51話 開いた扉
控えめなノックが三度、扉を叩いた。
「白石さん、入ってもよろしいですか」
「はい」
返事をすると、短い電子音のあとに扉が開いた。
入ってきたのは、何度か食事を運んできた女性職員だった。
今日はトレーを持っていない。代わりに、薄い端末を片手にしている。
「体調はいかがですか」
「問題ありません」
「眠れましたか」
「……少し」
嘘ではなかった。
ベッドも寝具も新しく、空調の温度も適切だった。廊下から物音が聞こえることもない。
眠れなかった理由は、環境ではなかった。
女性職員は端末へ目を落とし、何かを確認した。
「移送後の安全確認が終わりましたので、本日から居室のロックを解除します」
澪は扉を見た。
「施設内は、自由に移動していただいて構いません。以前にもご説明したとおり、立入禁止区画と施設外への移動は認められていません」
「……今からですか」
「はい」
女性職員が端末を操作する。
小さな音が、扉の内側から聞こえた。
これまで何度ノブを下げても動かなかった錠が、解除された音だった。
「部屋に戻ったあと、自分で鍵を掛けることはできますか」
「室内側の鍵はお使いいただけます」
「外から開けられますか」
女性職員の指が止まった。
「緊急時には、職員が解錠できます」
「そうですか」
答えを聞いても、澪の表情は変わらなかった。
完全な私室ではない。
しかし、それは病院や宿泊施設でも同じだった。必要があれば管理者が入れる。
それだけなら、特別に不自然とは言えない。
澪は天井へ視線を向けた。
「この部屋にも、監視カメラはありますか」
「ありません。監視設備があるのは廊下やメインホールなどの共用区画です」
返答に迷いはなかった。
「分かりました」
「食堂や休憩スペースもご利用いただけます。場所が分からなければ、廊下に案内表示があります。職員に声を掛けていただいても構いません」
「ありがとうございます」
女性職員は軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
澪は、音を待った。
いつもなら、その直後に錠の動く音がした。
今日は聞こえない。
しばらく扉を見つめてから、澪は立ち上がった。
ノブへ手を掛ける。
力を入れると、今度は抵抗なく下がった。
扉が開く。
白い廊下が、左右へ伸びていた。
人の姿はない。
正面の壁には案内表示があり、右に居室区画、左にメインホールと記されている。
少し離れた天井には、半球状の監視カメラが設置されていた。
澪は一度、部屋の中を振り返った。
机と椅子。ベッド。本棚。閉じたカーテンの代わりに、窓のない壁。
必要なものは揃っている。
部屋の中にいる限り、誰かの視線もない。
それでも、ここが自分の部屋になることはなかった。
澪は廊下へ出た。
背後で扉が静かに閉じる。
戻ることはできる。
けれど、帰ることはできない。
澪は監視カメラから視線を外し、メインホールの表示へ向かって歩き始めた。
廊下には、澪の足音だけが響いていた。
床も壁も白に近い灰色で統一されている。病院に似ているが、消毒薬の匂いはしない。
一定の間隔で並ぶ扉には、それぞれ小さな番号が記されていた。
澪の部屋は、一〇三。
一〇一と一〇二は閉じている。
反対側には一〇四、一〇五と続いていたが、人の気配はなかった。
廊下の角を曲がる。
天井に設置された半球状のカメラが、澪の進む方向を向いていた。
動いているのかは分からない。
澪は足を止めず、その下を通り過ぎた。
監視されていること自体は、先ほど説明を受けている。
隠されていないだけ、まだましだった。
廊下の先が開ける。
天井の高い空間へ出た。
メインホールと呼ばれていた場所だった。
中央には長椅子と観葉植物が置かれ、壁際には飲料の自動販売機まで並んでいる。
地下にいることを忘れさせるためなのか、天井には青空を模した照明が取り付けられていた。
雲の模様が、ゆっくりと横へ流れている。
澪はしばらく見上げた。
光は明るい。
けれど、太陽の熱は感じない。
ホールからは複数の通路が伸びていた。
右手には医療区画。
左手には食堂と休憩スペース。
正面には研究区画と書かれた案内表示があり、その隣には何も記されていない重い扉があった。
扉の横に、カード認証用の端末が設置されている。
赤いランプが点灯していた。
澪が近づくと、近くの机で端末を操作していた男性職員が顔を上げた。
「そちらは立入禁止区画です」
声は穏やかだった。
「はい」
澪は扉から離れた。
「何かお探しですか」
「施設の中を見ているだけです」
「食堂は左です。飲み物や軽食であれば、いつでも利用できます」
「ありがとうございます」
男性職員は小さく会釈すると、再び端末へ視線を戻した。
呼び止められることも、部屋へ戻るように言われることもない。
澪は左側の通路へ進んだ。
食堂には数人の職員がいた。
制服のような服装ではなく、シャツや作業着を着ている。
澪へ視線を向ける者もいたが、すぐにそれぞれの会話へ戻っていった。
並んだテーブルの奥には、小さな配膳口がある。
壁には利用時間が表示されていた。
朝食、昼食、夕食。
それ以外の時間でも、飲み物と簡単な食事は用意できるらしい。
食堂の隣は休憩スペースになっていた。
本棚には小説や雑誌、専門書が並び、壁際にはテレビが置かれている。
低い棚には、ボードゲームや立体パズルもあった。
澪の視線が止まる。
棚の一番下に、子供向けの絵本が並んでいた。
その横には、小さな手でも持てるほどのプラスチック製のコップが置かれている。
職員の子供が使う物かもしれない。
そう考えた時、通路の奥から軽い足音が聞こえた。
澪が振り返る。
誰かの影が、角の向こうへ消えた。
背丈は低かった。
追いかけるほどの理由はない。
澪はしばらく通路を見つめたあと、休憩スペースへ視線を戻した。
ここには、自分以外にも子供が滞在している可能性が高い。
そのことだけは分かった。
メインホールへ戻る。
先ほどとは別の職員が通路を横切り、認証端末へカードをかざした。
電子音が鳴る。
重い扉が開き、職員が中へ入る。
澪がいた位置からは、その先までは見えなかった。
扉はすぐに閉じた。
澪は周囲を見渡した。
居室。
食堂。
休憩スペース。
医療区画。
研究区画。
ここで生活するために必要な物は、ほとんど揃っている。
職員の態度も丁寧だった。
無理に何かをさせられたわけでもない。
それでも、案内表示のどこにも出口という文字はなかった。
澪は青空を映す天井を見上げた。
雲は先ほどと同じ速さで流れている。
風はない。
時間が経っても、光の強さは変わらない。
よく作られている。
外を必要としなくても暮らせるように。
澪は自分の居室へ続く通路へ目を向けた。
閉じ込められているという感覚は、部屋にいた時より薄くなっていた。
代わりに、この場所の広さが分かった。
扉一枚の向こうではない。
生活そのものが、地下に収まっている。
澪はもう一度、認証端末の赤い光を見た。
それから何も言わず、歩き出した。




