第七十四話:過保護の極地と、秘密の通信
エストリア帝国の地下研究所での悪夢のような決戦から数日。王国の王宮へと帰還したルナを待っていたのは、以前にも増して苛烈を極める、アレスの「過保護の檻」だった。
王妃の私室である離宮。その周囲には、アレスが個人的に編み出した最上位の「空間断絶結界」が幾重にも張り巡らされていた。
この結界は、アレスの魔力波形を持つ者――つまりアレス本人以外は、たとえ王国の宰相であろうと、長年ルナに仕えてきた熟練の侍女であろうと、一歩たりとも立ち入ることはできない。食事や日用品の運び込みすら、すべてアレスが自らの手で行うという徹底ぶりだった。
「……はぁ。アレス、さすがにこれはやりすぎじゃないかしら? 部屋の中から外の庭園を見ることもできないなんて、まるで本当に御伽噺の『塔の魔女』になった気分だわ」
ルナはふかふかのシルクのクッションに身を預け、あきれ顔で溜息をついた。
窓の外には、美しい景色ではなく、陽炎のように揺らめく漆黒の魔導障壁が映っている。
「やりすぎなものか。これでも、僕の心に渦巻く焦燥の万分の一も抑えきれていないんだ」
アレスは執務机での書類仕事の手を止め、椅子の背から立ち上がると、音もなくルナの元へと歩み寄った。
彼の銀髪は陽の光を遮られた室内で妖しく輝き、深紅の瞳には、飢えた獣のような執着が爛々と輝いている。アレスはルナの前に跪き、その白く細い手を両手で包み込むと、手の甲から手首にかけて、まるで己の所有権を刻み込むかのように幾度も深く口づけを落とした。
「あの地下室で、君と同じ顔をした人形たちが君に牙を剥いた瞬間、僕の心の中の何かが完全に壊れたんだ。……ルナ、世界は不浄に満ちている。君の知恵を盗み、君の美しさを模倣し、君を僕から奪おうとする汚物ばかりだ。この結界の中だけが、君を永遠に清らかに、そして安全に保てる唯一の聖域なんだよ」
アレスの言葉は、熱に浮かされた狂信者のそれだった。
緩和されたはずのヤンデレ本能は、今回の事件を媒介にして「絶対的な監禁願望」へと先祖返りしていた。アレスはルナの腰に腕を回し、その胸に顔を埋めて、彼女の体温と香りを確かめるように深く息を吸い込む。
ルナは、彼の背中にそっと手を回し、その心地よい重みを受け止めた。
(……怒っても、怯えても、今のアレスには逆効果ね。こういう時は、転生前の知識――『猛獣の懐柔マニュアル』に従うに限るわ)
ルナはクスリと微笑むと、アレスの美しい髪に指を絡め、優しく梳くように撫で始めた。
「そうね、アレス。あなたがそこまで私を想ってくれるのは、とても愛おしいわ。……でもね、あなたが私をここに閉じ込めている間、あなたが外で一人で戦うことになるのよ? 私はあなたの隣で、あなたの重荷を半分背負うために王妃になったの。私をここに一人きりにするなんて、それこそ私に対する『焦らし拷問』だと思わない?」
「ルナ……、それは……」
アレスが顔を上げ、惑わされたような表情を浮かべる。ルナはさらに顔を近づけ、アレスの端正な唇に指先をそっと当てた。
「おねがい、アレス。私を信じて。私はどこにも行かないし、あなた以外の男性を見ることもないわ。だから……この結界の出入りだけは、私にも許可して? あなたが公務で忙しい時、私はここであなたの帰りを待つだけの、ただの人形になりたくないの」
ルナの甘い囁きと、どこまでも自分を特別視してくれる言葉。
世界最強の魔導士であり、冷酷無双と恐れられるヤンデレ王子は、ルナのこの「甘い毒」の前には、完全に牙を抜かれた仔犬のようになってしまう。
「……君は、本当に僕を狂わせる天才だな。分かった、君にだけは結界のパスワードを共有しよう。だが、僕の許可なく外へ出たら……その時は、本当に君の足首に魔導の鎖を繋ぐからね」
「ふふ、お手柔らかにお願いするわ、私の旦那様」
ルナはアレスの頬にキスをして、ひとまずの危機を脱した。
アレスが少しだけ安心した表情を見せ、再び執務机に戻ったのを見計らい、ルナはベッドの天蓋の裏側に隠しておいた、小さな魔導通信機を手に取った。
それは、帝国からの脱出の際、カミラがルナの手のひらに密かに握らせてきた、一対の「共鳴石」で作られた超空間通信機だった。
ルナが無属性の魔力を微弱に流すと、通信機が淡く発光し、耳元から懐かしい声が響いた。
『――お姉様? 聞こえますか、ルナお姉様!』
カミラの声だった。かつての傲慢さは影を潜め、今やルナへの純粋な崇拝と、焦燥感が入り混じっている。
「カミラ様! 無事だったのね。今、どこにいるの?」
『はい。私は今、帝国の首都を離れ、兄ゼノスに反旗を翻した「穏健派」の貴族たちと合流しています。……お姉様、事態は一刻を争います。兄はあの日、研究所から逃げ延びた後、残されたホムンクルスのデータをすべて、帝国の主力機甲兵団にインストールしました。私の無能な父(皇帝)も、兄の狂気に毒され、王国への「全面戦争」の準備を承認してしまったのです』
「全面戦争……! ゼノスはまだ、私の理論を諦めていないのね」
『はい。兄の狙いは、戦争の混乱に乗じて、お姉様を再び拉致することです。……アレス殿下の結界は強力ですが、帝国の「魔導相殺砲」が前線に投入されれば、王都の防壁すら危うい。お姉様、どうかご安全に。私は内側から、兄の補給線を断つために動きます。……すべては、お姉様のため、そしてこの歪んだ世界を正すために!』
「カミラ様、ありがとう。あなたも絶対に無理をしないで」
通信が切れた後、ルナは静かに通信機を隠した。
カミラが「お姉様」と慕ってくれるのは嬉しい誤算だったが、状況は最悪だ。ゼノスの執念は、一国を巻き込む大戦へと発展しようとしている。
ルナは、静かに書類を見つめているアレスの横顔を見た。
もし戦争が始まれば、アレスは間違いなく、ルナを傷つけようとする帝国を「根絶やし」にするために、その強大すぎる力を解放するだろう。それは彼を、本当の魔王へと変えてしまうかもしれない。
(……させないわ。アレスの力は、私を守るためのもの。誰かを虐殺するためのものじゃない。ゼノス、あなたの傲慢な計算、私が転生令嬢の知恵で、すべてひっくり返してあげる!)
要塞と化した離宮の中で、ルナの瞳に、戦う王妃としての新たな炎が灯る。
重すぎる愛を向けるヤンデレ王子を背後に従え、ルナ・ノートの、世界を揺るがす「大逆転劇」の幕が、静かに上がろうとしていた。




