24話 接近
コンコン、と軽くドアが叩かれた。
「開いてるぞー」
キッチンで麦茶を注いでいた樹が声を掛ける。
返事代わりにドアが開き、誠が部屋へ入ってきた。
「……うおっ」
足を踏み入れた瞬間、誠は思わず腕をさすった。
「相変わらず涼しいな、この部屋」
「設定二十八度だけど」
「いや、絶対嘘だろ」
エアコンへ視線を向ける。
液晶表示には確かに『28℃』と表示されている。
それでも部屋の中は、真夏とは思えないほど快適だった。
窓の外では蝉が力いっぱい鳴いている。
アスファルトは陽炎を立ち上らせ、昼下がりの熱気が街全体を包んでいるというのに、この部屋だけ別世界のようだった。
「ほんと意味分かんねぇ」
靴を脱ぎながら誠が笑う。
「去年だったら二十八度なんて蒸し風呂だったぞ」
「まぁ、去年のエアコンとは別物だからな」
樹はコップを二つ持ってリビングへ戻ると、その片方を誠へ差し出した。
「ほい」
「サンキュ」
一口飲んだ麦茶はよく冷えていて、乾いた喉を気持ちよく潤してくれる。
誠はソファへ腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「しかしさぁ」
「ん?」
「えらいことになったな」
樹も苦笑する。
「ああ」
「まさかエアコン改造して、大学に技術隠されるとは思わんかった」
「俺も」
二人とも思い出したように笑った。
笑ってはいるが、ほんの数日前まではそんな未来など想像もしていなかった。
ただ暑いから。
もう少し快適になればいい。
そんな軽い気持ちから始まった改造だった。
それが大学の研究室を巻き込み、教授たちが議論し、最終的には「外部への公開は見送るべき」と判断されるところまで話が大きくなるとは。
「隠匿対象って響き、なんか映画みたいだよな」
「秘密兵器みたいだな」
「いや実際、十分秘密兵器だろ」
誠が天井を指さす。
「これ世に出したら、冷暖房メーカー泣くぞ」
「そこまでは分からん」
「いや泣くって」
「まぁ……多少は困るかもな」
「多少じゃ済まん」
樹は肩をすくめた。
「教授も似たようなこと言ってた」
「だろ?」
大学側が特に気にしていたのは、性能そのものだけではない。
既存技術との互換性。
製造コスト。
エネルギー効率。
普及した場合の経済的影響。
そういったものまで含めて「社会への影響が大きすぎる」という結論になったらしい。
もちろん樹には、そこまで大きな話は実感できなかった。
ただ、
「涼しくなればいい」
それだけだった。
「でもまぁ」
誠が部屋を見回す。
「恩恵はしっかり受けてるよな」
「そうだな」
「電気代どうだった?」
「ああ」
樹はテーブルに置いてあった封筒を手に取る。
「昨日ちょうど請求来てた」
「おっ」
「去年の同じ時期より、六割くらい安い」
「マジか」
誠が目を丸くする。
「まだ本格的に暑くなる前とはいえ、それはデカいな」
「しかも二十八度設定だし」
「普通なら二十四度とか二十五度まで下げたくなるもんな」
「それでも暑いしな」
「だよなぁ」
誠はエアコンを見上げる。
「もう普通のエアコンには戻れねぇ」
「俺もそう思う」
静かな時間が流れた。
外では救急車のサイレンが遠くを走り去り、蝉の鳴き声だけが途切れることなく続いている。
その音を聞きながら、樹は麦茶を口に運んだ。
こうして何気なく過ごしている時間が、案外好きだった。
何かを作って。
誰かと話して。
笑って。
また次のことを考える。
そんな毎日が心地いい。
誠がコップをテーブルへ置いた。
「そういや」
「ん?」
「今週大学行くんだったな」
樹は頷く。
「ああ」
「教授から連絡あったし、一回顔出そうと思って」
「追加実験?」
「いや、多分経過確認」
「『多分』ねぇ」
誠はニヤリと笑う。
「その『多分』、最近全然信用できねぇんだよ」
樹も思わず笑った。
「否定はできない」
「だろ?」
「毎回、予想外の方向へ転がる」
「最初なんて、エアコン直そうぜ、だったのにな」
「そうだったな」
樹も苦笑しつつ窓の外を眺めた。
青い空に白い雲がゆっくり流れている。
明日も、きっと暑くなるだろう。
大学へ行って、教授と話をして。
その帰りにでも、また誠と飯を食べよう。
そんな、ありふれた予定を思い浮かべながら、樹は残った麦茶を飲み干した。
「そういや仕事、大丈夫なのか?」
樹が尋ねる。
「明日は休み」
「じゃあ大学付き合えるか」
「そのつもり」
誠は即答した。
「どうせ、お前一人で行かせたら何か持って帰ってくるだろ」
「失礼な」
「今まで何回あった?」
「……数えてない」
「ほらな」
誠は呆れたように笑う。
「まぁ、面白そうだから俺も行く」
「理由、それか」
「十分だろ」
樹は小さく笑い、立ち上がった。
空になったグラスを流しへ運び、水で軽くすすぐ。
蛇口を閉める音が、小さく部屋へ響いた。
「じゃあ、明日は十時くらいに迎えに行く」
「了解」
「あ、でも会社から電話来たら分からん。」
「休みじゃなかったか?」
「休みだけど、人足りないと呼ばれることあるんだよ。」
「あいかわらずだな。」
「まぁな。」
また笑い声が重なる。
この時の二人は、まだ知らない。
明日の大学で交わされる一言が、これまでの日常を静かに終わらせることを。
◇
蒼陵高校周辺ーー
御影は車のエンジンを切った。
蒼陵高校から少し離れた駐車場。
ここへ来るのは今日が初めてではない。
違和感を覚えてから、数日。
通学時間になると、この場所から校門を眺めるのが日課になっていた。
双眼鏡も望遠カメラも使わない。
必要ない。
欲しいのは証拠ではなく、空気の変化だった。
フロントガラス越しに校門を見る。
教師が生徒へ声を掛けている。
保護者の車が停まり、自転車が列を作る。
昨日と変わらない朝。
……のはずだった。
「……増えたな」
小さく呟く。
校門近くのコンビニ。
缶コーヒーを片手に立つ男。
少し離れた歩道。
犬を散歩させる中年の女性。
交差点では配送車がハザードランプを点けたまま停車している。
どれも、それだけ見れば違和感はない。
だが。
昨日はいなかった。
御影は数日前の配置を頭の中で並べる。
新聞を読む男。
歩道橋の女。
イヤホンの男。
今日はいない。
代わりに別の人間がいる。
立ち位置だけは、ほとんど同じだった。
交代している。
監視位置は維持したまま、人だけを入れ替えている。
御影は視線を動かさず、周囲を観察し続けた。
犬を連れた女性が腕時計を見る。
ほぼ同じタイミングで配送車が静かに発進した。
その空いた位置へ、一台の白いワゴン車が滑り込む。
無駄がない。
合図もない。
互いに目を合わせることすらない。
それでも、監視の空白は一瞬たりとも生まれなかった。
御影は静かに息を吐く。
訓練されている。
しかも、一人ひとりの技量ではない。
仕組みとして完成している。
やがて始業を告げるチャイムが鳴る。
その少し前。
白石澪が校門をくぐった。
俯き加減に歩き、周囲を気にする様子もなく校舎へ入っていく。
その姿を追う視線が、いくつもあった。
だが、それはほんの一瞬。
次の瞬間には、それぞれが別の方向へ視線を戻している。
あまりにも自然だった。
見ていたことさえ気付かせない。
御影は腕を組み、目を閉じる。
高校生一人に、ここまでする理由は何だ。
警護ではない。
尾行とも少し違う。
監視だ。
徹底した、監視。
誰が命じている。
何が目的だ。
そして、なぜ白石澪なのか。
答えは一つも見つからない。
それでも、一つだけ確信できることがあった。
「……プロだ」
その言葉だけを残し、御影はゆっくりとエンジンを掛けた。
今日もまた、違和感だけが一つ増えた。
蒼陵高校ーー
一時間目の数学が終わる。
チャイムと同時に教室の空気が少しだけ緩んだ。
友人同士で話し始める者。
廊下へ出ていく者。
机へ突っ伏して眠る者。
澪はノートを閉じると、今日の授業内容を思い返した。
途中で先生が板書を一か所書き直していた。
答えは変わらない。
ただ、その書き方だと条件が一つ抜ける。
黒板を見上げながら頭の中で式を並べ直す。
やはり、最初の書き方の方が分かりやすかった。
そんなことを考えているうちに、次の授業の準備を始める生徒たちの音が耳へ戻ってきた。
「白石」
顔を上げる。
教室の前方で佐伯先生が手招きしていた。
澪は席を立ち、静かに歩み寄る。
「昨日も大学だったそうだね」
「はい」
「山城先生から連絡をいただいたよ」
「そうですか」
「ずいぶん頑張ってるらしい」
澪は少しだけ考えた。
「普通です」
佐伯先生は苦笑した。
「君の普通は、たぶん普通じゃない」
澪はその言葉の意味を考える。
何か返した方がいいのだろうか。
結局、思いつかず、小さく首を傾げた。
「そういう反応をするところも、君らしいけどね」
先生は穏やかに笑う。
「学校の勉強との両立は大丈夫?」
「問題ありません」
「無理はしないように」
「はい」
短いやり取りだった。
特別な話は何もない。
けれど佐伯先生は、それ以上踏み込まなかった。
必要以上に期待もしない。
特別扱いもしない。
研究の話を詳しく聞こうともせず、ただ体調だけを気遣う。
その距離感は、澪にとって心地よかった。
「そうだ」
佐伯先生は思い出したように言う。
「来週の進路希望調査、忘れず提出してね」
「はい」
「以上」
澪は軽く会釈をして教室へ戻った。
席に着くと、机の上へ進路希望調査の用紙を置く。
第一希望。
第二希望。
第三希望。
まだ何も書かれていない。
書く内容は決まっている。
けれど、提出期限はまだ先だ。
澪は用紙をクリアファイルへ戻し、数学の参考書を開く。
昨日、大学で見せてもらった実験結果を思い出す。
測定値は理論と一致していた。
誤差も小さい。
ただ、一か所だけ。
もう少し計算方法を変えれば、解析が速くなる気がしていた。
理由は説明できない。
そうした方が自然だ、としか思えない。
ノートの隅へ、小さく式を書き始める。
変形。
整理。
置換。
数行書いたところでチャイムが鳴った。
二時間目が始まる。
澪はペンを置き、書きかけの式へ小さく丸を付けた。
続きは放課後に考えよう。
そう思い、静かに教科書を開いた。




