26話 視線
大学を出た樹が、駅へ向かって歩き始める。
御影玲司は、その姿を少し離れた場所から眺めていた。
目立たない位置。
人の流れへ自然に溶け込みながら、周囲の様子を観察する。
視線の先には、もう一組。
監視役だ。
昨日と同じ白いワゴン車。
運転席には同じ男。
少し離れた歩道には、スマートフォンへ視線を落とした若い男。
互いに視線を交わすこともなく、一定の距離を保っている。
訓練された尾行。
一般人なら、まず気付かない。
御影は小さく息を吐いた。
(やはり続けているか。)
昨日から警戒はしていた。
だから今日も見に来た。
目的は一つ。
この監視が、一時的なものなのか。
それとも本格的なものなのか。
その確認だった。
そして今。
監視は昨日より自然になっている。
相手も素人ではない。
少なくとも、経験者だ。
◇
樹はいつも通り歩いていた。
大学で聞いた山城教授の話が、頭の片隅に残っている。
企業。
澪を調べる質問。
研究ではなく、人を知りたがる相手。
どれも妙だった。
考えすぎかもしれない。
そう思いながら信号で立ち止まる。
ふと道路へ目を向けた。
白いワゴン車。
(……さっきも見たような。)
気のせいだろうか。
信号が青になる。
歩き出す。
角を曲がる。
また視界の端へ、同じ車が映る。
(偶然……かな。)
前を見る。
今度は向かいの歩道。
スマートフォンを見ている男。
歩く速度が、不自然なくらい一定だ。
視線だけが、一瞬こちらへ向く。
すぐにスマートフォンへ戻る。
樹は歩みを止めない。
ただ。
胸の奥に、小さな違和感だけが残った。
(何だろう。)
理由は分からない。
証拠もない。
なのに頭のどこかが、勝手に共通点を拾い始める。
同じ車。
同じ人物。
一定の距離。
視線を合わせない。
見られている。
――いや。
そうじゃない。
そんなはずはない。
自分で自分の考えを打ち消す。
監視なんて、ドラマじゃあるまいし。
考えすぎだ。
そう結論付けても、違和感だけは胸に残り続けた。
◇
御影は、その様子を見て目を細めた。
(今……。)
樹は尾行を探そうとはしていない。
それでも顔の向きは自然に監視役を捉えていた。
一人を見る。
歩く。
次を見る。
また歩く。
決して凝視しない。
不自然さもない。
だが。
監視対象だけを、無意識に拾っている。
偶然とは思えなかった。
(気付いた……?)
いや。
そんなはずはない。
あの尾行は、相当慣れている。
一般人が見抜けるレベルではない。
監視の知識でも持っているのか。
いや、それも違う。
知識がある人間なら、あんな反応はしない。
もっと周囲を確認する。
もっと警戒する。
あの青年には、それがない。
ただ。
まるで本能が先に反応しているようだった。
御影は静かに口元を引き締める。
(……何者だ。)
昨日までは、ただの一般人。
その認識が、音もなく崩れていく。
御影は樹の背中を見送りながら、胸の内でひとつだけ決めた。
(少し、見させてもらおう。)
それは監視ではない。
興味だった。
◇
夜風が少し冷たかった。
澪は駅から住宅街へ続く道を、一人歩いていた。
大学での出来事が頭から離れない。
企業。
山城教授の言葉。
研究ではなく、自分を知りたがっていた相手。
(考えすぎ……だよね。)
そう思おうとしても、不安は消えなかった。
自宅まであと数十メートル。
角を曲がった、その時だった。
「こんばんは」
突然、背後から声が掛かった。
澪の肩がびくりと震える。
振り返ると、三十代半ばくらいの男が立っていた。
スーツ姿。
穏やかな笑顔。
営業マンにも見える、ごく普通の男だった。
「白石澪さん、ですよね?」
心臓が大きく鳴る。
「……どちら様ですか」
「少しお話を伺いたくて」
男は名刺を差し出した。
昨日、山城教授が話していた会社の名前。
澪は名刺を見るだけで受け取らなかった。
「科学フェアの件で」
「先生からお話は聞いています」
澪は一歩だけ後ろへ下がる。
「研究のことでしたら、大学を通してください」
男は笑みを崩さない。
「もちろん、そのつもりです」
「ですが、少しだけ個人的にもお話を――」
「失礼します」
澪は言葉を遮った。
「私は、お話しすることはありません」
一礼すると、そのまま男の横を通り過ぎる。
男は追い掛けてこない。
「……そうですか」
静かな声だけが背中へ届く。
「また機会がありましたら」
その言葉に、澪は返事をしなかった。
早足で自宅へ向かう。玄関へ入る。鍵を閉める。
ようやく息を吐いた。
教授の言葉は、本当だった。
本当に来た。
家まで。
◇
少し離れた電柱の陰から、その様子を見ている男がいた。
御影玲司。
男と澪。
二人のやり取りを最初から最後まで見届けていた。
介入しようと思えば、できた。
だが、しなかった。
相手は接触を試みただけ。
脅迫もない。
暴力もない。
現時点では、犯罪と断定できる行動は何一つない。
ここで姿を見せれば、自分の存在まで知られる。
この段階で姿を見せれば、相手はこちらの存在を警戒する。
次に動く時、本当に見失うかもしれない。
それは避けたかった。
(今日は様子見か。)
御影は男の視線を追う。
男は澪の家を確認すると、何事もなかったように歩き去っていく。
その歩幅。
歩く速度。
周囲への視線。
(……素人じゃない。)
組織立って動いている。
そう確信するには十分だった。
御影は男の特徴と時刻、立ち去った方向を手帳へ記した。
今夜のうちに、上司へ報告する必要がある。
静かな住宅街へ、男の影は消えていった。




