第八十三話:デバッグ開始と、迫り来るお掃除プログラム
「小説の初期化……。要するに、私たちが紡いできた現実を『なかったこと』にして、プロットの最初から強制再起動をかけるってことね」
白亜の別荘の書斎。ルナは机の上に大量の数式を展開しながら、冷徹に現状を分析していた。
彼女の周囲には、無属性魔導によって実体化された光の数式が幾重ものリングとなって浮遊し、シオリの体内から抽出した「エラー波形」の量子データを高速で解析している。
「ルナ、難しく考える必要はない。世界を初期化しようとする『意志』があるなら、そいつの根源を見つけ出して僕の闇で喰らい尽くせばいいだけだ。君のハッピーエンドを消そうとするシステムなど、僕がすべて叩き潰してあげる」
アレスはルナの椅子の背もたれに寄りかかり、彼女の白い首筋に愛おしそうに唇を寄せながら、声音だけは氷点下の冷酷さで言い放った。彼の独占欲は、目に見えない世界の創造主に対しても、一切の容赦なく牙を剥いている。
「アレス、物理や魔力で殴れる相手ならどれだけ楽か分からないわ。でも、相手は『世界のルール』そのもの。力任せに壊せば、それこそ私たちが立っているこの時空の足場ごと崩壊するわよ。必要なのは破壊ではなく――デバッグ。つまり、この世界が『ハッピーエンドの状態のまま、エラーを起こさずに存続できる』ように、システムの整合性を書き換えるの」
ルナはペンを走らせ、確率収束を固定するための新しい魔導方程式を構築していく。元・理系研究者の血が騒いでいた。神が作ったシステムにバグがあるなら、人間(令嬢)の手でパッチを当てて修正してやる。それだけのことだ。
その時、書斎のベッドで横になっていたシオリが、ガタガタと激しく身体を震わせ始めた。
「……き、来た……。頭の中の時計の音が、急に速くなって……! カチカチカチカチって……耳が、割れそう……!」
シオリは耳を塞ぎ、ベッドの上で丸くなる。
同時に、ルナが展開していた光の数式リングが一斉に赤く反転し、激しい警告音のような魔力波形を放ち始めた。
(空間の位相がズレていく……!? 質量を持たない、純粋な『消去エネルギー』の接近を感知……!)
ドクン、と別荘全体が大きく脈動した。
窓の外を見ると、エメラルドグリーンに美しく輝いていたルミナス湖の水の色が、まるでインクを吸い取られたかのように、端から「完全な白」へと変色していくのが見えた。波の音も、霧の湿気も、そこにあるはずの「存在の定義」が消され、ただの無機質な空間の空白へと変わっていく。
「ルナ、下がって。……どうやら、僕たちの愛の巣(聖域)を、勝手に掃除しにきた不届きものがいるようだ」
アレスの深紅の瞳が、限界突破した狂気と殺意で爛々と輝いた。
彼が右手を一振りすると、書斎の壁が漆黒の霧となって溶け落ち、テラスの向こうのルミナス湖が一望できる大空間へと変貌する。
湖の、白く塗りつぶされた空間の境界線から、それは現れた。
人の形をしてはいるが、顔も、衣服の凹凸もない。全身が半透明のデジタルノイズのような幾何学模様で構成された、数体の「異形」。彼らの手には、この世界の物質でできていない、空間を削り取るための『消去の刃』が握られていた。
『――エラーデータ、および因果律改ざん者の排除を開始。プロットの正常化を実行します――』
感情の欠片もないシステム音声が、湖畔から響き渡る。世界の自動防衛機能――バグを排除するための「お掃除プログラム(デリーター)」だった。
「ルナ。一歩も、僕の影から出ちゃダメだよ。君の服の裾一枚、あの有象無象に触れさせるわけにはいかない」
アレスが一歩前へ踏み出す。
彼の足元から溢れ出た漆黒の闇は、湖の半分を丸ごと飲み込むほどの津波となって立ち上がり、空を遮るほどの巨大な絶望のカーテンを形成した。
「神の作ったシステムだろうが、物語のプロットだろうが知ったことか。ルナが選んでくれたこの僕の未来を、消せると思うなよ……!」
アレスの左手が掲げられると同時に、空間そのものを圧殺する「黒孔」が異形たちの頭上に無数に展開された。
世界を消去せんとするプログラムと、愛する妻との世界を守るために神にすら宣戦布告したヤンデレ王子の、因果律を賭けた絶対防衛戦が、いま幕を開ける。
ルナはアレスの背中を見つめながら、自身の魔導書を強く握りしめた。
アレスが時間を稼いでくれている間に、あの異形たちの「消去コード」を解析し、逆位相の魔力をぶつけてシステムエラーを相殺する。
「待ってなさい、世界のシステム。私とアレスのハッピーエンドは、誰にも渡さないわ!」
理系令嬢の頭脳が、世界のバグを凌駕する速度で回転を始めるのだった。




