22話 御影玲司
数日前――
玄関の鍵を閉める音が、静かな部屋に響いた。
男はネクタイを少しだけ緩め、上着を椅子の背へ掛ける。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口飲んで息をついた。
「……ふぅ」
テレビの電源を入れる。
静まり返った部屋にニュースキャスターの声が流れ始めた。
特に見るつもりはない。
習慣のように流しているだけだった。
机へ向かい、今日の出来事を思い返す。
提出書類が一つ。
確認事項が二つ。
頭の中で整理しながら、ボールペンを手に取る。
『続いてのニュースです』
ペン先が紙へ触れる。
『北日本科学大学は本日、新たな高性能断熱材の開発に成功したと発表しました』
男は手を止めることなく書き続ける。
『この新素材は従来製品を大きく上回る断熱性能を持ち、建築分野だけでなく、宇宙・医療分野など幅広い応用が期待されています』
画面には研究室の映像が映し出される。
測定装置。
研究員。
完成した試作品。
興味はない。
再びペンを走らせる。
『なお、この研究には、先月のフォーラムで注目を集めた高校生、白石澪さんも共同研究者として参加しています』
ペン先が止まった。
テレビには、一人の少女が映っていた。
教授の隣で説明を聞き、小さく頷く。
映像は、それだけだった。
数秒後には別の映像へ切り替わる。
ニュースは次の話題へ進み、海外情勢を伝え始めた。
男はテレビを消す。
部屋は静寂に包まれた。
「……」
もう一度、書類へ目を落とす。
続きを書こうとする。
だが、ペンが動かない。
頭に浮かぶのは、新素材ではない。
大学でもない。
たった数秒映った、あの少女だった。
「……なんだ」
思わず呟く。
事件性はない。
見覚えもない。
気になる理由も思い当たらない。
それなのに。
胸の奥で、小さな違和感だけが静かに残り続けていた。
「……疲れてるな」
自嘲気味に笑い、書類へ視線を戻す。
それでも。
頭の片隅から、白石澪という名前だけは、最後まで消えなかった。
◇
翌日。
男はいつもと変わらない時間に家を出た。
通勤途中のコンビニでブラックコーヒーを買い、車へ乗り込む。
エンジンをかけると、ラジオから朝のニュースが流れ始めた。
交通情報。
天気予報。
週末のイベント。
どれも聞き流せる内容だった。
赤信号で車が止まる。
横断歩道を、制服姿の高校生たちが笑いながら渡っていく。
その姿をぼんやり眺めていた男は、小さく眉を寄せた。
「……またか」
思い浮かんだのは、数日前にニュースで見た少女だった。
白石澪。
数秒しか映らなかったはずの顔が、不思議なほど鮮明に頭へ浮かぶ。
信号が青へ変わる。
後ろの車がゆっくりと動き始め、男もアクセルを踏み込んだ。
仕事中は、そのことを忘れていた。
目の前の業務をこなし、人と話し、必要な書類へ目を通す。
普段と何も変わらない。
昼休みになるまでは。
「御影さん」
御影は顔を上げた。
食堂で昼食を取っていると、後輩が向かいへ腰を下ろした。
「珍しいですね。一人ですか」
「ああ」
「最近、忙しいんですか?」
「いつも通りだ」
御影は短く答え、味噌汁を口へ運ぶ。
後輩は少し首を傾げた。
「なんか、疲れてません?」
「そう見えるか」
「ええ。何か考え事してるような」
「……そうかもしれないな」
それ以上は話さなかった。
自分でも説明できない。
だから、人に話せるはずもない。
午後。
デスクへ戻り、資料を確認する。
パソコンへ表示されたニュースサイトが目に入る。
画面を閉じようとして、指が止まった。
記事一覧の中に、小さな見出しがある。
『北日本科学大学、新素材を発表』
クリックする。
読み始めて数秒。
「……違う」
探しているのは、この記事じゃない。
御影はページを閉じ、椅子へ深くもたれ掛かった。
何をしているんだ。
自分でも苦笑する。
新素材に興味があるわけじゃない。
大学にも用はない。
気になっているのは、あの少女だけだ。
それが一番理解できなかった。
仕事を終え、帰宅する。
夕食を済ませ、テレビをつける。
ニュース番組が始まっていた。
無意識にチャンネルを変えながら、同じ話題が流れていないか探している自分に気付く。
「……らしくないな」
リモコンをテーブルへ置き、小さく息を吐く。
こんなことは初めてだった。
理由の分からない違和感が、一日で消えることはある。
二日続くことも、たまにはある。
だが。
数日経っても、ここまで頭から離れないことは一度もなかった。
御影はソファへ深く腰を下ろし、静かに天井を見上げる。
「……確認するか」
誰に聞かせるでもなく呟いたその一言は、静かな部屋へ溶けていった。
◇
確認を決めた翌日。
ノックを三回。
「失礼します」
「入れ」
御影はドアを開け、執務室へ入った。
上司は書類へ目を通したまま、顔を上げない。
「どうした」
「少し気になることがあります」
「事件か?」
「いえ」
御影は首を振る。
「まだ、何もありません」
その一言で、上司の手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……何もない?」
「はい」
「それで、お前が来たのか」
御影は頷いた。
机の上へ一枚のメモを置く。
そこには一人の名前だけが書かれていた。
白石 澪。
上司は名前へ視線を落とす。
「高校生か」
「数日前のニュースで見ました」
上司はメモを指先で軽く叩いた。
「それだけか?」
「はい」
部屋にエアコンの送風音だけが流れる。
上司は御影の表情をじっと見つめた。
「事件性は?」
「ありません」
「接点は?」
「ありません」
御影は淡々と答える。
迷いはない。
だが、自分でも理由を説明できないもどかしさだけが胸に残っていた。
「犯罪歴」
「まだ確認していません」
上司は椅子へ背中を預け、小さく息を吐く。
「家族」
「確認していません」
窓の外では、遠くを走る車の音がかすかに聞こえた。
上司は腕を組み、天井を一度見上げる。
「……つまり」
「理由は説明できない、と」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
普通なら、ここで話は終わる。
理由もなく一般人を調べることなど認められない。
だが。
上司は小さく息を吐いた。
「お前が『確認したい』と言う時は、必ず確認する理由がある。」
御影は何も答えない。
「半年前の密輸事件」
「三か月前の情報漏えい」
「先月の偽装会社」
「お前は全部、『違和感』を持った。」
「そして必ず裏付けを取ってから報告してきた。」
「偶然にしては出来すぎてる」
上司は苦笑する。
「お前は勘だけで報告する男じゃない。」
「だから今回も確認だけ許可する。」
御影は静かに視線を上げた。
「ありがとうございます」
「勘違いするな」
上司は人差し指で机を軽く叩く。
「正式な捜査じゃない。業務の合間でいい。
現地へ行くなら周辺を見るだけにしろ。
何も無ければ、それで終わりだ。
事件性が見えた時だけ次へ進め。」
「了解しました」
御影は一礼し、執務室をあとにする。
ドアが閉まる。
上司は机の上へ残されたメモを見つめ、小さく呟いた。
「白石……澪か」
その名前を、もう一度だけ口の中で転がした。
執務室を出た御影は、自席へ戻るとパソコンを立ち上げた。
白石澪。
キーボードへ名前を入力し、検索を実行する。
表示されたのは、数日前のニュース記事がいくつか。
高校生。
数学。
北日本科学大学との共同研究。
札幌科学技術フォーラム。
どの記事も内容は似ていた。
派手な経歴があるわけでもない。
炎上した過去もない。
SNSもほとんど利用していないようだった。
「……綺麗すぎる」
思わず小さく呟く。
どこにでもいる高校生だった。
御影は椅子へ深く座り直した。
違和感はない。
……資料の上では。
それでも胸の奥の感覚は変わらなかった。
「何かある」
根拠はない。
資料はすべて「問題なし」と言っている。
経験も「考えすぎだ」と告げている。
それなのに。
長年積み重ねてきた感覚だけが、静かに警鐘を鳴らし続けていた。
夕方。
御影は車へ乗り込む。
エンジンをかけることなく、ハンドルへ軽く手を置いた。
フロントガラスの向こうでは、仕事帰りの車が途切れることなく流れていく。
資料だけでは分からない。
そう判断した。
「……一度、見てみるか」
静かにエンジンを始動させる。
車はゆっくりと駐車場を出ていった。




