第九十話:創造主のパスワードと、暴かれる前世の記憶
『――管理者権限ロック。プロットの書き換えを完了したければ、この物語の『最初の定義』を入力してください――』
【創世の魔導書】のページ上に浮かび上がった、冷徹な文字列の入力欄。
周囲では、アレスの放つ凄まじい「虚無の闇」と、次々に湧き出すデリーターのノイズが激しく衝突し、地下書庫全体の空間がガラスのようにひび割れ始めていた。
「物語の、最初の定義……? 一体何を入力すればいいの……?」
ルナはアレスの強い腕に抱かれながら、必死に理系脳のデータベースを検索する。
しかし、原作者の意図など、一介の登場人物(転生者)に過ぎない彼女に分かるはずもなかった。
「ルナ、無理をするな。そんな紙屑の要求に付き合う必要はない。パスワードが分からないなら、僕がこの魔導書ごと、世界のシステムそのものを影の底へ監禁して、僕の魔力で永久に強制駆動させてあげるからね……」
アレスはルナの髪に愛おしそうに唇を寄せながら、相変わらず力尽くで神を脅迫するような台詞を囁いている。
その重すぎる愛に苦笑しつつも、ルナはふと、別荘に残してきたはずの少女・シオリの言葉を思い出した。
(待って。シオリは言っていたわ。この世界は、ある一人の人間が書いた『小説』だって。……だとしたら、その小説の『最初の定義』って、まさか――)
「……カイル様! 今すぐ私の無属性魔導の通信回路を、別荘のシオリに繋いで!」
「あ、ああ、分かった!」
カイルが聖剣を掲げ、アレスの闇の障壁の隙間を縫って王都と別荘を繋ぐ魔力パスを強引に開通させる。
ルナの脳内に、別荘で怯えていたシオリの思念が飛び込んできた。
『ルナ様!? 一体どうしたんですか……!?』
「シオリ、時間がないから単刀直入に聞くわ! あなたの世界で、この『顔面S級転生令嬢と冷酷無双ヤンデレ王子』という小説を書いた、原作者のペンネーム……あるいは、この物語の本当のタイトルは何を指しているの!?」
ルナの必死の問いかけ。
通信の向こうで、シオリはハッと息を呑み、世界のバグによる激しい頭痛に耐えながら、記憶の断片を絞り出した。
『あ……! 思い出しました……! その小説のあとがきに、書いてあったんです。原作者は、前世のルナ様の『大親友』だった人で……。その人が、若くして亡くなったルナ様を、自分の妄想のハッピーエンドで救うために書いた物語、それが――』
シオリの口から告げられた、原作者の本当の正体。
それは、ルナが前世の理系研究者時代、唯一心を許し、共に徹夜で研究を重ねていた、あの「友達」の名前だった。
(嘘……。じゃあ、この世界は……あの子が、私のために作ってくれた、妄想の箱庭だったっていうの……!?)
衝撃の事実に、ルナの目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
原作者は敵などではなかった。ただ、ルナが絶対に死なないように、アレスという最強のヤンデレ王子を配して、彼女を「絶対に安全なハッピーエンド(監禁)」へ導こうとしていたのだ。
「ルナ、どうして泣いているんだい……? 誰が君を泣かせた……? その『作者』か? やっぱり今すぐ、そいつの魂を呪いの檻に閉じ込めなきゃいけないね……」
アレスの瞳が、ルナの涙を見た瞬間に完全な漆黒へと染まり、世界を滅ぼすレベルの独占欲が爆発しかける。
「違うの、アレス……! 怒らないで、これは嬉しい涙よ。……私、パスワードが分かったわ」
ルナは涙を拭い、アレスの頬にそっと触れてその狂気を鎮めると、魔導書の入力欄に向き直った。
彼女が前世で、その親友と交わした最後の約束。そして、親友のペンネーム。
ルナは光の文字で、前世の自分の「本当の名前」と、親友の「名前」を、数式のように美しく並べて入力した。
カチリ。
頭の中で、世界を縛っていた不気味な時計の音が、静かに停止した。
タイムリミットまで、あと120時間。
原作者のプロテクトが、ついに光を放って崩壊を始めるのだった。




