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9 嵐電の怪物

 煙の中は頭が痛くなる程に息苦しく、纏わりつく黒煙のせいで、手足が鉛のように重たく感じた。口元に当てたハンカチを、今一度強く押し当てる。

 

「ソラ……大丈夫か?」

 

「ええ、何とか……隻は?」

 

「俺は今んとこ……。

 とりあえず、太秦さんを探そう」

 

 俺とソラは殆ど何も見えないような暗闇の中を、息も絶え絶え手探りで進んでいき、太秦さんの姿を探す。

 しかし、暫く進んでいっても、太秦さんを見つけることは出来なかった。

 

 一両編成の嵐電の中をこれだけ長いこと歩いていたら、もうとっくに車掌室の辺りまで辿り着いている筈だ。

 やはり、太秦さんの予想通り、ここは嵐電の車内ではなく妖の結界の中なのだろう。

 

「あ!あれ、きっと太秦さんよ!」

 

 ソラが煙の中を指さして叫ぶ。

 その先はより一層煙が濃くなっていて、煙の流動が見られず、空間が黒い顔料で塗り潰されたようだった。

 よく目を凝らしてみると、その黒を切り裂く人影のようなものが揺らめいていることが認められた。

 

「ソラ、行こう!」

 

「ええ!」

 

 俺とソラは駆け足でその人影の方へと進む。

 人影は段々と大きくなっていき、とうとう指先で触れられるくらいまで近くに寄ることが出来た。

 

「太秦さん、大丈夫ですか……って、太秦さん!」

 

 そこには、真っ青な顔色の太秦さんが、苦しそうに肩で息をしながら、刀を握ったまま項垂れていた。全身、特に顔から滝のように鮮血が流れ出ており、ミミズが這ったような赤紫の禍々しい文様が浮かび上がっていた。

 そして、俺が足を動かして床を踏む度に「ぴちゃ」という水音がする。煙でよく見えないが、恐らく、床一面が血の海と化しているのだろう。

 

「お前ら、何でここに……」

 

 太秦さんが振り向いたのとほぼ同時に、落雷のような大きな衝撃音と共に、地面が大きく波打った。

 

 音のした方を見ると、赤黒い色をしたミミズの塊のような八本足の生物が、こちらに這い寄ってきていた。見上げる程巨大な蜘蛛のような姿のその化け物は、全身から黒い煙を発しており、二つの赤い目玉が、ギョロリとこちらを睨みつけていた。

 

「あー……俺、ひっさびさにヘマやっちまったわ。

 こいつとやり合ってる最中に、大量に煙吸っちまってさ……その結果がこのザマよ。その上お前らまで危険に晒しちまって……俺、ホントだっせえな」

 

 息も絶え絶えに自嘲的に笑う太秦さんは、今にも気絶して倒れ込んでもおかしくない程にボロボロだった。立っているのが奇跡のような状態だ。

 

 その瞬間、ミミズの化け物がこちらに向かって、その長細く鋭い脚を振り下ろした。

 俺はもう呼吸するのも辛そうな太秦さんを力いっぱい引っ張ってそれを避け、ソラは薙刀で怪物の脚を受け止めた。鋭利で耳障りな金属音が鳴り響く。

 

「隻、太秦さんのこと頼んだわよ!」

 

 ソラはそう言い残し、たった一人で化け物に立ち向かっていった。

 

「太秦さん、その痣は……?」

 

 俺はソラの方を気にしながらも、太秦さんの大柄な身体を支えながら、安全な場所まで連れて行って、ゆっくりと座らせた。

 

「あのバケモンの呪詛の紋章だ……。

 恐らく、あの煙を吸ったことが原因だな……。段々と臓腑が捻れて血を吐いて、あと三十分もすりゃあ、ポックリ逝っちまうだろうな……」

 

 そう言うや否や、太秦さんが呻き声を上げたかと思うと、口元を押さえて激しく咳き込んだ。指の間からは、鮮血がボタボタと滴り落ちている。

 

「呪いって……それを解くにはどうしたら良いんですか?」

 

「腕のいい憑き物落としにでも頼んでみるか、由緒ある神社を頼るか……あとは……」

 

 俺は太秦さんの言葉の続きを待つ。

 彼は血に濡れた震える唇を何とかこじ開けて、言葉を紡いだ。

 

「……あのバケモンを、ぶっ潰す」

 

 俺は激しい金属音が響き続ける方に目を向ける。

 

 ソラは自身の身体の何倍も大きい化け物を相手に必死で食らいついていたが、太秦さんにここまでダメージを負わせたような強力な妖に、たった一人で渡り合える訳もなく、彼女の身体には次第に生傷が増えていった。

 

「……隻、俺の話を聞いてくれ」

 

 太秦さんの三白眼が真っ直ぐに俺の目を捉える。俺もその瞳を真っ直ぐ見つめ返した。

 

「そんな遺言みたいな……。縁起でもないこと言わないでくださいよ」

 

「馬鹿、俺の生命力舐めちゃいけねえよ。ゴキブリ並みだぞ?」

 

 太秦さんが目尻をふにゃりと下げる。その柔らかい笑顔には、隠しきれない疲労と苦痛の影が落ち込んでおり、まるで自身の死を悟ったかのように、どこか遠い目をしていた。

 

「相変わらず、例えが汚いんですよ……。それに、それじゃあ蜘蛛に食べられちゃうじゃないですか」

 

「あ、そっか……。

 まあそんな事はどうでも良くってさ、単刀直入に聞くけど……お前、あのバケモンのこと相手取れる自信あるか?」

 

 俺は唇を固く噛み締め、夏物のスラックスを両手でぎゅっと握り締める。

 

「……正直、怖くてしょうがないです。

 俺は今まで、ただ妖怪が見えるだけの高校生だった訳だし、いきなりあんな災害級の妖の前に立てだなんて言われても、どうすればいいのか分かりません」

 

 俺はきっと、ソラのように強大な敵を前にして果敢に立ち向かっていくようなことは出来ないだろう。

 何か特別なことといえば、視界に映るものが普通の人とは少し違うという、ただそのくらいの事しかなくて。俺は少年漫画の主人公なんかじゃないし、何なら臆病で気が弱いタイプだ。

 

 でも、昔から俺は馬鹿がつく程のお人好しで、正義感だけは人一倍ある方だった。

 同じ幼稚園の一つ年下の年少の男の子が、年長クラスのガキ大将達に虐められていたときは、後先考えずに飛び込んでいって、結局こてんぱんにやられて、泣きながら帰ったこともあったっけ。

 でも、あのときの名前も知らないいじめられっ子は、確かに俺に「助けてくれてありがとう」と言ってくれた。

 その経験が糧となったか仇となったか、こうして大した力もない癖に、向こう見ずに修羅場に首を突っ込んで自分の首を絞める大馬鹿者が大成してしまったのだ。

 

 俺はもう、ここで二の足を踏んだまま、ソラが傷付くのを指を咥えて見ていることに耐えられなかった。

 

「……俺、行きます。

 ソラが命を懸けて俺のことを守ってくれているのに、俺だけ何もせずに生き残るだなんて、そんなの絶対に嫌だ。

 それなら、ソラと一緒に戦って死んだ方が、まだ良い夢が見られそうです」

 

 俺は口を動かしながら立ち上がる。

 

「……そうかい。

 なら、俺もこんな所でへばってちゃあ、男が廃るってもんよ……!」

 

 太秦さんは右の口の端を吊り上げて、苦しそうだがしっかりとした足取りで立ち上がった。右耳のピアスの銀色のチェーンがゆらりと揺れる。

 

「俺が死んだら、墓の掃除は任せたからな」

 

「そっちこそ、俺の家族と友人には上手いこと言い訳しといてくださいね」

 

 俺と太秦さんは、同時に地面を蹴って走り出した。

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