第八十二話:箱庭の秘密と、ヤンデレ王子の宣戦布告
ルナとアレスの規格外な魔導演算によって、世界のノイズからどうにか繋ぎ止められた少女。
翌朝、別荘のテラスからは鳥の囀りが消され、相変わらず完璧な空間遮断結界が島を包み込んでいた。
「――お粥を作ったわ。少しは食べられそう?」
ルナがスプーンを差し出すと、ベッドの上に身を起こした少女は、怯えつつもコクリと頷き、小さなお口でお粥を食んだ。昨日まで完全に失われていた彼女の灰色の瞳に、ようやく確かな「自我」の光が戻り始めている。
「……おいしい、です。ありがとうございます、ルナ様」
「体調は良さそうね。――それで、何か思い出せたことはあるかしら? あなたが着ていた、あの服のことも」
ルナが優しく微笑みながら尋ねると、少女はスプーンを握る手を少し震わせ、ポツリポツリと語り始めた。
「はい……。私の名前は『シオリ』。それと、私がどこから来たのか、どうしてあの服を着ていたのかも……」
シオリが口にしたその事実は、ルナの想定の遥か斜め上を行く、この世界の前提を根底からひっくり返すものだった。
「私のいた世界では……この世界は、ある一人の人間が書いた**『小説(物語)』**の中なんです。ルナ様も、アレス様も、そのお話の登場人物で……」
「……は?」
ルナは思わずフリーズした。前世の理系脳が「メタ発言」という非科学的な単語を必死に処理しようと火花を散らす。
「本当なら、第二章の終わりでゼノス皇太子が世界を滅ぼすか、あるいはアレス様がすべてを破壊して『バッドエンド』になるはずだった。でも、ルナ様が運命を書き換えて、誰も死なない、誰も不幸にならない『ハッピーエンド』を作ってしまったから……」
シオリはごくりと息を呑み、部屋の隅で腕を組んで冷徹に聞き耳を立てていたアレスを盗み見ながら、声を震わせた。
「お話の結末が書き換えられたことで、本来のストーリーの出力に致命的なバグが起きたんです。私は、その歪んだプロットの隙間からこぼれ落ちてしまった……この世界を修正するためにシステムが送り込んだ、『余剰データ』なんです。このままだと、お話の整合性を取るために、世界そのものが初期化されてしまいます……!」
「初期化……。つまり、私たちが生きているこの現実が、丸ごと消去されるってこと?」
ルナの背中に冷たいものが走る。自分たちが命懸けで掴み取った平和が、そんな理理不尽な「設定の都合」で消されようとしている。
その時だった。
「ふん……。くだらないな」
部屋の空気を完全に支配するような、低く、冷え切った冷笑が響いた。
アレスがゆっくりとベッドへと近づいてくる。その深紅の瞳には、恐怖も動揺もなく、ただただ底知れない歪んだ「狂気」だけがぎらついた。
「世界が小説だか箱庭だか知らないが、そんなものが僕とルナの愛の邪魔をするというのかい?」
アレスは怯えるシオリを一瞥すらセず、ルナの隣に座ると、彼女の細い腰を強引に抱き寄せ、その首筋に深く顔を埋めた。
「ルナが僕を救ってくれた。ルナが僕に『一生逃げない』と言ってくれた。この完璧なハッピーエンドを、どこの誰とも知らない『作者』や『システム』ごときが奪おうなんて、絶対に許さない」
アレスの背後から、世界の光をすべて吸い込むような、過去最高密度の漆黒の闇がゆらりと立ち上る。
「ルナ。世界が消えるというなら、僕がその『システム』とやらを力尽くで捻じ伏せて、僕たちの世界を固定してあげる。もしその小説を書いた『神(作者)』がいるなら、僕が神界まで行って、そいつの肉体をバラバラに切り刻んで、二度とペンを握れないように監禁してあげるよ」
「アレス、相手は概念か、あるいは異次元の人間よ!? 物理で殴り込みに行こうとしないで!」
「関係ないさ。ルナを僕から奪おうとするものは、神だろうが世界だろうが、すべて僕の敵だ。……ねえ、ルナ。僕たちを邪魔する世界なんて、いっそ僕が先に壊して、僕の影の中に新しい『二人だけの箱庭』を創ろうか?」
蕩けるような甘い声で、とんでもないスケールの監禁計画を口にするヤンデレ王子。
しかし、ルナは彼の重すぎる愛の抱擁に包まれながらも、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
バグ、初期化、世界のシステム。
相手が「数式」と「プログラム」で動く世界だというのなら、元・理系研究者であるルナの、まさに本領発揮だ。
「いいわ、アレス。あなたのその規格外の魔力、今度は『世界の書き換え(デバッグ)』に使わせてもらうわよ」
神域の蜜月を壊しようとする大いなる意思に対し、最強のヤンデレ王子と天才理系令嬢の、世界を賭けた「お仕置き(デバッグ)」の幕が上がろうとしていた。




