11話 出会いのあと
札幌未来科学交流館を後にすると、夏の日差しが街を明るく照らしていた。
休日らしく歩道には家族連れや買い物帰りの人が行き交い、ついさっきまでの静かな講演ホールとはまるで別の世界のようだった。
「腹減ったな」
誠が大きく伸びをする。
「頭なんか使ってないはずなのに、不思議だ」
樹は思わず笑った。
「聞いてるだけでも疲れるんじゃない?」
「いや、お前の質問で疲れた」
誠は苦笑しながら肩をすくめる。
「会場の空気、一瞬止まったからな」
「そんなに?」
「そんなに」
二人は顔を見合わせて笑った。
少し歩いたところで、誠がふと思い出したように口を開く。
「でもさ」
「面白かったな」
樹も素直に頷く。
「うん」
「発表もすごかったし」
「話もできたしね」
誠は横目で樹を見る。
「お前、嬉しそうだったぞ」
「そう見えた?」
「見えた」
樹は少しだけ考えてから笑った。
「久しぶりだったんだ」
「同じところで立ち止まる人に会った気がして」
「同じところ?」
「分からないことを、ちゃんと『分からない』って考えられる人」
誠は小さく笑う。
「なるほどな」
しばらく二人は黙って歩いた。
街の喧騒が耳に入る。
信号の音。
車の走る音。
遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声。
いつもの札幌だった。
それなのに。
樹には、その景色が朝とは少しだけ違って見えた。
ニュースで見かけた一人の高校生。
何となく会ってみたい。
そんな軽い気持ちで足を運んだフォーラム。
たった一つの質問。
たった一度の出会い。
それだけで、自分の世界が少し広がった気がした。
「さて」
誠が笑う。
「まずは飯だ」
「賛成」
二人は並んで歩き出した。
◇
帰宅して夕食を済ませると、部屋はいつもの静けさを取り戻した。
窓の外から聞こえるのは、遠くを走る車の音だけ。
机の上には、フォーラムでもらったパンフレットが置かれている。
何気なく手に取り、ページをめくる。
白石澪。
熱流制御に関する基礎研究。
昼間に聞いた発表を思い返しながら、樹は小さく息をついた。
「面白かったな」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
パンフレットを閉じ、椅子にもたれる。
天井をぼんやり眺めていると、不意に胸の奥がざわついた。
「……?」
何かが引っ掛かる。
昼間にも感じた、あの違和感。
言葉にならない何か。
目を閉じた、その瞬間だった。
知らない図形が頭の中へ浮かぶ。
幾重にも重なる線。
規則的に並ぶ格子。
その中心を流れる、光のようなもの。
「……何だ?」
思わず身を起こす。
次の瞬間には、もう消えていた。
図も。
感覚も。
何一つ思い出せない。
「夢……?」
首をひねる。
違う気もする。
でも説明はできなかった。
樹は苦笑しながら頭をかく。
「今日は考えすぎたかな」
そう呟いて立ち上がる。
部屋の電気を消すと、静かな夜が戻ってきた。
◇
その頃。
白石家の一室には、机を照らすスタンドライトだけが灯っていた。
部屋の壁一面には参考書や専門書が並び、机の上には今日の発表で使った資料とノートが広げられている。
澪は制服から部屋着に着替えると、静かに椅子へ腰を下ろした。
バッグから一冊のメモ帳を取り出す。
昼間、控室で書き留めた走り書き。
熱が逃げる。
逃がさない。
境界。
移動。
短い言葉が、ページいっぱいに並んでいる。
その中で、一つだけ丸で囲まれた言葉があった。
『前提』
澪はその文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。
熱は高い場所から低い場所へ移動する。
それは疑うものではない。
教科書にも書かれている。
文献にも書かれている。
自分も、その前提で研究を積み重ねてきた。
だから今日まで、一度も考えたことがなかった。
その前提自体を疑うという発想を。
ゆっくりとペンを手に取る。
『前提』
その横へ一本線を引き、新しく書き加えた。
『本当に?』
書き終えた瞬間、思わず手が止まる。
今まで積み重ねてきた研究を、自分自身で問い直そうとしている。
普通なら怖い。
積み上げたものが崩れるかもしれない。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
知らない世界への扉を見つけたような。
そんな高揚感だけが、胸の奥に静かに広がっていく。
澪はノートを閉じ、小さく息をついた。
「……面白い」
その一言は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
窓の外では、札幌の夜景が静かに輝いている。
新しい研究は、もう始まっていた。




