45話 休めない母親
電話を切ったあとも、香織はしばらくスマートフォンを耳に当てたままでいた。
通話が終わったことを知らせる画面だけが、静かな居間を白く照らしている。
勤務先には、しばらく休ませてほしいと伝えた。
詳しい事情をどこまで話すべきか迷ったが、娘と連絡が取れず、すぐに仕事へ戻れる状態ではないと説明すると、相手はそれ以上何も聞かなかった。
『こちらのことは気にしなくていいから』
最後にそう言ってもらえた。
ありがたいと思う。
今の自分が職場へ行っても、いつものように受付に座り、患者の名前を確認し、間違いなく書類を処理できるとは思えなかった。
香織はスマートフォンをテーブルへ置いた。
これで、今日はどこへも行かなくていい。
明日も。
必要なら、その先も。
けれど、予定がなくなったことで、部屋の静けさが余計に大きくなった。
向かいの席には、誰もいない。
朝食に使った自分の食器だけが流しに置かれている。いつもなら、その隣に澪の小さな茶碗が並んでいた。
香織は立ち上がり、台所へ向かった。
食器棚を開ける。
白地に薄い水色の線が入ったマグカップが、いつもの場所に置かれていた。
澪が中学生の頃に選んだものだった。
色が落ち着いていて、形が持ちやすい。ただそれだけの理由で選び、今も使い続けている。
香織は手を伸ばしかけ、やめた。
使う人が戻ってくるまで、そのままでいい。
冷蔵庫を開くと、昨夜作った料理がほとんど残っていた。
食べるつもりで用意したはずなのに、箸が進まなかった。
空腹を感じなかったわけではない。ただ、味がよく分からなかった。
娘は安全です。
昨日、電話の相手から聞いた言葉だった。
香織はそれを、頭の中で何度も繰り返していた。
怪我はない。
危険から守るために保護している。
そう説明されている。
けれど、どこにいるのかは分からない。
澪本人の声も聞けていない。
安全だという言葉を疑い続ければ、何も信じられなくなる。
だから香織は、信じようとしていた。
少なくとも今は、澪が無事でいると。
ただし、信じることと、何も考えずに受け入れることは違う。
香織は冷蔵庫を閉めた。
澪の部屋の扉は、少しだけ開いていた。
昨夜も閉められなかった。
中へ入ると、机の上には数冊の本が重ねられていた。
一番上の本には細い付箋が何枚も挟まり、開いたノートには数式が途中まで書かれている。
問題が解けなくなったのか。
別のことを思いついたのか。
香織には分からない。
澪は考えていることを、何でも口にする子ではなかった。
けれど、途中で投げ出す子でもない。
戻ってくれば、きっと続きを始める。
椅子の背には、薄手のカーディガンが掛けられていた。
香織はそれを手に取り、軽く形を整えた。
洗濯するほど汚れてはいない。
畳んで、ベッドの端へ置く。
その隣に、澪が普段使っている小さな膝掛けがあった。
香織はしばらく迷い、膝掛けを手に取った。
ガレージは、朝晩になると少し冷える。
澪がいつ戻ってくるかは分からない。
今日ではないかもしれない。
それでも、戻ってきたときに必要になる物を用意しておくことはできる。
香織は膝掛けを紙袋へ入れた。
台所へ戻り、冷蔵庫から保存容器を取り出す。
昨夜ほとんど手をつけなかった煮物を小分けにし、紙袋へ加えた。
一人では食べ切れない。
誰かと食べたほうがいい。
それに、あのガレージには今日も誰かがいるような気がした。
樹は、朝から行くと言っていた。
御影も必要な情報を確認すると話していた。
神谷に連絡したわけではない。突然訪ねれば、仕事の邪魔になるかもしれない。
香織はスマートフォンを手に取り、樹へ短いメッセージを送った。
『これから、そちらへ伺ってもよろしいですか』
返信は、すぐに届いた。
『大丈夫です』
少し遅れて、もう一通。
『たぶん』
香織は画面を見つめた。
その直後、三通目が届く。
『神谷さんに確認します』
思わず、息がこぼれた。
笑ったと呼べるほど大きなものではなかったが、朝から固まっていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
数分後、樹から連絡が来た。
『大丈夫だそうです』
その下に、
『仕事の邪魔をしなければ』
と付け加えられている。
神谷の声がそのまま聞こえてくるようだった。
香織は上着を羽織り、紙袋を持った。
玄関で靴を履き、振り返る。
誰もいない部屋は、出かける前と何も変わっていない。
「行ってきます」
返事はなかった。
香織は静かに扉を閉めた。
◇
ガレージの前まで来ると、開いたシャッターの奥から箒の音が聞こえた。
樹が床を掃いている。
その横では、明日香がキッチンカーの中から何かを指示し、神谷が作業台に向かったまま短く返事をしていた。
普段どおりとは言えない。
誰も、昨日までと同じではない。
それでも、そこには人の声があった。
樹が香織に気づき、箒を止める。
「白石さん」
「おはようございます。急にすみません」
「大丈夫です」
樹は神谷のほうを見た。
神谷は工具を手にしたまま、こちらへ顔だけを向ける。
「好きに使え。車の邪魔にならなきゃいい」
「ありがとうございます」
明日香がキッチンカーから顔を出した。
「それ、何?」
「少しだけ、煮物を持ってきました」
「少し?」
明日香が紙袋を受け取り、中を覗く。
「十分あるじゃない」
「一人では食べ切れなくて」
「じゃあ、お昼に出そうか」
明日香は当然のように言い、紙袋をキッチンカーへ運んでいった。
香織の手元には、もう一つの袋だけが残った。
樹がそれを見る。
「そっちは?」
「澪の膝掛けです」
答えると、樹は一瞬だけ黙った。
「ここ、少し冷えますから」
「そうですね」
香織は、昨夜並べられた椅子へ目を向けた。
一つだけ、誰も座っていない席がある。
その背もたれへ、膝掛けをそっと掛けた。
今は、使う人がいない。
それでも、置いておくことはできる。
香織は乱れた端を整え、椅子をテーブルのほうへ少しだけ寄せた。




