10話 確かめたい理由
会場には、まだ静かな空気が残っていた。
司会者が閉会の挨拶を終える頃になっても、何人かの研究者は先ほどのやり取りについて話していた。
「……あの質問」
「面白かったですね」
「熱が逃げる前提、か」
小さな会話があちこちから聞こえてくる。
「失礼」
後ろから穏やかな声が掛かる。
振り返ると、四十代ほどの男性が立っていた。
名札には、
『蒼陵高校 理科教諭 佐伯』
と書かれている。
「先ほど質問されていた方ですよね」
「はい」
「突然申し訳ありません」
教師は軽く頭を下げた。
「どちらの研究機関の方でしょうか」
樹は一瞬きょとんとした。
「研究機関?」
「はい」
「大学か企業で研究をされているのかと」
「いやいや」
樹は苦笑して首を振る。
「違います」
「今は無職です」
一瞬、教師の表情が止まる。
「……失礼しました」
思わず誠が吹き出した。
「俺も最初、そんな顔しました」
「元々はパソコン修理の仕事してたんですよ」
「修理屋……ですか?」
教師は困ったように樹を見つめる。
先ほどの質問と、目の前の人物が結び付かない。
「ええ」
樹は照れくさそうに笑う。
「研究なんてしたことありません」
「今日はニュース見て、面白そうだったから聞きに来ただけです」
教師はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「それならなおさら驚きました」
「白石さんも、お話を続けたいとおっしゃっています」
「もしお時間がありましたら、控室まで来ていただけませんか」
樹は誠と顔を見合わせる。
「どうする?」
「せっかくだし」
誠は肩をすくめた。
「行こうぜ」
「そうだね」
教師はほっとしたように頷く。
「ありがとうございます」
「こちらです」
教師の後ろを歩き始める。
その背中を、壇上から片付けを終えた澪が静かに見つめていた。
さっきの質問。
あれは思いつきではない。
自分が一度も疑わなかった前提を、当たり前のように問い直してきた。
(……あの人は。)
その答えが知りたくなっていた。
◇
控室は、講演ホールとは違い静かだった。
長机と椅子が並ぶだけの簡素な部屋。
窓から差し込む昼前の光が、部屋を柔らかく照らしている。
「どうぞ」
佐伯に促され、樹と誠は椅子へ腰を下ろした。
少し遅れて澪も向かいへ座る。
「改めまして」
佐伯が穏やかに頭を下げた。
「蒼陵高校で理科を担当しております、佐伯です」
「三雲です」
樹も頭を下げる。
「こっちは友達の朝倉」
「朝倉です」
誠が軽く会釈する。
「白石澪です」
澪も小さく頭を下げた。
一瞬だけ、静かな時間が流れる。
最初に口を開いたのは、やはり澪だった。
「先ほどの質問ですが」
樹を見る。
「どうして、あの発想になったんですか」
「うーん……」
樹は少し困ったように笑った。
「正直、分からない」
頭をかきながら続ける。
「何でそう思ったのかって聞かれると、説明できないんだよ」
「ただ」
「気になった」
澪は樹の表情を静かに見つめた。
答えを隠しているようには見えない。
本当に、説明できないのだ。
「気になった……」
机の上に置かれたメモ帳を開く。
さらさら、とペンが走る。
熱が逃げる。
逃がさない。
短い言葉を書き留め、少し考える。
また一行。
そして手が止まる。
「……」
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響いた。
誠が小さく樹へ顔を寄せる。
「考え始めたな」
「みたいだね」
二人もつられて声を潜める。
その様子を見ていた佐伯が、小さく笑った。
「白石さんは、一度考え始めると周りが見えなくなるんです」
「学校でも、よくあります」
「なるほど」
樹は納得したように頷いた。
「いいことだと思います」
その言葉に、澪の手が止まる。
ゆっくり顔を上げた。
「……いいこと、ですか」
「はい」
樹は自然に答える。
「何かに夢中になれるって、すごいことじゃないですか。俺にはそう見えます」
澪は少しだけ目を見開いた。
そんなことを言われたことは、一度もなかった。
学校では、
変わっている。
研究ばかりしている。
そう言われることの方が多い。
澪は返事をしなかった。
その言葉を確かめるように、静かに樹を見つめる。
飾った言葉ではない。
そう思えた。
「ありがとうございます」
小さく微笑む。
ほんの少しだけ。
それでも、さっきまでとは違う笑顔だった。
佐伯もその表情を見て、どこか安心したように息をつく。
「三雲さん」
澪は改めて樹を見る。
「もし、お時間がありましたら」
「もう少し、お話を聞かせていただけませんか」
樹は笑って頷いた。
「もちろん」
「俺で答えられることなら」
◇
しばらく静かな時間が続いた。
誰も無理に言葉を探そうとはしない。
それぞれが、今交わした話を自分の中で整理していた。
やがて澪が静かに口を開く。
「やはり……」
一度メモ帳へ視線を落とす。
「机上だけでは答えは出ないと思います」
樹も頷いた。
「俺もそう思う」
「実際に試してみないと分からないね」
「結局そこか」
誠が苦笑する。
「研究者ってみんなそうなの?」
樹もつられて笑った。
「俺は研究者じゃないけどね」
その言葉に、澪も少しだけ笑みを浮かべる。
佐伯は腕を組み、しばらく考え込んでいた。
「学校の設備では難しいでしょうね……」
佐伯は少し考え、頷いた。
「山城先生には、すでに白石さんの研究を見ていただいています」
「今日の話も共有して、大学の実験室で検証できないか相談してみましょう」
澪は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
樹も続けて頭を下げる。
「俺までありがとうございます」
「いえ」
佐伯は笑う。
「私も少し興味が湧いてしまいました」
「三雲さんの『気になる』が、どこへ辿り着くのか」
樹は照れくさそうに頭をかく。
「期待されると困るなぁ。いつも通り、気になったことを考えてるだけなんですけど」
「それで十分です」
澪が真っすぐ樹を見る。
「私は、その続きを知りたいです」
一瞬だけ部屋が静かになる。
樹は照れ笑いを浮かべながら頷いた。
「じゃあ。続きを、一緒に考えよう」
澪も静かに頷く。
「はい」
その返事は短かった。
それでも、迷いはなかった。
控室を出ると、廊下にはフェアの来場者たちが行き交っていた。
いつもと変わらない休日の風景。
けれど樹には、ほんの少しだけ世界が違って見えた。
「なぁ」
隣を歩く誠が笑いながら肩をつつく。
「お前さ」
「高校生と共同研究する約束したけど、自覚ある?」
樹は少しだけ考えた。
「……ない」
「だろうな」
二人は顔を見合わせて笑う。
その少し前を歩く澪も、小さく口元を緩めていた。




