パンドラ~ 境界線 その向こう側へ ― 1st END ―
『――――なつめ。男の子を守れる女の子になるんだよ』
『男の子のほうが強いじゃない』
『体の力はね、男の子のほうが強い。ふつうの女の子は絶対にかなわない。でも、心の力は、女の子のほうがずっと強いんだ。男の子は体の力が強くて、女の子は心の力が強くて、それでこの世界は、ちゃんとバランスが取れているんだよ』
『バランスって、なあに?』
『ちょうど良く、という意味になる。
将来、なつめも、命がけでなつめを守ってくれる男の子に、出逢えるだろう。
なつめには、体を張って自分を守ってくれる男の子を、大切にできる女の子になって欲しいんだ。
男の子の心を、優しく包んであげられる女の子に、なって欲しい。男の子の心を、優しさと勇気で包んで、支えられる女性に』
――――お父さんは。こうなるって、知っていたのかな……。
私と冬馬が、こんなふうになるとまでは、思ってなかったかもしれないけど。
ずっと、片時も忘れることなく、冬馬たちのことを、心配していたんだね…………
私が、彼らに出会っても、彼らを受け入れられるように。
どんなことが起こっても、私が、彼らを……憎まないように。
残された言葉は、抗えない重荷にもなりながら。大切な錨のように、地上へと、生きる大地へと、私を繋ぎ止める。
彼らへと、冬馬へと……私を、繋ぎ止める。
明け方、冬馬を起さないようにベッドから出た。
着替えて、顔を洗ってから、外へ出ようとして。
あまりにも寒いので、一度自分の部屋にコートを取りに戻った。
あの夜の雷雨が、嘘だったかのように、早朝の寒空は日の出の明るさを広げていた。
真っ白な息を吐きながら、玄関先を少し歩いて、門の外へと足を伸ばした。
根雪が残る私道のアスファルトは、固く凍結していて、一歩一歩、慎重にしないと歩きにくい。
夜明けの風に煽られた髪から、肌で覚えてしまった彼の香りがした。
昨夜のことを思い出して、一人、顔を伏せて。熱を帯びてくる頬を、明るくなる空から隠そうとする。
「おなつちゃん?」
静けさの中に、急に響いた声に、ドキリとした。
私の名を、からかう口ぶりにして呼ぶのは、ここではただ一人だけだ。
声のほうを振り向くと、私道の脇の森の中に、蒼馬の姿があった。
「そこで、何してるんですか?」
動揺して、かしこまって口にしすると、
「散歩」
答えて、雪を踏みしめて、こっちに歩いてくる。
「そっちこそ、どうしたの。こんな早くに」
「……散歩です」
答えたら。
一呼吸あとに、二人で苦笑していた。
「今日は、これから学校?」
訊ねると、
「今日は休み。土曜日だから」
蒼馬の返事。
冬馬に付きっきりでいて、曜日の感覚がまるでなかったので、土曜日だったのかと驚かされた。
「また、出て行くんじゃないかと思ってた」
言われて、また、苦笑する。
「荷物も持たないで?」
肩を竦める私を、蒼馬は真顔で見ていた。
「ここに、いるの?」
訊かれて、どう言えばいいのかと迷って、うつむいた。
そのとき、僅かな身じろぎで、立っていた足元が滑って、私は道路に転びそうになった。
手を伸ばした蒼馬に、体が支えられる。
「ごめんなさいっ」
慌てて謝ると。
蒼馬に、まじまじと、見おろされた。
「もしかして、トウと、寝た?」
ストライク。予測なしの。
ここの人たちは、ほんとに、勘がよくて。
その上、躊躇いを置かない。
「読んだの!?」
両手で頭を押さえて。
そうしたところで意味もないし、そうすぐに発想するようになってしまった自分にも冷や汗で、ドキドキしながら蒼馬を見る。
「いや。俺はそこまで、リーディングは得意じゃないから。トーマも同じだけど、たまに雑音みたく聞こえる程度なんだ。四人の中でそれが得意なのは、リョーマだけだから。安心していいよ」
淡々と言って、
「トーマの匂いがしたから」
と、返された。
「他の二人には、言わないではおくけど。……そういうことなら、大丈夫か」
「だ、だ、だいじょうぶって?」
緊張と焦りで、どもる私を、彼は冷静に見つめてくる。
「前に話しただろ? 君がここに呼ばれた最たる理由について。ヒョーマは絶対言わないだろうけど、って」
最たる理由について。
思い出した話で、ますます恥ずかしくなって、逃げ出したい気持ちで足元を見る。
「子供についてはともかく、それなら暫くは、君が、“仕事”に加勢しろと要求されることは、ないと思うよ。トーマも徹底して守るだろうし」
言って、
「本当に、それでいいの?」
念を押された。
「……どうして?」
ゆっくりと、見上げて、訊ね返す。
「俺たち四人と、いられる?」
質問の意味が、分かって。
私は、黙り込んだ。
冬馬を受け入れるようには、三人とは向き合えない。
それに、許すとか、許さないとか。その白黒だけに、振り分けられる感情でもない。
「ヒョーマの考えは知らないけど、あんたに見せられた指輪にショックを受けなかったといえば、嘘になる。俺も、リョーマも。…………けれど、俺たちには、他に道がない」
深い闇へと落ちていく、ただ一筋の道。
そんなことないよ、運命は変えられるよ、と、彼らに言えるほど。私は強くないし、変えられる僅かな糸口さえ見つけられない。
「…………何を憎んでいいか、分からない……」
それだけが、答えだった。
お父さんの事については、これから先も、それ以上の答えは、出ないように思えて。
そう思うと、終わりのない感情が、ずっと心にあることに、気が遠くなりそうになる。
彼らを糾弾して、責めることが出来たら、怒りの矛先がそこに向けられる分、迷いの苦しみは少なかったかもしれない。
けれど、まっすぐに責めることが出来たら。
私が、冬馬と過ごす夜も、なかった。
冬馬を、抱きしめることも、できなかった。
蒼馬の瞳が、私を見つめている。
父に、一番よく似た、父を思わせる瞳を持つ人。
気づいた私が、眼差で問い返すと。
「女の子は、不思議だね」
見つめたままで、呟かれた。
「一日で、一瞬で、女の顔になる」
真剣に言われるから、トクンと、鼓動が強く打った。
「……自分じゃ、よく分からないけど……」
さっき、洗面台の鏡を見たときは、いつもと変わらない自分を確かめていた。
冬馬と過ごした夜の名残りがないことに安堵しながら。少しだけ、寂しかった。
抱きしめあった夜が、手のひらから、跡形もなく零れ落ちていくようで。
「憎んでもいいよ」
雪の朝の静謐を震わせる、低い声で、蒼馬が言った。
「憎しみのやり場がないなら、俺を憎んでいい。善悪の判断によらなくても、あんたに殺されても文句を言えないことを、俺はしたのだから」
「……蒼馬……」
「トーマを愛して、憎しみの持って行き場がない時は、俺のとこに持っておいで。最後まで抵抗したトーマを、ヒョーマからの指示とはいえ、説得したのは、俺なんだ。だから、苦しいときは俺を思い出して、俺を責めればいい」
「………………」
「あんたは多分、芯がとても強い女だと思うけど。でも、心が壊れないように、俺を憎んでくれていい」
冷たい冬の光に、溶けそうで溶けない、微かな苦笑を、彼は浮かべていた。
家へと戻る彼の後ろ姿を、私は見つめる。
瞳だけじゃなくて、雰囲気だけじゃなくて。性格も、父に一番よく似た人。
だから、きっと……私は、憎みきれない。
冬馬のこと。蒼馬のこと。
涼馬のこと。氷馬のこと。
父に似た何かを探して、きっと私は……誰のことも、憎みきれないのだ。……どんなに辛くても……
駅のホームで、東京へ向かう電車をやり過ごす。
朝から、ここにいて。
一日が、過ぎようとしていた。
遠く離れていても、冬馬の想いが、私のそばにあったとしても。
私の心が、体が、彼の想いの優しさで包まれるように、彼の存在を感じていても。
二度と彼に会うことなく、生きていくことは、できない。
衣服の内側に、銀の指輪と合わせてかけたペンダント。
冬馬から預かったままの、エメラルドのペンダントに、手をあてる。
ここに来て、何度目かの、感触。
守って欲しいために、私は、恋をしたんじゃない。
私に、優しい雨を降らせる力があるのなら。
その雨で包みたいのは、彼だけだということを。
傲慢だと、自分勝手だと、言われても。
それが私の、目覚めた力の真実であることを。
彼は、分かってくれているだろうか。
澄んだ大気の、冷たい清々しさは。
呼吸をするたび、私の迷いや曖昧さを、透明にしていく。
もう、答えは出ている。
もう、逃げられない。
透明になる、この心に映るのは。
淡い水色と、華やかなのに寂しげな菫色が交じり合う、冬の午後の空。
はじめて好きになった人の、涙のいろ。
美しさと、絶望的な孤独が溶け合った、あの人の瞳のいろ。
儚いいろを、思い出すたびに。
私は、自分を振り絞るようにして泣いてしまう。
生きている限り、心がバラバラになるような後悔に、囚われていく。
どちらの道を選んでも、後悔するのはわかってる。
どちらの道を選んでも、選べなかったもう一つの道について、考えずにいることはできない、きっと。
だったら。同じことだ。
何も、なかったことには、できない。
忘れることは、できない。
決して埋めあえない暗闇の亀裂が、お互いの間に横たわっていても。
手を伸ばせば、触れられる。
触れられるのだ。生きている限り。
どんなに後悔しても、どんなに絶望しても。
抱きしめたい人を、抱きしめられずに生きていく空虚のほうが、私のすべてを、惨めにする。
私のすべてを、闇に溶かして。
私は生きながら、立ち上がることもできなくなる。
あの人が、好きだから。
ペンダントに、彼から渡された心に、触れてみる。
できることは、あるはず。
必ず、救いの道はあるはず。
冬馬も。蒼馬も。涼馬も。氷馬も。
日の当たる場所に、心を解放できるときが、きっとくる。
ホームに入った電車の疾風が、私の髪を巻き上げる。
風の手が、留めようとする迷いの想いを、払い去る。
私は、背筋を伸ばして、深呼吸する。
踏み出すための、最初の呼吸を。
大切に大切に、体の隅々まで行き渡らせて。
新たな始まりの瞬間の、彼の瞳のいろの空を、見上げる。
――――お父さん。
私がどんな決断をしても、お父さんは、私を責めたりしないって、わかってる。
わかってるから。
だから、私は、私でいる。
自分の心に、正直に、生きていく。
電車が再び走り出す。
心を決めた私は、ホームに背を向けて。
選ばなかった未来とは逆の方向へと、走りはじめる。
眩しい夕陽が、私のゆく道を照らしている。
でも、私の心のすべては、あの夜に決まっていたのだろうと、今になってはっきりとそう思える。
見つめあい、月に魂を打たれたと感じた、あの瞬間に。
私の生きる未来は、彼の眼差に、繋がれたのだ。
虹色の雨が降る夜 1st ― END ―
1st完結とはいえ、序章?って感じの終わりになっています。
続きを書くつもりでいたんですが、テーマがヘヴィで、書いても読み直しても加筆修正しても疲れる作品で(笑)、未だに脳内でしか完結していません。
EYESのほうと合わせて、この後の展開も書ければいいなぁと、希望的観測は抱いています。
随分、読みにくい話になっていましたが、お付き合い頂いた皆様、有難うございました。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
光音 拝
追記。
書き忘れてました。
作中に出てきた『ラマイエの王子』『ラマイエ聖族』は、EYESのほうのメインキャラです。
作品カラーがまったく違うのですが、よろしければお付き合い下さいませ。