第八十一話:異界の少女の覚醒と、世界の歪み
白亜の別荘の一室。柔らかな魔導灯の光が、豪奢なベッドに横たわる少女の横顔を静かに照らし出していた。
湖畔で濡れそぼっていた栗色の髪はすっかり乾かされ、ルナの手によって用意された王国風の簡素な寝衣へと着替えさせられている。彼女が身に纏っていた、前世の記憶を強烈に刺激するあの濃紺の「セーラー服」は、丁寧に畳まれて椅子の上へと置かれていた。
「――ルナ。その女の看病なら、僕の影のサーヴァント(人形)にやらせればいい。どうして君が自ら濡れタオルを絞り、その細い指でそんなゴミに触れる必要があるんだい?」
部屋の隅、影が色濃く落ちる壁際に佇み、アレスは室内の空気を一瞬で凍りつかせるほどの冷徹な声を響かせた。
彼の深紅の瞳は、ベッドの上の少女を「一瞬で分子レベルまで消滅させるべき害獣」としてロックオンしたまま、微塵も動かない。ルナへの狂気的な執着と独占欲は、先ほどの必死の抱擁によってどうにか抑え込まれているものの、ルナが自分以外の存在へ向ける献身は、彼の嫉妬心を常に鋭く刺激し続けていた。
「アレス、何回も言わせないで。この子は私の『前世』に関わるかもしれない、世界で唯一の手がかりなの。それに、こんなに衰弱している子を放っておけるわけないでしょう?」
ルナは洗面器の水でタオルを絞りながら、アレスを窘めるように振り返った。
アレスはあからさまに不満そうな表情を浮かべ、すたすたとルナの元へ歩み寄ると、彼女の手から濡れタオルを強引に奪い取った。
「なら、僕がやる。君の代わりに、僕がこの女の顔を拭けばいいんだろう? 君が他の存在のためにその美しい手を汚し、時間を割くくらいなら、僕がすべてを代行する」
「……アレス、あなたがやったら、親の仇を討つみたいな力加減でこの子の顔の皮が剥けそうだからダメよ。貸して」
「ルナが僕を拒絶した……。ああ、やっぱりあの時、あの湖ごと圧殺して、この女を砂に変えておくべきだったんだ……」
ブツブツと禍々しい監禁台詞を呟き始めるアレス。その引き締まった腰に、ルナは溜息をつきながら自らの腕を回し、その広い胸に頭を預けた。
「はいはい、拒絶なんてしていないわ。私が世界で一番大好きなのはアレスよ。この子が起きて、謎が解けたら、また二人きりで飽きるまで甘々になりましょうね?」
「……ルナ。その言葉、絶対に忘れないでね。もし嘘だったら、僕は本当に世界を壊して、君を僕の影の底に閉じ込めるからね……」
ルナの「ヤンデレ特効薬」によって、アレスの背後の黒い魔力が瞬時に収束し、彼は嬉しそうにルナの髪に顔を埋めてその香りを吸い込み始めた。
その時だった。
ベッドの上の少女が、小さく「う、ううん……」と声を漏らし、その長い睫毛を震わせた。
「……あ……」
少女の灰色の瞳が、ゆっくりと開かれる。
彼女は最初、ぼんやりと天井を見つめていたが、視線を動かしてルナとアレスの姿を捉えた瞬間、怯えたように身体を跳ね上げ、ベッドの隅へと縮こまった。
「あ、あなた、たちは……? 私は……ここは……」
「大丈夫よ、怖がらないで。私はルナ。ここは安全な場所よ。あなたは湖畔で倒れていたの」
ルナはアレスの腕からそっと抜け出し(アレスは非常に不服そうな顔をしたが)、少女を刺激しないように優しい声で語りかけた。
「私、は……。名前……思い出せない。でも、頭の中で……ずっと、変な音が聞こえるの。カチカチ、カチカチって……何かが壊れるみたいな、時計の音……」
少女は自身の頭を両手で抱え、苦しそうに顔を歪めた。
その瞬間、ルナの理系脳が、少女の身体から放射される魔力の「異常な波形」を再び感知した。それは、昨日よりもさらに明確に、空間の因果律を書き換えるような不気味な脈動を放っている。
「頭の中の音……? ねえ、あなた、何か視覚的に思い出せるものは――」
ルナが少女の手を握ろうと、無属性魔導の魔力を指先にわずかに宿らせた、その刹那。
二人の肌が触れ合った瞬間、別荘全体が激しく鳴動した。
『――警告。システム領域への不正アクセスを感知。エラーコード:404。世界定義の整合性が失われています――』
「っ!? 何、この声……!?」
ルナの脳内に直接、前世のパソコンのシステム音声のような、無機質な合成音声が響き渡った。
同時に、少女の瞳が完全な「灰色」から、ネオンライトのような「発光するエメラルドグリーン」へと変色し、彼女の口から、彼女自身の意思とは無関係な、おぞましい数式の羅列が音声として吐き出され始めた。
「シュレーディンガーの波動関数、確率収束の不全。因果の連鎖にバグが発生しています。……私は、存在してはならない『余剰データ』。この世界(箱庭)の壁が薄くなった場所から、漏れ出たゴミ……」
少女の身体が、まるでデジタルノイズのように、一瞬だけ不自然にブレて透き通った。
「世界(箱庭)……? 余剰データって、どういうこと!?」
ルナが叫ぶ。その時、アレスが鋭い眼光で少女の胸元を睨みつけた。
「ルナ、下がれ! その女の胸の中、何かが狂暴な魔力を練り上げている。……いや、これは魔力ではない。空間そのものを食い破る、正体不明の『崩壊の力』だ!」
アレスはルナを自らの背後へと力尽くで引き込むと、瞬時に漆黒の魔剣「絶影」を顕現させた。
少女の胸元から、赤黒い光を放つ「結晶体」が皮膚を透過して浮かび上がっていた。それは、第二章でゼノス皇太子が自らの胸に突き刺した禁忌の「生体魔導核」に酷似していたが、放つプレッシャーの次元が違った。それはまるで、世界のプログラムそのものを消去する「デリート・キー」のような、絶対的な拒絶の塊だった。
「アレス、待って! 彼女を斬ったら、この空間ごと爆発するわ! 彼女のエネルギーは、私の前世の『量子消滅』と同じ原理で動いている。物理的な攻撃を与えれば、反物質爆発を起こして、この国どころか大陸ごと消し飛ぶ!」
ルナはアレスの剣を持つ手を必死に掴み、その暴走を止めた。
前世の科学知識が、最悪の結末を瞬時に弾き出していた。この少女は、ただの転生者ではない。この世界の創造主、あるいは世界を管理する「システム」のバグによって、異界(地球)の概念が無理矢理肉体を持って具現化してしまった、歩く『世界のバグ』そのものなのだ。
「……ガハッ……、くる、しい……。身体が、消えちゃう……!」
少女の灰色の瞳から、涙が溢れる。彼女の肉体は、自身の持つあまりにも巨大な世界の歪みに耐え切れず、内側から崩壊を始めていた。
「くっ……、私の無属性魔導の数式で、彼女の確率波を『固定』するしかないわ! アレス、私にあなたの膨大な魔力を貸して! 彼女の崩壊を、力尽くで抑え込むのよ!」
ルナの決死の提案。アレスは一瞬、自分以外のものに魔力を注ぐことに強い嫌悪感を示したものの、ルナの真剣な眼差しと、彼女の安全を守るためなら、世界のバグだろうが神だろうが捻じ伏せるというヤンデレの覚悟を決めた。
「分かった、ルナ。僕のすべてを君に捧げる。君の描く数式通りに、僕の魔力を使い潰してくれ!」
アレスがルナの背中から両腕を回し、彼女の身体を抱きしめるようにして、その膨大な虚無の魔力をルナの体内へと流し込んだ。
最高神の領域に近いアレスの圧倒的な魔力が、ルナの無属性魔導の回路を通り、極限まで洗練された「世界の安定化数式」へと変換されていく。
「――因果律固定、確率収束の数式、展開!!!」
ルナが両手を少女へと突き出す。
まばゆい純白の光が部屋を埋め尽くし、少女の身体を満たしていた赤黒いノイズを、アレスの圧倒的な力とルナの知恵が、力尽くで「正常なデータ」へと書き換えて、押さえ込んでいった。
数分後。
凄まじい光と地鳴りが収まり、部屋には再び静寂が戻った。
「ハァ、ハァ……、う、上手くいった……かしら……」
ルナはアレスの腕の中で激しく息を荒くしながら、ベッドを見つめた。
少女の胸元の赤黒い結晶は消え去り、彼女の肉体のノイズも完全に収まっていた。少女は再び心地よさそうな寝息を立てて、深い眠りへと落ちている。
「よく頑張ったね、ルナ。君は本当に素晴らしい……。だけど、これで分かっただろう? この女は、君の命を脅かす危険な存在だ。目覚めたら、僕の監禁塔の最下層に鎖で縛り付けて、一生監視下に置くべきだね」
アレスはルナの額の汗を優しく拭いながら、サラリと恐ろしい台詞を口にした。
ルナはアレスの胸に寄りかかりながら、眠る少女を見つめ、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
少女が漏らした『箱庭』という言葉。そして、システム音声。
この世界は、自分が思っている以上に、何か巨大な「意思」によって管理されているのかもしれない。そして、そのシステムの歪みが、自分たち二人の「ハッピー監禁生活」を脅かそうとしている。
新章の幕開け。ルナとアレスは、ただの人間同士の争いを越えた、世界の根幹に隠された「大いなる歪み」との戦いへと、足を踏み入れることになるのであった。




