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3026  作者: Dar_3026
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45話 休めない母親

 電話を切ったあとも、香織はしばらくスマートフォンを耳に当てたままでいた。

通話が終わったことを知らせる画面だけが、静かな居間を白く照らしている。

勤務先には、しばらく休ませてほしいと伝えた。


 詳しい事情をどこまで話すべきか迷ったが、娘と連絡が取れず、すぐに仕事へ戻れる状態ではないと説明すると、相手はそれ以上何も聞かなかった。


『こちらのことは気にしなくていいから』


 最後にそう言ってもらえた。

ありがたいと思う。


 今の自分が職場へ行っても、いつものように受付に座り、患者の名前を確認し、間違いなく書類を処理できるとは思えなかった。

香織はスマートフォンをテーブルへ置いた。

これで、今日はどこへも行かなくていい。


 明日も。

必要なら、その先も。


 けれど、予定がなくなったことで、部屋の静けさが余計に大きくなった。

向かいの席には、誰もいない。

朝食に使った自分の食器だけが流しに置かれている。いつもなら、その隣に澪の小さな茶碗が並んでいた。

香織は立ち上がり、台所へ向かった。


 食器棚を開ける。

白地に薄い水色の線が入ったマグカップが、いつもの場所に置かれていた。

澪が中学生の頃に選んだものだった。

色が落ち着いていて、形が持ちやすい。ただそれだけの理由で選び、今も使い続けている。

香織は手を伸ばしかけ、やめた。


 使う人が戻ってくるまで、そのままでいい。

冷蔵庫を開くと、昨夜作った料理がほとんど残っていた。

食べるつもりで用意したはずなのに、箸が進まなかった。

空腹を感じなかったわけではない。ただ、味がよく分からなかった。


 娘は安全です。

昨日、電話の相手から聞いた言葉だった。

香織はそれを、頭の中で何度も繰り返していた。


 怪我はない。

危険から守るために保護している。

そう説明されている。


 けれど、どこにいるのかは分からない。

澪本人の声も聞けていない。


 安全だという言葉を疑い続ければ、何も信じられなくなる。

だから香織は、信じようとしていた。

少なくとも今は、澪が無事でいると。


 ただし、信じることと、何も考えずに受け入れることは違う。

香織は冷蔵庫を閉めた。


 澪の部屋の扉は、少しだけ開いていた。

昨夜も閉められなかった。


 中へ入ると、机の上には数冊の本が重ねられていた。

一番上の本には細い付箋が何枚も挟まり、開いたノートには数式が途中まで書かれている。


 問題が解けなくなったのか。

別のことを思いついたのか。

香織には分からない。


 澪は考えていることを、何でも口にする子ではなかった。

けれど、途中で投げ出す子でもない。

戻ってくれば、きっと続きを始める。

椅子の背には、薄手のカーディガンが掛けられていた。

香織はそれを手に取り、軽く形を整えた。


 洗濯するほど汚れてはいない。

畳んで、ベッドの端へ置く。

その隣に、澪が普段使っている小さな膝掛けがあった。

香織はしばらく迷い、膝掛けを手に取った。

ガレージは、朝晩になると少し冷える。


 澪がいつ戻ってくるかは分からない。

今日ではないかもしれない。


 それでも、戻ってきたときに必要になる物を用意しておくことはできる。

香織は膝掛けを紙袋へ入れた。


 台所へ戻り、冷蔵庫から保存容器を取り出す。

昨夜ほとんど手をつけなかった煮物を小分けにし、紙袋へ加えた。


 一人では食べ切れない。

誰かと食べたほうがいい。


 それに、あのガレージには今日も誰かがいるような気がした。

樹は、朝から行くと言っていた。

御影も必要な情報を確認すると話していた。

神谷に連絡したわけではない。突然訪ねれば、仕事の邪魔になるかもしれない。


 香織はスマートフォンを手に取り、樹へ短いメッセージを送った。


『これから、そちらへ伺ってもよろしいですか』


 返信は、すぐに届いた。


『大丈夫です』


 少し遅れて、もう一通。


『たぶん』


 香織は画面を見つめた。

その直後、三通目が届く。


『神谷さんに確認します』


 思わず、息がこぼれた。

笑ったと呼べるほど大きなものではなかったが、朝から固まっていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。

数分後、樹から連絡が来た。


『大丈夫だそうです』


 その下に、


『仕事の邪魔をしなければ』


 と付け加えられている。

神谷の声がそのまま聞こえてくるようだった。

香織は上着を羽織り、紙袋を持った。

玄関で靴を履き、振り返る。

誰もいない部屋は、出かける前と何も変わっていない。


「行ってきます」


 返事はなかった。

香織は静かに扉を閉めた。


 ◇


 ガレージの前まで来ると、開いたシャッターの奥から箒の音が聞こえた。

樹が床を掃いている。


 その横では、明日香がキッチンカーの中から何かを指示し、神谷が作業台に向かったまま短く返事をしていた。

普段どおりとは言えない。


 誰も、昨日までと同じではない。

それでも、そこには人の声があった。

樹が香織に気づき、箒を止める。


「白石さん」

「おはようございます。急にすみません」

「大丈夫です」


 樹は神谷のほうを見た。

神谷は工具を手にしたまま、こちらへ顔だけを向ける。


「好きに使え。車の邪魔にならなきゃいい」

「ありがとうございます」


 明日香がキッチンカーから顔を出した。


「それ、何?」

「少しだけ、煮物を持ってきました」

「少し?」


 明日香が紙袋を受け取り、中を覗く。


「十分あるじゃない」

「一人では食べ切れなくて」

「じゃあ、お昼に出そうか」


 明日香は当然のように言い、紙袋をキッチンカーへ運んでいった。

香織の手元には、もう一つの袋だけが残った。


 樹がそれを見る。


「そっちは?」

「澪の膝掛けです」


 答えると、樹は一瞬だけ黙った。


「ここ、少し冷えますから」

「そうですね」


 香織は、昨夜並べられた椅子へ目を向けた。

一つだけ、誰も座っていない席がある。

その背もたれへ、膝掛けをそっと掛けた。

今は、使う人がいない。


 それでも、置いておくことはできる。

香織は乱れた端を整え、椅子をテーブルのほうへ少しだけ寄せた。

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