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3026  作者: Dar_3026
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5話 白石澪

 チャイムが鳴る。

 教室の空気が少しだけ静かになり、数学教師が教壇へ立った。

「今日は微分の応用問題をやる」

 黒板へ数式が並び始める。

 澪は教科書を開きながら、その横で小さな金属製の立体パズルを指先で転がしていた。

 カチッ。

 小さな音が鳴る。

 考え事をしている時の、いつもの癖だった。

「この問題、解ける人」

 教師が教室を見渡す。

 数人が視線を逸らす中、一人だけ静かに手が上がった。

「白石」

「はい」

 澪は席を立ち、黒板の前へ向かう。

 チョークを持つと、迷うことなく式を書き始めた。

 教室は静かだった。

 誰もが黒板を見ている。

 数十秒後。

「以上です」

 チョークを置く。

 教師は式を見つめ、小さく息を吐いた。

「……正解だ」

 教室のあちこちから感心したような声が漏れる。

「やっぱり白石か」

「また一発じゃん」

 そんな声が聞こえてくる。

 澪は特に反応せず、自分の席へ戻った。

 褒められることには慣れている。

 だから嬉しいとも思わない。

 逆に、特別だとも思っていなかった。

 ただ。

「そういう考え方もあるんですね」

 教師が途中で使った別解だけは、小さくノートへ書き留める。

 知らなかった解き方だった。

 知れたことの方が、正解することより嬉しい。

 休み時間。

 前の席の女子生徒が振り返った。

「白石ってさ」

「はい」

「何でそんなに勉強できるの?」

 澪は少しだけ考える。

「好きだから……でしょうか」

「いや、そういうレベルじゃないって」

 女子生徒は笑う。

「家でもずっと勉強してるの?」

「勉強というより」

 澪は机の上の立体パズルへ目を落とした。

「考えることが好きなんです」

「へぇ……」

 女子生徒はパズルを見つめる。

「それ、面白い?」

「はい」

「完成するの?」

「完成形がないので」

「え?」

「組み合わせは無数にありますから」

 女子生徒は数秒固まり、

「……難しいこと考えてるね」

 と苦笑した。

 悪意はない。

 だから澪も気にしない。

 そう言われることには慣れていた。

 窓の外では、運動部の掛け声が響いている。

 教室では友人同士が昼休みの話をしていた。

 笑い声。

 雑談。

 スマートフォンの画面を見せ合う生徒たち。

 その賑やかな空気を眺めながら、澪は静かに牛乳のストローを差し込む。

 こういう時間も嫌いではない。

 ただ。

 自分から輪の中心へ入ることは、ほとんどなかった。

 カチッ。

 もう一度、小さな音が鳴る。

 指先で立体パズルを回しながら、澪はふと窓の外を見上げた。

 夏空は、どこまでも青かった。



 放課後。

 教室の喧騒が少しずつ遠ざかり、校舎は静けさを取り戻していた。

 澪は理科準備室の机に向かい、今日の授業で気になった数式をノートへ書き写していた。

 机の隅では、金属製の立体パズルが指先でゆっくりと回る。

 形を作るためではない。

 考えを整理するための、いつもの癖だった。

 カチリ、と金属が擦れる小さな音が繰り返される。

 今日の授業で使われた別解。

 その発想自体は面白かった。

 だが、もう少し効率の良い方法がある気がする。

 そう考えた、その瞬間だった。

 ふと、頭の奥で何かが繋がる。


「……」


 シャープペンシルが止まる。

 知らないはずの数式が、まるで昔から知っていたことのように浮かんできた。

 数学ではない。

 材料工学。

 電子工学。

 物理学。

 高校の授業では扱わない知識が、次々と思い出されていく。

 澪は慌てることなく、新しいページを開いた。

 思い浮かんだ式を、一つずつ書き留める。

 手は迷わない。

 考えているというより、忘れていたことを思い出している感覚だった。

 数分後。

 最後の一行を書き終え、ノートを静かに見つめる。


「……」


 意味は理解できる。

 式同士の繋がりも分かる。

 だからこそ、不思議だった。

「いつ、覚えたのでしょう」

 小さく呟く。

 教科書では見ていない。

 参考書にも載っていない。

 論文を読んだ記憶もない。

 それでも、この理論は間違っていない。

 そんな確信だけがあった。

 ノートの余白へ、一行書き加える。

『出典不明』

 そして、その下へ可能性を書き並べる。

『記憶違い』

『既存研究との混同』

『思い込み』

 一つずつ見比べながら考える。

 どれもしっくりこない。

 ならば。

 カチッ。

 指先で回していた立体パズルが、小さな音を立てた。

 澪はパズルを見ることなく、小さく頷く。

「……確認しましょう」

 立ち上がり、理科室へ向かう。

 廊下へ出ると、理科教師の佐伯祐介とすれ違った。

「あれ、白石。まだ残ってたのか」

「先生、お時間よろしいでしょうか」

「いいけど?」

「理科室を少し、お借りしたいんです」

「実験?」

「はい」

 佐伯は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。

「危ないことはするなよ」

「加熱や危険な試薬は使いません。既存の試薬で、比較するだけです」

「ならいい。ただし、少しでも危ないと思ったらすぐ呼べ」

 軽く頭を下げ、理科室の扉を開ける。

 夕日が差し込み、静かな実験室をオレンジ色に染めていた。

 実験台を見渡しながら、小さく息を吸う。

「まずは」

「本当に正しいか、確かめましょう」

 不安はなかった。

 知りたい。

 その気持ちだけが、静かに胸の中で大きくなっていた。



 理科室には誰もいなかった。

 窓から差し込む夕日が、実験台を長く照らしている。

 澪は白衣を羽織ると、棚から必要な器具を取り出し始めた。

 ビーカー。

 電子天秤。

 温度計。

 学校にある、ごく普通の実験器具。

 ノートを開き、先ほど書き留めた式へ目を落とす。

「まずは……」

 条件を確認する。

 必要な材料。

 必要な温度。

 必要な手順。

 一つずつ確認しながら準備を進める。

 やがて、小さく首を傾げた。

「ありませんね」

 必要な材料が一つ足りない。

 代用品になりそうな物を探し、棚を見回す。

 似た性質の試薬を見つけ、慎重にノートへ書き加えた。

『代用品』

『結果が変わる可能性あり』

 その一文を書いてから、実験を始める。

 液体を計量し、静かに混ぜ合わせる。

 温度を確認する。

 時間を測る。

 途中で一度も手は止まらない。

 十分後。


「……」


 予想していた変化は起きなかった。

 澪は残念そうな表情を浮かべることもなく、ノートへ結果を書き込む。

『失敗』

 その文字の横へ、さらに書き加える。

『理論とは一致しない』

 少し考える。

 そして首を横へ振った。

「違います」

 間違っているのは理論ではない。

 条件だ。

 もう一度ノートを見返す。

 必要な材料へ視線が止まる。

「やはり……」

 学校にはない。

 だから再現できない。

 カチッ。

 立体パズルが、小さく音を立てた。

 澪は静かにノートを閉じる。

「理論が正しいとは、まだ言えません」

「ただ、学校の設備と材料で否定されたわけでもありません」

 誰に言うでもなく呟く。

 実験は失敗した。

 だが、得られた情報は大きい。

 理論は崩れていない。

 現代の環境では再現できないだけだ。

 その時だった。

 理科室の扉が開く。

「白石?」

 振り返ると、佐伯が顔を覗かせていた。

「まだやってたのか」

「はい」

 佐伯は実験台へ近づき、ノートへ目を向ける。

「……何の実験だ?」

 澪は少しだけ考え、

「確認です」

 とだけ答えた。

 佐伯は苦笑する。

「それじゃ先生には分からないぞ」

 澪も少し困ったように首を傾げた。

「私も、まだ分かっていないので」

 その言葉に、佐伯は思わず笑ってしまう。

「なるほど」

「じゃあ、分かったら教えてくれ」

「はい」

 理科室には再び静けさが戻る。

 夕日が少しだけ傾き、窓の外では運動部の掛け声が聞こえていた。

 澪はもう一度ノートを開く。

 失敗。

 その二文字を静かに見つめる。

 そして、その下へ新しく一行書き加えた。

『続行』

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