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〈8〉西村冴子

西村冴子は、スポーツジムでエアロビクスのインストラクターをしている。そして、冴子のプログラムはジムでは一番人気。スタジオはいつも満員状態で、女性と男性が半々ぐらい、いや、時には男性の方が多い時もあった。それはエアロビクスが好きというより、冴子が素敵で人気があるから、皆、冴子のプログラムに出ているといった方がいいだろう。それぐらい冴子は容姿端麗で凛々しく、輝いていた。そして、レッスンは楽しい雰囲気が漂っている中にも、時には受講生たちにハッパをかけたりして、レッスンに、ほどよい緊張感を持たせながら、受講生たちをまとめていた。そのカリスマ性も冴子の魅力の一つでもあった。そして、プログラムが終わっても、冴子にステップを学ぶ受講生は少なくなかった。

そして、その日もスポーツジムで冴子は、自分が担当している全てのプログラムを終え、冴子は私服に着替えてジムを出ようとした。その時、冴子と親しい受講生の主婦たちが気さくに「冴子さん、お疲れ様、また今度ね」と、声をかけてくるので、冴子も「今度までにステップ覚えてね。そしたら次のレベルに行くから」と微笑みながら相槌をうった。そんなやり取りをしていると、突然、男の声が会話に割って入ってきた。

「冴子さん、お久しぶりです」

冴子は声の主を見て、思わず「アッ」と驚きの声をあげた。冴子は声の主を知っている。その主は冴子の元彼、近藤大輝、その人だった。此処にいるはずのない人が今、冴子の前にいる。冴子はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。

大輝は冴子に近づき、

「どうした?驚いたか」といって、大輝は冴子の肩に軽く手をかけた。それが金縛りが解ける合図だったかのように、冴子は反射的に大輝の胸を軽く叩いた。そして、冴子は少し、はしゃぐようにしゃべり出した。

「何、どうしたじゃないわよ。いつ日本に帰ってきたの?」

「たった今、日本に帰ってきたんだ」

「何、もうこっちに戻ってくるの?」

「いや、まだ戻れないけど、長目の休暇頂いたから帰ってきたんだ。冴子の顔が見たくて」

大輝は、笑顔でそう言ってのけた。そんな大輝の笑顔が冴子には眩しく見えた。そして、久方ぶりに気持ちの高ぶりを感じた。しかし、大輝は昔の彼、もう終わった人。それでも冴子は大輝に面と向かって、そう言われたことが嬉しかった。冴子は心の高ぶりを悟られぬようにやんわりとはぐらかすように言った。

「イヤだ。もう何言ってるの。あんまりヘンなこと言わないでよ」

大輝は冴子に、はぐらかされたと思い、ムキになって言い返した。

「ヘンじゃないさ。その為に予定を変えて戻ってきたんだ。この休みを冴子と一緒に過ごそうと思って。いけないか?」

大輝の眼差しは真剣そのもの。気持ちの高ぶりを感じている冴子には直視することが出来なかった。冴子は黙りこくった。大輝はそんな冴子を見て、伺うように言った。

「彼氏、いるのか?」

冴子は黙って、軽く頷いた。

「好きなのか?」

冴子は思わず、大輝を見た。しかし、返答が出来なかった。確かに冴子は今、泉堂海斗と付き合ってはいるが、大輝と付き合っていた頃のような熱い気持ちはない。ただ成り行きで付き合い始めたようなものだ。それに、そもそも大輝と別れたことだって、別に大輝のことが嫌いになって別れたのではない。大輝が海外に長期転勤するということで、中々会えなくなるということから、大輝から別れを切り出されたのだ。大輝にとっては、初めて大きな仕事を任されるということで、「仕事に集中したい」と言われて、冴子は別れを受け入れたのだ。しかし、あの時、大輝から別れ話を持ち出された時は、一見、冴子は平静を装いながら大輝の言い分に理解を示し気丈に振る舞って見せたものの、その後、一人になってからの冴子は酷かった。もう、なりふり構わず泣き崩れ、ショックで酷く落ち込んだ。奈落の底に落とされたような、今まで生きてきた人生の中で味わったことのないような落ち込み方だった。だから、大輝に「好きなのか?」と言われても、「あなたを好きになった以上に、人を好きになってはいない」というのが正しい答えだろう。しかし、冴子にはそんなことは思っても言えない。冴子は俯き、只々黙ることしか出来なかった。しかし、それはある意味、答えを態度で言っているようなものであった。そんな冴子が大輝はたまらなく愛おしかった。そして、大輝は言った。

「別に冴子に好きな人がいても構わない。俺はお前が好きだ。大好きだ。俺はお前と離れて、初めてわかったんだ。こんなに深くお前のことを愛していたことに。心の底からわかったんだ。だから、お前に付き合っている人がいても構わない。それでも俺はお前が好きだ」

冴子は大輝からその言葉を聞き、体の芯から痺れる思いがした。そして、今にもその場に膝から崩れ落ちそうになってしまい、思わず大輝の腕をつかんでしまった。大輝はそんな冴子の腕を握りしめ、

「もう俺のこと嫌いか?」

「嫌いじゃないけど」

「なら、この休日、俺と一緒にいてくれるな?」

冴子は「いい」とも「ダメ」とも言えなかった。どうしていいか自分には決められなかったのだ。そんな冴子の気持ちも察することなく大輝は勝手に決めてしまう。

「よし。なら今日から、今から俺と一緒にいよう」

「え、」

「何か予定でもあるのか?」

「別にないけど」

「ならいいじゃないか。よし、なら久しぶりに勝負するか」

「なんの?」

大輝は手でラケットを振る仕草をしながら、

「スカッシュだよ。昔、良くやっただろ。忘れたのか?」

冴子は少し呆れた感じで答えた。

「忘れたのかって。大輝と別れてからやってないから。もう忘れたわ」

大輝は悪びれずに言った。

「なら、思い出させてやる。スカッシュも何もかも」

大輝の顔は喜びに満ちていた。

「よし。なら行くぞ。楽しい時間はあっという間に過ぎちまうんだからな」

大輝は冴子の手を握って引っ張った。そして、早歩きで歩き始めた。冴子も半ばこのまま大輝に身を預けるつもりになっていた。そして、冴子はポツリと大輝に呟いた。

「別れだって大輝から言いだしたのに。あなたはちっとも変わってないのね。ほんと昔のまま。あなたはなんでも勝手に決めてしまう」

「イヤか?」

「イヤじゃないけど」

そう冴子はイヤじゃなかった。他の人ならいざ知らず、大輝にだけはイヤじゃなかった。冴子は自分を従わせることが出来るのは、それを許すことが出来るのはこの世で唯一、大輝だけだと思っていた。

〈大輝にだけは、有無を言わずに従える。大輝にだけは、従うことで、なぜだか幸せを強く感じることが出来る〉

冴子は、ふと、そう思った。冴子にとって大輝は一生に一度、出会うことが出来るかどうかわからないほどの相手だったのだ。

大輝は冴子の手を引っ張りながら早歩きから段々小走りへと変わっていった。

「何も走らなくても」

「嬉しいときは走りたくなるものさ」

冴子も大輝の手を強く握り返した。そして、二人は併走するように小走りになった。まるで恋人同士に戻ったかのように、二人は見つめ合い、そして、微笑みながら夜の街へと去っていった。その姿を冷ややかな目でみているものがいた。キューピッドのグラシアーノである。そして、グラシアーノは呟いた。

「何もかも予定通りというのはつまらんな・・・。それにしても、人間というのはつくづく単純な生き物だな。さて、あとはひよっ子の面倒を見るだけだ」



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