび、刀を太秦さんに突き返そうか悩んだ。
「今更気にしてる場合か、真面目君よお!」
太秦さんに言われて何かが吹っ切れた俺は、腹を括って前を向いて、ただ走り続けた。
ソラの背中がだんだんと大きくなってくる。
太秦さんとソラが動けなくなる前に、あの化け物を何としてでも倒さなくてはならない。
今、この中で一番動けるのは間違いなく俺だ。俺は化け物に殆ど近寄っていないし、腕や手にもそれらしい痣は見当たらない。
嵐山で二人が俺を助けてくれたように、今度は俺が二人を助ける番だ。
ソラが化け物の脚を巧みに躱し、手に持った薙刀で、化け物の目玉を思い切り突く。ゼリーのような生々しい赤い目玉がプツリと弾け、中から血液とはまた違う、どす黒い赤紫色のグロテスクな液体が、噴水のように噴き出す。
化け物は絹を裂くような叫び声を上げて、八本の脚を大きく暴れさせた。そのうちの一本が、ソラの頭頂部に向かって、勢いよく振り下ろされる。
俺は肩で煙を切って車内を駆け抜け、化け物を目掛けて飛びかかる。ソラの身体を力いっぱい自分の方に引き寄せ、太秦さんが七星剣を使って化け物の脚を受け止めた。
「ソラ、大丈夫か!?」
「隻!?それに太秦さんまで……!こんなにボロボロなのに、まだ剣を持つつもりですか!?隻だって、戦い慣れてない筈なのに……!」
ソラは大層驚いた様子で目を丸くしてこちらを振り向いた。
「悪いけど、俺は人をボロボロになるまで戦わせて平気でいられる程、賢くないんだよ!」
俺はソラを化け物から遠ざけ、化け物の目を真っ直ぐに見た。
嵐山での記憶を思い出す。あの時、俺はどうやって火を操っただろうか。
十本の指を胸の前で合わせ、掌と掌の間の丁度真ん中に、空気を圧縮して球を作るような感覚で、指先の神経を研ぎ澄まして力を込める。呼吸すらも忘れるまでに、掌の感覚だけにじっと耳を澄ませる。
周りの雑音が一瞬で全て消え去り、ふっと息を止めた瞬間、優しげな暖かさが湧き出でた。
俺の両手に宿った炎は、巨大な赤い旗が風に靡いて広がるように、瞬く間に燃え広がった。鼻先が触れそうな距離のものでさえ、目を凝らさなければよく見えない程に不明瞭だった視界は、今では思わず目を細めたくなるくらいだ。
俺は右腕に炎を寄せ集め、ボールを投げるように大きく振りかぶってから、化け物に向かって炎を直撃させた。
俺の炎が燃え移った化け物は、頭が割れそうになるような耳障りな叫び声を上げ、長細い脚を鞭のように振り回してもがき苦しんだ。
「やれば出来んじゃねえか、隻の字!
今日が陰陽師デビューたあ、お前も中々良いセンス持ってんじゃねえの!」
「お褒めに預かり光栄ですけど、まずはコイツを倒す方が先決ですからね!
お二人とも、危ないから離れててください!」
俺は化け物の脚を躱しながら、異常な量の黒煙の立ち上る炎の中へと飛び込んでいく。
それに続いて、太秦さんとソラも炎へと真っ直ぐに向かっていった。
「火傷しますよ!?大丈夫なんですか!?」
「正直やべえんだけどよ、お前一人でこいつをどうにかすんのは無理があんだろ!
でも幸運なことに、どうやらお前の炎は物体どころか、形のない霊力や術さえ焼き払うらしいな!そのお蔭か俺、今すっげえ調子いいんだ!すげえよお前!
今ならこのバケモンを倒せる!俺らがこいつの脚を受け止めるから、こいつの霊力が尽きるまでどうにか持ち堪えてくれ!これまで俺らも色んな術やら道具やらを駆使してきたんだ、流石にそろそろ力尽きる頃だろ!
背中は俺らに任せて、お前は前だけ見て戦っとけ!」
「次にお互いの顔を見るのは、空の満月を拝んでからよ!」
「……じゃあ、背中は預けましたよ!」
俺は決して振り返ることなく、化け物の胴体目掛けて刀を振りかざした。
「あああああ゙あ゙あ゙!」
俺はその触手のようなものを断ち切ろうと遮二無二刃を振るう。
しかし、グロテスクな見た目の触手は、蒟蒻のように表面が滑らかで弾力があり、刃がつるつると滑って受け流されてしまう。
俺は触手を斬ることを早々に諦め、刀を縦に持ち替え体重をかけて滅多刺しにすることにした。これなら、多少のダメージは与えることができるだろう。
俺は恐怖とおぞましさに戦慄し、息も絶え絶えに絶叫しながら、がむしゃらに剣を突き立て続ける。その度に、弾力のある触手や、その奥の皮膚が弾け突き破れる嫌な感覚が、掌まで伝わってくる。
身体中に生暖かくドロドロとした黒い粘液がべったりと付着し、俺は強い不快感を覚え身震いした。全身の皮膚に鳥肌が立つ。ぬちゃぬちゃとした黒い液体に塗れた手は、その気色悪さからぶるぶると震え、今にも刀を取り落としてしまいそうになる。
しかし、ここで怯んだらもう後がないと必死に自分を奮い立たせ、前も後ろも分からないまま、歯を食いしばり、ただひたすらに剣を突き立て続けた。
俺が大きく身体を反らせて、力いっぱい刀を突き刺し、刀身を鍔までめり込ませたとき、化け物がいっとう大きな金切り声を上げた。
「やべえ、こっちじゃもう捌ききれねえ!
隻、逃げろ!」
太秦さんの叫び声に、俺は慌てて刀を引き抜いて飛び退いた。
その直後に、俺を叩き潰そうとする化け物の脚が頭上に降ってきた。視界の端には太秦さんとソラがこちらに駆け寄ってくる姿が認められたが、俺は本能的に死を悟り、頭を手で守った状態で固く目を瞑った。
「……やれやれ。不本意ながら、小僧には親切にも私の霊力を半分分けてやったというのに、何だこの体たらくは。若造も小娘も、全く、安倍の名が聞いて呆れるな」
突如、今までこの場に居なかった第三者の声が耳に入り、俺は驚いて目を開けた。
そこには、右腕でいとも容易く化け物の脚を受け止める、白い水干と紺色の袴に身を包んだ、亜麻色の短髪の少年の姿があった。
「カルラ!?お前、どうしてここに……」
太秦さんが目を丸くしている。
「よく見ておけ。これが本当の地獄門の使い方だ」
カルラはそう言い放つと、勢いをつけて左腕を伸ばす。
その瞬間、彼の灰色の背中には目に鮮やかな巨大な炎の羽が広がった。炎が優雅に空を切ると、カルラの身体は鳥のように宙を舞い、化け物を目掛けて一直線に羽ばたいていった。
カルラは空中で腰に下げている刀を抜き、刀身で空を切る。
すると、刃が通過した位置から鮮烈な朱色の炎が広がっていき、気が付けば俺達があれ程手こずった筈の巨大な化け物は、一瞬で一刀両断されていた。
その瞬間、暗い嵐電の車内がドロドロと崩れ落ちていき、人気のない夜の嵐山駅が姿を現した。




