第七十九話:湖畔のハネムーンと、密室の甘い束縛
王都の喧騒からも、帝国の復興の足音からも完全に隔絶された、霧深い森の奥深く。
そこに、王家が代々最高機密として管理してきた、美しき結晶湖「ルミナス湖」が存在した。湖面は陽光を浴びてエメラルドグリーンに輝き、その中央に浮かぶ小さな孤島に、今回の「ハネムーン」の舞台となる瀟洒な白亜の別荘が佇んでいる。
「――ねえ、アレス。確かに『誰も来ない静かな場所』とは言ったけれど、まさか島全体をまるごと覆うように、空間遮断の多重結界を張るなんて思わなかったわ」
別荘の二階、極上のシルクで飾られたベッドルームのテラスに立ち、ルナは目の前に広がる光景に呆れ半分、溜息半分の声を漏らしていた。
ルナが見上げる空には、薄らとだが、万華鏡のように美しい魔導の紋様が幾重にも重なり合い、世界を内と外に完全に切り離していた。この結界の内側では、時間の流れすらアレスの意志でわずかに調整可能であり、外からの鳥の囀りすら、アレスが「ルナの耳を汚す雑音」と判断すれば、瞬時に消音される仕組みになっている。
「何を言うんだい、ルナ。これは君が僕にくれた、最高の『ご褒美』なんだよ? 国民も、あの生意気な帝国の新女王も、僕たちの邪魔をするものは誰もいない。ここには、僕と、君と、僕たちの愛だけがあればいい」
背後から、音もなく伸びてきた逞しい両腕が、ルナの細い腰をそっと、しかし決して逃がさないという強い意思を込めて抱きすくめた。
アレスはルナの肩口にそっと顎を乗せ、その心地よい体温を確かめるように深く息を吸い込む。彼の銀髪がルナの頬を撫で、深紅の瞳には、かつて戦場で見せた冷酷な殺気は微塵もなく、ただただ底なしの、甘やかに蕩けた情愛だけが揺らめいていた。
「王宮にいた時は、君がいつ僕の視界から消えてしまうか、毎日生きた心地がしなかったんだ。戦場で君が怪我をしなかったのは、君の知恵のおかげだけれど、僕の心はあの時、恐怖で完全に壊れかけていた。……ねえ、ルナ。この三ヶ月間、君のすべてを僕に捧げてくれると言ったよね? 嘘じゃないよね?」
アレスの声は、耳元で囁かれる甘美な毒のようだった。彼はルナの首筋にそっと唇を寄せ、吸い付くように愛痕を刻み込んでいく。
ルナは小さく身震いしながらも、アレスの胸にそっと自分の手を重ねた。
(……うん、知ってた。知ってたわよ。王宮の窓を塞ぐのを止めさせたら、今度は世界そのものを遮断する場所に連れてこられるなんてね。でも、不思議と嫌な気持ちがしないのは、私もアレスのこの重すぎる愛に、いい加減飼い慣らされてる証拠かしら)
ルナは前世の「理系脳」をフル回転させ、現状の分析を試みる。アレスのヤンデレ度は現在、メーターを振り切って天井に達している。ここで「外の空気が吸いたい」などと言えば、彼はルナを物理的にベッドに縛り付けかねない。ここは、彼の独占欲を完全に満たしつつ、主導権を握る「甘やかし返し」のターンだ。
「嘘なわけないでしょう、私のアレス。私は今、こうしてあなたの腕の中にいるわ。この心臓の音も、体温も、すべてあなたのものよ」
ルナはくるりとアレスの腕の中で向き直ると、彼の頬を両手で優しく包み込み、その極上の顔立ちを見つめた。
「公務もお休み。だから、この三ヶ月間は、あなたが私をどれだけ愛してくれているか、そのすべてを私に教えて? 私はあなたの愛から、もう一生逃げ出すつもりなんてないのだから」
ルナが贈った、至高の微笑みと、無防備なまでの拒絶の放棄。
その瞬間、アレスの瞳がカッと熱を帯びて燃え上がった。ルナの言葉は、ヤンデレ王子にとってこれ以上ない極上の特効薬であり、同時に彼の理性を消し飛ばす最高の導火線だった。
「ルナ……っ! ああ、愛している、愛しているなんて言葉じゃ足りない……! 君を僕の肉体に溶かして、一つにしてしまいたい……!」
アレスは飢えた獣のようにルナの唇を奪った。
それは、これまでの優しくスマートな接吻とは一線を画す、激しく、深く、ルナの呼吸さえもすべて支配しようとする強烈なものだった。ルナの細い身体がベッドへと押し倒され、豪奢な天蓋のカーテンが、アレスの魔力によって自動的に閉じられていく。
外界から完全に遮断された密室の中で、二人の、甘く狂おしい蜜月の時間が始まろうとしていた。
数日後。
別荘のリビングで、ルナはアレスお手製の、極上の蜂蜜を使ったスイーツを口に運んでいた。アレスはルナが美味しそうに食べる姿を、まるで聖画でも眺めるかのように恍惚とした表情で見つめている。彼はルナの髪を梳かしたり、ドレスの裾を整えたりと、一分一秒たりともルナへの接触を絶とうとしない。
「美味しいわ、アレス。あなた、本当になんでも完璧にこなしてしまうのね」
「君が喜んでくれるなら、僕は神にだって悪魔にだってなれる。……さあ、ルナ、次はこれを食べて。僕が君の口まで運んであげるからね」
完璧な調教(※アレスがルナに調教されている側である)が進む中、ルナの優れた魔力感知能力が、結界の遥か外側で発生した「奇妙な違和感」を捉えた。
(……あら? 今の、何かしら……?)
ルナの無属性魔導の回路が、アレスの強固な空間結界を「すり抜けて」侵入してきた、微弱な魔力の波形を感知したのだ。それは、この世界のどの魔法体系(王国、帝国、古代魔導)とも合致しない、極めて特異な、しかしルナにとっては「どこか懐かしい」波形だった。
ルナの脳裏に、前世の記憶――地球での、科学と数式に囲まれた日々の断片がフラッシュバックする。
(嘘……。この魔導波形、既存の数式じゃなくて、前世の『量子力学』の確率解に酷似している……!? どうして、この世界にそんな波形が……?)
ルナの表情が一瞬で真剣なものに変わったのを見逃さず、アレスの瞳が危険な紅へと染まった。
「ルナ? どうしたんだい? 僕以外の、何を考えているの……? 僕以外の不純なものが君の頭に浮かんでいるなら、今すぐそれを僕の愛で塗り潰してあげなくちゃいけないね……」
アレスの背後から、昏い魔力の触手がゆらりと立ち上る。
ルナはハッと我に返り、慌ててアレスの首に抱きついた。
「ち、違うのよ、アレス! あなたの作ったお菓子が美味しすぎて、どうやってお礼を言おうか考えていただけよ!」
「本当かい……? なら、今すぐ言葉ではなく、身体でそのお礼を示してほしいな」
アレスの嫉妬をどうにか宥めつつも、ルナの心には、拭いきれない強い予感が生まれていた。
全面戦争が終わり、世界に平和が訪れたはずのこの大陸で、新たな「異界の残響」が響き始めている。ルナと同じ、あるいはルナとは異なる「転生者」の存在。そして、それがなぜアレスの「絶対結界」を通り抜けて自分に届いたのか。
神域の蜜月の裏側で、物語は新たな、そしてより巨大な世界の真実へと、再びその歯車を回し始めるのだった。




